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小田原の歴史と民俗

行ってみよう!

「小田原市郷土文化館」

  〒250-0014 神奈川県小田原市城内7-8

  ℡:0465-23-1377

【開館時間】9:00~17:00

【休館日】年末年始、そのほか臨時休館あり

【入館料】無料

ごあいさつ

西に箱根外輪山を仰ぎ、東に大磯丘陵を臨み、足柄平野の中央を酒匂川がゆうゆうと流れて相模湾にそそぐ。北には雄壮な丹沢山塊、東南から南にかけては水産資源の豊富な相模湾。豊かな自然と風土にめぐまれた小田原には、いにしえから多くの人々が行き交い、現在まで脈々と発展を続けてきました。

このような豊かな歴史や自然を背景に、小田原市郷土文化館は、昭和30年(1955)に開館し、小田原の歴史、民俗、文化、そして自然に関する様々な資料を収集、展示し、市民や観光客の皆さんに親しまれてまいりました。

このたび、郷土文化館では小田原の歴史と民俗について解説する『小田原市郷土文化館常設展示ガイド 小田原の歴史と民俗』を刊行いたしました。

小田原の歴史を語る書籍は『小田原市史』をはじめこれまでも数多く刊行されています。こうした中で、本書では次に挙げる点に留意しました。一つは、タイトルが示すとおり、郷土文化館が開館以来65年以上にわたって収集してきた資料を中心に、本市の歴史や民俗を語ることです。そしてもう一つは、小田原市博物館基本構想に示された「まちをまるごと博物館にする」という視点を取り入れることです。これは、博物館という建物を越えて、市域全体を博物館と見立てて活動する、ということを意味しています。

本書では、こうした視点に基づき、市域に点在し実際に見学していただける遺跡や史跡、祭り等を紹介しています。さらに、コラムでは、市内の博物館や展示施設を紹介いたしました。本書をきっかけとして、多くのかたに郷土小田原の歴史に関心をもっていただければ幸いです。

令和3年3月
小田原市郷土文化館

凡例

・本書は、郷土文化館が所蔵もしくは寄託を受けた資料の紹介を中心に、小田原の歴史と民俗についてまとめたものである。

・本書の構成と、常設展示の構成とは一部異なっており、展示されていない資料もある。

・資料番号は巻末の掲載資料一覧の数字と一致するが、一部の図版についてはこの限りではない。

・年代表記については、主に和暦を用い、必要に応じて西暦を併記した。

・国指定文化財には◎、県指定文化財には〇、市指定文化財には□を資料名に付している。

・紙面の都合上、参考文献は省略した。

・本書の編集は当館学芸員田中里奈が担当し、湯浅浩が補佐した。

 各章の執筆の担当は次のとおりである

第 1 章 先史古代 第 4 章 近現代 田中里奈
第 2 章 中世 第 3 章 近世 湯浅 浩
第 5 章 民俗 保坂 匠

表紙「小田原案内図」大正 2 年(1913)12月

第1章 原始・古代の小田原

原始・古代の小田原

今からおよそ3.8万年前に大陸から日本列島に到来した人類は、各地の環境や資源に適応しながら、3 万年前には北海道を含む日本各地に広まった。小田原で確認される最古の人の痕跡は八幡山古郭本曲輪から出土したナイフ形石器で、約3.5万年前という年代が与えられている。市域におけるこの時代の遺跡は多くはないが、周辺では畑宿(箱根)や柏峠(伊豆)、神津島産の黒曜石や、箱根から早川にかけて良質な石器の石材が採集され、これらを求めてこの地を訪れ、あるいは通過した人々との間で交流があったことが想像できる。

縄文時代に入ると、縄文土器の発明や石鏃・磨製石器など新たな要素が加わり、狩猟・漁撈・植物採集活動を中心とした小規模な集団による定住生活がはじまる。箱根外輪山や大磯丘陵を中心に、前期には県内でも有数の羽根尾貝塚、中期には大規模な集落を形成した久野一本松遺跡など多くの遺跡が確認されている。しかし後期から晩期にかけて、世界的な気候の寒冷化により、遺跡の数は減少し規模も縮小する。

弥生時代は本格的に水稲耕作が開始され、鉄器や青銅器など金属器の使用が始まった時代である。小田原では、中期後葉と考えられてきた東日本における本格的な農耕社会の開始時期をくつがえす中里遺跡が注目される。この時代の集落は諏訪ノ原丘陵や千代台地、大磯丘陵の縁辺部やその周辺などに展開し、狩川や久野川、森戸川などの小河川の流域に広がる低湿地帯が水田として開発されたと考えられる。

古墳時代になると、地方の豪族が畿内のヤマト王権の支配下に組み込まれ、各地に古墳が造られた。小田原においても足柄平野を支配した師長国造や有力者が存在し、古墳や横穴墓が築かれた。また小田原城近くの八幡山丘陵や足柄平野東部の千代台地一帯には竪穴住居跡が多数確認され、多くの人々が生活していた。

奈良・平安時代は律令制度に基づく政治が行われた時代である。地方には行政機関としての国府や郡家が設置され、街道や駅が整備された。この時代の小田原は大部分が相模国足下郡に属していた。地域支配の拠点は千代台地に存在し、足下郡家や千代寺院が建てられた。古代の小田原は東海道や相模湾、森戸川など水陸交通の拠点を掌握し、さまざまな地域との交流を通じて発展を遂げていった。

小田原市遠景(上空より)

小田原のあけぼの −旧石器時代・縄文時代の小田原−

旧石器時代の小田原には久野諏訪ノ原丘陵などを中心に7 遺跡が確認される。小田原城八幡山古郭本曲輪から出土した市内最古の石器であるナイフ形石器は箱根畑宿産の黒曜石を使用し、小田原城御用米曲輪や谷津山神遺跡から出土した石核は酒匂川から運んだものと考えられるなど、当時の人々は遊動生活の中で良質の石材を求めて移動していた。また谷津山神遺跡では、礫器15点、磨石1点、剥片77点という石器群が確認され、遺構は未確認ながら、石器の加工場であった可能性も指摘されている。

縄文時代に入ると気候は温暖化し、竪穴住居を営む定住生活が始まる。約16,000年前から1万年以上も続き、市域でも見晴らしの良い台地や丘陵上に多くの遺跡が分布している。市内唯一の貝塚である羽根尾貝塚では我々の想像以上に豊かな生活が営まれ、久野一本松遺跡からは多数の竪穴住居跡や中期から後期に位置づけられる土器が出土し、大規模な集落が存在していた。しかし、後期になり気候が再び寒冷化すると、集落は小規模化・分散化し、人々は低地部へと進出した。また後期の特徴である床面に平らな河原石を敷いた柄鏡形(敷石)住居が出現し、天神山丘陵や久野諏訪ノ原丘陵などで確認されている。その後、晩期には遺跡数が急激に減少し、弥生時代前期の停滞期へと続く。

旧石器時代・縄文時代時代 主要遺跡分布

旧石器時代の遺跡

1 八幡山古郭本曲輪

2 小田原城御用米曲輪

3 谷津山神遺跡

縄文時代の遺跡

4 羽根尾貝塚

5 羽根尾堰ノ上遺跡

6 国府津山遺跡

7 曽我谷津遺跡

8 千代東町遺跡

9 永塚下り畑遺跡

10 諏訪の前遺跡

11 坂下窪遺跡

12 久野山神下遺跡

13 久野一本松遺跡

14 久野北側下遺跡

15 池上前畑遺跡

16 立野遺跡

17 天神山遺跡

18 小田原城下御組長屋遺跡

旧石器時代
久野一本松遺跡

 久野諏訪ノ原丘陵上の東側先端部、狩川と山王川の合流点に位置し、縄文時代中期中葉から後期前半の集落が濃密に分布する。調査域は集落の一部にすぎないが、約70軒の竪穴住居跡や勝坂式、加曽利E式をはじめ多量の縄文土器が確認され、数百年にわたって集落が営まれていた。

3 中期後葉の縄文土器
竪穴住居跡群

羽根尾貝塚 −縄文のタイムカプセル−

 約5,800年前の縄文時代前期に、市内東部を流れる中村川の右岸に形成された貝塚と泥炭層遺物包含層からなる遺跡である。縄文海進や地形の隆起により、現在の海岸線よりも1㎞ほど内陸に位置し、発掘調査によって出土したさまざまな遺物から高度に発達した縄文時代前期の文化が明らかとなった。市内唯一、また神奈川県西部の縄文時代の貝塚としても、平塚市万田貝塚、同市五領ヶ台貝塚に次いで3例目であるばかりでなく、泥炭質遺物包含層を伴う貝塚の調査としては県内初など、重要な遺跡である。 遺跡は泥炭層で保護されていたため、木製品や繊維類、漆製品、骨角製品などのほか、当時の人々が食べ残した動物や魚の骨、堅果類の殻など、通常の遺跡では残らないような有機物が大量に出土した。縄文人の暮らしぶりを知ることができるとして、出土品458点が神奈川県の重要文化財に指定されている。

羽根尾貝塚遠景
4 ○深鉢(関山Ⅰ式)
5 ○片口深鉢(関山Ⅱ式)

 羽根尾貝塚から出土した土器は、縄文時代前期に南関東地方を中心に分布した関山Ⅰ式・Ⅱ式、諸磯a式の土器が多数を占めている。また中部地方や東海地方から運ばれた土器も出土しており、縄文時代にすでに山を越えて交流が行われていたことがわかる。

 貝塚からは貝のほかに、カツオ、マグロ、イシナギ、イルカなど多くの魚や水生哺乳類の骨も出土した。土錘や石錘は網を沈める重りとして使われたもので、網漁が行われていたことを示す。また骨角製の釣り針や木製の櫂も出土し、外海での一本釣りなど活発な漁撈活動が行われていた。

 狩猟活動では、槍先に付ける尖頭器のほか木製の弓・石鏃が出土し、弓矢を用いた集団による狩りが行われていた。イノシシやサル、シカをはじめ多種多様な動物・鳥類のほか、クリやクルミ、ドングリなどの殻も大量に出土し、木の実など堅果類も縄文人にとって重要な食料であった。

イルカの椎骨
○土錘(上)
○石錘(下)
イノシシの頭骨
○局部磨製尖頭器
○石鏃

弥生のムラの成立 −弥生時代の小田原−

弥生時代は、およそ2,600年前から1,700年前までをいう。この時代の人々は水稲耕作を営み、弥生土器を作り、竪穴住居に暮らした。食料を保存するための掘立柱建物を建て、集落を堀で囲む環濠集落を形成し、大陸から伝わった方形周溝墓を築いた。集落と墓域は明確に区別されていた。縄文時代に血縁関係によって営まれた小集団は、食糧生産を行うための地縁的な集団へ変化し、ムラができ始めるのも弥生時代の特徴である。

小田原では、弥生時代前期の遺跡は少ないが、東海地方西部との交流を持ちながら緩やかに社会の変化に対応していた。中期中葉になると、西日本から移住してきた人々により、本格的な水稲耕作を営む中里遺跡が開かれた。120年ほど続いたのち、中里遺跡が終わりを迎える中期後葉になると、久野諏訪ノ原丘陵や山王川流域において方形周溝墓や集落が営まれるようになる。特に久野諏訪ノ原丘陵の先端部では40基近くの方形周溝墓が確認されている。

一方、足柄平野の東側に位置する永塚・千代・高田地域からなる千代台地では、後期頃から新たに人々の生活の痕跡が見え始める。竪穴住居跡や集落を囲む環濠、方形周溝墓などが発見され、外来系の土器や金属器なども出土している。特に竪穴住居跡は多くの地点で重なって見つかっており、長期間にわたって集落が営まれていた。

弥生時代 主要遺跡分布
1  中里遺跡
2  諏訪の前遺跡
3  久野山神下遺跡
4  久野多古境遺跡
5  久野下馬下遺跡
6  久野下馬道上遺跡
7  久野北側下遺跡
8  香沼屋敷跡
9  谷津(小田原)遺跡
10 愛宕山遺跡
11 羽根尾堰ノ上遺跡
12 永塚遺跡群
13 下曽我遺跡
14 千代遺跡群
15 高田遺跡群
16 酒匂北川端遺跡
17 国府津三ツ俣遺跡

弥生土器のかたち

弥生土器は縄文土器の系譜を引き、基本的に同じ技法で作られている。しかし縄文土器は大半が深鉢であるのに対し、弥生土器では壺、甕、高坏などの形が多く見られる。弥生時代には籾や米などの穀類や、水、酒などを壺に蓄え、煮炊きなどに甕を使ったと考えられ、土器の形から人々の生業の中心が水稲耕作であることがわかる。また、食事や祭祀には高坏が使われた。

羽根尾堰ノ上遺跡からは赤い彩色が施されたものや、大変珍しい鳥形の土器も見つかっている。

10 中期後半の弥生土器(羽根尾堰ノ上遺跡)
11 鳥形土器(羽根尾堰ノ上遺跡)

中里遺跡 −東日本における稲作文化の先駆け―

2,200年ほど前の弥生時代中期中葉に足柄平野に出現した中里遺跡は、方形周溝墓、大陸系磨製石器群、金属器という弥生文化を特徴づける要素をそなえ、本格的な水稲耕作を開始した東日本で最初の大規模集落である。

中里遺跡の調査は昭和27年(1952)から始まり、平成に入り大規模な発掘調査が行われた。平成10年に行われた第Ⅰ地点の発掘調査では、竪穴住居跡102軒、掘立柱建物跡73棟、井戸6基のほか、集落域を囲うような河道の跡が発見され、集落の規模は実に3.3万㎡にも及んでいた。さらに集落から少し離れた場所で畦畔杭列や方形周溝墓などが確認される状況は、集落域と墓域から構成される典型的な弥生のムラの様子を表している。 出土した土器は、在地のものに混ざって西は畿内や東海地方、東は北関東や東北地方に至るまで、広い地域のものが確認され、中里遺跡の水稲耕作の開始が、遠方の地域の人々との交流によるものであることが明らかとなった。

12 中里遺跡出土資料
 1 は畿内で作られた壺の口縁部、2 は大陸系磨製石器である。昭和に行われた調査で出土した資料で、点数は少ないながら、中里遺跡における地域間交流や稲作が行われていたことを示す資料である。
○弥生時代中期出土品
 出土した資料の一部は、南関東地方における稲作農耕社会への転換期の様相を解き明かす上で重要であると評価され、神奈川県の重要文化財に指定されている。
方形周溝墓-弥生の人々が眠る墓-

方形周溝墓は、長さ5 m~20mの溝で周囲を四角く囲み、中央の部分に埋葬施設を設けた墓で、中里遺跡では第Ⅰ地点の南東に位置する第Ⅲ地点で46基もの方形周溝墓が発見された。写真の大型壺は40号方形周溝墓から発見されたもので、壺棺として使用されたようである。

市域では久野山神下遺跡や久野多古境遺跡、千代台地などで、中里遺跡に続く時代の方形周溝墓が発見されており、中里遺跡から周辺地域へ広まっていったと考えられる。

方形周溝墓は、長さ5 m~20mの溝で周囲を四角く囲み、中央の部分に埋葬施設を設けた墓で、中里遺跡では第Ⅰ地点の南東に位置する第Ⅲ地点で46基もの方形周溝墓が発見された。写真の大型壺は40号方形周溝墓から発見されたもので、壺棺として使用されたようである。

市域では久野山神下遺跡や久野多古境遺跡、千代台地などで、中里遺跡に続く時代の方形周溝墓が発見されており、中里遺跡から周辺地域へ広まっていったと考えられる。

中里遺跡の墓域風景
13 ○大型壺(中里遺跡第Ⅲ地点)

ヤマト王権の支配と古墳 −古墳時代の小田原−

弥生時代に始まった本格的な水稲耕作は、集団からムラを形成し、やがて政治的なまとまりが生まれてクニができる。こうしたクニとクニとの結びつきの中から畿内にヤマト王権が成立し、権力者である首長やヤマト王権と結びついた地方豪族のために多くの古墳が築かれた。江戸時代に成立した『新編相模国風土記稿』に「塚 諏訪原より留場の辺に至る迄、所々に散在す、都て二十八、高五尺より八尺に至る」とあるように、小田原にもかつて「久野百塚」「久野九十九塚」と呼ばれた久野諏訪ノ原古墳群がある。

東国におけるヤマト王権の支配は6世紀の終わり頃から始まり、在地の有力豪族を地方官である国造に任命した。足柄平野は師長国造の支配領域下となり、久野諏訪ノ原古墳群は師長国造をはじめとする有力者らの墓と考えられる。こうした古墳の縁辺部には彼らを支える拠点的な集落が展開していた。

足柄平野の東部では、後期に入り大磯丘陵の斜面に物見塚古墳や横穴墓群が築かれる。森戸川流域の国府津三ツ俣遺跡では古墳の周溝や祭祀に関わる遺構が、千代遺跡群では祭祀に使用したと思われる青銅製品や卜骨が発見され、大磯丘陵を背に森戸川流域に拠点的な集落が営まれていた様子がうかがえる。

弥生時代 主要遺跡分布
1  久野諏訪ノ原古墳群
2  久野多古境遺跡
3  久野下馬下遺跡
4  久野下馬道上遺跡
5  八幡山遺構群
6  天神山古墳
7  永塚遺跡群
8  下曽我遺跡
9  千代遺跡群
10 高田遺跡群
11 物見塚古墳
12 田島弁天山横穴墓群
13 羽根尾横穴墓群
14 国府津三ツ俣遺跡
15 酒匂遺跡群

土器が伝える東西交流

土器の形や装飾は、一定の期間や地域ごとにまとまった特徴を有する場合が多く、異なる特徴を持つ土器の出土は、他地域との交流によるものと考えられる。それはまた技術の交流として、在来の土器製作にも影響を与えることがある。千代南原遺跡第Ⅳ地点の古墳時代前期の大型土坑から出土した土器は、伊勢湾沿岸系や畿内の土器の影響を受けて作られている。古墳時代の始まりの背景に活発な東西交流が行われていたことが土器製作の面からわかる資料群である。

14 □古墳時代前期の土器(千代南原遺跡第Ⅳ地点)

久野諏訪ノ原古墳群

久野諏訪ノ原丘陵に広がる久野諏訪ノ原古墳群は、江戸時代から存在が知られ、かつては数十基にのぼる古墳が存在していた。中でも最大の1 号墳は、本格的な発掘調査は行われていないながらも、周溝を含めた最大径は60mを越えると推定され、円墳の中では県下最大級である。一方、実際に調査が行われた2号墳、4号墳、15号墳や久野森下古墳などでは横穴式石室が発見され、須恵器や土師器のほか、ヤマト王権との関わりの中で分配された装飾大刀や鉄鏃、玉製品などの副葬品が出土した。1号墳や特殊な副葬品が出土した周辺の古墳は、足柄平野を統率した権力者や有力者の墓であると考えられ、6世紀後半以降、足柄平野を支配した師長国造の勢力基盤は足柄平野西縁部にあったとみることができる。

□ 久野1号墳
□ 久野4号墳
久野15号墳
久野2号墳 出土大刀
15 鉄製銀象嵌倒卵形鐔付大刀(上)
16 金銅装喰出鐔付大刀(下)
銀象嵌倒卵形八窓式鐔(15の鐔部分)
金銅装飾(16の鐔部分)

田島弁天山横穴墓群

足柄平野の東部に広がる大磯丘陵は横穴墓が濃密に展開し、西部の久野諏訪ノ原古墳群とは異なる様相を見せる。丘陵の西側斜面に築かれた田島弁天山横穴墓群は、江戸時代前期に発見されて以降、12基の横穴墓が確認されている。当時の調査記録や横穴墓出土と伝わる畿内産土師器、須恵器などから、横穴墓群の最盛期は7世紀頃と推測され、また被葬者の性格や畿内との交流なども読み取ることができる。

6世紀後半頃には、大磯丘陵の西側斜面に物見塚古墳が築かれるが、このような古墳や横穴墓の存在は、この地が在地首長の勢力拠点であることを示している。すなわち足柄平野を統率した在地首長の勢力基盤が、平野西縁部から東部の森戸川流域へ移動したという可能性が考えられ、続く奈良・平安時代に千代台地や周辺地域が小田原の中心として発展していくことにつながると言えよう。

□田島弁天山横穴墓(12号)
17 畿内産土師器(11号墓)
18 須恵器(12号墓)

古代の足下郡家と千代寺院 −奈良・平安時代の小田原−

701年大宝律令の施行により、全国に令制国が置かれ、神奈川県域の大部分は相模国となった。相模国の下には国郡制により8郡がおかれ、小田原の大部分は足下郡に属した。それまでの国造による支配は中央から派遣された国司の任務となり、地方には行政機関としての国府や郡家(郡衙)が新たに設置された。また、畿内から地方へ延びる七道の整備と駅家の設置により、畿内を中心とした交通の大動脈が整備され、中央の直接支配が浸透していった。

この時代の中心は、足下郡高田郷にあたる永塚・千代・高田の低台地上で、郡の役所である郡家や律令祭祀の場、有力豪族の寺院である千代寺院など、地方支配の拠点に関わる遺跡が確認されている。

また、足柄平野を古代東海道が東西に横断し、16kmごとに駅家が設置された。『大和物語』によると国府津付近の海沿いには小総駅が存在した。郡家は水陸交通の要衝におかれることが多いが、国府津周辺は古代東海道の小総駅と、森戸川の河川交通を介して足下郡家の外港がおかれた場所で、水陸交通の結節点となる交通の要衝といえる。国府津三ツ俣遺跡からは畿内や東海、甲斐や武蔵などから運ばれた土器や須恵器が出土し、水陸交通を通じて広い地域との交流が行われていた。

奈良・平安時代 主要遺跡分布
1  久野多古境遺跡
2  久野下馬道上遺跡
3  愛宕山遺跡
4  藩校集成館跡
5  永塚遺跡群
6  下曽我遺跡
7  千代遺跡群
8  高田遺跡群
9  国府津三ツ俣遺跡
10 酒匂遺跡群
相模国と武蔵国(一部)
相模国郡郷一覧
※赤字が小田原市域に該当する郷。地名は『倭名類聚抄』による

永塚遺跡群 −足下郡家の想定地−

永塚遺跡群は、古墳時代から銅鏡や片口高坏形土器など特殊な遺物が出土する場所である。

古代に入ると、永塚下り畑遺跡から官衙や寺院などから出土する高級食器の緑釉陶器や、南北に延びる舗装された道路遺構が発見され、永塚北畑遺跡からは美濃(岐阜県)の国司とのつながりを示す「美濃」刻印のある須恵器が出土した。

永塚台地の東、森戸川をさかのぼった低湿地には下曽我遺跡が存在する。遺跡からは木簡や墨書土器など郡家との関係の深い資料や祭祀に用いられたと考えられる資料が出土した。足下郡家の律令祭祀の場であるとともに、付近に川津の存在が推測される。

このような特殊な遺物や遺構から、足下郡家は永塚遺跡群にあると推測され、その場所は周辺に住居遺構の分布が少なく、古代の東海道に接するとされる永塚観音堂が挙げられている。

千代寺院周辺の景観(さかいひろこ画)
永塚観音堂
刻印部分
19「美濃」刻印須恵器
古代の道路遺構
足下郡家-郡津(下曽我遺跡)-千代寺院を結ぶ、地域内の主要道路の可能性が指摘される。

千代寺院跡 −地方豪族の氏寺−

千代は、『新編相模国風土記稿』に「地中より古瓦など出ることままあり」と書かれているとおり、江戸時代にはすでに古瓦が出土することが知られていた。これまで行われた調査で多数の瓦や仏像の一部である螺髪、木簡などが出土したほか、寺院の基礎と考えられる掘込地業跡も検出されている。また、郡家や寺院等に伴う厨房施設を表す「厨」の文字が墨書された土器も発見され、千代寺院の実態が解明されつつある。現在は8世紀初頭前後に地元の豪族によって造営され、足下郡家とともに地方支配の拠点的な役割を果たした寺院というのが定説である。

20「厨」墨書土器
21 □木簡
22 □鬼瓦
23 □三重圏縁細弁十六葉蓮華文軒丸瓦 創建期
24 □珠文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦 創建~再建期
25 □珠文縁葡萄唐草文軒平瓦 再建期

千代寺院の創建期の瓦はからさわ瓦窯(足柄上郡松田町)で生産された。足上郡のからさわ瓦窯から足下郡の千代寺院への郡を越えた瓦の供給は、旧師長国造の首長ネットワークによるものであると考えられる。また鬼瓦は武蔵国分寺のものと同笵関係にあり、瓦の供給という点で他地域の寺院ともつながりを持った寺院であった。

コラム①小田原の成り立ち

箱根火山東麓から足柄平野にかけて広がる小田原市周辺の地形・地質学的な成り立ちには、箱根火山の大規模噴火と酒匂川の活動が深く関わっている。箱根火山はおよそ40万年前から活動し、複数の火山体で溶岩を溢流する噴火と火山灰や軽石を噴出する噴火を繰り返しつつ、成層火山の集合体として成長してきた。その一連の活動の中で、今に続く小田原市周辺の地形形成に大きく関わった現象の一つに、約6.6万年前に起きた爆発的噴火がある。この噴火では、大規模な火砕流(高温のガスと共に噴出物が山麓を流れ下る現象)が発生し、その堆積物の広がりは、火山から離れた横浜地域まで確認されている。これにより、箱根火山東麓では噴火以前の地形が厚く堆積物に覆われ、急峻な箱根火山と平坦な足柄平野との間に丘陵地が形成された。そして歴史時代には、この火砕流堆積物がつくる見晴らしのよい高台に小田原城が築城されることとなる(図)。

この火砕流堆積物のつくる地形の利用は、江戸時代にあった酒匂川の治水工事にもみられる。小田原市を流れる酒匂川は、富士山東麓の上流域から土砂を運び、足柄平野を形成している(図)。足柄平野は人々にとって農耕と居住に適した平坦地となったが、それをつくった酒匂川は度重なる水害の元凶でもあった。「文明堤」と呼ばれるその治水工事跡(南足柄市)は、平野に流入する酒匂川の流速を弱め、氾濫を抑える目的があった。このうち「千貫岩」と呼ばれる自然障壁の一部がこの堆積物にあたり、現在に至るまで小田原市の水害リスクを低減している。

この堆積物はまた、歴史時代を通じて小田原市周辺の都市計画の支配要因となっただけでなく、それ自体が資源であった。小田原市風祭の周辺で戦国期から石塔や竈などに利用されたほか、小田原城にも用いられている「風祭石」は、この堆積物の溶結部を利用した石材である(写真)。溶結部とは、火砕流堆積物の一部が、堆積時に帯びていた熱と自重により硬く固結したものである。石材としては耐火性があり、火山灰や軽石が主体なため、軽く加工し易い。小田原市に生きる人々は、当時からその成り立ちに深く関わる地形・地質の特性を巧みに利用してきたのである。
(神奈川県立生命の星・地球博物館 西澤 文勝)

図. 小田原市周辺の火砕流堆積物の分布。分布は、日本地質学会編, 2007,『国立公園地質リーフレット1』による。
写真. 小田原市風祭八幡神社の祠。約6.6万年前の箱根火山の噴火による火砕流堆積物が用いられている。
行ってみよう!

「神奈川県立 生命の星・地球博物館」

〒250-0031 神奈川県小田原市入生田499

℡:0465-21-1515

【開館時間】9:00~16:30(入館締切16:00)

【休館日】月曜日、 年末年始ほか臨時休館あり

【入館料】大人520円、 中学生以下無料

第2章 中世の小田原

中世の小田原

 治承4年(1180)の石橋山合戦から、天正18年(1590)の小田原合戦までを扱う。

中世のはじまりと終わりについては諸説あるが、石橋山合戦そして小田原合戦は、小田原にとってそれぞれの画期と見なしえる出来事と言えるであろう。

石橋山合戦の頃の市域は、律令体制の基盤である班田制が崩壊し、荘園と公領が設定された荘園公領制の時代を迎え、実質的には開発領主と呼ばれる各地に台頭してきた武士団に支配されていた。中でも中村荘を本拠地とした中村氏一族は、土肥、土屋、二宮などに分かれ、西相模一帯に勢力を拡大した。

鎌倉幕府が開かれると、こうした開発領主達は御家人として幕府のもとに組織されていった。源頼朝をはじめ歴代将軍による箱根権現・三島神社・伊豆山権現を参拝する二所参詣が盛んになると、足柄峠を越える道に代わり、箱根山を越える湯坂道を利用し、東国と京を往来する人々が増えた。正確な位置については判明していないが、この頃に酒匂宿が設置され、周辺には浜部御所と呼ばれる将軍の宿所も設けられた。 建武3年(1336)室町幕府が開かれると、市域は鎌倉府と密接な関係にあった伊豆山権現領と鶴岡八幡宮領が多くを占めるようになり、鎌倉府の御料所に準じた地域となった。15世紀初頭には、小田原に関所が設置された。応永23年(1416)に上杉禅秀の乱が起こると、禅秀方についた市域の武士団は勢力を失い、かわって駿河駿東郡を本拠とする大森氏が進出する。享徳3 年(1454)からはじまった享徳の乱により関東一円が戦場とかした頃、大森氏頼が小田原城へ本拠を移したと考えられており、小田原は城と宿駅のある中世都市に成長していく。

明応5 年(1496)から文亀元年(1501)頃、伊豆韮山にいた伊勢宗瑞が進出し、市域を勢力下に治めた。その後、宗瑞は三浦氏を滅ぼし相模一円を支配した。宗瑞から家督を継承した2 代氏綱は大永3年(1523)に伊勢から北条へ改姓。「相模太守」の立場を鮮明にし、相模支配の正当性を主張した。大永4年には武蔵江戸城を攻略、さらに天文7年(1538)には第一次国府台合戦に勝利し、武蔵北部や下総西部へ支配領域を広げていった。3代氏康は天文15年の河越合戦に勝利し武蔵をほぼ制圧。天文21年には上野平井城の関東管領山内上杉憲政を敗走させ、実質的な関東の支配者となった。4代氏政は永禄4 年(1561)の長尾景虎(上杉謙信)、同12年の武田信玄による小田原攻めを退け、天正3 年以降は下野・安房へ支配領域を広げていった。天正8 年には天下統一を目指す織田信長に従属し、氏直に家督が継承された。天正10年に織田信長が本能寺で倒れると、5 代氏直は信濃へ侵攻。わずかな時期ではあったが信濃への進出を果たした。しかし、信長の権力を継承した豊臣秀吉による小田原攻めにより降伏。ここに秀吉による天下統一が成し遂げられ、新たな時代を迎えることとなった。

小田原城屏風岩南堀

武士の時代のはじまり −荘園・公領と市域の武士団−

 中村氏の本拠地である中村原に代表されるように、現在の市域の地名には、荘園・公領、または開発領主である武士団の名に由来するものが少なくない。例えば、曽我・成田は荘園名、酒匂・桑原は公領名、栢山・風祭は武士団の名に由来する。千代は公領名の千葉郷が、前川は中村荘内に見える厩河村が変じたものと考えられている。 さて、こうした市域の武士団の中には、小田原を離れて西国に移り、その後有名になったものもいる。豊後・筑後の守護大名で戦国時代には北九州東部を勢力下に収めた大友氏や、安芸の国人領主となった小早川氏などである。

観応3 年(1352)に早川尻の戦いで将軍足利尊氏と弟の直義が激突した。この時、市域の武士団は尊氏派と直義派に二分されたが、どちらかが没落するということはなかった。

武士団の様相を一変させたのが、応永23年(1416)に起こった上杉禅秀の乱である。市域の武士団の多くが禅秀方につき、禅秀の敗北により勢力を失った。

これに代わり勢力を伸長させたのが、駿河国人領主の大森氏である。大森氏は鎌倉幕府の御家人、得宗被官を歴任し、室町幕府成立後も鎌倉府の関所預人を務めた家柄である。享徳3年(1454)、享徳の乱が起こり関東一円は戦場とかす。『鎌倉大草紙』によれば、康正2 年(1456)に大森父子(頼春・氏頼)が「小田原の城をとり立」と伝えることから、この頃に大森氏が小田原城を要害化したとみられている。ちなみに、この時期の小田原城の位置については八幡山とする説もあるが、現段階では不明と言わざるを得ない。

武士団の分布(平安時代末期頃)
武士団の分布(鎌倉時代中期頃)
1 三筋壺 12世紀(左)
(久野多古境遺跡第Ⅰ地点)
2 常滑産大甕 13世紀(右)
(久野南舟ヶ原遺跡第Ⅰ地点)
12世紀半ばを過ぎると、紀伊神社(早川)・下堀宮脇遺跡など市内でも経塚関連の遺跡が散見されるようになる。経塚遺跡からは、常滑で焼かれた蔵骨器として使用された三筋壺や中国産の白磁の壺が出土している。

石橋山合戦

石橋山合戦は、治承4年(1180)に源頼朝方300騎の軍勢が、大庭景親率いる平家方3,000騎の大軍に敗れた合戦である。頼朝は九死に一生を得て安房へ逃走、軍勢を立て直して鎌倉幕府を樹立。文治元年(1185)宿願であった平家討伐を果たす。 石橋山合戦では頼朝方の真田与一義忠とその郎等豊三家康(文三家安)が討死している。石橋山古戦場跡には与一と豊三の墓とされる与一塚と文三堂がある。建久元年(1190)には頼朝が鎌倉から伊豆山権現に向かう途中、与一と豊三の墓を見て涙したという。頼朝は与一の菩提を弔うために建久8 年(1197)には証菩提寺(横浜市栄区)を建立している。

石橋山合戦の様子は「源平盛衰記」や「平家物語」により後世に語り継がれ、江戸時代には浮世絵が数多く描かれ、多くの人に知られるようになった。

○石橋山古戦場のうち与一塚(石橋)
3 源頼朝石橋山旗上合戦 安政2 年(1855)

曽我兄弟の仇討ち

曽我兄弟の仇討ちは、「赤穂浪士の討ち入り」「伊賀越えの仇討ち」と並ぶ日本三大仇討ち事件として有名である。鎌倉時代末期に成立した「曽我物語」は修験比丘尼などによって語り継がれ、江戸時代には浄瑠璃・歌舞伎などの演目として演じられるようになった。

事件の発端は、安元2年(1176)10月、曽我兄弟の父河津三郎祐泰が工藤祐経の従者に暗殺されたことであった。背景には祐泰の父である伊東祐親と祐経との間における所領争いがあったという。祐泰亡き後、兄弟の母である満江御前が曽我祐信に再嫁したため曽我兄弟と呼ばれている。

仇討ちは建久4 年(1193) 5 月28日に将軍源頼朝が行った富士野の巻狩りで決行された。祐経を討った兄弟であったが、兄の十郎はその場で祐経の家臣に討ち取られ、弟の五郎は捕らえられ、翌日頼朝の面前で斬首されている。

曽我兄弟・曽我祐信・満江御前の供養塔城前寺(曽我谷津)
□曽我祐信宝篋印塔14世紀(曽我谷津)
不動山の中腹に建つ2mを越える市内最大の宝篋印塔。曽我兄弟の父曽我祐信の供養塔と伝えられているが詳細は不明である。

戦国大名小田原北条氏 −北条五代の系譜−

 初代宗瑞は備中伊勢氏の出身。長らく永享4年(1432)生まれとされてきたが、現在は康正2 年(1456)とする説が有力である。終生伊豆韮山を本拠とし、永正16年(1519)に没するまでここを離れることはなかった。

2代氏綱は長享元年(1487)に宗瑞の長男として生まれる。宗瑞存命中から小田原城に在城し、宗瑞の死去後小田原城を本城とした。宗瑞からの代替わりは永正15年とみられる。大永3年(1523)には伊勢から北条への改姓を行い、天文10年(1541)に没した。

3代氏康は永正12年に氏綱の長男として生まれる。氏綱没後に家督を継承。氏康は、存命中の永禄2 年(1559)に氏政へ家督を継承しているが、この家督継承は領国内が飢饉状態に陥ったことについて責任をとったものとの説が示されている。氏康は家督を譲ったものの永禄9 年に出馬を停止するまで実権を握り、元亀2年(1571)に亡くなるまで政権運営に影響を与え続けたとみられている。

4 代氏政は天文8 年に氏康の二男として生まれる。嫡男の氏親が早世したため家督を継承。元亀2 年に氏康が亡くなると、越相同盟を破棄し甲相同盟を復活するなど自身の政策を前面に打ち出すようになった。

5代氏直は永禄5 年に氏政の子として生まれる。従来長男とされてきたが庶出の子であるとの見解もある。天正8年(1580)に氏政より家督を継承。この家督継承は織田信長の娘を娶るにあたり、氏直を当主に据える必要があったためと考えられている。天正18年小田原合戦に敗れ高野山へ入ったが、翌天正19年11月4日病没。ここに小田原北条氏は滅亡した。

4 伊勢宗瑞画像(模写)
5 北条氏綱画像(模写)
6 北条氏康画像(模写)
7 北条氏政画像(模写)
8 北条氏直画像(模写)

北条氏の文書

 北条氏の文書は、花押が署名された判物と印章が捺された印判状に大別できる。

判物とは室町時代以降に出された武家文書で差出人の花押が付されたものをいう。本文は祐筆が書くケースが多く、戦国時代までは花押を本人が自署した。同一人物の花押であっても、年代によって形態が変化する場合が多い。

印判状は領民へ対し直接あるいは大量に文書を下すために、北条氏によって創出されたもので、氏綱が「禄壽応穏」の印文を刻む虎朱印を捺す虎朱印状の発給を始めた。現在見つかっている最古の虎朱印状は永正15年(1518)伊豆の木負の百姓達に充てたものである。虎朱印は当主に引き継がれ北条氏滅亡まで使用された。

北条氏では、伝馬手形に捺される「常調」、紙の継ぎ目に捺される「調」も長期間にわたって使用された。また、氏康の「武榮」や氏政の「有效」など前当主が隠居した後に使用したものや、氏照・氏邦など一族や国衆などが使用したものなど、使用者や目的別に様々な印章が使用された。

9 北条氏直判物 天正18年(1590) 4月25日
漉いた紙をそのまま使う竪紙を半分に折った折紙を用いる。竪紙に対して折紙は略式・薄礼であるとされる。折紙は判物・印判状双方に見られる。この文書は家臣の池田孫九郎に対して発給されたもの。
11 氏直花押
天正14年(1586)7月13日 氏直の花押であるが、天正18年の花押は天正14年に比べ、全体に扁平になり、右に大きく伸びる。
12 氏康花押
永禄12年(1569)3月13日
13 氏政花押
永禄12年(1569)3月14日
10 北条家虎朱印状 永禄5年(1562) 6月12日
堅紙を切断した切紙を用いる。切紙は簡素な内容もしくは私的なものに使用される。この文書は皮職人の五郎右衛門他2名に対して発給されたもの。
14 北条家家印「虎朱印」
天正10年(1582) 6月26日
15 □氏康隠居印
「武榮」午(元亀元年[1570]) 9月17日

戦国時代の終焉 −小田原合戦−

 天正14年(1586)12月に豊臣秀吉は徳川家康に対し「関東・奥両国惣無事」の実現を命じ、秀吉の許可がない戦闘が不可能となった。こうした事態に対応するため北条氏は天正15年正月から小田原城の普請を開始。7月には領内に人員と装備に関する人改令を発布した。天正15年末には秀吉による小田原攻めが広く風聞され、北条氏は領国挙げての総動員を行っている。 天正16年8 月に家康の勧告を受け、氏政の弟氏規が上洛。天正17年12月上旬の氏政上洛の準備を進めた。こうした最中の10月22日に真田方の名胡桃城を北条方の猪俣邦憲が攻めるという事件が起きた。名胡桃城奪取事件と呼ばれるこの事件が秀吉の逆鱗に触れることとなった。

豊臣軍は天正18年2月から各大名が出陣。3月29日には山中城が即日で落城、4月5日には秀吉が早雲寺に本陣を据え、同月中旬には小田原城の包囲が完成した。

他方、前田利家らの北陸軍は3 月25日に碓氷峠に達し、更に、浅野長吉らの東海道別動隊は玉縄城、江戸城を次々と攻略。6月下旬までに、武蔵の北条方の詰城は成田氏長の本拠である忍城を除き、全て攻略された。

秀吉は4 月初旬に小田原城を見下ろせる場所に石垣山城の築城を開始。5月中旬には石垣工事が竣工し、6 月27日には同地へ本陣を移している。和睦交渉は6 月初旬頃から始まり、6月6日・7日には織田信雄の家臣岡本利世が小田原城内に入り氏直と対面。その後も交渉が続き、7 月5 日に氏直は弟の氏房とともに滝川雄利の陣所に投降した。秀吉は、合戦の責任を氏政・氏照ら4人に負わせ、この4 人に切腹するように命じた。7月6日には家康による小田原城の接収がはじまり、北条領国はこの家康に継承されることになった。

1
16 小田原陣仕寄陣取図 天正18年(1590)
小田原合戦に参戦した豊臣方の人物が描いたものとみられる。秀吉の本陣が早雲寺に置かれていることなど豊臣軍の配置から、4月5 日~ 7日頃の戦況を描いたと考えられている
◎石垣山城井戸曲輪(早川)
17 平瓦 天正19年(1591)(石垣山城出土)
1 の「辛卯八月日」銘瓦は天守台南側斜面で採集され、2の「天正十九年」銘瓦は天守台の崩落した石垣の間から出土している。

北条軍団

 北条氏の軍団編成を知る上で欠かせない資料が永禄2 年(1559)に作成された「小田原衆所領役帳」である。この資料には、当主の身辺を固める御馬廻衆、支城を拠点とする伊豆衆、玉縄衆、三浦衆など、衆ごとに家臣名とその知行高が記載されている。

当主は有事の際に家臣が備えるべき人員と装備を記した「着到帳」を備え、家臣に対しては「着到帳」を書き写した「着到定書」と呼ばれる朱印状を発給した。「着到定書」は、氏政への家督継承後の元亀元年(1570)や氏直への家督継承後の天正8 年(1580)に集中的に発給され、書き出しに「改定着到之事」と記される場合が多い。このことから、家督継承にあたって「着到帳」の見直しが図られていた可能性が高いと考えられている。

天正15年7 月には領内の村々に戦闘に関する定書を発給しており、豊臣秀吉との合戦に備え兵力の確保を意図したものと考えられる。

18 □北条家着到定書 天正9年(1581) 7月24日
北条氏が池田孫左衛門尉の軍役を定めたもの。北条氏は知行高に応じて軍役を規定し兵員を確保していた。知行地ごとに人員と装備が指定されている。この資料は1 m以上におよび、紙を継いだ場所の裏側には「調」の朱印が捺されている。
19 □北条家定書
天正15年(1587) 7月晦日
豊臣秀吉との合戦に備え兵力の確保をするため、領内の村々に戦闘員の確保を命じたもののひとつ。この資料は中嶋(市内中町)に宛てられたもので、15歳から70歳までの者2 名を記した名簿を提出するよう求めている。「鑓(やり)は竹柄にても木柄にても二間より短かきは無用」、「腰さし類のひらひら武者めくように支度致すべき事」など装備や身なりなどについても細かく指示している。
20 兜鉢
天文6年(1537)11月(伝小八幡出土)
在銘の兜鉢。全体の四分の一が欠損するが三十二間筋兜鉢とみられる。
21 陣笠
16世紀(箱根口跡第Ⅱ地点)
布状の素材に漆を何度も塗り重ね、表面は朱漆で仕上げている。

コラム②小田原城

小田原城は、箱根山をひかえた関東の西端に位置し、北方から西方にかけては箱根古期外輪山東麓の丘陵が連なり、西南に早川、北東に酒匂・山王の両川、東南は相模湾に面する要害の地、かつ東西交通の要路東海道をおさえる要衝に所在する。

箱根外輪山の一部が舌状にのびて形成された丘陵の先端部と周辺の平地を中心に占地するが、戦国時代末期に城下と東海道を囲郭する大規模な総構が構築されたことで、我が国最大の中世城郭へと発展する。その規模は、実に南北に約2 ㎞、東西に約3㎞、周囲9㎞余に及んだ。

駿河から進出した国人領主大森氏による15世紀中葉の築城を伝え、小田原の関所や宿町、東海道など交通上の要所をおさえる目的で、これらを直接監視し得る位置に築かれた城砦が始まりと推測される。やがて領域支配の伸展によりその拠点として、さらには内乱が続きいち早く戦国的様相を呈していた関東の軍事的緊張下のもと、拡張と一層の要害化が進み、15世紀末には相模西郡支配の枢要を担う存在となった。

16世紀初頭には、伊豆の戦国大名伊勢宗瑞(北条早雲)が掌握して相模経略の拠点とし、2 代氏綱以降5 代氏直の退去にいたるまで本城として支城を統べた。北条氏の勢力が関東一円に伸張するにつれ、分国支配の中心拠点として整備拡張され、城下は関東の中心都市として発展する。

16世紀末の北条氏滅亡後、関東に入部した豊臣政権の有力大名徳川家康は居城を江戸に定め、小田原城には譜代家臣大久保忠世が入る。城の規模を縮小して近世城郭へ更新され、江戸幕府成立後、一次的に幕府直轄の番城となり、2 代将軍秀忠の隠居城とする計画もあったとされるが、阿部・稲葉・大久保の諸氏ら譜代大名の居城となり、藩治と関東防御の要として明治の廃城まで400年以上にわたり機能し続けた。

現在は、城跡の主要部が国指定史跡となり、復興された天守閣の内部には、文書・絵図、武具刀剣などの実物資料やグラフィックパネル・映像などの2 次資料が常設で展示され、中世末期から近代にいたる小田原城の歴史や変遷を知ることができる。

(小田原城天守閣岡潔)

◎小峯御鐘ノ台大堀切東堀 戦国時代
□「文久図」 江戸時代 小田原城天守閣蔵
行ってみよう!

「小田原城天守閣」

〒250-0014 神奈川県小田原市城内6-1

℡:0465-22-3818

【開館時間】9:00~17:00(入館締切16:30)

【休館日】12月第2水曜日、 12月31日、 1月1日

【入館料】大人510円、 小・中学生200円

第3章 近世の小田原

近世の小田原

 天正18年(1590)の小田原合戦から、明治4年(1871)の廃藩置県までを扱う。

近世の終わりについても諸説あるが、小田原から領主が居なくなるという出来事はおよそ350年ぶりであることから、ここを画期とする。

小田原は関東の首都としての地位を江戸に譲るが、関東の出入口にあたることから大久保氏、稲葉氏など、徳川譜代大名が封じられた。

近世小田原城は関東唯一の天守を備える城郭であった。大久保忠世により北条氏の土の城は、高石垣と水堀を有する近世城郭へ改修され天守が建築された。天守は、稲葉氏の入封に伴い建築された寛永天守、元禄関東地震で失われた後に宝永天守が再興されている。2度も天守が再興された例は他に見ない。また、幕末まで本丸及び御用米曲輪が幕府専用の空間であったことも近世小田原城の大きな特徴である。

小田原城下は城下町であったと同時に宿場町であった。東海道屈指の宿場町であり、本陣4軒、脇本陣4軒の計8 軒は東海道最多を誇る。街道管理は幕府所管であるが、元和5 年(1619)に設置された箱根関所及び5つの脇関所の管理は小田原藩に委任されていた。

一方、小田原は地震や噴火などの天災に悩まされ続ける土地でもあった。特に元禄16年(1703)に発生した元禄関東地震と呼ばれる巨大地震は、平成23年の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)と同じプレート境界型地震とされ、関東地方に甚大な被害を及ぼした。さらにその4年後の宝永4年(1707)には富士山が大噴火。噴火による降灰により酒匂川の川床が上がり、大雨のたびに酒匂川の堤防が決壊した。酒匂川の治水事業は幕府により実施されるが、正徳元年(1711)には大口堤が決壊。酒匂川の本流は大きく西に移った。享保7 年(1722)には幕府町奉行大岡忠相が関東地方御用掛を兼任し酒匂川治水事業を担当している。享保20年には蓑正高により大口堤・岩流瀬堤が修築され、上流部は落ち着きを取り戻すが、下流部は幕末期まで氾濫に悩まされ続けた。

幕末期になると、幕府が海防政策を進める中で、小田原藩も外国船の来航に備えることになる。嘉永年間には小田原海岸に洋式砲台を備えた台場が3 か所建造された。慶応4 年(1868)戊辰戦争が開始され、小田原藩は佐幕と勤王の間で揺れ動いた。

新政権下となった明治2 年、藩主大久保忠良は藩知事に任命された。しかし、明治4年7月14日、廃藩置県の詔書が突如読み上げられ他の藩知事と共に罷免。忠良は東京への移住が強制され、小田原は新たな時代を迎えることとなった。

小田原城二の丸堀と隅櫓

小田原藩の略歴 −藩主と藩政−

  天正18年(1590)の小田原合戦終戦直後に徳川家康の重臣大久保忠世が4万5千石を拝領し小田原城に入城する。文禄3 年(1594)には子の忠隣が継承。忠隣は羽生領2 万石を合わせて6万5千石を領有したが、慶長19年(1614)突如改易された。忠隣の改易は、当時幕府内で関東支配権を握っていた本多正信との権力争いによるものとの見方もある。

小田原城は幕府直轄の番城となるが、元和5年(1619)には上総大多喜より阿部正次が移封し小田原藩が復活。しかし、4 年後の元和9年には将軍家光誕生による大幅な人事異動により正次は武蔵岩槻へ移封。小田原城は再び番城となった。番城となった理由には2 代将軍秀忠の小田原隠居計画があったとされている。

寛永9 年(1632)には3 代将軍家光の側近稲葉正勝が下野真岡より移封。真岡領4 万石を加え8万5千石を領有した。正勝の移封は幕府による「関東御要害」体制の構築のためと考えられている。正勝の死後、正則、正通が藩主を務めた。正則は老中を務め、在任中に2 万5 千石の加増を受け、小田原藩は10万石を越える大藩になった。

貞享3 年(1686)には大久保忠朝が下総佐倉より移封。忠朝は忠隣の孫にあたり延宝5 年(1677)には老中に就任していた。忠朝の子忠増の藩主在任中には、元禄16年(1703)の元禄関東地震、宝永4 年(1707)の富士山大噴火により、小田原藩は大打撃を受けた。忠方、忠興、忠由、忠顕の藩主在任中は被災からの復興が小田原藩にとって大きな課題であった。次いで藩主となったのが忠真である。忠真は忠増以来となる幕府老中に就任し、農政家として活躍した二宮金次郎を見出している。忠真の子である忠愨が31歳で亡くなると、高松藩松平家から養子として入った忠礼が藩主に就任。忠礼は戊辰戦争における失政の責任を取って永蟄居となった。代わって荻野山中藩大久保家から忠良が養子となり藩主に就任。明治2 年(1869)には藩知事となるが、その2 年後には廃藩置県により失職した。

1 大久保忠真書
19世紀 忠真は歌人として著名であり書も数多く残している。
2 □小田原城再興碑 宝永2年(1705)
元禄関東地震による小田原城倒壊後、天守台再興時に造られたもの。(鎌倉時代中期頃)
□大久保一族の墓所 大久寺(南町)
□稲葉一族の墓所 紹太寺(入生田)。

小田原城絵図

小田原城を描いた城絵図は、三の丸以内を描く「城内図系」と、北条氏が築いた総構の内側を描く「府内図系」、さらに御殿図などに大別される。戦国時代の城絵図は確認されておらず、最古のものは前期大久保氏時代の小田原城を描いた「府内図系」の【加藤図】(相州小田原古絵図)である。

城絵図はある目的をもって描かれる場合が多い。例えば、【正保図】(相模国小田原城絵図)は幕府が正保元年(1644)に全国の諸藩に命じて描かせたものであり、【寛文図】【田辺図】【享保図】などは幕府に提出する普請伺いのために描かれたものである。また、貞享3 年(1686)の「稲葉家引送書」には「城絵図壱枚」「小田原府内絵図壱枚」が見え、稲葉氏から大久保氏への藩主交代時に、「城内図系」「府内図系」それぞれ1 枚ずつ引継書的な絵図が存在したことが知られている。

3 □【豊田図】 18世紀(左)

宝暦年間の製作と考えられている。空白部分が多いことから未完成であったとみられる。製作目的は不明。小田原藩士の家に伝来し、フリーハンドで描かれる点などから、藩士が公的な絵図を写した、あるいは私的に描いたものと考えられる。

4 □【文政図】 19世紀(右)

文政5 年(1822)に開校した諸稽古所が描かれている。製作目的は不明。小田原藩士の家に伝来し、直線を多用し簡素な描法に特色がある。藩士屋敷・宿場町・寺社を色分けする点など、後の【文久図】に繋がる点も見出すことができる。

□【江口享保図】 享保19年(1734)(左)

「城内図系」を代表するもの。幕府に提出する普請伺い用に描いた図を、藩士が写したものと考えられる。【江口享保図】は享保19年12月に作成されているが、享保15年10月に作成された【中戸川享保図】【静嘉堂文庫享保図】と同じ原図から図を起こし、水害の修理箇所を書き込んでいる。

藩領の人々 −町の負担、村の負担−

 小田原藩領の中心地である小田原町は19の町で構成され、東海道の宿駅機能も担っていた。町の中心部の7町には伝馬役が課され100疋の伝馬と100人の人足常備が義務づけられ、次の宿駅まで人馬を継ぎ送った。人馬の継ぎ送りには無賃の御朱印御証文伝馬・人足と、御定め賃銭の駄賃馬・質人足の二種類があった。

屋敷を所有する町人は、屋敷年貢(屋地子)を払うのが原則であった。そのため村に備えられた検地帳と同様に、町ごとに町坪帳が作成されていた。屋地子を払う義務のある狭義の町人は役家役・町並役を負担し、職人はこれとは別に国役を負担した。伝馬役は役家役の一つであり、7 町以外には本人足役や魚座役などが課されていた。また、町並役は住民生活の維持を目的とする夫役であった。 一方、小田原藩領の大部分を占める村では、検地帳に所持地を記載された本百姓が土地税にあたる年貢(本途物成)を村単位で納入する義務を負った。田の年貢は現物である米で納めることを原則としたが、山間部などでは、麦・大豆での代納も認められた。一方、畑の年貢は金納化されるようになり、御林・入会山の利用料に相当する山銭なども含まれた。年貢以外の雑税は百姓役目(小物成)と呼ばれ、当初は物納が主であった。例えば、小田原城や江戸藩邸で利用する家並薪、御厩で使用する糠・藁、正月用のお飾り道具やお飾りの江戸搬送の船賃、などが挙げられる。百姓役目は時代がくだるにつれ廃止あるいは代銭化されていった。 農民にとって重い負担となったのは、諸役人馬と称する人足や馬を出す夫役であった。往還駄賃馬(助郷)を筆頭に公的通行に関するものや、藩の諸施設の維持など藩に関するもの、さらには農民の共益となる治水事業に関するものに大別される。酒匂・網一色・山王原村の3 ヶ村のみが負担した酒匂川の川越し人足役はこうした夫役の一つであった。

6 小田原宿宿並図(部分) 
江戸時代 小田原町の東は万町から西は欄干橋町までの町割りを描き、屋号と当主が記されている。「東西御本陣」と記された清水金左衛門本陣に伝来したものである。
7「Odawara」小田原宿古写真 19世紀中頃
8 木樋 江戸時代(栄町出土)
小田原用水から屋敷内へ水を引くために利用されたもの。小田原用水にも木樋が使用され、木樋の設置工事は町並役として町人達が負担した。

旧国府津村文書

郷土文化館が所蔵する旧国府津村文書は、元禄2 年(1689)から明治16年(1883)までの全407点に及ぶ資料群で、江戸時代は名主を、明治時代には村長など村の要職を務めた長谷川家に伝来したものである。小田原藩などの支配に関するもの、反別明細や境界争論など土地に関するもの、転籍・相続など戸籍に関するもの、年貢・夫役銭など租税に関するもの、漁業・農間稼ぎなど産業に関するもの、東海道・海上運送など交通に関するものなどその内容は多岐にわたる。

9 申年御物成可納割付之事
享保元年(1716)11月
小田原藩の大橋儀兵衛他2 名が国府津村に宛てた年貢割付状である。全長3 mを超える。400点を越える旧国府津村文書であるが、そのうちの約25%がこの年貢割付状である。毎年12月晦日までに名主・惣百姓立ち合いのもと、決められた年貢が小田原藩に納められることになっていた。
10 申年国府津村船役金可納割付之事

明和元年(1764)12月
船役金割付状である。年貢と異なり納める期日は12月25日となっていた。資料に見える「天当船」「橋船」は共に漁船であり、船の種類・大きさによって税額が異なっていた。

酒匂川の川越し

江戸時代の酒匂川には4月から9月まで橋が7架けられなかった。旅人は渡し場から川越し人足によって川を渡らなければならなかった。川越し人足は、酒匂川の両岸である酒匂村・網一色村・山王村の負担とされ、代わりに百姓役目を免除されていた。また、3ヶ村で賄いきれない場合は、中島・町田・今井の3ヶ村から人足を補充した。江戸時代後期には、この酒匂川の川越しが小田原を代表する風景として数多くの浮世絵に描かれた。

11 東海道五十三次細見図会 小田原
天保14年(1843)~弘化4 年(1847)
歌川広重が描く「東海道五十三次細見図会」は日本橋から小田原までの10枚を最後に刊行が中断された作品として知られている。順番を争う川越し人足と、その仲裁に入る川会所の役人の姿を描いている。
12 東海道五十三次之内 小田原之図
天保14年(1843)~弘化4 年(1847)
歌川国貞が描く「東海道五十三次」は広重が描いた保永堂版の五十三次を背景に、その手前に美人を配する構図となっている。

幕末の小田原藩 −異国船への対応と戊辰戦争−

 寛政4 年(1792)におきたロシア人ラクスマンによる蝦夷地来航を機に、小田原藩も異国船漂着に備え領内海岸への非常時配置人数を定めた。嘉永2 年(1849)のイギリス軍艦マリナー号の来航に際しては、小田原藩から291名が下田に出兵。嘉永5 年には、西洋砲術の積極的な導入を決定し、大磯・真鶴・小田原浦などに台場が完成した。

嘉永6 年6 月3 日にはペリー提督率いるアメリカ東インド艦隊が浦賀沖に現れた。ペリーが去った後、幕府は品川沖に台場を建造。台場の建造には真鶴や江之浦の石材が運び込まれている。嘉永7 年にはペリーが再び来航。小田原藩ではこれを機に一時の派兵ではなく、下田常駐体制をとることになった。

一方、万延元年(1860) 3月3日に大老井伊直弼が桜田門外で暗殺されると朝幕間の緊張が一気に高まった。小田原藩は会津藩などと共に江戸府内警衛を命じられている。文久2年(1862)には公武合体政策として将軍家茂と孝明天皇の妹和宮が婚姻するが、尊攘派の動きは活発化する。元治元年(1864)7月には藩主忠礼が1,058名の藩兵を引き連れて京都警固にあたった。

慶応4 年(1868)正月3日には幕府軍と薩摩・長州連合軍が激突。小田原藩は2月27日に勤王の意志を表明し、5 月19日には幕府陸軍の遊撃隊と戦った。ところが、将軍慶喜と脱走兵が軍艦で下田に着き小田原へ向かっているという噂がたつ。これを藩主忠礼ら首脳陣は信じてしまい佐幕に方針転換、遊撃隊を5月21日に小田原城に迎え入れてしまう。しかし江戸留守居の中垣斎宮の説得により小田原藩は再び勤王に戻り遊撃隊を追放した。遊撃隊の先鋒隊は箱根湯本にとどまり、湯本三枚橋から入生田村山崎の間の東海道を封鎖。一方、小田原藩は5月26日に先鋒隊の陣地を包囲する陣形を敷き、昼頃に攻撃を開始。入生田村の山側と石垣山から挟み撃ちにした小田原藩の砲撃が功を奏し、先鋒隊は敗走した。

13 □小田原城図【文久図】(部分)19世紀中頃
 嘉永5年(1852)に海岸線に設置された3基の台場が描かれる。かつては【嘉永図】と呼ばれ、現在は【文久図】と呼ばれているが、最新の研究では、万延元年(1860)の小田原府内の様子が描かれていると指摘されている。
14(箱根名所)山崎古戦場 明治時代末〜大正時代中期
15 砲弾 19世紀
山崎の戦いで使用されたと伝えられる砲弾。フランス製で戊辰戦争時の主力武器であった。

「異国船御用ニ付浦賀并神奈川日記」

 郷土文化館に寄託される本資料は、小田原藩士佐藤直信の見聞した記録を山田弥一郎が写したものである。嘉永7 年(1854)正月に2度目の来航を果たしたペリー艦隊の見聞を藩から命じられた佐藤は、実際に浦賀や横浜・神奈川・羽田に出張して艦隊の動向を調べ、さらに艦隊員と接触し、その内容を記録した。佐藤は見聞するにあたり「町人体」を装い、与力豊田隼之助の若党という名目で横浜に入った。これによりペリー艦隊に接近し、実際に乗り込んで内部を見聞できた。佐藤は幕府応接掛と艦隊員との密談を布団の陰で盗み聞きした内容も記している。

16-1 実際には9 艘の軍船が来航したが、ここに記されているのは8 艘である。
16-2 艦船名、蒸気船と帆船の区分、大筒の本数が記される。
16-3 右上はペリーの帽子、左上は海の深さを測る道具と記されている。
16-4 和英辞典部分。二はセヨウ、三はテレイと聞こえたようだ。

「先祖書控」に見る異国船への対応

 小田原藩士別府新次郎が文久2 年(1862)に藩へ提出した「先祖書」の控えである。別府が弘化4 年(1847)に韮山代官江川英龍の門下で西洋流砲術を学び、嘉永3 年(1850)には藩より御台場取付御用を任じられ、さらに幕府の大筒鋳造を手伝ったことなどが記されている。

17 先祖書控 文久2 年(1862)
先祖書は小田原藩が藩士に対してその家の経歴を書かせたものである。別府家文書から、元文5 年(1740)、延享2 年(1745)、安永4 年(1775)、文化元年(1804)、文政6 年(1823)、天保13年(1842)に提出させていたことがわかる。藩ではこうした先祖書を先祖書集としてまとめており、文久2 年の先祖書集はほぼ完全な形で現存している。

小田原の石 −中世・近世の石材業と石製品−

市域の寺院などでみられる五輪塔・宝篋印塔・板碑はいずれも亡くなった人の供養を目的として造立されたものである。石材は箱根山の火山活動によって生成された安山岩である。御組長屋遺跡及び山角町遺跡からは、五輪塔・宝篋印塔などの未成品が数多く発見され、ここが16世紀の石材加工場であったことがわかっている。 戦国時代、小田原では左衛門五郎・善左衛門を棟梁とする石工の集団が活動していた。左衛門五郎は永禄13年(1570)を最後に小田原での活動がみられなくなり、以後善左衛門が石切棟梁として北条領国内で活動した。

一方、天正18年(1590)に築城された石垣山城は、関東地方にはじめて造られた総石垣の城である。石垣には周辺で産出される安山岩が使用され、ほとんど加工を施さない野面積と呼ばれる技法で石が積まれている。この石垣は、豊臣秀吉が連れてきた穴太と呼ばれる石工によるものとされている。

江戸幕府が開かれると、小田原は江戸近郊の良質な石材の産地として脚光を浴びた。慶長8年(1603)には江戸城の普請工事が開始され石垣普請工事は全国の諸大名が分担することになった。市域には諸大名の石丁場が設定され、石垣山城の西側斜面に広がる早川石丁場群もその一つである。寛永6 年(1629)からそれほどさかのぼらない時期から採掘がはじまり、採掘された石は江戸城西之丸諸門など外郭の諸門に使用された可能性が指摘されている。

一方、近世小田原城の石垣については、久野や南足柄市岩原周辺など内陸部の安山岩が使用されたことがわかっている。

さて、石切善左衛門の子孫は、北条氏滅亡後も小田原にとどまり、現在も石材業を営んでいる。「由緒覚書」によれば、徳川家康にその技量を認められたことで江戸日本橋に屋敷が与えられたという。幕末期には品川台場の造営にもかかわっている。

□小田原城内大日一尊種子 板碑 室町時代(城内)
 正面上部に金剛界大日如来種子、下部に造立者による願文が刻まれている。
18 製作途中の五輪塔
19 製作途中の宝篋印塔
山角町遺跡第Ⅳ地点(南町)
20 小田原橋親柱 昭和4年(1929)
小田原橋は平成25年まで東京都中央区築地に架設されていた。かつてこの一帯は「南小田原町」と呼ばれていた。その名は、石切善左衛門が江戸湾の海浜に江戸城築城用の石材の荷揚場を設けたことに由来する。

郷土文化館の中世石造物

  郷土文化館の展示室には市内から出土したとみられる宝篋印塔・五輪塔・線刻五輪塔の中世石造物が展示されている。在銘のものが多く貴重である。

21 宝篋印塔 正長4 年(1431)
21の宝篋印塔は反花座を欠く。基礎の部分に「正長二二年四月十日」「道春禅門」銘を刻む。正長は2 年までしかなく、正長4 年は存在しない年号。当時幕府と対立していた鎌倉府が使用していたとみられる。
22 五輪塔 室町時代
22の五輪塔は火輪に「阿弥」、水輪には四方種子、更に風化により判読不能であるが地輪にも銘を刻む。
23 線刻五輪塔 室町時代
23の線刻五輪塔は市内では珍しい。水輪に種子を刻むが尊名は判然としない。

「石切図屏風」

郷土文化館が所蔵する石切図屏風は、天保9年(1838)と嘉永5 年(1852)の江戸城西之丸の修築で使用する石材を切り出す様子を描いたものと考えられている。現在は六曲一隻の屏風に仕立てられている。

山中に露出した岩を切り出し、必要な大きさに切り揃え、海岸線の集積場まで牛に曳かせて運搬し、海に浮かぶ台船に乗せ、その台船を帆船が曳いていくまでを描いた、第1 扇から第3扇が特に注目されている。第4 扇から第6 扇は、小田原から熱海へ至る熱海道を描き、根府川関所の様子や、海岸線に点在する複数の集積場を描いている。

24-1 1 扇から3 扇 石切から運搬までを描く。
石切図屏風 石曳き道拡大
24-2 4扇から6扇 根府川関所と熱海道を描く。
◎早川石丁場群 石曳き道(早川)

コラム③二宮尊徳の生誕地小田原

現在も各地の小学校で見られる、薪を背負い本を読みながら歩いている少年の像。この像のモデルとなったのが小田原市北部の栢山出身で、江戸時代後期の農政家である二宮尊徳(金次郎)である。尊徳は天明7 年(1787)に中流農家の長男として生まれた。少年時代に両親と財産を失うが、尊徳は勤勉さと才覚でこの苦難を乗り越えて一家の再建に成功する。その能力は小田原藩主大久保忠真の知るところとなり、尊徳は文政4 年(1821)に大久保家の分家の宇津家が治める下野国桜町領(現栃木県真岡市)の復興を命じられることとなった。

領民や役人らとの対立もあって桜町領の復興は苦心を極めたが、尊徳は領民に対する無利息の貸付や働き場の創出など様々な手段をもって事業を進め、10年後に復興を実現させた。「報徳仕法」と呼ばれる尊徳の手法は、やがて桜町領の成功を見た周辺にも広まってく。小田原藩内でも報徳仕法を取り入れようとする動きが起こり、天保8 年(1837)には天保の飢饉に苦しむ領民救済のために尊徳が呼び戻されている。しかし、忠真の死去による藩体制の変化のため、小田原での報徳仕法は中途で終了した。 報徳仕法は幕府も注目するところとなり、尊徳は天保13年に幕臣へ転じた。幕府は日光神領(現栃木県日光市)の復興計画の作成を尊徳に命じるが、これは調査段階で取りやめとなる。しかし尊徳は門弟らと計画を継続し、これまでの仕法の内容を整理して、全国各地で利用できるノウハウをまとめた「日光仕法雛形」を作り上げた。そして、弘化4 年(1847)から北関東の幕領で尊徳の指導による仕法が始まり、嘉永6年(1853)には日光神領復興の命が改めて尊徳に下される。しかし、日光赴任の直後に尊徳は病に倒れ、安政3 年(1856)に70歳で没した。

尊徳の没後、その生涯と業績は門弟たちの著作や教科書などを通して広く知られていった。尊徳の顕彰活動も盛んとなり、小田原では明治27年(1894)に尊徳を祭神とする「報徳二宮神社」が創建されている。生誕地の栢山でも、明治から昭和にかけて、石碑の建立や生家跡地の整備が行われた。現在、尊徳の生誕地には、復原された生家と、尊徳の生涯の記録や遺品を展示紹介する「尊徳記念館」が建ち、その遺徳を今に伝えている。

(尊徳記念館 坂井 飛鳥)

二宮尊徳先生回村の像
○二宮尊徳生家
行ってみよう!

「尊徳記念館」

〒250-0852 神奈川県小田原市栢山2065-1

℡:0465-36-2381

【開館時間】9:00~17:00(入館締切16:30)

【休館日】年末年始、 そのほか臨時休館あり

【入館料】大人200円、 小・中学生100円

第4章 近現代の小田原

近現代の小田原

260余年続いた江戸時代が終わり、明治時代が幕を開けた。本章では明治の近代化から戦後の高度成長期までを扱う。

明治4年(1871)廃藩置県により小田原藩が廃止され小田原県が置かれた。大久保忠良は小田原藩知事を免ぜられ東京へ強制移住となり、その4 か月後には小田原県は足柄県に再編され、韮山出身の柏木忠俊が足柄県参事(知事)として小田原にやってきた。足柄県は明治9年に神奈川県に分割統合され、小田原は神奈川県足柄下郡の一地域となる。この間、本陣・脇本陣及び宿駅制度が廃止され、小田原城も廃城となるなど、江戸時代に宿場町・城下町として、また関東の入口として重要な役割を担っていた小田原は、明治初期の諸改革により一時衰退する。しかしその中でも町村の諸制度を整え、学校教育を充実させ、産業文化を発展させるなど近代化を推し進めてきた。

明治20年、東海道鉄道の開通を嚆矢として近代交通の発展が始まる。東京からの交通至便と豊かな自然環境は多くの人々を惹きつけ、小田原は別荘地・保養地としての地位を築いた。大正9年(1920)の熱海線小田原駅の開業は、さらなる近代化を押し進める分水嶺であった。

一方で近代の小田原は度重なる災害に見舞われた。なかでも明治35年に小田原を中心に県西沿岸部を襲った大海嘯や、大正12年に発生した関東大震災は甚大な被害をもたらした。別邸や御用邸も流失や倒壊などにより、多くが姿を消した。災害からの復興は容易ではなかったが、その中で小田原市制の実現という目標に向けて動き出し、昭和15年(1940)、神奈川県で7番目の市である小田原市が誕生した。しかし翌年には太平洋戦争が勃発し、市政も時局の対応に追われていくこととなる。戦争により多くの兵士が戦地へと向かい、また地域に残った人々も、銃後の守りといわれる役割を負い、空襲におびえながら出征兵士の見送りや出迎え、軍需工場での勤労奉仕、防空訓練などそれぞれの立場で懸命に活動した。

戦後は、民主化と戦災からの復興・再建から始まる。財政力を強化するため市の広域化を図り、周辺町村との合併も進められた。昭和46年に橘町との合併を果たし、市域面積は県下3位、人口は16万6,211人となった(合併当時)。また高度成長を支える工場誘致を積極的に展開した結果、工業化は急速に進み、鉄道や道路交通網も次々と整備された。それは同時に、都市問題や公害問題、福祉問題など様々な現代的課題を生み出したが、しかし着実に県西の中心都市へと発展していった。

小田原駅 昭和40年(1965)(撮影:岡部忠夫)

近代交通の幕開け −鉄道の発展と別邸文化−

 明治に入り、新たな交通手段として人力車や乗合馬車が登場した。その背景には、小田原から伊豆や箱根を結ぶ道路の開鑿や整備によるところが大きい。明治20年(1887)文明開化のシンボルである鉄道が横浜―国府津間に開業し、小田原の近代交通が幕を開けた。国府津駅は箱根や伊豆へ向かう人々のターミナルとなり、西湘の交通の要衝として注目を浴びた。国府津駅開業の翌年には、国府津―箱根湯本間に馬車鉄道、明治29年には熱海方面へ向かう人車鉄道が開業した。馬車鉄道、人車鉄道はその後、電気鉄道、軽便鉄道へと変更された。

鉄道の開通は、小田原における別邸文化の形成にも大きな影響を与えた。同じ湘南でありながら早くから海水浴地として注目されていた鎌倉や大磯と比べ、交通不便により集客に苦心していた小田原にとって、鉄道の開業は、保養地・別荘地として注目を浴びるきっかけとなった。明治23年に伊藤博文が御幸の浜に別邸「滄浪閣」を建設すると、多様な交遊関係を通じて政治家、軍人、実業家らが次々と別邸を構え、時に地元の人々との交流も楽しみ、また町や村の運営に貢献するなど、さまざまな影響を及ぼした。

小田原の温暖な気候は皇族関係の人々にも気に入られ、小田原城二の丸に御用邸、天神山に閑院宮別邸が建設されると、保養地・別荘地としての小田原の名声はいっそう高まっていった。

近代交通の発展

近代交通路線図(明治29年)

①東海道鉄道
国府津~静岡:約115㎞
所要時間:約4時間30分

②馬車鉄道
国府津~箱根湯本:約13㎞
所要時間:約1時間20分

③人車鉄道
早川口~熱海:約25㎞
所要時間:約4時間

近代交通路線図(大正9年)

①東海道鉄道
国府津~静岡:約115㎞
所要時間:約4時間30分

②熱海線
国府津~小田原:約6.3㎞
所要時間:約10分

③電気鉄道
小田原~箱根湯本:約7㎞
所要時間:約40分

④軽便鉄道
早川口~熱海:約25㎞
所要時間:約2 時間15分

馬車鉄道から電気鉄道へ

レールの上を二頭立ての馬車が走る馬車鉄道は明治21年(1888)の開通以来、国府津と箱根を結ぶ交通機関として重要な役割を果たした。東海道鉄道の発着に合わせて運行し、京浜地帯と小田原の距離を一気に縮め、鉄道唱歌にも歌われるほど名物となったが、一方で脱線事故や馬糞による公害、馬の飼料代の高騰などが問題となり、電気鉄道への変更を余儀なくされた。 明治33年、須雲川上流の水を利用した水力発電により電気鉄道が開業した。電車の運行はもとより、電気鉄道事業に付帯する電灯・電力供給の恩恵は大きく、西湘地域の人々の暮らしや産業の在り方にも大きな影響を与えた。

1 国府津駅前の馬車鉄道
(小暮次郎画)
2 馬車鉄道時刻表
明治25年(1892)4月20日
本社前の電気鉄道
明治33年(1900)頃
人車鉄道から軽便鉄道へ

明治29年(1896)、早川から熱海方面へ向かう人車鉄道が開通した。小型の客車を車夫が押して進めるという一風変わった鉄道は、上り坂では下等客も車夫と一緒に客車を押したというエピソードも含めて観光客を中心に人気を博した。しかし、経営状態の悪化から動力化による輸送力の強化を目指すこととなり、明治40年に人車鉄道とほぼ同じ軌道で簡便な蒸気機関車である軽便鉄道が開業すると、小田原―熱海間の所要時間は4時間から2時間15分に短縮された。

3 熱海街道の軽便鉄道 大正時代
熱海線小田原駅の開業

東海道本線の国府津―御殿場―沼津間は急峻な山道が続いていたため、輸送量の増加により限界を迎えていた。そこで、国府津を起点として小田原に入り、丹那トンネルを貫通させて沼津に合流する高低差の少ないルートが新たに計画され、大正9 年(1920)にまず熱海線の国府津―小田原間が開通した。手前に見える線路は、電気鉄道のものである。小田原駅の開業によって廃止された国府津~小田原町役場間の路線に代わり、幸町~小田原間が新設された。

完成間近の小田原駅 大正9年(1920)
4 汽車土瓶
鉄道の旅が始まると、弁当についでお茶を入れた汽車土瓶が登場した。大正11年にガラス製の容器に切り替わるまで、旅の供として親しまれた。

別邸文化の形成

鉄道の開業により花開いた近代の別邸文化は、明治30年代の災害や日露戦争を境に大きく2期に分けることができる。 第一期は森有礼や伊藤博文など政治家の別邸や皇室関係の御用邸などが中心であったのに対し、第二期は戦争により名声を挙げた山縣有朋や黒田長成、山下亀三郎など実業家や退役軍人らの別邸が中心となった。彼らは江戸時代には武家地であった十字町(現・市内南町)や風光明媚な高台の板橋、小田原の玄関口となった国府津に別邸を建築し、小田原での日々を謳歌した。

旅館 藤館(旧森有礼別邸)
初代文部大臣を務めた森有礼の別邸。明治19年(1886)荒久海岸(市内南町)に建てられた。森の死後、別邸建築物を保存するという約束でリゾート旅館「藤館」として営業を開始した。右手の平屋建て家屋が森有礼の旧別邸。
5 小田原御用邸の御殿
明治34年(1901)建築
閑院宮邸の洋館
大正9 (1920)年建築
(「一枚の古い写真」より転載)

度重なる災害 −大海嘯と関東大震災−

小田原に住む人々は酒匂川や早川をはじめとする河川の氾濫、海岸地帯の激浪・高波などの風水害や、火災、赤痢やコレラの蔓延など、さまざまな災害や感染病に苦しめられてきた。その中で近代の小田原における災害を挙げるとすれば、明治35年(1902)の大海嘯と大正12年(1923)の関東大震災だろう。

海嘯とは、満潮時に低気圧と重なることによって海水面が引き上げられ異常な高波が起きる現象で、潮津波ともいわれる。明治35年9月28日に発生した大海嘯は、被害の範囲、倒壊・流失した戸数、死傷者数など、どれを取ってもそれ以前の海嘯とは比べ物にならないほどの甚大な被害を出した水害として小田原の歴史に刻まれている。

また大正12年9 月1 日に発生した関東大震災における足柄下郡の罹災率は、県下最大の99.2%と言われている。地震と同時に発生した火事により小田原町の3 分の2 が焦土と化し、根府川地区で発生した山津波と呼ばれる地滑りは、集落を飲み込み、駅に到着した電車を海へ突き落とし、多くの人命を奪った。

この2つの災害で別邸や御用邸の多くは失われた。そればかりか、地震の被害は「近代化」の第一歩を踏み出した小田原に、暗い影を落とした。

明治35年9月28日の大海嘯

月28日午前11時頃、台風通過後の余波と満潮が運悪く重なったことで発生した高波は、小田原を中心に県西沿岸部を襲った。高波は防波堤を越えて押し寄せ、人家を潰し、船舶や橋梁を押し流して道路や田畑を破壊するなど、およそ2 時間にわたって荒れ狂い、甚大な被害をもたらした。その様子は“波濤は海上に山岳の湧出せしが如く”であったという。被害が拡大した原因として、海岸の砂浜の幅が狭くなっていたことや、明治時代以降、堤防の修繕を放任していたことなどが指摘され、防波堤築造への早急な対応が求められた。

6 新玉町一丁目大通り旧新宿(現・市内浜町)の様子
小田原大海嘯全図絵(福山金兵衛画)
明治35年の大海嘯を描いた絵巻で、2巻からなる。新玉町に住んでいた福山が体験した海嘯の惨状を、解説をまじえながら詳細に描いており、過去の災害を視覚的に伝える歴史資料として貴重である。
7 海嘯後の酒匂村入口
明治35年(1902)
8 海嘯後の酒匂村小八幡
明治35年(1902)
海嘯の翌年に完成した防波堤。海岸沿いに約2 ㎞にわたって築造され、一部は現在も残る。

関東大震災

大正12年9月1日、マグニチュード7.9 と推定される関東大震災が発生した。日本の産業経済と政治の中心部である東京・横浜を直撃し、政治・経済のあらゆる分野は一時麻痺状態に陥った。小田原町の被害もほとんど「全滅ノ状態」と伝えられている。

関東大震災は、揺れによる建物の損壊だけでなく、火災や津波、山崩れや崖崩れなど、あらゆる種類の地震被害がそれぞれに大きな規模を持ち、それらが複合して歴史的大災害をもたらした。

小田原駅前の惨状
大きく傾いた右手の建物は「ちん里う」。大正9年に開業したばかりの小田原駅も被害を受け、震災後の改修の際に屋根の上の塔は撤去された。
震災後の山角町
・・・就中小田原町ノ如キハ戸数五千百五十五戸ヲ算スル市街地ナリシモ、第一回ノ強震ニ依リテ全町家屋ノ倒潰ヲ見、其大部分ハ再ビ使用ニ堪ヘサル程ノ打撃ヲ受ケ、半潰程度ハ極メテ少数ノ家屋ニ止マリ、道路ノ如キモ二条三条ノ亀裂ヲ生シ、甚タシキニ至リテハ二尺三尺ノ空間ヲ来タシテ噴水シ、彼ノ小田原城趾ノ如キ…堅牢無比ナル外廓ノ石垣モ、数十丈ニ築上ケタル天守台跡モ、千歳ヲ誇リシ老松古杉モ、一震以テ崩潰倒木見ルニモ無残ノ無骸ヲ止メタルガ如キ・・・

『小田原警察署管内震災情況誌』より

被害状況を伝えるもの

テレビやラジオのない時代、絵葉書は視覚的な情報を伝える重要な媒体だった。東京では震災から1週間たらずで震災絵葉書が発売され、飛ぶように売れたという。小田原でも箱根口の近くで写真材料店を構えていた松井十字堂が発行した絵葉書などがある。

9 小田原町大震災実況
現在も残る震災の痕跡

小田原城の石垣は、一部は修復されたが、南曲輪の石垣は現在も崩れたままである。
根府川の釈迦堂は、もとは石段を上って拝んでいたが、聖岳の山津波による土砂で埋もれたため、釈迦如来像の前の土砂を取り除き階段を下りる形に変えた。現在は堂内は岩屋のようになり、釈迦如来像は洞の中に安置されている。

小田原城南曲輪の崩れた石垣
根府川の釈迦堂

戦時下の小田原 −太平洋戦争と人々のくらし−

明治27年(1894)に起こった日清戦争は、日本にとって初めての本格的な対外戦争である。明治37年には日露戦争が開戦するが、両戦争は日本の勝利で終わった。

昭和6年(1931)の柳条湖事件を発端に「十五年戦争」がはじまると、日本全体が戦時体制へ移行していく。多くの若者が戦地へ招集され、また戦地の兵士たちを地域で支える銃後の人々の生活も、町内会・隣組によって衣食住の細部にわたるまで統制された。物資の不足が深刻になるにしたがい日常必需品は配給制になり、農産物の強制提供や金属回収などの供出が始まると、家庭の金属製品だけでなく、寺院の鐘や国民学校の二宮金次郎の銅像も回収された。

昭和20年3 月以降、米軍の相模湾からの上陸による本土決戦に備えて小田原に軍隊が駐留し、陣地が構築された。4月以降には小型機による空襲を受けるようになり、小田原地方は銃後から戦場へと姿を変えていった。8月15日未明に一丁田町から青物町にかけて行われたB29による空襲は、太平洋戦争最後の空襲でもあり、人々は焼け野原の中で終戦を迎えた。

日清・日露戦争の勝利
10 日露戦争 戦争祝賀の花電車
11 従軍記念杯

日清・日露戦争の勝利を祝う祝賀事業や出征兵士の凱旋の歓迎は、盛大に行われた。また日中戦争頃までは凱旋や除隊等に際し、感謝と帰還報告を兼ねた盃などの記念品を近所の人々に配る習慣もあった。

戦争の舞台

 戦争の泥沼化は兵員の大幅な供給を必要とし、陸軍では兵士の多くが山梨県甲府市の駐屯地へ入隊した後、中国大陸へ送られた。小田原駅は出征を見送る場、そして戦死者の遺骨を迎える場となった。昭和20年3 月以降には米軍との本土決戦に備え、歩兵第199連隊・200連隊が配備された。地元の中学生や市民を動員して、石垣山、板橋、荻窪、国府津などに陣地が構築された。近年、米軍が想定していた上陸地点が相模湾であったことが判明し、戦争が長期化していたら小田原で本土決戦が行われていたかもしれない。

12 駅前歓送
(小田原駅前で出征を見送る人々)
13 標札
出征した兵士の家に掛けられた。
松永記念館裏の陣地跡(板橋)
14 写景図
荻窪の陣地で発見されたもの。部隊の名称や機関銃の操作内容、陣地から狙うことのできる範囲などが書かれている。

銃後の生活

戦時下の市民生活は町内会・隣組によって統制され、配給や供出をはじめ、空襲を想定した灯火管制訓練や消火訓練などの防空演習も町内会・隣組を動員して行われた。
教育の面では尋常小学校が国民学校へと変わり、軍国主義的傾向が強くなっていく。中学校(旧制)では野営演習などの軍事教練が行われ、昭和19年(1944)に学徒勤労動員の通年実施が決定すると、生徒は授業ではなく軍需工場へ駆り出された。

15 防空用竹兜
空襲が始まると民間人用の兜が必要となったが、金属類の不足からこのような竹と藤を使った兜が作られた。
16 貝製のおたま(代用品)
17 陶製の灰皿(代用品)
18 決戦食生活
昭和19年(1944) 8月 戦争の長期化で食糧不足が深刻となり、主食の代替食品や今まで捨てていた部分も工夫して食べる「決戦食」が推奨された。本冊子は、小田原市図書館が発行し、町内会部落会婦人部で回覧された。

小田原空襲の被害

米軍が作成した日本の攻撃目標の一覧で、小田原市は180都市中96番目に挙げられていた。
昭和20年4月以降の小型機による空襲では、国府津駅や下曽我駅、湯浅電池など鉄道の駅や軍需工場が狙われ、多くの人が命を落とした。終戦日である8月15日未明の空襲は米軍の計画外の空襲であったが、400〜500軒が焼失するという小田原で最も大きな被害を出した。

8月15日未明の空襲被害の範囲
青橋に残る機銃掃射の弾痕
8月15日未明の空襲で焦土となった小田原中心部(空襲から1 週間以内に撮影)

戦後の発展 −県西の中心都市へ−

昭和20年(1945) 8 月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、太平洋戦争は幕を下ろした。戦後は、復興と改革を進めていく中で、町村合併によって市を広域化し財政力を強化していくことが1 つの課題であった。昭和23年にまず下府中村と合併、その後も周辺の町村との合併を実現し、昭和46年の橘町との合併をもって現在の市域となった。

また、東京や横浜港に近く、良質な工場用水や労働力に恵まれた西湘地方の地理的条件を生かし、全国に先駆けて工場誘致を開始した。高度成長の始まりである。一方で、蜜柑作を中心とする新たな商業的農業が急激な発展を遂げた。工業と農業とが並行して発展してきた状況は小田原の特徴といえる。戦争で中断されていた観光旅行も戦前を上回る勢いで復活し、観光客誘致における切り札として昭和35年には天守閣が復興された。

交通事情も大きく変化した。東京オリンピックが開催された昭和39年に新幹線が開通し、モータリゼーションの進展の中で小田原-厚木道路、西湘バイパスが開通した。移動時間は大幅に短縮され、輸送力も増強しながら小田原は主要な交通拠点へと成長した。これを契機としてさらなる発展を遂げ、県西における交通や産業経済、教育文化の中心へと成長を遂げている。

小田原市の誕生と拡大

明治22年(1889)の町村制施行で誕生した小田原町は、江戸時代の小田原宿を行政区域として引き継いでいたため、町域面積は狭小であった。そこで周辺の町村と合併し都市として発展することを目指し、昭和15年(1940)小田原町、足柄町、大窪村、早川村、酒匂村の一部が合併して、小田原市が誕生した。その後の町村合併は太平洋戦争により一時中断するが、戦後再びその機運が高まると、昭和28年の町村合併促進法の施行もあり、市域を拡大していった。

市域拡張の変遷
20 小田原都市計画区域決定ノ件
昭和13年(1938)7月市制施行にあたり町村合併の範囲を決定する中で、従来から考えられてきた都市計画区域がそのまま採用されることとなり、内務省から各村に諮問が出された。この時「異議なし」と回答した下府中村は、最終的には外れ、戦後に合併を果たした。
公募で選ばれた市章(小田原商業学校絵画部)
小田原市と橘町との合併祝賀式 昭和46年(1971)

小田原城の再建

小田原城は明治3 年(1870)に廃止・解体され、以来、天守閣をもたない城であった。戦後、市民の間で天守閣の石垣を積み直す「天守閣石一積運動」が起こり石垣が再建されたのに続き、市制施行20周年の記念事業として天守閣の再建が決定した。市民を中心に多額の寄付金が寄せられ、天守閣の瓦を寄付する「天守閣復興瓦一枚寄付運動」では瓦21,000枚分の寄付金が集まった。天守閣の復興に期待を寄せる多くの人々の支援により、明治の解体から90年目の昭和35年(1960)、小田原城天守閣は完成した。

瓦一枚寄付運動で瓦に名前を書く学生
21 瓦一枚寄付運動の瓦
22 建設中の小田原城 昭和35年(1960)

県西の中心都市へ

鴨宮基地で試運転中の新幹線 昭和37年(1962)
高度成長期のシンボルである東海道新幹線は、東京オリンピックが開催された昭和39年(1964)に開業した。開業に先立ち鴨宮駅の西側に新幹線基地がおかれ、試運転と実験・改良が重ねられた。写真は鴨宮基地での試運転の様子。新幹線の向こう側を「特急つばめ」が通過している。
小田原漁港の工事 昭和42年(1967)(撮影:岡部忠夫)
小田原地方は近海に好漁場が存在する一方で、海岸線は砂丘帯が続き、漁港を持っていなかった。昭和6 年(1931)に漁港建設が計画されるが、戦後にようやく工事に着工。苦難の連続であったが、昭和43年に完成した。
西湘バイパスの工事 昭和44年(1969)(撮影:岡部忠夫)

コラム④近代小田原三茶人
−益田鈍翁・野崎幻庵・松永耳庵−

どこでどのように暮らすのか。ライフスタイルとも直結する、多くの人にとって重要なテーマだろう。学校や職場に近いことが最優先という人もいれば、交通の便が悪くとも、自然豊かな環境で生活したい人もいる。何に重きを置くかは人それぞれ。年齢によっても違ってくる。

近代の小田原は、一事業を為した実業家が晩年を過ごした場所である。茶室を有した邸宅を建て、庭園を造り、茶の湯とともにある生活を楽しんだ。益田鈍翁、野崎幻庵、松永耳庵の3人はその代表格。実業家でありながら、茶人でもあったかれらを称して「近代小田原三茶人」という。

益田は三井物産の創始者、野崎は中外商業新報や三越の社長などを歴任。松永は電気事業に邁進し、戦後は現在の九電力体制の礎を築いた人物である。3人とも現代につながる大きな仕事を為した、いわば人生のプロフェッショナル。自ら動き、人を動かし、くぐった修羅場は一度や二度ではなかったはず。そんなかれらが終の棲家を構えた場所が小田原だったことは興味深い。この土地に、共通して惹かれた魅力があったのだろうか。3人の足跡をたどりながら考えてみたい。

益田 鈍翁

益田鈍翁(本名:孝 1848-1938)
益田孝は、佐渡(現・新潟県)の生まれで、三井物産を創始した大立て者である。品川の御殿山に本邸「碧雲台」を構え、別邸は鎌倉に有したが、海に近いところは空気が重かったのか、よく眠れずにいたところ、「山七分海三分」の場所を勧められ、小田原を選んだという。

明治39年(1906)大窪村(現・市内板橋)に別邸「掃雲台」の造営を開始し、大正3 年(1914)59歳で三井を退くと同時に移り住んだ。掃雲台の敷地は約3 万坪ともいわれる広大なもので、由緒ある茶室をいくつも移築し茶友を招いた。資源の乏しい日本の将来を見据え、敷地内に缶詰工場や豚舎を造り実践の場としたことは、ほかと一線を画す、益田のユニークな点である。

茶人・鈍翁としては、狭い空間に少人数が集う茶会のあり方を改革し、大人数が広間に一同に会す大寄せの茶会を始めるなど、「利休以来の大茶人」と呼ばれ、近代の茶の湯をリードした。実業界でこれはと見込んだ人物を茶の世界に引き込むこともしばしばで、幻庵や耳庵が茶の湯に親しむようになった契機として、鈍翁の存在は大きい。

野崎 幻庵

野崎幻庵(本名:広太 1859-1941)
野崎広太は備中国(現・岡山県)の生まれ。三井物産に入社し、益田が始めた「中外商業新報」(日本経済新聞の前身)の社長として、経営を支えた。多くの茶会に出席し、その様子を紙面に連載したのは、政財界の重鎮が多く参加する茶会の様子が世間の関心事だったためである。

実業界の激務から逃れるべく、箱根湯本にひそかに設けた草庵が鈍翁にみつかり、「幻の庵」となったことが、茶人としての名を「幻庵」とした理由の一つ。なんともせつないが、幻庵の人柄を感じるエピソードである。
大正7 年(1918)60歳で三井呉服店の社長を退任した後は、小田原の諸白小路(現・南町)に別邸「自恰荘」を営んだ。名産品が届くと近隣の人を招いて連日のように茶会を催し、市井の人とも親しく交流した幻庵。小田原に庶民の茶を広めたといわれるゆえんである。

松永 耳庵

松永耳庵(本名:安左ヱ門 1875-1971)
松永安左ヱ門は壱岐の島(現・長崎県)出身。電気事業で九州から名古屋に進出、東邦電力の社長となり、「電力王」と呼ばれた。小田原に移り住んだのは、戦後の昭和21年(1946)72歳の頃のこと。戦前に暮らしていた柳瀬山荘(現・埼玉県所沢市)は冬が寒く、病弱だった一子夫人を気遣い、温暖な小田原を選んだともいわれている。 鈍翁からトラックいっぱいの茶道具を贈られ、茶の湯を始めることになった耳庵。その名は自身の頑固な性格を省みて、『論語』の「六十にして耳順う」からとったものという。

板橋に造営した邸宅「老欅荘」は鈍翁の掃雲台のほど近くにあり、歳月をかけて増改築した近代数寄屋風建築である。昭和34年(1959)には、自身の美術コレクションを展示公開するための施設として、敷地内に松永記念館を設立した。
平日は東京の電力中央研究所を拠点に仕事をし、週末は小田原で過ごしていた耳庵。東京と近からず遠からずの距離感も、小田原を住まいとした重要なポイントだったのだろう。急ぎ面会を求めて訪れた客人をとりつごうする家の者に「松永はおらんと言え!」と伝えたエピソードは有名。オンとオフはきっちり区切っていたようだ。
歴史を遡れば、戦国時代から茶の湯と関わりが深い小田原である。石垣山に一夜城を構え、北条氏を攻め落とした豊臣秀吉に随行した千利休は、武将たちを労う茶をこの地で点てた。利休の愛弟子・山上宗二も小田原の地を訪れており、北条氏やその家臣たちに茶の湯を伝授したことが知られている。小田原城下の遺構からは茶道具も多く発掘されている。
温暖な気候、東京との距離感のほかにも、茶の湯をとりまく、こうした歴史的なストーリーも、三茶人が小田原に惹かれた要素の一つだったのではないだろうか。一朝一夕では成し得ない、歴史の地層も小田原の大きな魅力である。 松永記念館には、耳庵の邸宅「老欅荘」や幻庵の茶室「葉雨庵」があるほか、庭園には「掃雲台」旧蔵の石造物がある。三茶人に思いを馳せる場として訪れてほしい。

(松永記念館 中村 暢子)

行ってみよう!

「松永記念館」

〒250-0034 神奈川県小田原市板橋941-1

℡0465-22-3635

【開館時間】9:00~17:00(入館締切16:30)

【休館日】年末年始、そのほか臨時休館あり

【入館料】無料(ただし、特別展は有料)

コラム⑤小田原にやってきた文学者たち

 小田原文学館は、小田原にゆかりのある文学者を展示によって紹介する施設で、市内南町の西海子(さいかち)小路にある。この通り沿いは、江戸期には武家屋敷が並び、明治期になると多くの著名人の別邸が建てられた。小田原文学館もそのうちの一つで、建物は明治政府下で宮内大臣などを歴任した田中光顕伯爵の別邸であった。周辺には明治から昭和期にかけて、斎藤緑雨、小杉天外、村井弦斎、谷崎潤一郎、北原白秋、三好達治、岸田國士など数多くの文学者が居住した。
なぜこのように多くの文学者が小田原にやってきたのであろうか。いくつかの要因が考えられるが、一つには交通の発達が挙げられる。明治20年(1887)に東海道線が横浜~国府津間の営業を開始し、明治21年には国府津から小田原を通り湯本を結ぶ馬車鉄道が開通した。これにより東京からのアクセスが向上し、小田原は熱海・箱根の入口として発展していくこととなる。
また、東海道線沿線では、海浜保養や医療の効果を期待して大磯などに海水浴場が開かれたが、海水浴は次第に行楽の場としても人気をび、馬車鉄道の開通により、小田原にも海岸を利用したリゾート旅館が建てられるようになった。大正7 年(1918)に北原白秋が小田原に来た当初に滞在したのも、伊藤博文の別邸であった滄浪閣の跡地を利用した、養生館という旅館であった。
さらに、小田原の気候も文学者たちを惹きつけた要因である。白秋は夫人の病気療養のために小田原に住まいを移したが、それに先立つ明治34年には、斎藤緑雨は自身の療養のため移り住んだ。また、坂口安吾は昭和15年(1940)に当時住んでいた取手の寒さを三好達治に訴え、温暖な小田原へやってくるよう誘われて転居してきている。緑雨は小田原在住時に幸徳秋水へ宛てた手紙に「山よし海よし天気よし」と記しているが、小田原は転地療養や静養にふさわしい気候をそなえた土地であった。
田國士は昭和29年発表の「年頭雑感」で、「小田原という町は、ただ東京に近いだけでなく、日本国中のどこからでも、そんなに遠くないような気のする町である」と記したが、小田原は東京からの距離も、気候も、都会と田舎のバランスも、創作の場としてちょうどよい土地として文学者たちに認識されていたのであろう。

(小田原市立中央図書館 鳥居 紗也子)

桜の季節の西海子小路
行ってみよう!

「小田原文学館」

〒250-0013 神奈川県小田原市南町2-3-4

℡0465-22-9881

【開館時間】※特別展開催時等変更あり

3 月~10月 10:00~17:00(入館締切16:30)

11月~ 2 月 10:00~16:30(入館締切16:00)

【休館日】月曜日(休日にあたるときは翌平日)

年末年始、そのほか臨時休館あり

【入館料】大人250円、 小・中学生100円

第5章 小田原の民俗

小田原の民俗

本章では民俗分野について紹介する。記録として文字資料に残ることが少ないために、これまで紹介してきた小田原の歴史にはあまり登場しなかった庶民の生活と言い換えてもよい。庶民の生活を語るために民俗分野で収集する資料(民俗資料)は、伝統的な年中行事や生涯儀礼などの非日常(ハレ)と衣、食、住、生業などの日常(ケ)に使用された道具である。民俗資料の特色は使用者から直接話を聞くことができる点で、作成方法や使用方法など資料に付随する情報は、資料を収蔵する際に必要不可欠なのである。郷土文化館で収集した民俗資料は、主に明治時代から平成のモノで、小田原の歴史のなかではごく最近使用されたモノである。

まず非日常(ハレ)について「祭り」を取り上げる。小田原において近年注目を集めている「祭り」は、総鎮守・松原神社の例大祭である。複数の神輿や山車が曳きだされる大規模な都市祭礼である。そのほか規模は小さいながら地域の特色を色濃く映す民間信仰に基づく「祭り」が各地で伝承されている。
日常(ケ)では、生活の基礎となる生業を取り上げる。生業は社会環境や自然環境により様々である。戦国時代以降関東の中心都市として発展した小田原では、城下の人々の生活を支える職人たちがおり、現在でもその片鱗を見ることができる。小田原と周辺の自然環境は足柄平野、曽我丘陵、箱根山嶺、相模湾など多様であり、その地にあわせ海沿いには漁師、平地や山間部には農家や山師などの人々の生活があった。
住の道具は近代以降、形態や素材が大きく変化したモノが多くある。和式から洋式へ、また石油や電気の普及により様変わりした生活を道具から紹介する。 以上のように、当地で生きた名もなき人々の記憶が刻まれた資料から、郷土・小田原の特色を垣間見たい。

松原神社例大祭 平成27年5月5日撮影
松原神社例大祭には、松原神社の氏子・26町と2 つの龍宮神社の氏子により数多くの神輿が担ぎ出される。写真は2基の龍宮神社神輿が並んだ場面である。

祭り

 非日常(ハレ)のなかで「祭り」を紹介する。小田原は江戸時代は相模国西端に位置し、伊豆国や駿河国と隣接し、文化が混交している土地といえる。 江戸時代の小田原は相模国の政治・経済の中心として栄え、小田原宿の総鎮守・松原神社の祭礼は、神輿や山車が多数出る都市の祭礼である。そこで奏上される小田原囃子は、江戸葛西囃子の流れを汲む。小田原以外の地区では、片浦地区は伊豆半島の文化が見られ鹿島踊が、足柄平野から東では人形浄瑠璃の名残である相模人形芝居が演じられる。
神社の祭礼だけでなく民間信仰においても地域性が顕著にみられる。特に道祖神信仰では、伊豆国系の僧形単座像、相模国から駿河国に広がる双体像、小田原城下外縁部でみられる木祠の道祖神など様々なモノが祀られる。道祖神祭りも多様で、全国的にはどんど焼きと呼ばれる一年をつかさどる神(歳神)の祭りであるが、小田原では道祖神(サイノカミ、セーノカミ)の火祭りであり、山車を曳き祭囃子を奏でる。そのほかにも神輿を担ぐ、人形山車を曳くといったバリエーションがある。

神社祭礼の山車

神社祭礼では神輿を担ぎ、山車を曳き、山車の中で小田原囃子を奏でる。複数集落を守る松原神社や宗我神社では各集落ごとに複数の山車が曳きだされる。小正月に行われる道祖神祭礼でも曳きだされる。

松原神社例大祭 山車が集結(本町、平成27年5月5日)

小田原囃子

神奈川県内の祭囃子は、太鼓がメインの楽器となり早い曲調が特徴であるが、小田原囃子は篠笛がメインの楽器であり、比較的ゆったりした曲調である。篠笛1 人、締め太鼓4 人、大太鼓1 人、鉦1 人で構成される。

1 締め太鼓(久野)
小田原囃子
(根府川、平成29年7月16日)

鹿島踊

鹿島踊は、伊豆半島東岸に見られる伝統芸能である。伊豆半島の付け根にあたる江之浦、根府川、米神、石橋に伝承され、現在は根府川と米神の神社祭礼時に演じられる。ミロク踊の一種で円形、列形になる集団舞踊である。

2 鹿島踊採り物(米神)
○鹿島踊(根府川、平成29年7月16日)

4種類の道祖神

木祠の道祖神は稲荷型と呼ばれる。稲荷信仰と習合し、陶製のキツネ人形を祀る。

稲荷型(山王・網一色)
双体像(高田)
3 道祖神厨子(寺町)
祠に入れたと思われる厨子。中が空で御神体は不明である。
石祠型(入生田)
僧形単座像(米神)

道祖神祭り

当地の道祖神祭りは、小正月( 1月14日、15日)に行われる火祭りが中心となる。疫病神・目ひとつ小僧を払うため道祖神の小屋を燃やす昔話と結びついている。
火祭り以外に、一年間の福を集落に呼び込む行事として、神輿を担ぐ地区や、大黒舞の一種「福踊り」を行う地区がある。

どんど焼き(根府川、平成31年1月13日)
福踊り(根府川、令和2 年1月12日)
道祖神神輿(酒匂、令和2年1月12日)

相模人形芝居

神奈川県下では、江戸時代から神社祭礼時に人形浄瑠璃が演じられていた。現在では音楽がなくなり人形芝居となっている。小田原市内では橘北地区で活動する下中座のみが伝統を継承しているが、かつては他にも人形芝居の一座があったことがわかっており、国府津地区の田島では明治時代に使用された人形の頭と衣装などが遺されている。

◎相模人形芝居 下中座
4 □田島人形・頭(かしら)と胴串(田島)
講の掛軸からみる信仰圏
講とは、民間信仰や相互扶助を目的として共同飲食や貯金などを行う、人々の集まりのことで、農村や漁村に根付いた稲荷講、庚申講、山の神講、地神講、念仏講などさまざまな講がある。江戸時代から続くと目されるが、現在では参加者の高齢化や地域コミュニティーの変化により多くの講が解散した。 講で掛けられる掛軸には、信仰の中心となる寺社から頒布されたものがある。稲荷講では秦野市の白笹稲荷、庚申講では静岡県御殿場市の庚申寺など周辺地域の寺社を信仰していたことがわかる。
5 白笹稲荷講軸(飯田岡)

小田原の産業となりわい

 日常(ケ)のうち伝統的な生業、生きるための業、つまり市域に古くからある職業について紹介する。江戸時代の人口に占める職業の割合を見ると、80%以上の人々が農業や漁業といった第一次産業に従事していた。大正時代・昭和初期には有職者の約半数の人々が農業に従事した。
小田原市域の平野部、沿岸部、山間部にある集落の人々は農業を営みながら、沿岸部では漁業、山間部では林業を副業としながら生活し、また戦国時代から続く都市・小田原とその周辺部(板橋、井細田)では都市民や周辺村落民の生活を支える道具を作る職人や商人がいた。
自然環境に根ざした産業もある。箱根山嶺の樹木を活用する木工業や、箱根火山が産んだ花崗岩や凝灰岩を利用する石材加工業、相模湾の魚を漁る漁業、温暖な気候を活かした蜜柑や梨生産業などである。また小田原の歴史にまつわる産業として、伊勢宗瑞に仕えたとされる染物業(紺屋)、大砲や鉄砲を鋳造していたという鋳物業などがある。そのほか、地場産業として軍需で作り始めたと伝わる梅干し製造業、箱根越えに使われた小田原提灯製造業、雑魚を加工した蒲鉾製造業なども忘れてはならない。

木地師(浜町、昭和42年[1967])6 月21日、撮影:岡部忠夫)
鋳物師(『炎の匠 小田原鋳物』より転載)

木工業・木地師

小田原の木工業の起こりは平安時代の早川とされている。早川の鎮守・紀伊神社は木地師の祖神・惟喬親王を祀り、また室町時代の椀を宝物として伝える。現在では、椀などを作る木地師だけでなく、江戸時代に土産として流行した箱根細工をつくる職人が板橋を中心に工場を構えている。

6 小田原漆器(城内)
7 木地師の鉋とうし(収集地不詳)
上 は鉋、下 のうしは鉋を載せる台のこと。

石材加工業・石工

平安時代には箱根・芦ノ湖周辺に石工集団がおり、多くの地蔵菩薩像を残した。戦国時代には北条氏に仕えた青木善左衛門が石工として活躍したとの記録が残っている。
江戸時代になると庶民によって信仰・供養のため石造物が作られるようになり、石工の需要が高まった。小田原市内には現在でも多くの石工がいる。

石屋頭青木善左衛門銘が刻まれた宝篋印塔(文化8年[1811]造立、板橋地蔵尊境内)
8 鞴(板橋)
石材加工には、ノミやゲンノウなどの道具を使用する。道具を手入・加工するための鍛冶も職人の仕事であった。本資料は炭火に風を送る鞴で明治22年(1889)の墨書が残る。

鋳物業・鋳物師

小田原鋳物のはじまりは、戦国時代に北条氏により集められた鋳物師集団と考えられており、大筒(大砲)の製造を命じられたことがわかっている。江戸時代には庶民の需要に応える鍋屋が多く住んだため鍋町(市内浜町)の地名が残っている。
現在は砂張(銅と錫などの合金の鋳物)の鳴物、特に小田原風鈴が知られ、柏木美術鋳物研究所のみが伝統を残している。

9 柏木美術鋳物研究所製作の鐘(久野)
10 小田原風鈴(栄町)

染物業・紺屋

市内板橋には、江戸時代に小田原藩内の紺屋頭を務めた「京紺屋」が昭和45年(1970)まで営業していた。京紺屋は室町時代の大森氏の頃に小田原に住み、初代津田藤兵衛正朝が伊勢宗瑞に仕え、旗や幟、幕などを染め、京都に上り、宮中の衣服を染めるようになり、朝廷から「京紺屋」の屋号を与えられたとされる。
紺屋に関する資料は少ないが、郷土文化館は染物で使用していた藍甕を所蔵している。藍甕は水に溶けない藍を発酵させて可溶性に変えるために漬け込む甕である。京紺屋があった板橋は小田原用水の水を引き込みやすい立地である。

11 藍甕(板橋)
12 染物イメージ(印半纏)

漁業・漁師

小田原は相模湾に面しており、江戸時代の市域には13の漁業に従事する集落があった。『新編相模国風土記稿』によると、182艘の漁船があり、刺し網や延縄、地曳網が主な漁法であったとされ、浮世絵にも地曳網漁の様子が描かれている。
明治時代になると現在の定置網の基である大敷網が設置され、定期収入が得られるようになる。昭和中頃には定置網で鰤が大漁であった。また外洋に出帆し鮪漁をする漁師も多く、三浦半島や房総半島に寄港した。
一方、近海で操業する舟には県西、湘南の特色である箱舟がある。4 、5 人乗りの小さな舟で、揺れにくくするため舳が平らになっている。刺し網や延縄を行うための舟であったが現在では使われていない。
昭和43年(1968)に小田原漁港が完成するまでは、浜が港であり、浜に舟を揚げていた。

13 東海道五十三次名所図絵 小田原海岸漁舎
鰤をあげる大敷網漁の様子(昭和29年[1954] 4月2日)
(『鰤 大漁記念』写真帳より転載)
箱舟と艪(橘南の前川にて使用されたと思われる)
旧小田原魚市場前の浜(昭和44年[1969] 2月1日、撮影:岡部忠夫)
千度小路と呼ばれる地域である。戦国時代、北条氏に船方として労役を課されたことが古文書からわかっている。江戸時代には52艘の船をもつ大きな集落であった。
三浦半島三崎漁港に寄港した清四郎丸(大正8 年[1919])
帆をもつ和船である。石油を使ったエンジンを動力として使用し始めた頃の船である。

蜜柑生産業・蜜柑農家

箱根丘陵や大磯丘陵の傾斜地では段々畑が設けられ、蜜柑が栽培されている。『新編相模国風土記稿』に、前川、石橋、米神、江之浦の土産として蜜柑が挙げられ、江戸時代には当地に根付いていたことがわかる。 蜜柑収穫用の籠や大きさを選別する選果機などの専用道具がある。

14 蜜柑籠(根府川)
15 蜜柑選果機(収集地不詳)

梨生産業・梨農家

足柄平野では明治時代から足柄梨と呼ばれるブランド梨があった。品種はさまざまだが、十郎など神奈川県内の品種も栽培されていた。
足柄梨業協同組合が作られ、一括して販売されていたことを組合看板などから知ることができる。現在も数軒の梨農家が残っている。

16 梨の荷札(鬼柳)
17 足柄梨業協同組合看板(西大友)
18 ヘタ切り鋏(西大友)
収穫した梨がヘタで傷付かないよう専用の鋏でヘタを切る
農具は地味によって形を改良する。小田原の平鍬は、田のシロ(畔の壁)に泥を塗る道具であり、その形態は平地の稲作地では小さく、山沿いの畑作地では大きい傾向にある。平地は土が柔らかく、山沿いは土が固いことが影響している。
19 風呂鍬
(左:国府津、右:上曽我)
使用地別・鍬形態比較表

移り変わる道具 −明治時代から大正、昭和へ−

 日常(ケ)の食や住に関する道具は、明治時代の文明開化以降、西洋の文化や科学技術の革新に影響を受け大きく変化した。小田原の町場では明治時代に送電線が引かれ電気が普及し始めた。しかし農村地域では大きな影響はなく、大正時代まで江戸時代と大きくは変わらない生活を送っていた。当時の家屋は植物や土を使用した平屋であり、市内栢山には18世紀から20世紀まで使用されていた農家家屋として二宮尊徳生家が現存している。しかし石油の登場により、農村でも西洋化の波が押し寄せる。大正時代には初期の農耕機械にエンジンが搭載される。また灯において小田原提灯のような蝋燭を使ったものから石油ランプに変わり、昭和になるとさらに送電線が各地まで引かれ、電灯の普及率が高まる。小田原の町内では、初期の家電として扇風機が使われはじめた。
大きな変化が起きたのは昭和20年(1945)に終わった太平洋戦争以降である。戦後の高度経済成長期に家電や車が普及し、大量生産大量消費の時代へと変わっていく。
また当時多く使われるようになったのが石油を原料とするプラスチック製品である。様々な道具、家電に使用され、なくてはならないものになった。

御堀端通りの電柱(明治33年[1900]頃か)
(中野敬次郎編『ふるさとの想い出写真集 明治・大正・昭和 小田原・箱根』より転載)
20 昭和初期の鉄製扇風機

住宅

家屋の材料は主に木材で、屋根は茅を使用している。
玄関の床は、土を固めた土間で、雨の日などに農具の手入などができるように広く作られている。
台所には石製のかまどがあり、ここで火をおこして煮炊きをした。

茅葺きの民家(二宮尊徳生家、栢山)
二宮尊徳生家は、18世紀中頃から20世紀初頭まで農家の母屋として使われていた。
21 かまど
土間(二宮尊徳生家)

外出用灯火具

外出時に使用する小型の灯火具は提灯から石油ランプ、懐中電灯へと変わる。
小田原提灯は、江戸時代に箱根を越える旅人が携行できるように在地の職人甚左衛門が発明したと伝わっている。

22 小田原提灯
23 石油ランプ
24 手動式懐中電灯
下部のバーを握ると発電し、明かりが灯る。

アイロン

日本のアイロンの源流は、平安時代に中国から伝来し、上流社会で使用された「ひのし」とされる。庶民に普及したのは、江戸時代に炭火で熱して使う「こて」からである。明治時代には「ひのし」と「こて」の両方が使われた。また明治時代には西洋の洋裁とともに、炭火アイロンも輸入された。大正時代には電気アイロンが日本でも作られたが、電気の普及率が低いため広がらなかった。戦後、洋服と電気が普及したことで電気アイロンが一般化した。

25 こて
26 ひのし
27 炭火アイロン
28 電気アイロン

湯たんぽ

暖房器具「湯たんぽ」は陶製から金属製、プラスチック製へと変化した。一方で形態に大きな変化はなかった。

29 湯たんぽ
( 1 陶製、2 金属製、3 プラスチック製)

冷蔵庫

大正時代から昭和にかけて、氷の冷気を用いた木と銅製の冷蔵庫が使用された。昭和30年代に電気冷蔵庫が普及したことで姿を消す。

30 氷式冷蔵庫
31 電気冷蔵庫

掲載資料一覧

資料名 点数 年代・出土遺跡等 所蔵・保管 指定第
第1章
1ナイフ形石器1八幡山古郭本曲輪第III地点小田原市教育委員会
2石核1小田原城御用米曲輪小田原市教育委員会
3縄文土器(中期後葉)9久野一本松遺跡小田原市教育委員会
4深鉢(関山I式)1羽根尾貝塚小田原市教育委員会
5片口深鉢(関山II式)1羽根尾貝塚小田原市教育委員会
6土錘3羽根尾貝塚小田原市教育委員会
7石錘3羽根尾貝塚小田原市教育委員会
8局部磨製尖頭器1羽根尾貝塚小田原市教育委員会
9石鏃5羽根尾貝塚小田原市教育委員会
10-11羽根尾堰ノ上遺跡小田原市教育委員会
10-2高坏1羽根尾堰ノ上遺跡小田原市教育委員会
10-31羽根尾堰ノ上遺跡小田原市教育委員会
11鳥形土器1羽根尾堰ノ上遺跡小田原市教育委員会
12-11中里遺跡小田原市郷土文化館
12-2大型蛤刃石斧1中里遺跡小田原市郷土文化館
13大型壺1中里遺跡第III地点小田原市教育委員会
14土器(古墳時代前期)9千代南原遺跡第IV地点小田原市教育委員会
15鉄製銀象嵌倒卵形鐔付大刀1久野2号墳小田原市教育委員会
16金銅装喰出鐔付大刀1久野2号墳小田原市教育委員会
17畿内産土師器1田島弁天山横穴墓11号墓小田原市郷土文化館
18須恵器5田島弁天山横穴墓12号墓小田原市郷土文化館
19「美濃」刻印須恵器1永塚北畑遺跡第XII地点小田原市教育委員会
20「厨」墨書土器1千代仲ノ町遺跡第IV地点小田原市教育委員会
21木簡2千代南原遺跡第VII地点小田原市教育委員会
22鬼瓦1個人蔵(小田原市郷土文化館寄託)
23三重圏縁細弁十六葉蓮華文軒丸瓦1千代寺院創建期個人蔵(小田原市郷土文化館寄託)
24珠文縁複弁八葉蓮華文軒丸瓦1千代寺院創建期~再建期小田原市郷土文化館
25珠文縁葡萄唐草文軒平瓦1千代寺院再建期小田原市郷土文化館
第2章
1三筋壺1久野多古境遺跡第I地点小田原市教育委員会
2常滑産大甕1久野南舟ヶ原遺跡第I地点小田原市教育委員会
3源頼朝石橋山旗上合戦1安政2年小田原市郷土文化館
4伊勢宗瑞画像(堀内天嶺模写)1小田原城天守閣
5北条氏綱画像(堀内天嶺模写)1小田原城天守閣
6北条氏康画像(堀内天嶺模写)1小田原城天守閣
7北条氏政画像(堀内天嶺模写)1小田原城天守閣
8北条氏直画像(堀内天嶺模写)1小田原城天守閣
9北条氏直判物1天正18年4月25日小田原市郷土文化館
10北条家虎朱印状1永禄5年6月12日小田原市郷土文化館
11北条氏直判物1天正14年7月13日小田原城天守閣
12北条氏康判物1永禄12年3月13日小田原城天守閣
13北条氏政判物1永禄12年3月14日小田原城天守閣
14北条家虎朱印状1天正10年6月26日小田原城天守閣
15北条氏康朱印状1午(元亀元年)9月17日蓮上院蔵(小田原城天守閣寄託)
16小田原陣仕寄陣取図1天正18年山口県文書館
17-1平瓦「辛卯八月日」銘1石垣山城小田原市郷土文化館
17-2平瓦「天正十九年」銘1石垣山城小田原市教育委員会
18北条家着到定書1天正9年7月24日小田原市郷土文化館
19北条家定書1天正15年7月晦日小田原市郷土文化館
20兜鉢1伝小八幡出土小田原市郷土文化館
21陣笠1箱根口跡第II地点小田原市教育委員会
第3章
1大久保忠真書119世紀小田原市郷土文化館
2小田原城再興碑1宝永2年小田原城天守閣
3豊田図118世紀小田原市郷土文化館
4文政図119世紀小田原市郷土文化館
5江口享保図1享保19年個人蔵(小田原市郷土文化館寄託)
6小田原宿宿並図1江戸時代個人蔵
7「Odawara」小田原宿古写真119世紀中頃横浜開港資料館
8木樋1江戸時代小田原市郷土文化館
9申年御物成可納割付之事1享保元年11月小田原市郷土文化館
10申年国府津村船役金可納割付之事1明和元年12月小田原市郷土文化館
11東海道五十三次細見図会 小田原1天保14年~弘化4年小田原市郷土文化館
12東海道五十三次之内 小田原之図1天保14年~弘化4年小田原市郷土文化館
13文久図119世紀中頃小田原城天守閣
14(箱根名所)山崎古戦場1明治時代末~大正時代中期箱根町立郷土資料館
15砲弾119世紀小田原市郷土文化館
16異国船御用ニ付浦賀并神奈川日記4個人蔵(小田原市郷土文化館寄託)
17先祖書控1文久2年小田原市郷土文化館
18五輪塔(製作途中)1山角町遺跡第IV地点小田原市教育委員会
19宝篋印塔(製作途中)1山角町遺跡第IV地点小田原市教育委員会
20小田原橋親柱1昭和4年小田原市郷土文化館
21宝篋印塔1正長4年小田原市郷土文化館
22五輪塔1室町時代小田原市郷土文化館
23線刻五輪塔1室町時代小田原市郷土文化館
24石切図屏風119世紀小田原市郷土文化館
第4章
1国府津駅前の馬車鉄道1小田原市郷土文化館
2馬車鉄道時刻表1明治25年4月20日小田原市郷土文化館
3熱海街道の軽便鉄道1大正時代個人蔵
4汽車土瓶3小田原城三の丸元蔵堀第III地点小田原市教育委員会
5小田原御用邸の御殿1小田原市立図書館
6小田原大海嘯全図絵1個人蔵(小田原市郷土文化館寄託)
7明治小田原大海嘯 酒匂村入口1明治35年個人蔵
8明治小田原大海嘯 酒匂村小八幡1明治35年個人蔵
9小田原町大震災実況1小田原市郷土文化館
10日露戦争戦争祝賀の花電車1小田原市立図書館
11従軍記念杯11小田原市郷土文化館
12駅前歓送1小田原市立図書館
13標札1小田原市郷土文化館
14写景図1小田原市郷土文化館
15防空用竹兜1小田原市郷土文化館
16貝製のおたま(代用品)1小田原市郷土文化館
17陶製の灰皿(代用品)1小田原市郷土文化館
18決戦食生活1昭和19年8小田原市郷土文化館
19焦土となった小田原中心部1昭和20年8個人蔵
20小田原都市計画区域決定ノ件1昭和13年7小田原市郷土文化館
21瓦一枚寄附運動の瓦2小田原市郷土文化館
22建設中の小田原城1昭和35年小田原城天守閣
第5章
1締め太鼓1収集地:久野小田原市郷土文化館
2鹿島踊採り物1収集地:米神小田原市郷土文化館
3道祖神厨子1収集地:寺町小田原市郷土文化館
4-1田島人形・頭1収集地:田島小田原市郷土文化館
4-2田島人形・胴串1収集地:田島小田原市郷土文化館
5白笹稲荷講軸1収集地:飯田岡小田原市郷土文化館
6小田原漆器1収集地:城内小田原市郷土文化館
7-11収集地:不詳小田原市郷土文化館
7-2うし1収集地:不詳小田原市郷土文化館
81収集地:板橋小田原市郷土文化館
91収集地:久野小田原市郷土文化館
10小田原風鈴1収集地:栄町小田原市郷土文化館
11藍甕1収集地:板橋小田原市郷土文化館
12印半纏1収集地:浜町小田原市郷土文化館
13東海道五十三次名所図絵小田原海岸漁舎1小田原市郷土文化館
14蜜柑籠1収集地:根府川小田原市郷土文化館
15蜜柑選果機1収集地:不詳小田原市郷土文化館
16梨の荷札1収集地:鬼柳小田原市郷土文化館
17足柄梨業協同組合看板1収集地:西大友小田原市郷土文化館
18ヘタ切り鋏2収集地:西大友小田原市郷土文化館
19-1風呂鍬1収集地:国府津小田原市郷土文化館
19-2風呂鍬1収集地:上曽我小田原市郷土文化館
20鉄製扇風機1収集地:不詳小田原市郷土文化館
21かまど1収集地:不詳小田原市郷土文化館
22小田原提灯2収集地:不詳小田原市郷土文化館
23石油ランプ1収集地:不詳小田原市郷土文化館
24手動式懐中電灯1収集地:栄町小田原市郷土文化館
25こて1収集地:不詳小田原市郷土文化館
26ひのし1収集地:不詳小田原市郷土文化館
27炭火アイロン1収集地:不詳小田原市郷土文化館
28電気アイロン1収集地:不詳小田原市郷土文化館
29-1湯たんぽ(陶製)1収集地:不詳小田原市郷土文化館
29-2湯たんぽ(金属製)1収集地:不詳小田原市郷土文化館
29-3湯たんぽ(プラスチック製)1個人蔵
30氷式冷蔵庫1収集地:根府川小田原市郷土文化館
31電気冷蔵庫1収集地:桑原小田原市郷土文化館

謝辞

本書の刊行にあたり、貴重な資料の掲載にご協力くださいました関係各位、またご助言ご協力いただきました方々に、厚くお礼申し上げます。(敬称略、五十音順)

株式会社田中組 市毛秀人
箱根町立郷土資料館 伊藤千沙子
山口県文書館 井上 弘
横浜開港資料館蓮上院 江口文亮
蓮上院 大島慎一
小田原市文化財課 大貫みあき
小田原市立図書館 岡潔
小田原城総合管理事務所 小西正樹
佐々木健策
清水修一郎
清水晴秀
鈴木康弘
高野 肇
髙橋秀和
土屋健作
土屋了介
野尻夏姫
福山真由美
山田賢治

小田原市郷土文化館常設展示ガイド

小田原の歴史と民俗

発行日 令和 3 年 3 月15日
編集 小田原市郷土文化館
発行 小田原市郷土文化館
〒250-0014
小田原市城内 7 番 8 号
印刷 株式会社 アルファ
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