facebook X instagram Line
いなばまさのり

稲葉正則

江戸時代前期の小田原藩主。江戸幕府老中。稲葉正勝の子。幼名鶴千代、実名正則。受領名美濃守。 1634(寛永11)年、父正勝の病死により12歳で家督を相続。将軍徳川家光の上洛と小田原城止宿に備えて小田原に入り、従五位下美濃守に叙任され、正則と改めた。藩政では、大幅な加増に応じた基盤確立に努め、家臣団統制や職制整備、藩領の支配制度や機構整備などに取組んだほか、小田原城と城下の本格的な整備を進めた。幕府内では1657(明暦3)年に老中に就任し、従四位下に叙任。翌1658(万治元)年から1660(万治3)年にかけて領内に総検地を実施して増収を図るが、普請や諸役の莫大な出費は藩財政を圧迫し、家中や農村部の負担となった。寛文元年(1661)侍従となり、翌年1万石を加増。幕閣の中枢で政務に励む一方、文化人などと交流し、黄檗僧鉄牛道機に帰依して小田原に黄檗宗の大寺院紹太寺を建立した。1680(延宝8)年大政参与に昇格し、1万5千石の加増を得て11万石に栄進。同年大老酒井忠清が退いて幕閣の最高責任者となったが、翌1681(天和元)年、嫡子正通の京都所司代就任をみて職を辞し、1683(天和3)年に正通への家督相続を許されて隠居、1696(元禄9)年に没した。法名潮信院殿泰応元如。遺言により紹太寺に葬られた。

TOP