ほうじょううじつな
北条氏綱
戦国大名小田原北条氏二代目当主。伊勢宗瑞の子。仮名新九郎、実名氏綱、官途名左京太夫。 小田原を拠点に、宗瑞の元で相模経略を補佐。家督継承後は本拠地をそのまま小田原に移し、「虎の印判」を用いた領国支配体制を整えた。宗瑞の没後、検知等の代替わり諸施策を実施した後、寒川神社(寒川町)・箱根権現(箱根町)など領国内の有力寺社の造営に着手。 1523(大永3)年に伊勢氏から北条氏に改称し、相模支配の正当性を主張するとともに、山内・扇谷両上杉氏と敵対して武蔵に侵攻した。翌年1524年(大永4)年に扇谷上杉朝興を破って江戸城(千代田区)を攻略し、ここを拠点に武蔵北部・下総方面への進行を進め、1537(天文6)年には扇谷上杉氏の本拠点河越城(現川越市)を奪って優位を決定的なものとした。 次いで古河公方足利晴氏の上意を受け、1538(天文7)年小弓公方足利義明を討滅(第一次国府台合戦)して晴氏から関東管領職に補任され、領国を伊豆・相模二国から武蔵・駿河の半国と下総の一部まで拡大し、関東随一の戦国大名に成長させた。1532(天文元)年から東国の盟主としてに地位を誇示すべく、鶴岡八幡宮(現鎌倉市)造営の大事業に着手したが、ほぼ完成をみた同10年に没した。 法名春松院快翁宗活大居士。早雲寺(現箱根町)に葬られた。