facebook twitter instagram Line

「100年の記憶と記録-小田原の関東大震災-」展示紹介

イベント
今から100年前の大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災(大正関東地震)は、死者・行方不明者10万5千人という甚大な被害をもたらし、日本の政治・経済の中枢であった東京横浜を大混乱に陥れました。小田原町を含む足柄下郡においても、建物の倒壊や火災、土砂災害や津波によって1,600人以上が犠牲になりました。
令和5年度企画展「100年の記憶と記録-小田原の関東大震災-」では、地震の発生から現在までの100年の間に人々の記憶や記録によって受け継がれてきた様々な資料から、関東大震災を紹介しました。
このページでは、企画展の内容について紹介します。

関東大震災と小田原


 大正12年(1923)9月1日、この日の小田原付近は、夜来からの風雨が朝方まで続き、午前8時頃には雲間から太陽がさしてきたものの、なんとなく「二百十日」を意識させるような雲の多い鬱陶しい天気だったといいます。そんな不吉な予感が的中するかのように、正午少し前の午前11時58分44秒、神奈川県西部を震源地とする大正関東地震(以降、関東大震災と呼ぶ)が発生しました。地震の規模はマグニチュード7.9、1都6県という広い範囲で震度6以上の揺れを記録し、全半壊・焼失・流出・埋没の被害を受けた住宅家屋は37万棟以上、10万5千人を超える人々が亡くなるなど、関東一帯に非常に大きな被害をもたらしました。
 小田原付近は足柄平野という酒匂川の沖積低地に位置しており、軟弱な地盤であることも関係し、広い範囲で震度6以上の揺れであったと推定されています。ある資料によると、足柄下郡の死者・行方不明者は1,683人、半壊以上の被害を受けた住家は、総戸数16,252戸に対して14,853戸と報告され、被災率91%という驚異の数字が出されています。この被災率は県内でも群を抜いて高く、9月5日に神奈川県知事安河内麻吉から内相後藤新平に宛てた文書のなかで、足柄下郡の被害は「最モ甚大ニシテ各町村」にわたっていたと報告されており、特に小田原町の被害は「最モ莫大」で、ほとんど「全滅ノ状態」であったと伝えられています。

■第1章 関東大震災の発生
 急速な近代化を進めた明治時代が終わりを迎え、続く大正時代は、庶民が社会に対して声を上げ始めた時代でした。第一次世界大戦こそ起きましたが、民主主義の発展や自由主義を求めた大正デモクラシーは大正14年(1925年)には普通選挙を実現させ、一方で文化の面では、活動写真やカメラが普及しはじめ、東京の街にはカフェーや三越百貨店が誕生し、「今日は帝劇、明日は三越」という言葉も生まれました。大正11年には上野で「平和記念東京博覧会」が開催されるなど、さまざまな大衆文化が花開いた時代でした。
 このような近代化した首都圏を襲い、一瞬にして多くの人々の命を奪った関東大震災。神奈川県西部を震源として発生したマグニチュード7.9という巨大地震は、日本の産業・経済と政治の心臓部を直撃し、政治・行政等のあらゆる分野は麻痺状態に陥りました。この地震により国の受けた損害額は、前年度の国の一般会計予算の4倍に及ぶ、60億円と推定されました。

■第2章 100年の記憶と記録 
 関東大震災に関する記録は、発生当初から様々な形で残されています。
文書による記録では、公的な被害報告書を中心に、新聞や雑誌、また日記や手紙といった私文書なども含めると、非常に多くの記録が残っています。震災の状況を撮影した膨大な量の写真も残されており、100年後に生きる我々も、この未曾有の大震災の被害を視覚的に捉えることができます。これらは、地震発生から、比較的時間をあけず残された記録です。
 一方で、震災から数年後、数十年後に残された記録として、絵画や体験談、慰霊碑や復興記念碑などの伝承碑が挙げられます。さらに、発掘調査によって地面の下から見つかる地震の痕跡なども、震災を伝える重要な資料です。一瞬にして多くの人々の命と平穏な暮らしを奪った関東大震災。発生から今日まで100年の間に残され受け継がれてきた記憶や記録を紹介します。

■第3章 震災からの復興
 未曾有の大震災から、人々はどのように復興を目指したのでしょうか。
 関東大震災の復興については、後藤新平による帝都復興計画が有名ですが、これは旧東京市・旧横浜市を対象としており、それ以外の市町村は、それぞれで「復興促進会」を結成し、自力による復興とすることが基本とされていました。
 小田原町の復興の概況を見てみると、震災から約50日後の10月24日に「小田原町復興会」を結成し、仮設バラックを含めた小店舗住宅への建築材料の斡旋をはじめ、水道施設、道路、橋、堤防、農業用水路などの復旧復興を計画しています。また、震災応急資金として神奈川県に貸し付けられた100万円のうち、小田原町に4万6千円、別に小学校応急施設費として12万6,600円があてられ、教育施設の復旧も重点的に行われるなど、震災の直後から被災者の救援とあわせて各方面での復興を目指していきました。


■第4章 震災を伝える伝承碑
 自然災害に関する事柄が記載されている石碑を、自然災害伝承碑と呼びます。災害による被災状況などを伝えると同時に、当時の被災場所に建立されることが多いことから、地図を通じてそれらを伝えることは、その地域に住む人々の防災意識の向上に役立つものと期待されます。
 小田原市内に残る関東大震災に関する伝承碑の多くは、震災で亡くなった人々を悼む慰霊碑や、震災で被害を受けた寺社の復興碑、また耕地整理をはじめ地震で被害を受けた農道や灌漑用水路など、農業生産に関わる土木整備の完了を伝える記念碑などで、生き残った家族や地域の住民などによって建立されました。市内にはこのような伝承碑が地震被害のあった場所に建てられ、特に土砂災害で多くの人々が犠牲になった根府川周辺には、石碑が数多く残っています。
 伝承碑には震災の状況や亡くなった人の名前、復興の過程や掛かった費用、寄付金額や関係者の氏名などが刻まれ、大切な人や家族を失いながらも復興に尽力した人々の苦難と努力を後世に伝えています。


■第5章 いつか来る地震に備えて
「天災は忘れられたる頃来る」
 この言葉は、明治から大正にかけて活躍した文学者で物理学者でもある寺田寅彦(1878-1935)が残した言葉と言われています。この言葉のとおり、天災は忘れた頃に突然やってきて、大きな被害をもたらします。
 日本列島の周辺は複数のプレートが近づきあっており、地震そのものを防ぐことは不可能といえるでしょう。しかし、地震による被害(=震災)を少しでも減らすため、日々研究が行われています。地震大国である日本では、明治時代から現在まで、地震に関する様々な調査研究や観測記録が蓄積され、それに基づく地震の 発生予測や強震動予測は、地震対策に多大な成果を挙げています。
 一方で、いつか来る、しかしいつ来るかはわからない地震に対して私たちができることは、一人一人が 地震や防災に対する正しい知識を持ち、日頃から備えることではないでしょうか。
関東大震災から100年を迎える本年、改めて防災について考えてみてください。


※より詳しい内容はこちらのページの展示解説シートをご覧ください。

https://www.city.odawara.kanagawa.jp/public-i/facilities/kyodo/topics/exhibition-2023.html
TOP