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郷土読本「小田原」

郷土読本「小田原」の刊行によせて

私たちの住む小田原は、豊かな自然環境、歴史・文化、市民力・民間力など、素晴らしい地域資源を有しています。江戸時代には、小田原城を擁する東海道屈指の宿場町として発展し、人・もの・文化が行き交う中で、数々の伝統・技術の基礎が形成されてきました。時代を経てさらに発展を続け、交通の利便性などを生かし、今も多くの企業や人々が小田原を目指して集まり、県西の中心都市としての役割を担っています。

また、箱根の外輪山や曽我丘陵に囲まれ、小田原市の中央を流れる酒匂川は、深い森で滋養された栄養豊富な水を相模湾へ注ぎ、多種多様な魚介を育んでいます。こうした環境のもと、小田原を語る上で欠かせない生業や食文化が醸成されてきました。

このように、小田原の魅力は数多くあり、先人達から変わらず受け継がれています。小田原の変わらぬ魅力を十分に理解することは、それを守りたいと思う心を育むことにつながります。次の時代を担う皆さんが、その心を礎に小田原の地域資源を守りつつ、小田原の新たな価値を創造し、豊かな街を創生していくと信じています。

コロナ禍において、過密から分散という思考のシフトにより、地方回帰といった新しい価値観が再び見直されています。この時代において郷土読本「小田原」が改訂されることに大きな意義を感じています。この本との出会いが、郷土である小田原をじっくりと見つめなおすことに繋がり、さらには、自分自身の将来や生き方を見つめる“きっかけ”となることを心から願っています。

そして、郷土読本「小田原」で学んだ皆さんと「世界が憧れるまち“小田原”」を目指し、いつか共にまちづくりを進めていくことを楽しみにしています。

結びに、本書の刊行を喜ぶと共に、執筆編集の労をとられた各位 に敬意と感謝の念をささげ、あいさつといたします。

令和4年3月

小田原市長 守屋輝彦

みなさんは、「生きる」とはどんなことだと思いますか? 私は、人が「生きる」ということは、地球環境や人間社会の中で、豊かに自然や人と関わり、自分らしく輝いていくことだと考えま す。そして、人が「生きる」ということは、連綿と続く歴史の中の貴重な一人として、より良い世の中を作り、歴史を次の未来へつな ぐことだと考えます。

みなさんが「生きる」力を ( つちか ) うために、この小田原の豊かな「自然」、産業や交通の盛んな「社会」、先人から受け継いだ「歴史・文化」と関わることを大切にして学んでほしいと思います。

この郷土読本「小田原」は、その学びの1つとして、授業でも扱いやすく皆さんが分かりやすいように、昭和 45 年から何度も改訂を重ね、まとめられています。よく読んでみると、今まで身近にありながら見過ごしてきたものに、その意味や奥深さを改めて感じることができるでしょう。身近な事物を見つめ直し、自分との関わりを再認識することを通して、この素晴らしいまち小田原で生きることの喜びを体全体で実感し、小田原に生きる誇りをもってほしいと願っています。

今回の改訂を経て、小田原市の小学校教員にも配付し、郷土読本の内容や背景を踏まえた学びづくりが実現されるようにしました。小学校での学習を踏まえ、仲間と地域について語りあい、響き合い、高め合っていくことを期待しています。

おわりに、この度の改訂にあたり、資料提供をしてくださった皆様、並びに指導・助言をくださった先生方のご厚意に対し、心から御礼申し上げます。

よりよい郷土の発展を期待して、序にかえさせていただきます。

令和4年3月

小田原市教育委員会教育長  栁下正祐

小田原市民憲章

わたくしたちは、黒潮おどる相模湾にのぞみ、海の香におう天守閣をあおぐ「小田原」の市民です。わたくしたちは、先人の残した文化を誇りにし、西湘の近代都市としての限りない発展に願いをこめて、ここに市民憲章を定めます。

  • 健康で明るい生活を大事にし、豊かな心をそだてましょう。
  • 元気で働くことを喜び、しあわせな家庭をきずきましょう。
  • 隣人と仲良くし、だれにもやさしく親切にしましょう。
  • きまりを守り、力をあわせ、住みよいまちをつくりましょう。
  • 緑と水を大切にし、平和な明日の繁栄につとめましょう。

第1章 郷土の自然

私たちの郷土は、足柄平野に酒匂川が流れ、古くから米作りが行われ、奈良・平安の時代から豊かな集落を作ってきた。その酒匂川は(あば)(がわ)とも呼ばれて洪水による被害も多かったが、人々の努力により今では用水路が整備され、整理された耕地が広がっている。自然と人との関わり合いは古くから積み重ねられてきた。そうした意味からも郷土の自然についてみていきたいと思う。

なお、2012年(平成24)に、箱根火山を中心に小田原市域も箱根ジオパークに認定された。

1 位置と面積

神奈川県は関東地方の南西部に位置し、北部は多摩丘陵と多摩川の下流部によって東京都と接し、北西部は丹沢山地があって山梨県に、南西部は箱根火山で静岡県に接している。そして、南に相模湾、東に東京湾をひかえている。私たちの郷土小田原は、神奈川県の南西部に位置し、古くからこの地域の中心都市として栄えてきた。

小田原市の位置 東京から南西へ約84㎞

東経 139度 9分 8秒
北緯 35度15分53秒(いずれも小田原市役所の位置)
(ミニ統計最新版より)

小田原の位置

市の西部には天下の(けん)といわれる箱根火山があり、これに続いて富士山がある。これらの地形は昔から東海道における最大の障壁(しょうへき)であり、軍事上関東を防衛するために重要な場所であった。そのため小田原は、かつて後北条時代には関八州に号令する要地であり、それ以後も明治になるまで、城下町として、また東海道五十三次の宿場町として大いに栄えた。

ところが、1889年(明治22)7月に全通した東海道本線が国府津から山北回りになったため、小田原は交通幹線からはずれ一時さびれた。しかし、1920年(大正9)10月に熱海線が小田原まで開通し、1925年(大正14)3月の熱海までの延長、さらに1934年(昭和9)12月の丹那トンネルの開通で東海道本線が熱海回りになり、昔のように交通の重要な拠点となった。今日の小田原は東海道線と東海道新幹線が止まり、小田急線と大雄山線と箱根登山線が乗り入れ、国府津から御殿場線が出ている交通の要所である。国際的観光地である伊豆・箱根の玄関口としても栄えている。

一方、道路交通の面からみても、国道一号のほかに、足柄平野北部には東名高速道路の大井松田インターチェンジをひかえ、さらに小田原厚木道路によって東名高速道路と直結し、東京・大阪の東西の大都市ときわめて短時間に結ばれている。

〔小田原から各地までの距離と時間〕
東海道新幹線こだま 東京駅まで 84㎞ 約35分
名古屋駅まで 282㎞ 約2時間5分
新大阪駅まで 469㎞ 約3時間15分
自動車
(大井松田インターから東名高速道路)
東京駅まで 76㎞ 約1時間
名古屋駅まで 280㎞ 約3時間45分
新大阪駅まで 471㎞ 約6時間30分

小田原市の面積 東西18.0㎞、南北16.9㎞で、面積は 113.60㎢(R3.1.1〜)であり、県下の市では横浜、相模原、川崎についで第4位の広さとなっている。

2 地形・地質

小田原のシンボル、白亜(はくあ)の天守閣に登って市内を展望すると、 三方を山に囲まれ一方を海に面し、中央に平野が広がり城の足元に市街地が広がっている。まさに城下町に適した地形である。

1 三つの地域

小田原の地形は、大きく東部・西部・中央部の三つに区分することができる。

東部

東部の丘陵地は曽我山とよばれ大磯丘陵の南西部にあたる。海側から、弁天山(190m)、高山(246m)、曽我山 (306m)不動山(ふどうさん)(328m)、浅間山(せんげんやま)(314m)と連なり大井町、松田町に続いている。

小田原市の地形分類
小田原の地形

曽我山と足柄平野との境界は急傾斜でしかもまっすぐである。理由は国府津―松田断層があるためで、その急斜面はミカン畑に利用されている。国府津―松田断層は世界的にみても活発な断層で、活動の歴史は約30万年前にさかのぼる。当時足柄平野だった場所で断層活動が始まり、平野の一部が地震のたびに持ち上げられた結果、曽我山になったと考えられている。曽我山西側の谷の中には国府津―松田断層にともなう多数の断層が見られる。御殿場線はこの急斜面に沿って通っている。

羽根尾の周辺では崖や切り通しなどで泥や砂の縞模様の地層を見ることができる。これは約70万年以前の海底に積もっていた堆積物である。上町(かのまち)周辺には厚い砂や(れき)(小石)の縞模様の地層が重なり、この礫を採石している砂利(じゃり)採石場があった。これらの地層は国府津―松田断層がまだ活動していない頃に、箱根火山や丹沢山地から川で運ばれてきた砂や礫が当時の海岸付近に堆積したものと考えられている。

中村川沿いや海岸沿いには中村原面とよばれる標高20mほどの台地が広がっている。台地の下には約6千年前(暖かかった縄文時代)の海岸付近の海でたまった貝化石を含む地層がある。この台地は海岸付近の平らな土地が国府津―松田断層による地震活動で持ち上がってできたものと考えられている。

西部

西部は箱根火山の外輪山の一部である明星ヶ岳(924m)、塔の峰(566m)、白銀山(しろがねやま)(993m)、聖岳(ひじりがたけ)(837m)、 星ヶ山(815m)の東斜面と、その山ろくにゆるやかに広がる軽石流堆積面からなっている。

外輪山は溶岩と火山砕屑物(さいせいぶつ)からできている。ここの溶岩は安山岩で、石材として採石している採石場がいくつかある。火山砕屑物は溶岩と溶岩の間に(噴火と噴火の間に)降り積もった火山灰などの地層である。軽石流堆積面は約8万〜4万年前の何度かの噴火で発生した火砕流(かさいりゅう)である。火山灰と軽石に火山ガスが加わって外輪山を流れ下り、山ろくをうめてなだらかな平らな地形を作った。その分布は諏訪(すわ)(はら)付近から北ノ窪(きたのくぼ)・府川・穴部方面、諏訪の原付近から久野丘陵・多古方面、水之尾付近から谷津丘陵・陸上競技場や県立小田原高等学校のある八幡山(はちまんやま)・小田原城のある城山方面、水之尾付近から星山・荻窪方面へと延びている。軽石流堆積面の上には、その後に噴火した箱根の中央火口丘からの軽石や富士山からのスコリア(黒っぽい軽石)などの火山砕屑物が降り積もってできた関東ローム層という赤褐色(せきかっしょく)の地層が見られる。久野の野菜やミカン畑などはこの土を利用して作られている。

一方、早川漁港より南の海岸は、白銀山、聖岳の東側の急斜面が海にせまり断崖をつくっており、夏は濃い緑、初冬は黄金に染まる一面のミカン畑が広がり、打ち寄せる波が岩にくだけ人々の目を楽しませている。早川漁港の他に石橋漁港、米神漁港、江之浦漁港があり、玉川、清水川、白糸川の河口近くに石橋、米神、根府川の集落がある。

中央部

中央部は足柄平野で、酒匂川が丹沢山地、富士山、箱根火山から運んできた砂や礫が堆積してできた扇状地(せんじょうち)状(扇子(せんす)を広げた形)の平野である。(せん)(ちょう)は南足柄市大口付近である。川の水は 伏流水(ふくりゅうすい)(川底にしみ込んだ水) となって小田原市のいたる所で湧き出している。飯泉、富水などは豊富な水量をうかがわせる地名である。

平野は一般的に平らであるが、細かくみるとその地形はかなり複雑である。北部には酒匂川による自然堤防やそれが崩れた砂礫(されき)(たい)があり、狩川や山王川や森戸川沿いには以前は川が流れていた低湿地がある。自然堤防とは川によって運ばれた礫や砂が流れのゆるやかな川岸にたまってできた高まりのことである。酒匂川は過去氾濫(はんらん)によって流れを変えてきたため自然堤防が現在の流れとは離れたところにもあり、しかも流れを変えたときに自然堤防が切られてできた砂礫堆という小高い地形が複雑に分布している。自然堤防や砂礫堆の場所は洪水でも水につかりにくく古くから集落があった所で、栢山、飯田岡、小台、桑原、井細田、扇町の一部などである。

鴨宮駅付近から酒匂川の東側の桑原方面にかけては鴨宮台地とよばれている、平野面よりやや高い台地が広がっている。ここには約2,300年前に富士山の東側で山が大きくくずれ、御殿場泥流が駿河湾や相模湾に流れ下ったときに足柄平野を覆った堆積物が残っている。なぜなら鴨宮台地が泥流発生以降に隆起したため、酒匂川によって侵食されなかったためである。

また、東大友から永塚、千代、高田付近にかけては平野面に対して高さ20mほどの千代台地がある。ここには約8万〜4万年前の箱根火山の軽石流堆積物と関東ローム層が酒匂川に浸食されずに残っている。曽我山の西側の急斜面には、曽我大沢や剣沢など、いくつかの沢が運んできた礫や砂が堆積してできた小扇状地が発達し、一部には天井川(てんじょうがわ)がみられる。そこは水はけの良さを利用して梅林になっている。曽我大沢、上曽我、曽我別所、田島、岡などの集落がそれである。

国府津から早川までの海岸沿いは藤沢から続いている相模湾のゆるやかな曲線をなす砂浜海岸が続き、国道一号はこれに沿って東西に通っている。

2 河川

小田原市を流れる主な河川は東から酒匂川、その支流の狩川、山王川、早川である。その他に大磯丘陵から中村川、森戸川。箱根火山から玉川、清水川、白糸川などがある。

酒匂川

この川はもと丸子川(まるこがわ)とも呼ばれていたようである。水源は富士山のふもとから鮎沢(あゆざわ)川、西丹沢方面の河川を集めた丹沢湖から河内川(こうちがわ)、足柄橋付近で丹沢からの皆瀬川(みなせがわ)、十文字橋付近で丹沢からの川音(かわおと)(がわ)、飯泉橋付近で箱根火山からの狩川などが合流して酒匂川となっている。延長45㎞で、小田原市内では足柄平野のほぼ中央を流れて、地域の人々の生活に欠かすことのできない大切な川である。

相模川と酒匂川の傾斜の比較

この川は急流であるため以前はしばしば洪水をおこし、平野部ではそのたびに流路を変え、土砂を押し流し人々を苦しめてきた。郷土の誇る偉人二宮尊徳も、いく度かこの洪水の苦しみと戦いながら成長した。平野の北部の開成町に、金井島、千津島、牛島、吉田島などの島のつく地名が多いが、大洪水の時につくられた自然堤防につけられた地名である。酒匂川の流れが今日の流路に固定されたのは、江戸時代初期の大久保忠世(ただよ)忠隣(ただちか)二代による大規模な治水(ちすい)工事によるものである。それは大口に春日(かすが)(もり)(づつみ)()()()(づつみ)(文命西堤)、大口堤(文命東堤)の三つの堤防を築き、堤防からは用水路を作って灌漑(かんがい)がなされたため、足柄平野は良質の米を生産する穀倉地帯になった。1707年に富士山の宝永噴火で多量に降ってきた火山灰などによる泥流が発生し、堤防が決壊したが、田中(たなか)(きゅう)()蓑笠(みのかさ)()(すけ)によって修復されたことが歴史に残っている。

1974〜1978年(昭和49〜昭和53)に県の第三次総合計画により、県内の上水道の水源確保のため、上流の山北町に貯水量5,450万㌧の三保ダム(丹沢湖)が築かれ、下流の飯泉に1日 180万㎥の取水堰がつくられた。

早川

源を芦ノ湖に発し、仙石原、宮城野を過ぎ、湯本で須雲川を合わせ、相模湾に注ぐ。長さは約30㎞。箱根の渓谷美をつくっているが、急流のためかつてはしばしば下流の地域に水害をもたらした。今では、早川・大窪地区の灌漑用水として利用されている。また江戸時代にこの川の水を湯本から取り入れた荻窪堰は有名であり、この水は(しぶ)(とり)(かわ)となって山王川に合流している。

山王川

箱根外輪山の明星ヶ岳の東斜面から出て、久野、扇町を経て河口付近で渋取川を合わせて東町で相模湾に注いでいる。長さは約9㎞。扇町より上流を久野川とよぶこともある。

3 海底の地形

相模湾の海底地形図を見ると、湾の東半分は海底線に沿って遠浅であるが、西の方は急である。小田原から西側は特に急傾斜している。このため、小田原付近の海岸は急深で、沖からの大きな波が直接海岸に押し寄せる。

海底には北西から南東に約1,600mに達するくぼみが走り、外洋に続いている。これが相模トラフで、陸上の国府津―松田断層線につながっている。

相模湾の海底地形

4 小田原市とその周辺で産出する石材

本小松石

 星ヶ山付近から(いわ)にかけて数か所から噴出した箱根外輪山溶岩の一部で輝石(きせき)安山岩。岩質はち密でかたいので、おもに高級墓石に利用される。真鶴方面や湯河原方面にたくさんの石切場(昔は(いし)丁場(ちょうば)といった)がある。江戸城の石垣に使われた。

新小松石

真鶴半島をつくっている箱根外輪山溶岩の一部で輝石安山岩。本小松ほど高級ではないが、灯篭(とうろう)や建築材料に多く用いられ、真鶴半島一帯の各所で採石されていた。この石も江戸城の石垣に使われた。

根府川石

箱根外輪山溶岩の一部で輝石安山岩。板状で産出するので「へんこ」とも呼ばれる。白糸川中流の高度340m付近から流出したものといわれている。庭の敷石や石碑などによく利用される。根府川一帯で採石されているが、最近は少なくなった。

富士小松石

箱根外輪山溶岩の一部で輝石安山岩。板橋地蔵が建てられている富士(ふじ)(やま)(小田原城の出城があった所)に見られる。多くは墓石などに用いられた。

白石(しらいし)

湯河原の白石丁場(ちょうば)といわれている石切場から採石される白っぽい安山岩。建築石材に使われた。日本銀行本店や神奈川県立歴史博物館に使われている。

久野石

箱根火山の火山礫凝灰岩(凝灰岩は火山灰がかたまった石)。久野川上流(山王川の上流部)の渓谷で見ることが出来る。火に強いので、(くら)やかまどに使われた。

かまど石

入生田(いりゅうだ)や風祭付近に見られる溶結(ようけつ)凝灰岩(ぎょうかいがん)。火砕流の熱と加重によって、火山灰の中の軽石が、紡錘形(ぼうすいけい)のガラス玉のようになっている。灯籠やかまどに使われた。

5 足柄平野の伏流水と井戸

 足柄平野は、扇状地性の平野であるため、水を通しやすい粒の大きい砂や小石からできている。そのため、地下には大変質の良い地下水が多量に流れている(伏流水)。多くは酒匂川と川音川の水が河床から浸透したものであるが、水田に引かれた灌漑(かんがい)用水の浸透もある。酒匂川中流域からは箱根火山から流入する地下水もあるし、曽我山の急斜面からも箱根ほど多くないが一部流入している。

上流域の山北町、松田町、大井町、南足柄市、開成町などでは、浅い層の地下水を浅井戸などでくみ上げているが、中流域の西大井、曽比あたりからは、主に泥岩からなる水を通さない地層を掘り抜いて、深い層から掘りぬき井戸で噴き出させている(自噴域)。富水地区では、1.5mもの高さに噴出しているところもあったが、工場や住宅が増加して地下水を多量に使用したため噴水量が減っている。2007年(平成19)に富水駅前で小田急電鉄の協力で小田原市が掘りぬき井戸を掘り、井戸水の噴出しを再現した。小田原市の水道水は酒匂川の流水の他に地下水を使用しているので、四季を通じて水温の変化が比較的少ない。

足柄平野の自噴域
(「小田原市史 別編自然」を一部改訂)

現在の湯坂道
(「小田原市史 別編自然」を一部改訂)

3 大地の成り立ち(地史)

今まで述べてきた地形が、全体としてどのような順でどのようにつくられてきたのかを考えてみよう。そのためには、各地の地形のできた時代、地質などの比較が必要である。またその際に、地球全体のことも考えに入れていかなければならない。

日本列島周辺のプレート・地震分布と火山帯
(酒匂川第41号 酒匂川水系保全協議会)

1 小田原周辺

地球の表面は十数枚のプレートと呼ばれる硬い岩盤でおおわれている。その動きはそれぞれのプレートで異なり、地球上の火山活動や地震活動といった地殻変動が盛んな場所の多くが、このプレートの境目にある。日本列島周辺ではせまい地域にいくつものプレートの境界線が通っているため、火山が多く地震の発生も活発で、地殻変動の盛んな場所となっている。この境界線の一つが、国府津―松田断層という活断層として小田原市内を通っていて、地震の発生が心配されている。

また、小田原市西方にある箱根火山は富士山とともに東日本火山帯に属する火山である。これは太平洋プレートが北アメリカプレートの下に沈み込むことによってできた火山であると考えられている。

南部フォッサマグナ地域の地質図
(垣見他、1982より修正)(酒匂川第41号 酒匂川水系保全協議会)

下の図は海洋プレート(海側から押してくるプレート)が沈み込むことによって、深いところで、陸のプレート(大陸の沈み込まれるプレート)の岩盤が一部溶けてマグマになって上昇して火山ができたり、沈み込んだ時の陸のプレートのひずみがはじけて地震が起きたりするようすを表している。

プレート:厚さ約数100㎞、アセノスフェア:厚さ約数100㎞の流動的な層

東北地方の東西方向模式断面図
(酒匂川第41号 酒匂川水系保全協議会)(酒匂川第41号 酒匂川水系保全協議会)

日本列島の今日の姿もプレートの動きによるもので、プレートの動きを過去にさかのぼれば、どのように大地ができてきたのかを考えることができる。

小田原周辺の大地の成り立ちは次のように考えられている。

約1,700万年前には丹沢山地も伊豆半島も南の海でできた火山島であったが、フィリピン海プレートに乗って北へ移動してきた。

約500万〜300万年前、関東山地の乗った北アメリカプレートあるいはユーラシアプレートに丹沢地塊を乗せたフィリピン海プレートが沈み込み、衝突した。

約250万〜60万年前、丹沢が付加(ふか)(付け加わる)した北アメリカプレートに伊豆地塊を乗せたフィリピン海プレートが沈み込み、その間の深くなった海に礫や砂や泥が堆積した。やがて伊豆地塊は衝突して伊豆半島となり、海に堆積した礫や砂は次第に隆起(りゅうき)(土地の上昇)して足柄山地を作った。この時小田原付近も陸地になった。足柄山地の地層は貝化石を含み、また、溶岩が貫入して(流れ込んで)できた火成岩体や多数の断層があるなど激しい地殻変動を反映している。

小田原周辺の大地の成り立ち
(小田原の自然)

約40万年前に足柄山地の南側で火山活動が始まり箱根火山が形成された。

現在フィリピン海プレートは海底では相模トラフ*と駿河トラフで沈み込んでいる。相模トラフの延長は国府津―松田断層という活断層に続いているため、断層の南西側の足柄平野では沈降(沈み込むこと)、断層 に接した曽我山を含む大磯丘陵では隆起(盛り上がること)が続いている。

小田原を含む伊豆・箱根、 丹沢地域は景観の素晴しい所である。それはプレートがぶつかり合う地殻変動の最前線だからである。島が付加する大きな変動は、地球規模で見ても小田原付近の他にはインド地塊が付加したヒマラヤ山脈付近と、カリブ海プレートの島が付加したコロンビアからパナ地峡付近だけである。これからもここは地震やそれに伴う津波、火山の噴火などが予想されるので防災意識を各自がしっかり持つことが必要である。

*トラフ:細長の海底盆地

2 箱根火山

約40万〜23万年前までの間にいくつもの成層(せいそう)火山や(たん)(せい)火山ができた。

約23万〜13万年前までの間に何度も大きな火砕流(かさいりゅう)が流れ出し、カルデラ(火口)と外輪山ができた。湯本付近から東回りに、明星ヶ岳、明神ヶ岳、金時山、乙女峠、丸岳、長尾峠、湖尻峠、三国山(みくにやま)山伏峠(やまぶしとうげ)海ノ平(うみのだいら)、箱根峠、大観山(だいかんやま)白銀山(しろがねやま)などがそれにあたる。外輪山のすそ野では引き続き小さな火山が次々に噴火していた。真鶴(まなづる)半島も幕山(まくやま)もこの時に噴火した溶岩で出来ている。

約13万〜8万年前までにカルデラ内に浅間山(せんげんやま)鷹巣山(たかすのやま)屏風山(びょうぶやま)などの古い中央火口丘が出来た。

約8万〜4万年前には爆発的な噴火を繰り返した。特に約6万6千年前には大規模な火砕流を起こす噴火があり、南関東一円に東京軽石と呼ばれている軽石を降らせ、火砕流は外輪山のふもとに軽石流堆積面を作った。

約4万年前から現在は、カルデラの内側に粘り気のある溶岩を噴出して、神山(かみやま)駒ケ岳(こまがたけ)二子山(ふたごやま)などのドーム型の新しい中央火口丘を作った。

約3,000年前には、神山の一部がくずれて、早川の上流をせきとめ、芦ノ湖ができた。

約2,900年前には、冠ヶ岳(かんむりがだけ)ができた。今でも大涌谷(おおわくだに)で噴気活動が続いている。

箱根火山の成り立ち
(日本地質学会「箱根火山たんけんマップ」2007を一部改訂)

4 気象

小田原は明治から昭和初期にかけて、保養地として多くの知名人に愛された。これには小田原が東京に近い、自然が美しい、新鮮な魚やミカンなどの海や山の幸に恵まれていることなどがあげられるが、そのもっとも大きな原因は、温暖な気候にあると思われる。

1 気温と降水量

小田原は三方を山地に囲まれ、南に相模湾をのぞんでいるので、黒潮の影響をうけて温暖で雨が多い。

年平均気温は15度前後で東京とほぼ同じだが、これを季節的にみると夏は東京より涼しく、冬は東京より暖かい。このような温暖な気候は年間を通じて生活しやすいばかりでなく農作物の栽培にも欠くことのできない条件になっている。ミカン、梨、梅など小田原を代表する果実もこの自然の恵みを受けている。

このような気候によって、昔は小田原周辺の平地や丘陵の地表は暖帯性の樹木や草でうっそうとしていたと考えられるのだが、近年開発が進み、自然林はほとんど見られなくなった。

このような中で自然林に近いものが見られる所は、城址公園や小田原高等学校周辺を含めた城山公園の林(これらは県の天然記念物)、前川の近戸神社や入生田(いりゅうだ)長興(ちょうこう)(ざん)そして早川の紀伊(きい)神社の境内の林(これらは市の天然記念物)などである。そこには、高木としてシイノキやタブノキ、シラカシやアラカシなどが育ち、中低木としてヤブツバキ・アオキ・シロダモが、下草としてシュンラン・ヤブランそしてベニシダ・イノデなどのシダ類が成育している。これらの植物は暖帯の自然林の植物で、照葉樹の森のおもかげがしのばれるものである。高さが700mをすぎた久野丘陵上部では、箱根から続く落葉樹やモミの木を中心とした温帯性の植物が見られる。

気温と降水量

・ 平成27年12月31日までの最高気温は2011年(平成23)8月18日の36.6℃、
最低気温は1984年(昭和59)2月7日の-8.0℃。
・この期間の年平均気温は15.5℃、年平均の総降水量は1974㎜。

湿度は年平均70%で、特に夏は高く冬から春先にかけては低い。夏になると梅雨と台風のために湿度が最高となる。秋から冬にかけては、北または北西の季節風が強く吹いて乾燥し、太平洋岸式の特色を表している。年間の雨量は2,000㎜を超えわが国でも多い方である。これは、小田原が海に面し三方が高い山になっていることが大きな原因である。ハコネシケチシダ、ドウリョウイノデなどのように、この地方の名のつくシダ類の多いのも、箱根を含めたこの地方が、温暖な気候に加えて、わが国の中でも多雨・多湿の気候であることと関係があると思われる。

神奈川県の平均気温分布図(1981年〜2010年)

神奈川県の平均降水量分布図(1981年〜2010年)

2 風向と風力

わが国は、アジア大陸の東端にあるので、夏は太平洋からアジア大陸に向かい、冬は大陸から太平洋に向かう季節風の影響を受けている。小田原付近の風向もこの季節風に大きく左右されている。

しかし、風向は地形地物によって影響されやすい。西に箱根火山、北に丹沢山地、東に大磯丘陵をひかえ、南に相模湾をのぞむこの地方では、川沿いの地域、山沿いの地域、海岸地域などでかなり変化が見られる。さらに季節・時刻によっても違う。

山王川の上流(久野川の渓谷)や早川の谷間の地域では、夏の快晴の日には、箱根外輪山の斜面に沿って吹き上げる谷風と呼ばれる風が起こる。夕方まで吹き、日が沈んでしばらくすると逆に吹き降ろす山風と呼ばれる風が起こる。夏は相模湾から吹き上げる多量の湿気で、箱根火山の上は白雲におおわれていることが多い。冬は明神、明星や白銀山が雪化粧している時は、身を切るような寒さを感じる。

平野部では、冬は北からの風が強く吹き、夏は南からの風が多い。冬から春先にかけて吹く風のうち、その風速の強いものは「箱根おろし」といわれている。ちょうど湿度の低い時期でもあるので、山火事などをふくめた火災には厳重に気をつける必要がある。

海岸地区では、一般に南よりの風が多い。晴天の日は、日中は海から吹き、夜間は海上に向かって吹く。この変わり目、つまり日出後しばらくと日没後しばらくは無風状態となる。これを、朝なぎ夕なぎという。海陸風の続いているときには好天が多い。総じて言えば、小田原付近は神奈川県全体で見ると強風の少ない地域といえる。

天気についての経験は、ことわざのようにまとめられ、数多く伝えられてきている。

○箱根山がよく見えれば明日は晴
○松田山・曽我山が見えなければ雨になる
○丹沢の大山に雲がかかると雨か風になる
○ツバメが低く飛ぶ時は雨が近い
○夕焼けが赤銅色なら明日は風が出る
○月や太陽に笠がかかると天気は下り坂
○春は海、秋は山が晴れていれば天気が続く 
○朝虹は雨、夕虹は晴のきざし

3 温暖化による環境への影響

世界各地でヒートアイランド現象(アスファルト舗装、ビルの輻射熱(ふくしゃねつ)、冷房や車の排気熱などで夏に周辺より気温が高くなる現象)や地球の温暖化が原因と考えられる気温上昇がみられるが、小田原でも9年ごとの平均気温を比べてみると1980〜1988年までの平均気温は14. 7度、1989〜1997年までの平均気温は15.4度、1998〜2006年までの平均気温は15.5度、2007〜2015年までの平均気温は15. 7度と次第に上昇している。

温暖化による環境への影響は異常気象や生態系の変化などさまざまあるが、中でも深刻なのは気温上昇にともなう海水面の上昇であり、その結果陸の低地が水没することである。現在のような人為的な温暖化ではないが、約6,000年前の縄文時代には神奈川県沿岸の海水温もおよそ2度上がったため、4mの海面上昇による海進が起こり、中村川沿いの谷や足柄平野の内部に3㎞海が入り込んだ。この時期の海進を「縄文海進」とよんでいる。橘地区の小船、船原付近に貝の化石が崖一面に見られるのは、この時期にここまでが中村湾だったからである。ここを古中村湾とよんでいる。

その後国府津―松田断層によって約20m隆起し、現在崖になっている。この付近には貝塚も発見され縄文人の生活を感じさせる。

現在問題になっている、人間の活動に伴う二酸化炭素をはじめとする温室効果ガスの影響による温暖化も、やがて海岸沿いに広がる市街地を水没させてしまう可能性がある。温暖化防止の意識を各自が持って人為的な温暖化はぜひとも防ぎたいものである。

6,000年前の神奈川の大地
神奈川県立生命の星・地球博物館「+2℃の世界」(2004)

第2章 郷土の歴史

現在、私たちは、人間を宇宙空間へ頻繁に送ることができるほど、成熟した社会に生活している。しかし、ここに至るまでには、人類の長い歴史があり、そこには、いろいろな変革や進歩があったからこそ、このような偉業も成しとげられたはずである。私たちは、現在をよりよく知るために、過去を訪ねることが必要である。これから、私たちの郷土がどのような歩みをしてきたのかを、日本史との関わり合いの中で明らかにしていきたいと思う。

1 小田原のあけぼの ―旧石器・縄文・弥生―

大昔、私たちの祖先はいったいどんな生活をしていたのであろうか。今からおよそ1,600年ほど前までは、文字を使っていなかったので、文字記録は残っていないが、日常使った道具や、住居の跡・食糧としたものの一部などを残している。これらのものは、長い年月地中に埋まっていたが、後の世になり、土地を掘り、出土した遺物を調べて研究を進めた人々の努力により、今では、大昔の人々の生活の様子が、だんだんと明らかになってきた。このように、いろいろな遺物や遺跡を調べて、大昔の様子を研究する学問が考古学である。

大昔から紀元3世紀までを、この考古学にもとづいて時代区分すると、次のようになる。
紀元前13,000年頃(およそ15,000年前)に日本列島に住んでいた人々は、石器や木器などを道具として生活をしていた。まだ、土器の製法を知らなかったこの時代を旧石器時代とよんでいる。

千代吉添遺跡での調査風景

次に、紀元前13,000年頃(およそ15,000年前)より、新しく生活の中で土器を使うようになった。土器の表面に縄を転がしてつけた文様(縄文)がつくことから縄文土器を使用した時代ということで縄文時代とよばれている。この時代は、地域により異なるが、今からおよそ2,300年前頃(紀元前3・4世紀)まで続いたようである。

紀元前7~6世紀頃になると、大陸から新しい文化が西日本に伝わってきた。金属器の使用や、米づくりの技術をもち、さらに縄文土器とは異なった土器をもつこの文化は、やがて日本中にひろがってゆき、紀元後3世紀頃まで続くのである。縄文土器とはちがった種類の土器が、東京の本郷(ほんごう)向丘(むかいおか)弥生町(やよいちょう)からはじめて発見されたことから、この時代を弥生時代、土器を弥生土器とよんでいる。

1 狩猟と採集の生活

旧石器の発見

1949年(昭和24)群馬県の岩宿(いわじゅく)(現みどり市)で、赤土の中から石器が発見された。この石器の発見は、日本に縄文文化よりさらに古い文化をもった人々が、生活していたことを明らかにする重要な発見であった。それ以後、赤土の中の石器発見に関心が集まってきた。赤土の中からみつかった石器は旧石器とよばれ、すべて打製石器である。旧石器時代は今よりも冷涼な気候で、動物を求めて集団で移動を続ける狩猟や植物の採集が中心の暮らしだった。この時代の出土品は、市内では石器以外は確認されていないが、当時は動物の骨を加工した道具やアクセサリーをはじめとする多様な生活道具があったはずである。

小田原城跡八幡(はちまん)山古(やまこ)郭本(かくほん)曲輪(くるわ)で出土したナイフ形の石器は、ヒトが作った道具としては小田原では最も古いもので、3万年前までさかのぼる可能性があると考えられている。箱根産の黒曜石を用いて、ガラスのように鋭利な刃がつくられている。黒曜石はかたく、また動物の皮などをはぎとるのに便利であったので、当時は利用価値の高いものであった。黒曜石はどこにでもあるというわけでなく、箱根山中では須雲川に産出するので、それを求めて当時の人々がそこに入り込んだのではないかと考えられる。短い期間のためか、住居の跡や炉など、生活の様子を示すものは何も発見されていない。また、小田原城跡御用(ごよう)(まい)曲輪(くるわ)から出土した石核は、石器を作るための石を割り取った残りの部分であるが、この石は緑色(りょくしょく)(さい)(りゅう)凝灰岩(ぎょうかいがん)(「丹沢石」とも呼ばれる)といって、おそらく酒匂川の河原から運んできたものであろう。石器に使われる石材には一定の傾向があるので、当時から良い道具を作るために良い材料を求めてあちこち探していたことがわかる。

旧石器時代ナイフ形石器
(八幡山古郭本曲輪第Ⅰ地点(小田原市城山)より出土)

縄文土器

土器の製作技術をもたず、石器や木器などを利器とした旧石器時代は、やがて紀元前13,000年頃より、新しく土器を伴う縄文時代へと移っていく。近年、縄文時代と呼ばれる時代が「未開で未発達」あるいは「貧しい狩猟採集民」であるというイメージを覆す発見があいついでいる。

縄文時代になると、定住のあかしであるムラもできて、こうした暮らしの中で盛んに縄文土器が作られるようになる。縄文時代は紀元前13,000年前から、約1万年という極めて長い期間続いたので、ひとくちに縄文土器といっても、時期や地域によって、様々な形や文様があるものの、その中にも一定の傾向があるので、土器を見ると、どの地方のいつの頃のものかがわかる。

勝坂式土器
(久野諏訪ノ原遺跡群より出土)

関山Ⅰ式土器
(羽根尾貝塚より出土)

この頃、世界ではいわゆる四大文明が起こり、栄えていく時期である。四大文明にあって縄文文化にないもの。それは農耕である。しかしこの頃の日本列島は、およそ15,000年前に気候が温暖化し、豊かな森が増え、四季が明確に移り変わっていく環境へと変化していった。農耕という選択肢を持たずに、狩猟・漁労(ぎょろう)・植物採取による持続可能な社会を形成していたと考えられる。

諸説あるが、エジプトやメソポタミアの土器が生まれたのが 9,000~1万年ほど前であるのに対し、縄文土器は15,000年前にはすでに作られており、世界で最も古い土器のひとつである。

羽根尾貝塚(小田原市羽根尾)は、今から5,750~5,350年前の縄文時代前期につくられた貝塚と泥炭層からなる遺跡であるが、ここから出土した土器は、表面に大変細密な文様が施されているものが多い。出土した関山Ⅰ式土器は大変美しい土器であるが、出土した時には分厚いおこげが付着しており、飾って鑑賞するのではなく日常生活に使われる土器だったと考えられる。縄文時代の初めに見られる、底がとがった土器は何とも不安定に思えるが、当時の人々は、この土器を住居の中央部にある炉の端にいけこみ、まわりを小石で囲み、火をたき、煮炊(にた)きに利用していた。したがって、土器の下の部分より中央部の方がよくこげている場合が多い。また、中には、よく見ると赤漆が塗られた土器もある。日本文化を代表するものの一つが漆製品だが、すでに縄文人たちは漆を使いこなしていたことや、色に対しても特別な美意識をもっていたことは大きな驚きである。

なお、縄文土器は、はじめはとがった底や丸底であったが、やがて平底で、安定性のあるものに変わり、煮炊きから貯蔵用にと、広く活用されるようになっていった。

およそ6,000~4,000年前の縄文時代中期になると、土器は文様が立体的でダイナミックなものが多く見られる。基本は勝坂式のように深鉢形をしているが、中には釣手土器のような独特の形のものが認められる。

およそ4,000~3,000年前の縄文時代後期になると、形や文様がすっきりした端正な感じのものが多くなってくる。また、これまでどおりの深鉢形のものに加えて、皿のような浅鉢形や急須のような形をした注口土器なども数多く見られるようになった。土器と同じように、ねん土でつくった人形のようなものが見つかることがまれにある。これは土偶(どぐう)といって一般的には女性をかたどったとされるものであり、当時の人々が、豊かで平和な生活を祈るために用いたものらしい。

縄文土器
いろいろな道具

縄文時代のムラの跡や貝塚などからは、当時の人々の生活用具が数多く発見されている。土器のほかに、石を加工して作った石器、動物の骨や角などを材料として作った骨角器など、すべて当時の生活用具である。石器は、旧石器時代からの打製石器に加えて、縄文時代になると、表面のよくみがかれた石器が使われるようになる。これを磨製(ませい)石器という。

小田原市とその周辺における主要遺跡編年表

石鏃(せきぞく) ― 小型で矢の先や(もり)の先につけたもの
石槍(いしそう)(やり)の先につけたもの
石斧(せきふ) ― 打製・磨製の2種類があり、(おの)・のみ・土掘り具などとして使われたもの
石匙(いしさじ) ― 石のナイフ
石錘(せきすい) ― 石の(おもり)で漁労に用いたもの他に石皿・石棒・凹石などもある。

また、骨角器には、(こつ)(ぞく)(こつ)(ばり)(ほね)(べら)・銛・(かぎ)(ばり)などがあり、漁労と関係の深い道具が多くみられる。

竪穴住居

縄文時代の人々の住居は、どのようなものであっただろうか。初めの頃は、自然の洞窟(どうくつ)や岩陰に住んでいた。その後、ムラがつくられ、人々は竪穴(たてあな)住居(じゅうきょ)に住むようになる。この住居は、地表を深さ数10㎝掘りさげたものが一般的で、柱を何本か立て屋根は草や土などでふいたものが普通である。発掘調査でみつかるこの住居の平面の形には2つの種類があり、1つは隅のまるい長方形のもので、他は円形に近いものである。家の平面の直径はおよそ5mくらいのものが多く、いずれの形のものでも床の中央部に炉が存在するものが多い。当時の人々にとって炉は生活上重要な役目をもっていた。夜間の照明になったことはもちろん、保温や、湿気をとり除くこと、食生活での煮炊(にた)きをする場所でもあった。

南関東地方を中心に、山梨県・長野県などにかけて、床に河原石や平石を敷きならべた住居の跡がよく発見される。これを敷石(しきいし)住居(じゅうきょ)と呼んでいる。これは縄文時代中期から後期の頃にさかんに造られた。小田原地方でも敷石住居の跡がみつかっている。久野北側下遺跡をはじめ、16例の出土事例があり、様々な形のものがある。立石のあるものや敷石の上で火を使用した例があり、屋内祭祀や住居廃絶時の儀礼が存在した可能性が考えられている。

羽根尾貝塚

縄文時代の人々は、狩猟・漁労(ぎょろう)・植物採取で食べ物を得ていて、これは、旧石器時代の生活とほとんど変わっていない。人々の毎日の食事の食べ残りは、住居の近くにまとめて捨てられた。貝がらや、魚や獣の骨などはもちろんのこと、人々の使用していた土器の破片や石器なども同じ場所に捨てられた。これらは、長い年月の間に地中に埋もれてしまった。1877年(明治10)アメリカの動物学者モースが、東京の大森貝塚を初めて発掘してから、各地でたくさんの貝塚が発見されている。貝塚は、当時の人々の食生活や活動の様子を知るうえで重要な遺跡である。羽根尾貝塚は小田原市内で発見された唯一の貝塚であるとともに、縄文時代の泥炭遺跡として、これまでのところ神奈川県では類例のない希少な遺跡として知られている。貝塚は大磯丘陵から派生する標高が24mほどの丘陵先端にある。狭い尾根の斜面に立地し、現在の海岸線から1㎞ほどのところにあるが、7,000~5,000年ほど前は、「縄文海進」とよばれる海水面が現在より数m高い時代であり、羽根尾貝塚の近くまで海水のまじった水域が広がっていた。

羽根尾貝塚出土品

2 水田耕作と金属文化の伝来

新しい文化のおこり

1万年以上もの長い期間続いた縄文時代も、紀元前6世紀頃より新しい弥生時代へと移っていく。いずれにせよ、コメ作りを中心とした農耕社会が始まる。弥生時代は、紀元前3世紀頃(最近の研究では紀元前900年頃とも言われるようになってきている)から紀元3世紀頃まで続いた。

小田原地方が、弥生文化の伝わった西日本の地とは地理的に離れていることや、縄文文化の伝統の強い南関東にあったことなどから、弥生文化が縄文文化ととけ合って当地方に入ってくるのには、かなりの年月がかかったと考えられており、小田原地方の弥生時代の遺跡も、弥生文化の伝わり方と関連して、ほとんど中期・後期のものに限られている。(前期もわずかにある)

弥生土器

弥生時代は縄文時代よりはるかに短いが、この時代に使われていた土器も大変変化に富んでいる。弥生土器には、大きく分けて3種類のものがあり、その第1は(かめ)の形のもので、主に煮炊き用として使われた。次が(つぼ)といわれる形のもので、貯蔵用として使われた。もう1つは高杯(たかつき)という高い足が付く椀形のもので、主に食事の際に食べ物等を盛る(きょう)(ぜん)(よう)として使われた。元来は木製であったものが土器として作られるようになったものである。

弥生土器

弥生時代中期の遺跡としては、紀元前2世紀後半ごろに出現した中里遺跡がある。中里遺跡の土器で注目されるのは、縄文文化の伝統を引き継いでいるかのような地元の土器に混じって、瀬戸内海東部の弥生土器が出土していることである。壺、甕ともに形や文様が地元の土器と大きくことなっていることがわかる。100軒近い竪中里遺跡出土品穴住居のほか、集落の中心には神殿らしき大型掘立柱建物も見つかっている。集落の作り方なども、農耕(稲作)を取り入れ、そこから生まれた祭祀のスタイルも瀬戸内海東部などの西方からやってきた弥生人たちの影響がうかがえる。

橘中学校の校地内で見つかった羽根尾(せき)(うえ)遺跡の弥生土器は中期の最後の頃のものだが、壺や高杯の文様は、縄文だけの簡素なものとなっている。この弥生土器が出土した同じ住居跡から、大変珍しい鳥形土器も見つかっている。弥生時代には信仰の対象として鳥を銅鐸に描いたり木で形作ったりしていたが、土器の例は大変珍しい。

中里遺跡出土品

金属器の登場

新しい弥生文化の特色の一つは、青銅器や鉄器などの金属器が使われるようになったということである。それ以前の縄文時代では、石器がもっとも鋭い道具であった。

世界の歴史をみると、一般に石器時代から青銅器の時代へ、さらに鉄器の時代へと移るのであるが、日本の場合は少し異なっている。大陸から金属器の文化が入ってきたときは、すでに青銅器の文化と鉄器の文化が交じり合っていた。

青銅器には、銅剣・(どう)(ほこ)銅鐸(どうたく)などがあり、銅剣・銅鉾は北九州を中心に、銅鐸は近畿地方を中心に多く発見されている。銅は鉄とくらべて細工がしやすく、祭などの飾り用具に多く使われたほか、多量に必要となる狩猟用の矢尻に使われた。鉄はその固さを活かして農具とか武器として使われた。銅は鋳造、鉄は鍛造で製品が作られることが多かった。鉄の刀物の発達は、木器の製作を容易にした。この頃の木器としては、(くわ)(すき)()(ふね)田下駄(たげた)(きね)(うす)などの農具が多く作られたが、(はち)(わん)高杯(たかつき)杓子(しゃくし)(さじ)などのほか、機織(はたおり)()などの大きなものも作られている。

小田原地方でも、府川の諏訪の前遺跡から、(どう)(ぞく)5点と鉄鏃1点が発見されたという報告がある。それによると、銅鏃は全長3.6㎝、茎の長さが1.3㎝のものである。鉄鏃はかなりさびついていたが、大きさは全長4.8㎝、幅2.3㎝の大きさのものであり、ともに弥生時代末期のものである。

木器としては、弥生中期の遺跡である中里遺跡から()(つち)と鋤の半分が出土している。木器の頭部は(しい)で作られ、長さ13.2㎝あり、柄の部分は檜で、3つに折れている部分をつなぐと19.7㎝もある。また、鋤の頭部も椎あるいは樫のような固い木で作られていて、長さ10.2㎝、厚さは刃の部分で8㎜ある。

稲作

稲作技術の伝来は、人々の生活に大きな変化をもたらした。米作りの始まりによって、人々は食料を安定して得られるようになり定住化を一層進めることになる。同時にそれは土地や富をめぐる争いも生んだ。

小田原地方に住んでいた人々も、米作りに適した湿地帯のまわりに生活の場を移していった。それを裏づけるように、弥生時代の遺跡や遺物が、酒匂・小八幡・中里・高田・千代・永塚などの足柄平野東部の平地に多くみられる。

北ノ窪の小原遺跡からは、1962年(昭和37)の発掘調査の際、多量の炭化米が発見されたと報告されている。

米作りには、いろいろな農具が使われた。その大部分は木製農具であり、小田原においても前述の中里遺跡からの木槌や鋤、さらに、曽我病院内の遺跡からは、水路施設の一部と考えられるものまでみつかっている。千代台周辺の土地から、米の収穫のときに使われた田舟や田下駄などの用具が発見されている。

さらに、住居は竪穴式のほかに、平地に家を建てる平地式のものが現れるようになり、収穫した米を貯蔵する高床式の倉庫なども造られたようである。

縄文人と後に移動してきた弥生人は、米作りを通して、いくつかの家族が集まり、小さな集団をつくってとけ合っていき、新たな日本列島人を生みながら生活をはじめた。これが「ムラ」のおこりであり、やがて、ムラは、力の強いものに統合されて「クニ」へと移り変わっていった。この統合は西日本から進み、やがて関東をはじめとする東国の地に及んでいくのである。

2 古代の文化 ―大和・奈良・平安―

水田耕作を主体とする新しい文化は、日本列島の人々の生活を変えただけでなく、社会の仕組にも大きな影響を及した。

日本の各地方には小さなクニができ、それらが大和に発生した強い勢力である大和政権によって、3世紀後半から4世紀初めにかけて、次第に統一されていったのである。それは、小国を支配していた豪族たちを、新たに氏姓制度という仕組の中に組み入れた国家であった。

国内の統一を成しとげた大和政権は、たえず、大陸の文物を取り入れていった。7世紀に入ると、豪族の争いが起こったので、大和政権は、新たに天皇を中心とする強力な統一国家を造ろうとして 645年(大化1)大化の改新を断行した。それは、唐の政治の仕組にならった律令制度の国家を築く大改革であり、その結果として710年(和銅3)奈良に壮大な平城京が造られる頃にその成果が表れた。その後70余年間を奈良時代という。貴族によって生まれた華やかな天平文化は、「咲く花の匂うが如く」といわれ、奈良の都を中心として栄えたが、それとは裏腹に東国に対する支配が強まり、東国農民の負担は重いものであった。

8世紀の中頃になると、早くも律令政治にいくつかの矛盾が生まれ、もはや平城京は、貴族や僧侶の政権をめぐる争いの場となったので、794年(延暦13)、都は京都に移され、政治の立て直しが図られたのである。この都を平安京といい、これから約400年間、鎌倉幕府が始まるまで、貴族を中心とする政治が繰り広げられた。

このような古代日本の歴史の流れの中で、大和を遠く離れた東国の地、わが郷土にはどのような生活が展開されていたのであろうか。

1 久野の円墳と田島の横穴基

水田耕作の技術が箱根・足柄の山を越え、小田原周辺の人々に定着したのが紀元前後の頃とすれば、大和政権の全国統一の事業が始まる3~4世紀頃まで、遠く離れた東国の地では、まず、中央の政治勢力とは無関係に村づくりが始まり、国づくりが進められ、やがて、それらは有力な豪族によって一地方全体を支配する地方国家へと成長していった。しかし、そういう地方国家の様子をはっきりと示す史料はない。そこで、私たちは考古学の成果を合わせて考えていかなければならない。

大和政権では、その権威を誇るため、盛んに雄大な墓を造った。服属した地方の豪族たちもこれにならって、塚に支配者を葬った。これを古墳といい、その形や分布の状況・副葬品によって支配勢力の移り変りや当時の文化を想像することができる。

古墳には、円墳・前方後円墳・方墳・前方後方墳・上円下方墳な どの種類があり、また、造られた時期によって、前期(3~4世紀)・中期(4~5世紀)・後期(6~7世紀)の3つに区分されている。神奈川県下には、相模川や多摩川の流域に、古墳時代前期から中期のものと思われる前方後円墳や前方後方墳が各所に見られる。

第4号古墳の断面見取り図
(「わが町の歴史『小田原』より)

いずれも近畿地方のものに比べると規模は小さいが、平塚市真土(しんど)の大塚山古墳・川崎市加瀬の白山古墳・横浜市の観音山古墳・海老名(えびな)市の秋葉山(あきばやま)古墳などは壮大で、その地域の王者の墓を思わせる威容を備えている。私たちの郷土小田原には、このような大きな古墳はないが、箱根山の東麓にそって、いくつかの円墳群が見られる。また大磯丘陵内や西側の断層崖に沿って古墳の仲間である横穴墓が発見されている。久野川のほとりに立って北の方を眺めると、箱根の山裾(やますそ)から東へなだらかに横たわる諏訪の原という高原状の丘陵がある。その稜線上に、こんもりと雑木におおわれた小円墳がいくつか眺められる。昔から「久野百塚」や、「九十九塚」などといわれて、人々の注目を集めている久野古墳群である。中でも丘陵の東端にある円墳の1号古墳は、他の円墳群を離れてひときわ大きく眺められる。この円墳は、標高約70mのところにあって、その大きさは、直径40m、高さ8mで、ほぼ完全に保存されている。久野坂下の集落の上にあるので、昔から坂下の大塚とか、百塚の王塚などと呼ばれている。小田原地方では最大のもので、その上に立つと、足柄平野を一望にながめることができる。その円墳から西方には、たくさんの小円墳が連なっている。これらの円墳は、いずれも古墳時代後期に造られたものと推定されている。1951年(昭和26)秋に学術的な発掘調査が行われた4号古墳は、それらの群集墳の一つである。

この円墳の大きさは、直径20m、高さ3.5mで、もとの形は、お(そな)え餅を2つ重ねたような二段式の円墳であったようである。その内部は、幅1.5m、長さ約8mの横穴式石室が南に向って開口し、玄室(げんしつ)には2体以上の人骨が認められた。ほかに、玉類や鉄の(やじり)・鉄の直刀・土師器(はじき)などが副葬されていた。石室に使われていた石材のうち、安山岩は、この古墳から山裾へ800mほどはなれた欠上(かきのうえ)付近に露出している根府川石が使われたものと推定されている。多くの労力と長い年月をかけて造られたもので、おそらく、久野川流域に栄えた有力者の墓であろうと考えられている。

小田原市の東部、大磯丘陵の断層崖に沿って発見される横穴墓は、久野古墳群と同様に群集墳の性格を示している。上曽我・下曽我・田島などの集落の背後に、斜面の凝灰岩層をくりぬいて数個ずつ群れをなして造られている。

1933年(昭和8)に、田島の丹沢川(たんざわがわ)のほとりで4基の横穴墓が発見された。その中からは人骨のほか、(ぎょく)(るい)・鉄の直刀(ちょくとう)須恵器(すえき)土師器(はじき)金環(きんかん)など、後期小円墳に見られる副葬品と同様のものが発見されているが、その規模においては、久野の円墳よりやや庶民的な姿をもっている。このように、小田原周辺の古墳が、相模川や多摩川の流域の古墳に比べて規模が小さく小円墳や横穴の群集墳に限られるのは、酒匂川流域の生産力が低く、支配者の経済的、文化的地位において、前者より劣っていたことが想像されるのである。

平安初期につくられた「先代(せんだい)()()(ほん)()」には、成務(せいむ)(ちょう)(2世紀頃)に、相武(さがむ)師長(しなが)武蔵(むさし)秩父(ちちぶ)国造(くにのみやつこ)がおかれたことを初めて伝えている。その相武・師長は現在の神奈川県にあった国であるが、それぞれ、どこに位置したかは明らかでない。しかし、久野古墳などの存在によって、足柄平野とその西麓一帯には、師長といわれる一つの地方国家が成立していたと考えても差支えないと思われる。また、東国の風土記(ふどき)として現存する唯一(ゆいいつ)常陸風土記(ひたちふどき)(8世紀)には、「足柄坂より東の諸県を()(づまの)(くに)といい、孝徳天皇(7世紀)の時に、足柄坂より東の地、我姫之道を八ヶ国に分けた。」と記されている。このことは、この頃大和政権が東国を征服し、日本を統一していく事業が次第に進んでいることを示している。

2 相模国と国府・官道

8世紀に入り律令政治が整えられると、相武・師長の二国と鎌倉(わけ)の三区域の旧勢力も皇室に服属したため、このころ一つにまとめられて相模国となった。中央には二官八省がおかれ、地方は国・郡・里に分けられ、国司・郡司・里長という役人が治めるたてまえとなった。相模国は、(あし)上郡(のかみ)足下(あしのもと)(ぐん)余綾郡(よろぎぐん)などに分けられていた。相模国は東海道に属し、国府は現在の平塚市に置かれたが、後に大住(おおすみ)国府の時代を経て、平安時代後期には余綾郡国府本郷(中郡大磯町)に移された。大住国府の位置は、今日(こんにち)では現在の平塚市四之宮付近と考えられるようになってきているが、国府移転にともなって国府間をつなぐ官道も移り変った。

朝廷の東国支配が強まるにつれて、771年(宝亀2)には、今まで東山道(中山道)に属していた武蔵国が東海道に改められ、相模・武蔵の調・庸を都へ運ぶ人々や官人の往来が盛んになると、東海道を南北にさえぎる険しい箱根の山々は大変な難所となった。もちろん、官道が整備される以前から、人々が物資の交換に利用した道が発達していたに違いない。奈良時代以前の箱根山の東側と西側の集落を結ぶ交通路については明らかではないが、地形や古代の遺跡・遺物から次の2道が推定されている。

碓氷うすい道(奈良時代以前)

横走よこばしり(御殿場)― 乙女峠(1,000m)― 仙石原 ― 宮城野― 碓氷峠(明神峠、1, 165m)― 坂本(関本)

●足柄道(奈良・平安時代)

横走(御殿場)― 竹の下 ― 足柄峠(849m)― 坂本(関本)


碓氷道は、駿河国横走(御殿場)から乙女峠を越えて一度火口原に下り、仙石原・宮城野の集落を経て明神岳の頂上に上り、そこから大雄山最乗寺あたりへ下がって坂本(関本)に達する文化交流の路である。足柄道は横走から足柄峠を越えて直接駿河国と相模国を結んでいる。

奈良時代になって、これらの山道が東海道の箱根越えの横断路となると、乙女・明神の二峠を上り下りする碓氷道よりは、横走と坂本を東西に結ぶ最短最低の足柄道が主道となった。

802年(延暦21)富士火山の噴火により足柄道がふさがれて、一時箱根道が開かれたが、翌年には復旧されているので、平安時代を通じてほとんど足柄道が主道となった。

足柄峠
“おそろしげに、くらがりわたった”足柄峠も今は楽しいハイキングコース

当時の足柄道は旅人にとっては大変難儀な道であったようである。万葉集の中には、旅の安全を願う気持ちからこの坂路をよんだ歌がかなり見うけられる。また、東国に赴任(ふにん)した国司(こくし)常陸介(ひたちのすけ)菅原孝標(すがわらのたかすえ)の娘は思い出を記した更科(さらしな)日記に、「足柄山といふは、四、五日かねておそろしげにくらがりわたり、やうやう入り立つ麓のほどだに、そのけしき、はかばかしく見えず、えもいわず茂りわたりて、いともおそろしげなり。」と書いている。足柄山が、うっそうたる原始林におおわれた恐ろしい山道であったことがよくわかる。

奈良・平安の古道
国府の港国府津

相模国の古い駅路は、箱根山を越え足柄平野の北の山際を通って中郡北部(旧大住郡(おおすみぐん))に達し、今の海老名市を経て武蔵国に入ったのであるが、平安時代中期になると足柄平野の東辺を大磯丘陵に沿って南下し、国府津付近に達する海岸に近い道が駅路となったのである。

箱根・足柄を越えて坂本に下った古代の人々は、足柄平野をどういう経路で通過したのだろうか。奈良から平安時代中期までの東海道は、坂本駅から松田に出て、ここから四十八瀬の渓谷に沿って秦野に達し、箕輪(みのわ)駅(伊勢原市比々多)を経て海老名に達する山際の駅路であったが、平安時代の中期以後は、松田から南に下り、金子・金手・大友・千代の集落を通り国府津付近で一度海岸に出て大磯丘陵を迂回し箕輪で山際の道と合流する南方道路が駅路となったと推定されている。駅路には、約30里*(約17km)ごとに駅が設けられ、官人の宿泊する駅家と人や荷物を乗り継ぎする駅馬や伝馬(てんま)が用意されていた。平安時代中期に作られた「延喜式(えんぎしき)」には、相模国の駅路について、「相模国の駅馬は、坂本に二十二頭、()(ぶさ)・箕輪・浜田の各駅には、それぞれ十二頭を置き、伝馬は、足柄上郡・中郡・高座郡に、それぞれ五頭ずつ配置する」と記され、また「倭名(わみょう)(るい)(しゅう)(しょう)」には、「相模国の駅家は、足柄上郡・下郡・中郡・高座郡にそれぞれ駅家を設ける」と記されているので、小田原地方には、上郡に坂本駅、下郡に()(ふさ)駅を置き、坂本駅は駅・伝馬あわせて27頭も置かれた大駅であったことが知られる。*古代の一里は約567m

小総駅については、「大和物語」に、「小総駅といふところは海辺になむありける」とあり、「枕草子(まくらのそうし)」には「をふさの市」の名が見える。時代はずっと下るが江戸時代後期に作られた「新編相模国風土記稿」には、「小字(こあざ)市場(いちば)は、東海道の西、親木橋詰を云ふ、駅家たりし遺名なるべし、今は市あるにあらず」と記されている。海辺に面し、都人(みやこびと)にも知られる(いち)が立つほどにぎわった宿駅であったことがうかがわれるが、その位置は今の国府津付近であろうと推定されている。また、この駅路には、坂本・小総の2駅のほかに、数個の要地があった。足柄上郡松田付近は、南方道路への分岐点であり、急流酒匂川の渡河(とか)(てん)でもあった。松田には、相模国の延喜式内社十三座の一つ寒田神社があるから、相模川の渡河点にある寒田(さむた)神社とともに旅の安全を祈願するところとして古くから開けていたのであろう。

「新編相模国風土記稿」には、国府津の地名について、「(りん)(ぐん)余綾のぞくに国府本郷あり、(いにし)へ府庁の所在地なり、(ここ)より相(へだた)ること三里ばかりなれど、彼地かのちの海辺は荒磯(あらいそ)にて艤舟(ぎしゅう)の便あしければ、もしくは当処を以て彼の国府の津港とせし事ありて此地名起りしにや」と記しているので、国府津には船舶の出入りに大変便利な入江があり、平安時代後期に、国府が余綾郡国府本郷に移ると、国府津の地は足柄平野の大小の諸道を集め、国府への入り口を約する水陸両用の宿駅となったので、余綾国府の重要な津港として「国府津」の地名が生まれたものと考えられる。

3 民衆の生活と信仰

奈良時代の民衆生活の実情を示してくれる史料はまことに乏しい。(りょう)の規定で彼らは口分田(くぶんでん)を与えられ、租・庸・調などの負担を担っていたほか、軍役その他が厳しく課せられた。たまたま残る735年(天平7)の「相模国(さがみのくに)封戸租(ふこそ)交易(こうえき)(ちょう)」や、法隆寺・四天王寺の資財帳などによれば、足柄上郡の岡本郷、下郡の()戸郷(どごう)垂水(たるみ)(ごう)・高田郷などは、光明皇后や舎人(とねり)親王、あるいは法隆寺・四天王寺などの封戸ふことなっており、これらの貴族・寺院の経済を担っていた。すなわち、ここに住む農民の生産によって生まれた稲は、これら貴族・寺院の収入となった。

奈良時代に編纂(へんさん)された「万葉集」には、相模国をはじめ東国の各地から遠く九州の防衛に徴発された防人さきもりの歌が載せられているが、その中に下郡の出身であることがわかる人の歌も載っている。それらの中には「大君おおきみみことかしこみ磯に海原(うなばら)わたる父母(ちちはは)おきて」という歌や「足柄のみ坂たまわりかえりみず吾はこえゆく……」と故郷の父母、妻子のことを不安に思いながら、遠くに行かなければならない農民の心を切実に表しているものが少なくない。

市内上府中の千代台は、大磯丘陵の西側にある東西約500m、南北約 400mの平たい独立台地である。この台地からは、縄文・弥生・古墳・奈良・平安の各時代の土器が多数発見されているので、古くから集落が発達していたことを示している。先にも述べた大化の改新以前のその土地の長が住んでいた場所であったと考えることもできるが、この台地には、観音屋敷・弥勒(みろく)(ばたけ)・堂の(わき)・堂の(しり)(とう)(こし) などの地名が台地上の広い範囲に残っている。また、奈良・平安時代に寺院の建設に使われた、すぐれた古代瓦が多量に発掘採集され、礎石も発見されている。奈良時代の仏教は、国家との結びつきが強く、天皇や貴族は仏教を盛んにし、その力によって国を栄えさせようと考えたのである。特に、聖武天皇は741年(天平13)全国の国府の所在地に国分寺と国分尼寺とを置き、国家を守る役目をもたせた。相模国には、相模国府の所在地である海老名市に置かれたらしく、今もその寺跡をとどめているが、この千代台の寺院跡を一度は国分寺として造営したものの名残りではないかと考える人もある。しかし、そのような寺院は、国家のためのものであり、民衆にとってみれば労役の奉仕などに徴発されるだけで、決して信仰と結びつくものではなかった。だから次第に荒廃してしまった。ところが、この千代台の寺院に関連して次のような縁起(えんぎ)が伝わっている。

古代瓦
(千代台出土)

千代台地の西方、酒匂川左岸の飯泉に、坂東三十三観音の一つで、第5番の札所とされている相模の名刹(めいさつ)、飯泉山勝福寺がある。飯泉観音の名で人々に親しまれているが、その縁起によると、753年(天平勝宝5)に唐の大明寺の僧鑑真(がんじん)が来朝した際にもたらした秘仏(ひぶつ)十一面観音像を、孝謙天皇に献上したが、天皇がこれを道鏡に賜わったので、道鏡は安置の地を相模国の弓削氏(ゆげうじ)(じき)(ふう)(朝廷から賜わった封戸)の地千葉(ちよう)に定め、建立したのがこの寺であり、千葉山弓削寺、俗に千代観音といった。後に830年(天長7)春、飯泉に移されたと伝えている。坂東(ばんどう)に観音信仰が盛んとなって、札所ができあがっていったのは鎌倉時代の中期であるから、こういう縁起つまりお寺の成立を伝説などによって作り上げていったのは、もちろんそれ以後である。他にも全くこれらを裏付ける史料がないので、これらのことは事実ではない。今日伝わっている十一面観音菩薩(ぼさつ)像も平安中期以降のものである。しかし、平安時代の中・末期から鎌倉時代にかけてのころ、民衆の支持と信仰を集めた観音霊場がここにできあがっていることは、仏教が国家・貴族のものから民衆のものへと変っていったことを物語っている。

仏教を国家のものから民衆のものへとし、仏の功徳を説く布教の働きをしたのは、天台・真言二宗などの聖といわれる僧侶であったと思われる。そして、この付近で東国観音信仰の布教の中心となったのは、箱根山の僧たちであった。箱根権現の縁起には次のようにある。箱根権現は、奈良出身の高僧万巻(まんがん)上人(しょうにん)が東国に教えを広めた折り、757年(天平宝字1)箱根山に留まって修業(しゅぎょう)を重ね、古くからある箱根産土(うぶすな)の神々を芦の湖畔にまとめて(まつ)った。これが箱根三社権現であり、当時は神仏は同じものであると信じられていたため、仏が神の姿になって現われたものという意味で権現という。上人は同時に権現の世話をする別当院として、箱根山東福寺(金剛院)という真言宗の寺院を開設した。箱根権現の建立は、後に相模・駿河・伊豆地方まで、仏が神の姿で現れるという信仰を広め、多くの権現社が建立され、箱根はその中心として発展したのである。おそらく、飯泉の寺院と同じころ成立したのではあるまいか。

平安時代になると、小田原地方にも天台・真言二宗による寺院の建立が見られ、国府津の勧山真楽寺(天台宗・現在は浄土真宗)や国府津山宝金剛寺(真言宗)は現在に引き継がれている。また、箱根・丹沢の山々も一大霊場となり、人々の信仰を集めていた。丹沢の一角にそびえる大山の東面にある日向山(ひなたさん)宝城坊(ほうじょうぼう)は、日向薬師の名で親しまれているが、もとは、霊山寺という真言宗の寺院の一坊であった。相模国早川(はやかわ)(しょう)に関係の深い貴族に、相模国司として下向(げこう)した大江公資(きみなり)という人がいるが、その妻の相模(さがみ)という女性は夫とともに下向し、箱根にも日向薬師にも参詣し、たくさんの和歌を奉納している。その中に、「さして来し日向の山を頼む身は目も明らかに見えざらめやは」とお堂の柱に書きつけたという。これは、「相模集」という彼女の歌集にのっているが、この時代のさかんな霊場信仰を物語っているといえよう。

飯泉観音

4 荘園の発達

大江公資が国司として下って来たのは11世紀、そのころ都では藤原氏の摂関政治が華やかに繰り広げられていた。しかし、地方をみると、私有地である荘園はますます増え、律令政治は崩れていった。中央の貴族にとって、地方は自分の収入を得る所であり、国司になるのも、地方を治めるというより収入をあげる最良の方法としか考えなかった。だから、国司となっても実際には代官だけを派遣して、自分は都にいるということもめずらしくなかった。また、その地方の有力者で国衙(こくが)の役人となっているものを代官とすることもあった。地方の実力のある豪族は、地位を利用して自分の支配地を広げようとした。同時にかれらは荘園の境界や用水の争いに備えたり、盗賊を防いだりする必要から、自ら武力を貯えて自分の土地を守った。

荘園の分布
(「目で見る小田原の歩み」より)

小田原地方では、平安時代末期までの間に、今の早川から山王川にいたる平坦地が、次第に開発された。また酒匂川左岸の沖積平野の成田あたりも、その北の大井近辺も、曽我山の麓も開発されていった。それらの土地は開発した者の私領となり、国家に対して租を収めようとはしなかった。こういう私領が荘園と呼ばれた。これらの荘園は、地形的に水害から守られている段丘や、自然堤防などから少しずつ開かれていったのであろう。そして、その開発の中心となった領主たちは、その土地の名をとって姓とした。大友郷の大友氏などは、その例である。また、国家や他の豪族の侵入から自分の支配地を守るために、貴族や寺院、神社などに荘園を寄進をすることが多くなった。小田原地方の荘園で、(わず)かながら史料があるのは早川の荘である。しかし、その広さや構造は正確にはわからない。その成立についてみると、中流貴族で、相模国に国司として下向した大江公資(きみなり)の子の大江(ひろ)(けい)(ひろ)(つね)は、天下に最大の権勢を誇った藤原道長の子の民部卿(みんぶきょう)長家(ながいえ)に、この荘園の名義だけを寄付した。長家はやがて女婿(むすめむこ)(ぜん)太政大臣(だいじょうだいじん)九条信長に、この早川の荘の名義をゆずり、以後その子孫が()()いだ。したがって早川の荘は、実際の所有者(領家(りょうけ))大江氏と、さらに上級の所有者(本所(ほんじょ))九条家流藤原氏の二重の領主がいたことになるが、九条家の荘園ということになる。京都にいる大江氏からみれば、遠くにある早川の荘が、役人や近くの豪族たちに侵されることを防ぐため、権力の強い貴族の権威を借りて荘園を守ろうと、名義だけを寄付したのである。これが寄進といわれるもので、この風潮は全国的に広がり、当時最も権力の強かった藤原氏一族のもとには、多くの荘園が集まってきた。

この早川の荘に関する1095年(嘉保2)の史料に、「早川(はやかわ)御牧(みまき)、在相模国」と記されている。「御牧(みまき)」とは、傾斜地や牧野(ぼくや)を意味するので、この頃(平安末期)では、まだ一面が山野で、水田が少ない土地であったことがわかる。それから35年を経た1130年(大治5)の史料では、「早川の荘」となっており、開墾が進んだことが推察できる。しかし、大江氏またはその子孫が、実際にこの地域を開発したものではない。おそらく、公資が国司の時に開発者から寄進されたのであろう。その開発者とは、鎌倉時代の史料に登場する早川氏、あるいは小早川氏と称する土肥氏の一族であったと思われる。

こういう地方の荘園を開発した領主すなわち土着の武士たちは、東国の武蔵、相模にはたくさんいた。相模国では、三浦半島に三浦氏一族、湘南地方に鎌倉平氏の一族、西湘地方に相模平氏の一族、秦野地方に波多野氏一族、海老名方面に海老名氏などの集団が、平安末期までの間に荘園を舞台にして成長していった。

小田原の近くでは、湯河原付近の土肥氏、早川の荘の小早川氏らが、中央貴族、特に清和源氏の源頼義やその子義家が、前九年の役、後三年の役などで陸奥(むつ)国(青森県)に出征した際、その従者として従軍し、その家臣となっていった。特に頼義が鎌倉に八幡宮を建立してからは、相模国の武士で源氏に臣従してくるものが多かった。

相模の国の主な武士
(鎌倉時代初期)(「図説 小田原・足柄の歴史」より)

3 武士の世の中 ―鎌倉・室町―

地方の武士をしたがえた 棟梁 ( とうりょう ) でもっとも有名なものが、皇室から分かれた 桓武 ( かんむ ) 平氏と 清和 ( せいわ ) 源氏である。その中で主に西国の武士を従えた平氏は、 保元 ( ほうげん ) の乱、平治の乱の貴族の内部争いを利用して勢力を伸ばし、ついに政権を握った。これに対して、東国武士に信望のあった源氏は、平清盛に反抗する源頼朝の挙兵をきっかけにして、平治の乱に敗れた後の劣勢を立て直し、ついに ( だん ) の浦の戦で平氏を亡ぼした。
源頼朝はその後鎌倉に幕府を開き、京都の貴族の政府とは別に武士社会独自の政権をたて、以後七百年にわたる武家政治のもとを築いた。頼朝の政権は、将軍が自分の家来である御家人に土地を与える恩を施し、御家人はその反対に忠誠の義務を負うという御恩と奉公の関係で結ばれる主従制度を基礎としていた。そのため、頼朝以後、幕府の政権の実権を握った 執権 ( しっけん ) 北条氏にしても、14世紀に京都に成立した室町幕府にしても、配下の武士に所領(土地)を与えるために、貴族や寺社の持つ荘園に侵略し、貴族や寺社の経済的基盤を奪っていった。その中で封建制度が拡大し、社会の仕組の基本として成長していったのである。ここでは、こういう封建制度の発展の姿を、相模の国を中心に、政治の動きと関連させてみていこう。

1 源頼朝と武士の政権

石橋山の合戦

1159年(平治1)の平治の乱で、平清盛に敗れた ( みなもと ) 義朝 ( よしとも ) の子の頼朝は、幼かったので一命を助けられ、伊豆の ( ひる ) が小島に流された。政権を握った平清盛以下平氏一門は、かつての藤原氏以上に繁栄したが、貴族の中にも武士の中にも、これに反発するものも少なくなかった。その情勢の中で ( たか ) 倉宮 ( くらのみや ) 以仁王 ( もちひとおう ) は、1180年(治承4)の春、全国の源氏に平氏討伐の命令を出した。
伊豆にいた頼朝は、平氏の 監視 ( かんし ) が厳しい中でついに八月、伊豆、相模の武将を味方に伊豆で挙兵し、鎌倉に向かった。その総勢は、300騎の少数であった。途中石橋山まで来た時、総勢3,000騎という大勢力の平家方にはさみ討ちされた。その総大将は 大庭景親 ( おおばかげちか ) (藤沢市)で、やはり相模・伊豆の武将を従えていた。両軍は互いに谷を隔てて東西の峰に対陣した。8月23日の夜、豪雨の中で56決戦が始まり、頼朝側は死力を尽して戦ったが、敗れて箱根山に逃れた。
この戦に頼朝方の先陣を引き受けた 真田 ( さなだ ) 与一 ( よいち ) 義忠 ( よしただ ) (平塚市真田)は、敵将 俣野景久 ( またのかげひさ ) と戦い、一騎打ちとなったが、景久方の 長尾 ( ながお ) ( しん ) ( ろく ) 定景 ( さだかげ ) に刺されて最期をとげた。この激闘の場所は「ねじり畑」という地名となって残り、近くには佐奈田霊社が建立され、義忠の霊がまつってある。
さて、平氏の軍勢に敗れた頼朝は、箱根・湯河原の山中を逃げ、ある時は大杉の空洞に隠れ、ある時は箱根権現に救いを求めたりして、危うく難を逃れることができた。頼朝に初めから味方した武士の中には、湯河原の土肥 実平 ( さねひら ) の一族があり、その土地の事情に詳しい実平の道案内によって敗戦から五日後、真鶴の海岸から夜ひそかに船で 安房 ( あわ ) 国(千葉県)へ逃れた。このことを詳しく書いた「 吾妻鏡 ( あずまかがみ ) 」や「源平盛衰記」によって、この戦における敵味方の武士を眺めてみると、二宮辺の中村、湯河原の土肥、平塚の土屋の一族は頼朝側につき、河村・曽我・波多野氏一族は平氏側につくというように、同じ土地の武士でも源氏平氏に分かれて戦った。平氏側の総大将大庭景親の兄の 大庭景義 ( おおばのかげよし ) は頼朝に味方し、箱根権現の別当 行実 ( ぎょうじつ ) は頼朝を助けたが、弟の 智蔵 ( ちぞう ) 坊は平氏側についた。頼朝と源氏の将来に期待する人、当時の実力者平氏の威光に従う人とさまざまであり、これは、自分の土地や権益を守るためには、どちらに味方をしたら有利かを考えたからであろう。

佐奈田霊社

安房 ( あわ ) 国に着いた頼朝は、土地の 千葉介 ( ちばのすけ ) 上総介 ( かずさのすけ ) という大豪族の協力を受け、1か月余で鎌倉に入った。この頃になると、東国の武将たちは、先には敵になったものまでも次々に頼朝の家来となった。その2か月後、富士川で平 維盛 ( これもり ) と対陣した時には、20万余騎といわれるほどの大軍を動員できる強い勢力に発展していた。
そして、1185年(文治1)の源平最後の合戦となった壇の浦(山口県)の戦で平氏をほろぼし、1192年(建久3)頼朝は、ついに 征夷大将軍 ( せいいたいしょうぐん ) となって武士の政権をたてた。古くから三浦半島に一族が分布していた大豪族三浦氏の一人の和田義盛を、 侍所 ( さむらいどころ ) の長官に任命して御家人を統率させた。平氏の旧領地や、河村氏・波多野氏など、初めから敵方であったものの土地は没収して忠功ある御家人に与えた。そして ( しゅうと ) の北条時政を重く用い、全国の荘園には 地頭 ( じとう ) を、諸国には 守護 ( しゅご ) を置くことを朝廷から公認してもらった。こうして、軍事警察権を公的に認められた政権として成立したのである。

 
曽我兄弟の仇討ち

頼朝が将軍になった翌年、富士の 裾野 ( すその ) で大 巻狩 ( まきがり ) (狩猟)が、軍事演習を兼ねて行なわれた。この時、曽我十郎、五郎の兄弟が、18年前に父河津 祐泰 ( ゆうたい ) を暗殺した工藤 ( すけ ) ( つね ) を斬る事件がおきた。
この巻狩は、5月上旬から6月上旬にかけて約1か月行なわれたもので、馬の上から弓を射る武芸をみがく、鎌倉武士の実戦的訓練であった。5月28日の夜、激しい雷雨をついて兄弟は工藤祐経の寝所をおそい、父のかたきを討った。将軍 が寝ている本陣近くであったので、兄弟は多数の侍に囲まれ、ついに兄の十郎は 仁田 ( にった ) 四郎 ( しろう ) 忠常 ( ただつね ) に斬られ、弟の五郎は捕われて翌日斬首された。この事件は、人々の間に「 ( かた ) り物」として語られ、後に室町時代になって本となった。その「曽我物語」という本で、悲劇の主人公、父の仇を討つ孝子として兄弟の話がもてはやされ有名になった。鎌倉時代に幕府の手によって編さんされた「吾妻鏡」にも載っているので、おおよその内容は事実と考えてよいであろう。

仇討ちの遠因は領地争いにあった。工藤祐経の父 ( すけ ) ( つぐ ) は、伊豆に伊東・宇佐美・久須美の三荘園をもっていた。兄弟の 祖父 ( そふ ) 伊東祐親 ( いとうすけちか ) は、工藤氏の 従弟 ( いとこ ) にあたり、やはり伊豆に河津の荘を持っていた。伊東祐親は祐継が死ぬと、その子の祐経がまだ幼いのに乗じて、工藤氏の三荘園をうばってしまった。そこで祐経は、伊東祐親を討とうとしたが果せず、祐親の長男の伊東 祐泰 ( すけやす ) (兄弟の父)を殺してしまった。祐泰には一万・箱王という2人の子があった。母はこの二児を連れて、河津の荘から相模国の曽我の荘の 曽我 ( そが ) 祐信 ( すけのぶ ) のもとに再婚した。兄弟も養父の曽我の姓を名のり、元服後、兄は曽我十郎 祐成 ( すけなり ) 、弟は曽我五郎 時致 ( ときむね ) と改め、父の仇を討とうと苦心したのである。
なお、ここで重要なことは、この仇討ちの成功のかげには、兄弟と親類関係にあたる土肥一族や、五郎が元服した時の 烏帽子 ( えぼし ) 親でやがて執権になった北条時政という幕府内部の実力者が、後立てになっていたらしいということである。

兄弟の墓

 
山内首藤氏の所領

「吾妻鏡」をみると、土肥氏・小早川氏・山内首藤氏・曽我氏・大友氏・飯泉氏など、小田原近辺に所領をもつ武士がしばしば見える。

土肥実平は、中村の荘(中井町)の豪族中村氏の次男で、一族に土屋・二宮氏などがいた。実平は、源頼朝の石橋山の合戦以来幕府の創立に活躍したので、頼朝から信頼され、幕府内でも諸将の長老として尊敬を受けていた。平氏追討にも実平の活躍は続き、源義経と共に一の谷や屋島の戦に参加した。平氏滅亡後は、中国五か国の ( そう ) ( つい ) ( ぶつ ) 使 ( ) をはじめ、 安芸 ( あき ) 国の守護となった。孫の ( これ ) ( ひら ) の時に、和田 義盛 ( よしもり ) の反乱に参加した。この乱は、 侍所 ( さむらいどころ ) の長官であった和田氏を除いて実権を握ろうとする執権北条氏が義盛らを攻撃したものであるが、この時、相模の武士の多くは和田方につき、惟平も和田方として戦死した。その結果、子孫の多くは安芸国(広島県)に移住することとなった。そして、安芸国に新しい御恩の土地をもらって、そちらにも一族が繁栄した。しかし、小早川 季平 ( すえひら ) という一族の一人は成田の荘に所領を持っていたので、全く縁がなくなったわけではない。

山内首藤氏は、はじめ鎌倉の山内に住む武士であったが、頼朝の挙兵の時に敵となったので、追放された。ところがその ( つね ) ( とし ) という人は、頼朝の 乳母 ( うば ) の子であったので、乳母の関係で早川の荘内に土地を与えられた。それは、早川の荘内の「 一得 ( いっとく ) ( みょう ) 」という 名田 ( みょうでん ) で、 田子 ( たこ ) (多古)に屋敷がある他、数か所に田地があった。

荘園が成立するところでも述べたが、新しく開墾した土地には地名がなかったので、開発した人の名をつける場合があった。この場合の「一得名」もそうであろう。今はこの地名を伝えていないが、この一得名のような開発された田を 名田 ( みょうでん ) と呼び、開拓主を名主という。しかし、かれらは武士であり地主であって、実際に耕作していたのは家来や 下人 ( げにん ) であった。首藤氏は、1230年(寛喜2)この一得名を子に譲ったが、その時の譲り状をみると、当時の農民生活が想像できる。

一得名は総計五町二反の水田があって、三町二反は首藤氏が直接下人を使って耕作し、残る二町を五戸の農民に請作させていた。このうちの四戸は、年貢を納めている 請作 ( うけさく ) 人で、名主の仕事も手伝う義務を負わされた。残る一戸は宮司で、やはり下人に耕作させて名主に年貢を納めていた。一得名では、こうした三種類の階級に分かれて水田耕作をしていた。各地の荘園も、このような形で耕作していたと思われる。
早川の荘には、他にも久富名、長尾名という名田があった。成田の荘でもおそらく同じような方法で田が耕されていたであろう。

大友郷を開発したといわれる大友氏、この早川の荘に一得名をもっていた山内氏、そして早川の荘全体の地頭であった土肥・小早川氏らは、先にあげた和田氏の乱に参加して敗れてからは、北条氏の力が東国で強くなるのを恐れて、九州や中国地方に移っていった。しかしそれは同時に、東国を基礎に出発した武士政権が、全国的な規模に勢力を拡大することでもあったのである。

箱根権現

 
箱根権現の役割と交通の発達

「箱根権現は、頼朝の挙兵の時に援助をしたこともあって、幕府が成立すると、将軍をはじめ武士たちの 尊崇 ( そんすう ) の的となった。幕府は、伊豆国の三島神社、伊豆山の 走湯山 ( そうとうさん ) と、この箱根権現を厚く保護し、社領を寄付するとともに、年に一度は必ず使いを参詣させた。将軍も代替りには必ず参っている。

権現の別当で ( しん ) ( ぎょう ) という人がいた。はじめは奈良の僧で、木曽義仲の家臣でもあったが、学識の高い人であった。先に述べた箱根権現の 縁起 ( えんぎ ) は、この信救が書いたものであるが、こういうすぐれた僧侶を中心に、箱根権現には多くの学僧が集まっていたようである。曽我兄弟の話が箱根権現の神の霊験のたまものという風にまとめられて、多くの人々の間に親しまれ、室町時代の頃に「曽我物語」という本になるまでにまとめられたのは、この箱根山に学ぶ僧侶たちの努力であるといわれている。

また、 観音 ( かんのん ) 信仰や 地蔵 ( じぞう ) 信仰が武士や農民の間にひろまったのも、この時代の特色であった。闘いの中で生命を落とすこともあり、農業のために虫や獣を殺すこともある。農村の農業生活と結びついたこの時代の武士たちは、死後の世界に強い関心をもった。そういう時に、 極楽浄土 ( ごくらくじょうど ) に導き、 往生 ( おうじょう ) を助けてくれる仏として、 観音菩薩 ( かんのんぼさつ ) や地蔵菩薩に対する信仰が生まれたのである。頼朝や妻の政子は、千代にあったとされる 弓削寺 ( ゆげでら ) (現飯泉観音)や金目の観音堂にお参りしている。険しい山道の箱根が、地獄極楽の ( さい ) の河原として考えられ、地蔵菩薩の石仏群が作られたり、大きな 供養 ( くよう ) の五輪塔が建てられているのもその表われである。仏教が、国家のものから民衆のものとなっていくことは先にも述べたが、それは、いわゆる新興の仏教諸宗(浄土宗・浄土真宗・日蓮宗・禅宗)などに限られたのではなく、こういう古い真言宗の寺院や僧侶の活動もあったのである。

権現への参詣が増えたことは、箱根路という新しい道の開発を進めたことになる。現在、湯本から芦の湯の近くに出るハイキングコース「湯坂道」があるが、これは幕府の命によって造られた鎌倉時代の街道であった。

武士は自分の所領のことで裁判が起こると、鎌倉に来て相手と対決をしなければならない場合があった。13世紀の終わりに、歌人藤原為家の未亡人の 阿仏 ( あぶつ ) 尼は、 播磨 ( はりま ) 国(兵庫県)の荘園をめぐっての 訴訟 ( そしょう ) に当たって、子のためにわざわざ京都から鎌倉へ下った。その時の紀行文が「 十六夜 ( いざよい ) 日記」であるが、その中に「湯坂山をこえる時、あまり急なので足がとまらず、やっとの思いでこえた。」と、当時の険しい箱根路の様子を記した。

また、 蒙古襲来 ( もうこしゅうらい ) のあとで恩賞を願った九州の御家人竹崎 季長 ( すえなが ) は、自分の奮戦の様子を絵巻物に描かせた人であるが、彼も鎌倉まで下向し、途中箱根権現にお参りして祈願を込めている。このように多くの人が箱根道を利用するにつれて、小田原地方に変化が起こった。
足柄道の宿駅として栄えた ( ) ( ぶさ ) 駅(現在の国府津親木橋付近にあったとされる)が衰えて、酒匂宿がこれにかわった。鎌倉時代、東海道は湯坂道から湯本を経て早川に沿って海岸に至り、酒匂に抜けたのであろう。
この頃の小田原は、まださびしい集落であった。その様子を、阿仏尼の子である 冷泉為相 ( れいぜいためすけ ) は「海道宿次百首」の中で、次のようにうたっている。

「つくりやらぬ夏の荒小田はらいかね よもぎながらや今かえすらむ」

しかし、1265年(文永2)の「相州小田原住泰春」と銘のある刀があるので、この集落にも刀鍛冶を専門とする職人が住んでいたことが知られている。

箱根越えのうつりかわり
(「小田原・足柄の歴史」より)

現在の湯坂道
(「小田原・足柄の歴史」より)

2 鎌倉府の支配と小田原地方

後醍醐天皇の討幕運動

小田原文学館の近くに、小田原市指定文化財の史跡「平 ( なり ) ( すけ ) の墓所」というのがある。平成輔は、鎌倉時代の末、 大覚寺 ( だいかくじ ) 統(のちの南朝)の後醍醐天皇に仕え、参議や 弾正 ( だんじょうの ) ( だい ) ( ひつ ) などの官職についた貴族である。この人の墓がどうして小田原にあるのかというと、後醍醐天皇が中心となって幕府を倒そうとした元弘の変にかかわりがある。天皇は以前にも正中の変という討幕運動に失敗したが、今回も事前に幕府に知られ、幕府軍が京都を攻めるにおよんで、平成輔ら天皇に協力していた貴族や武士は捕われた。天皇も捕われ、翌年 隠岐島 ( おきのしま ) に流され、 持明院 ( じみょういん ) 統(のちの北朝)の光厳天皇が即位した。平成輔らは、鎌倉に送られて処罰されることになり、途中の早川近くに来た時、成輔は殺された。それは、1332年(元弘2)のことであった。

その後に幕府軍の将、 足利尊氏 ( あしかがたかうじ ) が天皇側につき、反転して 六波羅 ( ろくはら ) 探題(京都)をおとした。一方東国では、新田義貞が北条氏に反感をもっている武士たちの軍をひきいて鎌倉をおとしいれ、執権北条氏を亡ぼした。こうして1333年(元弘3)頼朝が幕府を開いてからおよそ150年で、鎌倉幕府は滅亡した。

平成輔の墓所

 
建武の新政と箱根竹の下の戦

後醍醐天皇は京都に帰ると、あらためて天皇中心の復古政治を始めた。これを建武の新政という。しかし、天皇の政治は理想主義に過ぎたため、武士の支持を失い、2年で失敗してしまう。それは、武士の支持を集めた足利尊氏が、競争者ともいうべき新田義貞を討つと称して、天皇の新政府に反抗したからである。

長い間幕府のあった鎌倉は、先の義貞の攻撃で灰となった。その後に、尊氏は弟直義を置いて守らせていたが、北条高時の子時行(ときゆき)と旧臣たちが奪還の戦をしかけ占領した。駿河国まで逃げた弟たちを助けるために東国に下った尊氏は、時行らを破って鎌倉に入ったが、そのまま京都に帰らなかった。そこで後醍醐天皇は、義貞に尊氏追討を命じ、義貞は大軍をひきいて下向し、箱根山で戦ったのである。足利軍は、箱根路と足柄道で新田軍をくいとめようと二つに分かれたので、攻撃の新田軍も二つに分かれて攻めた。新田軍は、箱根路では大半を破り有利に戦いを進めたが、足柄道で味方に寝返る者が出たため、不利になり、ついに退却せざるを得なくなった。これを箱根竹の下の戦と呼んでいる。

この後、尊氏は義貞を追って京に攻め上り、義貞を破り、義貞は九州へ逃れた。しかし、諸国の武士の多くは天皇中心の新政府より、昔の幕府政治を懐かしみ、尊氏を将軍として仰いだので、大勢力となった。尊氏が湊川の戦で 楠木正成 ( くすのきまさしげ ) を破って京都に入り、後醍醐天皇を捕え、位を光明天皇に譲らせるとともに、建武式目を発令して新しく幕府を京都に開くことを宣言した。

 
鎌倉府の支配

東国、特に鎌倉は頼朝以来、武士政権の所在地として重要なところであった。尊氏は幕府を京都に開いても、いざとなれば鎌倉に帰ろうと考えて、ここには子の 義詮 ( よしあきら ) を置いた。後、義詮を将軍の後継に決めて京都に呼び寄せてからは、その弟の基氏を置き、これを 関東管領 ( かんとうかんれい ) とした。この管領は、後には 鎌倉公方 ( かまくらくぼう ) または関東公方と呼ばれ、これを助けた 執事 ( しつじ ) の上杉氏のことを管領というようになったが、公方の役所を鎌倉府という。当時の人は公方を御所とも呼んだ。鎌倉府は、関東八か国に伊豆、甲斐をあわせた10か国を支配する幕府と同じものであり、役所も大体室町幕府と同じであった。

鎌倉府の支配下に入った相模国の小田原地方については、ほとんど史料がない。この時代は、吉野に逃れた後醍醐天皇の南朝方と、京都の北朝=幕府方との2つに諸国の武士が分かれて互いに戦いあう、南北朝の内乱の時代である。全国的に尊氏方の下につくことをきらう武士も少なくなく、また同じ北朝方でも互いに対立しあったりすることが多かったため、60年余も戦いが続いた。相模国は公方の近くであるにもかかわらず、伊豆国を支配する畠山氏が土肥氏と早川尻で戦うなど、戦乱の止むひまがなかった。山北地方の河村氏のように、終始南朝の年号を使って足利氏に反抗していたものもあった。こういう時代であったため、おそらくこの地方の民衆の生活は安らかなものではなかったであろう。

小田原地方には、この時代の年号を記した石碑がいくつか発見されている。また、市立白鷗中学校の西側に首塚がある。義貞が、 1338年に北陸の 越前 ( えちぜん ) (福井県)で戦死した後、家来が首を持ってここまで来て病死したという伝説で、新田義貞の首塚としているが、この話が事実である証拠はない。山北方面でも、同様の話を伝えた家がいくつかある。結局、戦乱に明け暮れた人々が、平和と安定を願って仏に供養するという心から造られたものが、別の話と結びついて「義貞」ということになったのであろう。

 
大森氏の小田原支配

大森氏は、今の静岡県御殿場市と小山町一帯にあった 藍沢 ( あいざわ ) の荘をもっていた武家で、先祖は源頼朝に仕えた御家人であった。3代将軍義満によって内乱が治まり、南北2朝も合体して天下が統一され、鎌倉には御所として氏満が君臨していた応永の頃、大森 ( より ) ( あき ) の代を迎えた。かれは南足柄市に 春日山 ( かすがやま ) 城を築き、相模地方進出の足場を作った。そして、大雄山最乗寺を建立した。そのころ、上曽我に ( りょう ) ( あん ) 慧明 ( えみょう ) 禅師という僧がいた。禅師は、明神 岳の麓が唐の国にある霊山に似ているので、この地に禅の道場を開こうと計画し、禅師に 帰依 ( きえ ) していた頼明の援助で、1394年(応永元)雄大な寺院を造りあげた。これが最乗寺である。曹洞宗で、大本山永平寺や総持寺に次ぐ権威をもつ寺院である。

1416年(応永23)大森 頼春 ( よりはる ) の時、 禅秀 ( ぜんしゅう ) の乱が起こった。この乱は、鎌倉公方の管領をやめた上杉 氏憲 ( うじのり ) (禅秀)が、氏満の後をついだ御所(公方)の足利 持氏 ( もちうじ ) に反乱した事件である。持氏はこの時鎌倉から小田原に逃れて来たが、土肥・土屋・松田・河村氏など西湘の武士のほぼすべてが禅秀に味方したので、大森頼春に救いを求めた。そして、頼春の働きで駿河(静岡県)の大名の今川氏の援軍が来て、持氏はこの乱をしずめることができた。この手柄で頼春は、土肥氏や土屋氏などに代わって、小田原地方を支配し、小峰山に小田原城を築いた。

大雄山最乗寺

持氏は禅秀の乱をしずめると、禅秀方についたものを厳しく責めた。このことは京都の将軍家の警戒するところであり、京都と鎌倉の間の空気は緊迫した。頼春の後を継いだ大森 ( のり ) ( より ) は、三浦半島の三浦氏と並んで西側の要として持氏に重用されたが、1437年(永享9)には河村氏の ( ) る河村城を落として、小田原から足柄平野一帯箱根の北麓地方までを支配した。そして、その翌年ついに室町将軍足利義教が関東公方持氏を攻める 永享 ( えいきょう ) の乱が起きると、来攻する今川氏以下の軍勢と箱根で戦っている。この結果、持氏は敗れて自殺し、関東地方には主人がいない混とんとした情勢が生まれ、乱世の様相をおびてくるが、大森氏の支配には変化はなかったようである。ただ、この永享の乱が終わって間もない 嘉吉 ( かきち ) 年間に、大森頼明の第三子で頼春の弟にあたる 安叟 ( あんそう ) という禅師が、久野に総世寺、早川に海蔵寺を建立している。さらに時代は下るが、湯河原の保善院、塔の峰の 阿弥陀寺 ( あみだでら ) も安叟が建てた。頼春の弟で安叟の兄になる証実は、箱根権現の別当*となっており、大森氏が箱根山の周辺を政治的に支配している時に、寺院を建立して、支配下の領民の精神的安定を図っていることは注目される。大森氏が最盛期を迎えるのは、頼春の子氏頼が城主になった時である。その領地は相模川以西から駿河にわたり、三浦氏とも姻戚関係を結んで、南関東では有力な武家となった。

*別当(大きな仕事を統括した僧)

4 小田原北条氏と小田原 ―室町(戦国時代)・安土桃山―

 室町時代の中頃1467年(応仁元)に、京都を中心に始まった「応仁(おうにん)の乱」は、以後、約100年にわたる戦国時代の幕開けとなった。戦乱は全国に広がり、実力のある家臣や地侍が旧来の主君を倒す「下剋上」といわれる風潮が全国的に広がっていった。こうした情勢の中で、一定の領域を実力で支配する戦国大名が現れてきた。小田原北条氏はその代表といえる。

 関東地方では、この応仁の乱以前に「上杉禅秀の乱」や「永享の乱」が起こっていて、すでに乱世の状況であった。永享の乱の後、鎌倉公方になった足利成氏(しげうじ)は、関東管領上杉氏によって鎌倉から下総(しもうさ)(茨城県)の古河に追いやられてしまい(古河公方)、関東の実権は管領の上杉氏が握っていた。その上杉氏も、長享の乱以降、憲房の山内家と一族の扇谷家とが対立し、関東の豪族もどちらかに属して互いに争うようになった。

この情勢の中で、勢力を盛り返してきた古河公方足利成氏に対抗するために、室町幕府は八代将軍足利義政の弟政知(まさとも)を関東の主として送り込んだ。政知は、鎌倉が戦乱で荒廃していたので、伊豆の堀越(伊豆の国市)に御所を構えた。これを堀越公方という。関東地方は2人の公方(古河・堀越)と2つの上杉氏(山内・扇谷)が対抗するという混乱状態に入ってしまったのである。

両上杉氏系図
15世紀後半の関東の勢力図

1 北条五代

早雲(そううん)登場(とうじょう)

早雲の出生については、従来、多くの説があったが、(びっ)中国(ちゅうのくに)江原(えはら)(しょう)(岡山県)の高越山(たかごしやま)城主、伊勢盛定(もりさだ)の子盛時(もりとき)とする説が現在では最も有力視されている。

盛時は九代将軍足利義尚(よしひさ)に仕えていたが、1476年(文明8)駿河を治めていた今川義忠の戦死によって今川家の家督争いが起こると、義忠の正室であり、盛時の姉北河(きたがわ)殿の生んだ竜王丸の後見人として争いを解決した。そして後に竜王丸が今川(うじ)(ちか)となり家督を相続すると興国寺城(沼津市郊外)を与えられ、その後、今川氏の勢力を背景に、伊豆の堀越公方足利茶々丸を滅ぼして、韮山城を本拠にして伊豆一国を支配する勢力に成長した。

伊勢盛時は「北条早雲」の名で呼ばれることが多いが、盛時自身が「北条」と称したことはなく、「伊勢」の名字が「北条」に改められるのは子の氏綱の時である。また、「早雲」というのは「早雲庵」という、盛時が出家後に営んだ庵の名であり、出家後に称した法名(ほうみょう)は「宗瑞(そうずい)」である。歴史上の人物の呼称は、当時の名字と実名(法名)を合わせて呼ばれており、「伊勢宗瑞」と呼称するのが妥当であるが、本書では、一般になじみの深い「北条早雲」で記述したい。

湯本早雲寺と北条五代の墓

湯本早雲寺と北条五代の墓

1494年(明応3)、扇谷上杉定正(さだまさ)は、山内上杉氏との戦いの際に不慮の事故で死去し、三浦地方の豪族三浦時高(ときたか)も暗殺されるなど、扇谷上杉氏の勢力は次第に弱まっていた。このような情勢の時に、扇谷上杉氏の有力な部下であった小田原城主大森氏頼(うじより)も病死した。後を継いだ藤頼(ふじより)は領国を支配できる実力もなく、1501年(文亀元)までには、早雲に小田原城を奪われてしまった。

早雲は小田原城を奪取したのち、足柄地方に勢力を持つ松田氏などの豪族を従わせて実力を蓄え、1516年(永正13)三浦半島の三崎城の三浦(よし)(あつ)(道寸)を3年がかりで攻め滅ぼし、相模一国の支配に成功した。

そして、1519年(永正16)8月15日、早雲は、伊豆の韮山城でその波乱に満ちた生涯を閉じ、あとを継いだ氏綱(うじつな)が建立した湯本の早雲寺に葬られている。

小田原北条氏の発展と領国支配

早雲のあとを継いだ氏綱は、本拠地を韮山城から小田原城へと移し、1523年(大永3)には、名字を「伊勢」から「北条」に改めている。氏綱は伊豆に加え相模の国主となったが、正当な相模国主は守護職を継承している扇谷上杉氏であり、伊勢氏は関東ではよそ者の侵略者と見られていた。前時代における相模の正当な支配者であった執権北条氏の名跡を継承することで、自らの相模支配の正当化を図っていったといえる。歴史上、小田原の北条氏を、鎌倉執権の北条氏と区別するため、小田原北条氏と呼ぶ。 氏綱の次の目標は武蔵(神奈川県東部・東京都・埼玉県)の支配であった。1524年(大永4)に扇谷上杉朝興(ともおき)の家臣、太田資髙(すけたか)を味方にひきいれ、江戸城を攻略した。江戸城は当時関東平野の流通を担う重要な河川が集まるところでもあり、氏綱は江戸城を拠点に武蔵北部や下総(千葉県)への侵攻を進めていった。 氏綱の行った多くの戦いの中で関東支配に大きな足がかりとなった戦いが、1538年(天文7)の第1回国府台(こうのだい)合戦である。この戦いで、古河公方足利晴氏(はるうじ)を助けて勝利した氏綱は、晴氏に娘を嫁がせ「足利氏御一門」となり、関東管領職を獲得し、関東における政治的地位を著しく向上させた。 1541年(天文10)氏綱は55歳で没したが、伊豆・相模に加えて駿河の富士川以東、武蔵南部、さらに上総・下総の西部から上総(かずさ)下総(しもうさ)安房の西北部にまで勢力を拡大していた。氏綱の跡を継いだのは嫡子氏康(26歳)である。その頃、甲斐(山梨県)には武田信玄が、越後(新潟県)には長尾景虎(後の上杉謙信)がそれぞれの領国を支配していた。氏康は、これらの戦国大名と、時には争い、時には和を結びながら関東地方の支配体制を充実させていった。

氏康最大の危機は、山内上杉憲政(のりまさ)が扇谷上杉氏や足利晴氏に呼びかけて、連合勢力を結集し小田原北条氏に対抗した時である。憲政はさらに今川氏や武田氏とも同盟を結び、氏康は孤立してしまった。1545年(天文14)氏康が今川氏と戦っているすきをついた憲政・晴氏の連合軍約8万が、武蔵川越城を取り囲んだ。

領国の東西から攻撃を受け、晴氏にも見捨てられた氏康は、この窮地(きゅうち)を脱するためにまず、富士川以東の領地を放棄することを条件に、今川氏・武田氏との講和を成功させた。その後、手兵約8,000をひきいて川越城の救援に向かった。しかし、10倍の敵にすぐに合戦を挑まずに、「籠城している3,000の兵の命ばかりは助けてくれ、その代り、城と領地は差し上げる」と申し出ている。これは相手を油断させるための計略ともいわれるが、定かではない。この川越合戦の経過については不明の点が多いが、激戦の末、小田原北条軍の大勝利となり、扇谷上杉(とも)(さだ)は戦死し、扇谷上杉氏は滅亡した。山内上杉憲政は、上野(こうづけ)平井城(群馬県)に逃れ抵抗をしたが、後に越後の長尾景虎のもとに逃れた。この戦いを機に、関東の有力な領主が小田原北条氏の傘下に入り、上野国も小田原北条氏の支配下に入った。氏康は、その後いくたびか戦ったが、戦いばかりでなく、支配下にある百姓の保護をはじめ、職人や文化人などの活動をさかんにし、いくつかの改革をしながら民政を行なった。その一つ、税制について述べてみよう。

小田原北条氏の税制は、図に示したような仕組で、小田原北条氏が直接治めている御領所と小田原北条氏の家臣に与えられる知行地(ちぎょうち)とに分れ、いずれも本年貢(ほんねんぐ)(本税)と賦課(ふか)税((やく)(せん))が課せられていた。そのうち小田原北条氏へは、御領所の両税と知行地の賦課税が納入され、知行人(小田原北条氏の家臣)には、知行地の本年貢の徴収(ちょうしゅう)が認められた。
本年貢は、田・畑に課せられる税金で、「四公六民」といわれ、収穫高の40%を納めた。1550年(天文19)に、相模・武蔵に出した命令に、「領国中の諸郡が不作なので、今年の4月から村々の公事(くじ)(雑役)を免除する。今後は、いままでの諸点(しょてん)(やく)(一国平均の課税)は廃止して、新しく百貫の地より六貫文(6%)の役銭を徴収する。……(中略)…… そしてこの地には、今後はどんなにこまかい徴収も百姓らにしてはいけない。……(中略)…… 百姓らに諸公事をかける者がいたら、百姓らは小田原に直訴(じきそ)せよ」というのがある。

つまり、知行人が、小田原北条氏の許可なく勝手に税をかけているのをきびしく取り締まり、知行人の横暴(おうぼう)を抑えようとしたものである。

このほか、城の修理や道路作りなどにかり出される普請(ふしん)(やく)というものがあった。これは、百姓に限らず職人にも課せられており、1日遅れると罰として5日間働かされた。また、百姓や職人は、戦いが始まれば城の守備要員等として動員された。百姓は戦国大名の経済的な基盤(きばん)であると共に、戦力という両面をも担っていた。それだけに苦しい生活が続き、村を逃げ出す逃散(ちょうさん)や年貢を取り返そうと訴える者が出た。こうしたところから、小田原北条氏の税制改革が行なわれたり、氏康によって、逃げ出した百姓を帰農(きのう)させるための「人返(ひとがえ)(れい)」が出されたりしたのである。

小田原北条氏の税制 御領地(北条氏の直轄地) 本年貢(本税) 米納 賦課税(役銭) 知行地(北条氏の家臣の領地) 本年貢(本税) 知行人 支城へ 賦課税(役銭) 本城(小田原)へ納める

また、戦いに備えるため、各地の侍や職人の(かん)(だか)を基準に軍役を定めてもいる。それらは支城ごとにまとめられたが、今日「小田原(しゅう)所領(しょりょう)(やく)(ちょう)」といわれて、家臣団の規模や兵力を知る貴重な資料となっている。 1561年(永禄(えいろく)4)、早雲以来一度も攻められたことのない小田原城は、約10万の大軍に取り囲まれた。長尾景虎の小田原攻めである。彼は、鎌倉を奪回(だっかい)し、関東管領職に就任しようとする考えからこの作戦を行なった。三国峠(群馬・新潟県境)を越え、沼田城・厩橋(うまやばし)城(前橋市)などいくつかの城を攻め落し、小田原城外に迫った。氏康・氏政(うじまさ)父子は、兵を城内に集結させ、籠城戦法をとる一方、武田氏に応援を求め、景虎の後方を攻めさせた。景虎は、連日激しく攻めたが、突破口を開くことができないままに兵を引きあげた。

景虎は帰途鎌倉八幡宮に参詣(さんけい)し、そこで上杉(まさ)(とら)と改名し、同時に、正式に関東管領職に就任した。

1569年(永禄12)、こんどは武田信玄が攻めてきた。この時も、小田原(がた)は籠城戦法を用いて対抗した。兵糧(ひょうろう)に困った武田方は、海岸を通り、風祭(かざまつり)村に火を放って引きあげた。追撃に移った小田原北条軍は、津久井(つくい)郡と愛甲(あいこう)郡の境にある三増(みませ)峠で武田軍と激しい戦いを行なったが、山岳戦に強い武田軍によって、約3,000の犠牲を出して大敗した。このように、2度にわたって城を囲まれてもよく守った氏康は、その後、1571年(元亀(げんき)2)、57歳の生涯を閉じた。家督(かとく)は永禄4年、嫡子(ちゃくし)の氏政が継いでいた。

小田原城の規模

小田原城は、箱根外輪山の裾野(すその)が、東の海岸に 張り出した丘陵の先端と前面の平地とを取り入れた「平山城(ひらやまじろ)」である。さらに、城下町を囲む(そう)(がまえ)という土塁(どるい)と堀がめぐらされている(だい)城郭(じょうかく)であった。この土塁は、東の山王川河口から渋取川に沿って北西に向い、西は箱根外輪山の先の丘を取り入れ、城の南の低地を包み早川口に達していた。東西約3㎞、南北約2㎞、外郭線の延長 約9㎞といわれ、後の大阪城や江戸城と並ぶくらいの大きなものであった。平山城の形式は、中世から近世へ移る途中の城郭(じょうかく)建築で、その代表的なものとしては、尾張(愛知県)の犬山(いぬやま)城があげられるが、小田原北条氏の小田原城は、総構で城下町をすっぽりと包む広大なものであった。

総構の各所には、山王(江戸)口・板橋(上方(かみがた))口・井細田(いさいだ)口・ 谷津(やつ)口・早川口などの城門を設けていた。この総構は、のちに豊臣(とよとみ)秀吉の小田原攻めに備えて、整備造成が行なわれたもので、秀吉や家康でさえも破ることができなかった。現在でも、市内浜町の蓮上 院や城山公園内の慰霊塔(いれいとう)付近に史跡として残っている。徳川家康は、天下を統一した後、小田原城二の丸・三の丸の城門 や櫓を壊してしまった。それは、大名が大軍を小田原城に集結させ て籠城するということを非常に恐れたためといわれる。 小田原北条氏は、山王口付近に「(ささ)曲輪(くるわ)」という構をつくった。自然の河川を利用したり、水路を掘りめぐらしたりしていた。小田原攻めの時に家康の部将井伊直政(いいなおまさ)が、70日かけてやっと占領したといい、規模は小さいが守りに徹した曲輪であった。

また、小田原北条氏は、領国内に多くの支城を設けていた。代表的な支城としては、岩付(いわつき)城(埼玉県岩槻市)・川越城・(おし)城(埼玉県行田市(ぎょうだし))・鉢形(はちがた)城(埼玉県寄居町(よりいまち))・江戸城・八王子城・玉縄(たまなわ)城(大船付近)・韮山城などがある。 この中で、忍城は、荒川や利根川の支流をうまく利用したり、人工の水路や周囲の水田を巧みに利用したりして守りを固めた「沼城(ぬまじろ)」という性格が強かった。小田原攻めの時は、付近の百姓や職人がすべて城内にこもり、小田原城落城後も約半月、秀吉の武将石田三成(いしだみつなり)らの軍に抵抗し続けた。

小峯御鐘台大堀切東堀
城山公園の奥にあり、堀の両側が土塁となっている。

小田原北条氏の滅亡

氏康の後の氏政・氏直(うじなお)の時代にはうち続いた戦国時代も終りに近づいてきた。織田信長(おだのぶなが)の京都上洛(じょうらく)と室町幕府 の滅亡1573年(天正元)、そして尾張の一足軽の子から身をおこした豊臣秀吉は、天下統一への動きをさらに前進させた。主君織田信長の後を受けて数多くの敵を滅ぼした後、九州の島津(しまづ)氏をも従わせた秀吉は、次に残った関東を支配しようとしていた。小田原北条氏も、近い将来、秀吉の小田原攻めは必至(ひっし)であると考え、城の内外の修理、武器の増産、食糧の貯蔵、民兵の召集などを行なった。例えば、1589年(天正17)7月、小田原城内に、大きな倉庫を作るため、愛甲郡の百姓に木材の切り出しを命令したり、翌年の1月には、城の大修理を武蔵の住民に命令するなどの記録が残されている。秀吉が小田原を攻めるきっかけとなったのは、1589年(天正17)、真田氏の領地である上野名胡桃(なぐるみ)城をめぐる事件であった。この頃、名胡桃城を含む沼田領は、真田昌幸(まさゆき)が支配していたが、小田原北条氏は以前からこの地を欲していた。

1582年(天正10)、氏直と家康の話し合いで、上野を北条領とすることになったが、真田氏は、先祖ゆかりの地である沼田領の引渡しに応ぜず、未解決のままになっていた。その後、秀吉は、氏政の上洛を勧めていたが、氏政父子は応じなかった。そこで秀吉は、沼田領の3分の2を北条領とするという条件で、氏直の上洛を約束させた。しかし、氏直が上洛しないうちに、小田原北条氏は、部下の手で真田に与えられた名胡桃城を占領してしまった。

小田原北条氏の関東支配図 (「図説 小田原・足柄の歴史」より)

そこで、1589年(天正17)11月24日、秀吉は「北条こと、近年公儀(こうぎ)をあなどり上洛いたさず、ことに関東において我意(がい)にまかせろうぜきの(じょう)是非(ぜひ)におよばず……」という激しい調子の宣戦布告(せんせんふこく)状を氏直に送った。1590年(天正18)3月、秀吉は、約22万の大軍を率いて、小田原攻めを開始した。守る北条軍は、各地の支城に兵の一部を残し、約6万の兵を小田原城に入れて、籠城戦法で対抗した。伊豆の韮山城、箱根山中の山中城等を最前線として、秀吉軍に当たったが、 4月4日には、小田原城は陸・海とも完全に包囲されてしまった。

小田原合戦 東西両軍態勢図

包囲後互いに継続的な攻撃は行うが、小田原北条方は防備を固め豊臣方の攻撃に備え、豊臣軍も兵糧攻めによる持久策を進めたため戦いは長期戦になった。秀吉は、本陣を湯本の早雲寺から早川の石垣山に移し、城づくりを始めた。6月のある朝、北条方の兵士は、石垣山の山頂に今まで見たことのない城が一夜のうちにできているのを大いにあわてたと伝えられている。これが「太閤の一夜城」といわれている石垣山一夜城であるが、実際には80日かかって造られた関東で初めての総石垣の城であり、秀吉が小田原城を簡単に落とせないと思っていたことをうかがわせるものである。

石垣山の一夜城跡

長期戦は、外からの援助がなければ、囲まれている方が不利になる。連日、豊臣方から降伏の呼びかけが行われた結果、降伏する者や裏切る者が現われ、ついに氏直は、7月5日降伏を決意し、使者黒田孝高を通して秀吉に申し入れた。7月6日、小田原城は明け渡され、秀吉は13日に城内に入った。この間、家康と外戚関係にある氏直を除いて、氏政・氏照(氏政の弟、八王子城主)、重臣の松田憲秀(のりひで)大道寺政繁(だいどうじまさしげ)は切腹させられた。早雲の伊豆平定以来、約100年にわたって関東を支配した小田原北条氏も、ついに滅亡した。氏直は、約300人の家来とともに高野山(和歌山県)に追放され、1591年(天正19)30歳でその生涯を閉じた。

なお、氏直とともに追放された従兄弟の氏盛は、秀吉と家康に仕え、河内(かわち)狭山(さやま)藩(大阪)の大名となり、のちに1万1千石の所領を与えられて明治維新まで小田原北条氏の家系を継続させている。小田原の役の後、秀吉から関東地方を与えられた家康は、駿河を去って江戸を本拠にして関東を支配し、小田原城主には家康の三河以来の家臣(譜代)の大久保忠世(ただよ)が任命された。この戦によって、秀吉は伊達政宗など関東・東北の大名を戦わずして服属させ、全国の大名に秀吉の権力に武力で対抗できないことを認識させ、天下統一を実現した。

源頼朝の挙兵に始まった中世は小田原北条氏の滅亡で終わったといってよい。小田原はその両方に深い関係があったのである。徳川家康が江戸に幕府を開くのは、小田原の役から13年後の 1603年(慶長8)である。

氏政と氏照の墓
小田原駅の近くに残っている

小田原北条氏系図

2 小田原の繁栄と文化

産業の発展

⑴鶴岡八幡宮の再建 東国武士の尊崇(そんすう)の的であった鶴岡八幡宮は、1526年(大永6)里見氏によって焼かれたが、 1540年(天文9)北条氏綱によって再建された。氏綱は、領民から寄付と人夫を出させ、家臣に工事を分担させ、京都・奈良の大工・塗師(ぬし)遠江(とおとうみ)(静岡県)の檜皮(ひはだ)()などを招いて工事を行なった。 9年がかりの大工事の完成は「八ヶ国の大将軍たるべきこと疑いなし。」と記されたほど、氏綱の声望を高めた。

氏綱はすでに、早雲寺や箱根権現等を建てていたが、鶴岡八幡宮の造営で、さらに高い技術をもつことができた。招いた職人たちを、小田原や支城下等に定住させると共に、彼らを棟梁(とうりょう)に任じて、職人の組織づくりを進め、戦国時代の小田原文化の基礎を固めた。「小田原衆所領役帳」によると、鍛冶(かじ)・大工・石工その他各業種にわたる28人の職人集団が、領地を与えられ、武士身分の待遇を受けていた。彼らは棟梁として配下の職人に号令し、小田原北条氏のために働いたのである。一般の職人たちは、城下町に集団で住むようになっていくが、村に住む者も多かった。伊豆国松崎(静岡県)の船大工は「1年に30日間は、材料の支給を受けて奉仕せよ。もし30日を超えた場合は、1日につき50文を支給する。どこで働いていても、万一の場合はさっそく奉仕せよ」とされていたが、他の職人たちもほぼ同様に、小田原北条氏の(しろ)普請(ぶしん)や武器つくりなどに一定期間奉仕し、その他の日は、一般からの注文を受けて働いていた。したがって、仕事のないこともあり、田畑を耕作するなど、不安定な生活をしていた。以下代表的な業種について見てみよう。

現在の鶴岡八幡宮

鋳物師(いもじ)と鍛冶 新宿町(しんしくちょう)(浜町)には、各地から移住した鋳物師たちが住んでいた。彼らは、(なべ)(かま)から大筒(おおづつ)(大砲)までいろいろなものを作った。山田二郎左衛門は、河内国(かわちのくに)(大阪府)から小田原に来て、小田原北条氏の領国内で鋳物商売の特権を与えられ、次いで鋳物師棟梁に任ぜられた。小田原北条氏と豊臣秀吉との対立が生じた頃から、鉄砲・鉄砲玉・中筒・大筒などを作った。1589年(天正17)末には、小田原・千津島(せんづしま)(南足柄市)など相模国の各地に住む鋳物師を指図し、20挺の大筒を1挺7日で製作するよう命ぜられた。刀鍛冶は、鍛冶(かじ)曲輪(くるわ)(小田原高校の辺り)に住んでいた。鎌倉時代の末期、すでに小田原で刀剣が鍛えられていたが、小田原北条時代になると「小田原相州(そうしゅう)」と呼ばれる刀剣が盛んに製作された。名作としては、静岡県の重要文化財に指定された「相州小田原住義(じゅうぎ)助信(すけのぶ)(さだ)永正18年」(1521年)の銘がある短刀が古いものである。

作者義助は駿河(するが)国島田(静岡県)出身の刀工で、彼の一門と正宗の系統を継いだ綱広の一門が競っていたと言われる。氏綱が鶴岡八幡宮に奉納した、綱家・綱広・康国の太刀(たち)も名作であり、現存している。なお、2代綱広は、鍛冶棟梁であるが鎌倉に住んでいた。また、甲冑(かっちゅう)製作では、甲斐(かい)国(山梨県)から来住した明珍(みょうちん)家が名高い。「小田原(ばち)」と呼ばれる(かぶと)の名品の一つが小田原城天守閣に展示されている。奈良から移住した春田家も栄えた。さらに、武具製作には欠かせない皮職人や刀の(つか)作り職人なども集められ、それぞれ領地などが与えられていた。なお、1841年(天保12)にできた「新編相模国風土記稿」によると、酒匂鍛冶(かじ)(ぶん)には「もと鍛工(かじく)四十二軒余住居せしが今は七戸のみ」と記されており、この地が鍛冶の大集落として栄えたのは、小田原北条氏の時代だと考えられる。

小田原鉢

石工(いしく)紺屋(こうや) 共に板橋に住んでいた。石工は、築城形式が変化して、石垣を用いるようになると大きな役割をになった。このため、江戸時代には小田原から真鶴・湯河原にかけての石材業が有名になっていった。「新編相模国風土記稿」によると、青木氏の祖先石屋善左衛門は、駿河国の石工であったが、早雲に招かれて石工の棟梁になった。各地の地理に詳しいので、早雲の出陣ごとに道案内として従い、国々にいる配下の石工に隠密(おんみつ)の軍務を命令している。氏政から黄瀬(きせ)川(静岡県)の近くに領地を、また板橋に広大な宅地をもらい、そこに配下の石工たちを住まわせていた。しかし、従わない石工もいたらしく、「なまけた石工の名前を書き出せ、島流しにするぞ」と命令したりしている。染色業者である紺屋(こうや)は、地方の村で最も早く独立した職業であった。大森氏の浪人であった津田藤兵衛は、画才を早雲に認められて、旗や(のぼり)の染工になり、京都に上って朝廷の服を染め「京紺屋」の号を賜わり、はじめて柿色(かきいろ)を染め出してもてはやされたと伝えられている。1530年(享禄3)より「小田原紺屋大工」として、伊豆・相模両国内の紺屋から、1軒400文ずつの税を取る特権を与えられた。

⑷小田原名産の起源 漬物は、この時代に起こったらしい。天正年間に美濃(岐阜県)から移って、筋違(すじかい)橋町(南町)に出店した美濃屋吉兵衛が「しおから」を作って売り出したのが、江戸時代の小田原名産「しおから」のはじまりだと伝えられる。しかし、「梅干し」が作られたのはさらに古く、小田原北条氏が、腐らない副食物として戦場で用いたのがはじまりだといわれている。

箱根物産と呼ばれる木工品生産が、確かな記録に現れるのは、小田原北条氏が畑宿(箱根町)にあてた1556年(弘治2)の文書である。これによると、早雲が免税などの保護を与えてからも、なお逃げ出す者がいるので、この年に、領国内で自由に商売してよい事、一切の税をかけてはいけない事を再確認したことがわかる。この時代は、ろくろを使って汁椀やお盆などを作っており、箱根で玩具(がんぐ)漆器(しっき)が製作されるのは、江戸時代以降のことになる。

⑸漁業 漁業が産業といえるまでに発達したのは、江戸時代に入ってからだといわれる。しかし、小田原では、小田原北条氏の時代、(せん)()小路(こうじ)(本町)の辺に漁村が成立していた。船方(ふなかた)(むら)と呼ばれたここの漁民たちは「小田原の海賊(かいぞく)」と呼ばれた小田原北条氏の水軍の働き手でもあった。

この頃の文書によると、国府津では、引網や釣による漁が行なわれており、船主は、1船当り月250文の税を氏康夫人の台所用として現物で納めていた。250文は、大鯛8匹分である。小田原城の台所では、塩あるいは無塩の鯛のほかに、なま干しにしたかつお・あじ・いわし・いなだ・あわびなどを用いていた。また、小八幡でもすでに漁業を行なっており、鯛を納入している氏直の名代(みょうだい)で上洛し、豊臣秀吉を訪れた北条氏規(うじのり)が、かつぎと呼ばれた真鶴の海士(あま)20人に、三崎(三浦市)で「のしあわび」を作らせてみやげにしたとも伝えられる。なお、江戸時代に書かれた「小田原北条盛衰記」によると、氏綱が西国から漁師を呼び、地獄網という大網で海底の魚や貝を採らせたとあるが確証はない。

(いち)と貿易 「だるま市」で名高い飯泉観音の門前市は、古くから開かれていたが、小田原北条氏は、1562年(永禄5)「一、税をかけてはいけない。一、無理に買い取ったり、乱暴したりしてはいけない。一、けんかや口争いをしてはいけない。」という法度(はっと)を出して、土地の領主や特権商人をおさえ、領国経営に役立てるようにした。小田原北条氏は、城下町やその近くの市とは別に、1564年(永禄7)以後、月に6回市が開かれる「(ろく)(さい)(いち)」を新田地域などの各地に設けた。六斎市は、いわゆる楽市(らくいち)で、すべての税を免除し、特権的な商人を占め出し、新しい商人や農民が集まりやすくしたものである。小田原北条氏が六斎市を設けたのは、農民からの税を永楽銭などの(ぜに)で取るために、銭の流通を広めたり、交通機関としての宿駅の整備、新田開発の促進などを行なったりするのがねらいであったと見られている。これらの市で売買された物は、塩・米・麦・布・木綿(もめん)(うるし)(かま)(くわ)などが主であり、唐物(からもの)といわれた輸入の高級工芸品もあったが、これらは、小田原北条氏や寺院などが買っていたようである。

「異本小田原記」は、「1566年(永禄9)唐人の船が三崎に来て、(にしき)・織物・焼物・香・宝石などを売って帰国したが、唐人の何人かは、残って小田原に住み、商人になった。」と記している。また「北条五代記」なども、「天正年間に三官という唐人が氏政の朱印をいただいて(みん)に渡り、永楽銭等を輸入した。」と伝えている。共に江戸時代の著書であり、確証はないのだが、早雲寺には中国から伝わった物も残っており、明との交易は行なわれたものと見られている。

「だるま市」として残っている飯泉観音の市

⑺ういろう 戦国大名である小田原北条氏は、関東の広大な領国を経営するために、有力な商人を取り立てた。その代表と見られるのが、外郎(ういろう)=宇野氏である。祖先は(げん)の臣であったが、帰化して足利将軍家の侍医となり、明に使して秘薬霊宝(れいほう)(たん)を持ち帰り、(とお)(ちん)(こう)=ういろうと名付けて売り出した。5代目で宇野氏を継いだ藤右衛門尉定治が、1504年(永正1)早雲に招かれて小田原に下り、氏綱に「この薬は、口臭を除き、睡眠(すいみん)を去り、命をのばす。」と言上して屋敷をもらって住んだと伝えられる。領国内での販売は無税という特権を与えられ、小田原北条氏の領国の拡大と共に商圏を拡げ、今成(いまなり)郷(埼玉県)の代官も勤めた。その子孫は、商人でありながら武士でもあり、次第に領地を増やすと共に、常に公用の馬3頭を与えられてこれを利用していた。小田原北条氏滅亡後の1630年(寛永7)でも当麻(とうま)(いち)(相模原市)に若衆21人を連れて参加している。

外郎(ういろう)家のような武士身分の豪商は、各支城下にもおり、隊を作って各地の(いち)を巡回している配下の商人たちを指図していた。そうした中で、すでに店が城下に軒を並べていたといわれる小田原は、公用の馬を用意している宿駅でつながれた道路網に支えられて、関東地方における商業活動の中心であったのである。

⑻農業技術の進歩 戦国時代は、動きの激しい時代であったが、その原動力は、農業技術の飛躍的な進歩であった。この時代、各地に農村鍛冶が生まれたので、鍬や鎌を農民が入手しやすくなった。牛や馬を飼う農民も増え、自分の考えで農業を行なうことが多くなった。水田では、米と麦の二毛作が、畑では、麦・大豆・そばなどの多毛作が行なわれ、肥料として山野の下草が用いられるようにもなり、「草木を勝手にとってはいけない。」という(おきて)がたびたび出されるようになった。新田開発の様子もかわった。1550年(天文19)の下中村上町(かみまち)(小田原市)の検地帳によると、有力農民の開発した田畑の脇に、小面積の田畑を持っている者がいる。これは、有力農民の家で働かされていたような農民が、暇を見つけては自然条件の悪い所にも田畑を開き、自ら年貢を納めることによって一人前の農民に向上しつつあることを示している。

開発は、主として山すその畑や谷合いの水田を開いた前の時代と異なり、大きな川の下流の平野にまで広がった。今井(寿町)の農民が開発したと見られる河原(かわら)新田(しんでん)(中新田)、農民剣持宗盤による曽比の再開発、農民善左衛門らが中心となって開発した新屋(あらや)村(中里)などが、小田原北条時代に開かれている。1618年(元和4)の新屋村の検地帳を見ると、耕地所有者が村の戸数の2倍を越える百余名に達しており、近くの村々の農民が、積極的に開発に参加していたことがうかがわれる。

しかし、強制までして新田開発を進め、各地に堤を築き、用水路を開いたといわれる小田原北条氏も本拠の足柄平野には、築堤などの記録も伝承も残していない。だが、この地方の生産力は、相模の国内では最も多く、平均10㌃当り150㎏を越える米の収穫高があったものと推定されている。さらに、この時代からわが国で栽培されるようになり、軍用品としても重視されていた木綿も、斑目(まだらめ)(南足柄市)・神山(こうやま)(松田町)などで栽培されていた。

戦国時代の小田原文化

⑴学問と文学 早雲は、戦国武将の中でも好学の将だった。「今川本太平記」の奥書には、早雲が各種の太平記を集めて比べ合わせ、それを足利学校(栃木県)に送って究明してもらったり、上京した時には、学者に朱筆を入れてもらって読み方を習ったりしたと書かれている。また、現在の「吾妻鏡」の基礎となった「慶長版吾妻鏡」の原本は、早雲以来伝えられた「北条家本吾妻鏡」であった。

足利学校は、儒学(じゅがく)を中心に易学(えきがく)・兵学などを講じていたが、氏康は、当時の校主九華(きゅうか)を尊敬し彼を援助した。九華は30年間もここで教育に当り、三千余の学僧や武士を教えた。また、鎌倉幕府の執権(しっけん)北条氏の滅亡以来荒れていた金沢文庫(横浜市)の蔵書を小田原に運んでその活用をはかり、足利学校に寄付したりしたのも氏康であった。

この時代、小田原でも和歌や連歌(れんが)が盛んに行なわれるようになった。早雲は、「歌道なき人は、無下(むげ)(いや)しき事なり。」と述べ、三浦氏を追って鎌倉に入った時、「枯るる木にまた花の木を植ゑそへて、もとの都になしてこそみめ」と、意気盛んな歌をよんだと伝えられている。1502年(文亀2)「新撰()玖波(くば)集」を編集して連歌を完成させた宗祇(そうぎ)が湯本で死んだ。その後も宗長(そうちょう)宗牧(そうもく)など連歌界の第一人者がたびたび小田原を訪れている。小田原北条氏は彼らを優遇し彼らを通して、京都の学問・文学だけでなく、有力大名の城下町に興りつつあった新しい文化をも吸収して行ったのである。氏綱は「田舎(いなか)連歌」と自称しながらも、早川の心明院(久翁寺)に宗長らを招いて、千句の連歌会をたびたび催したと伝えられる。氏康も戦陣の合間に歌を作って、京都の三条西実隆(さんじょうにしさねたか)に送り指導を受け、狂歌を作って志気を高めたなどと伝えられている。

侍たちも、京都から連歌師を招いて歌を学び、花見の歌会を開いたそうだし、軍略を論じた席で、集団戦における規律の重要さを歌で指摘した大石(ぼう)が氏政から足軽百人の将に抜てきされたとも伝えられている。

北条早雲像

北条氏康像

⑵芸能 1546年(天文15)3月22日、松原明神で盛大に(のう)が催された。宝生(ほうしょう)今春(こんはる)(おち)観世(かんぜ)金剛(こんごう)の小田原四座による()法楽(ほうらく)の能七番に次いで、納めは、四座の太夫4人によって四方の夷を切るといういわれのある泰平(たいへい)(らく)が舞われた。これは、前年来、関東の大軍に川越城を囲まれたりして窮地(きゅうち)に立たされた氏康が、諸社への祈願行事の打ち上げの催しだった。3日後出陣した氏康は「川越の夜討ち」で大勝したといわれる。

小田原四座を形成した役者たちは、早雲や氏綱の頃、京都を離れて領内の各地に住んだと伝えられている。()新宿町(あらじゅくまち)(浜町)の天十郎太夫は、早雲より名を賜わり、関八州の同職への触頭(ふれがしら)を勤めた。

荻窪(おぎくぼ)(まい)太夫(だゆう)治部(じぶ)左衛門(さえもん)は、1588年(天正16)末に公用の馬五頭を提供されて、鉢形(はちがた)(埼玉県)まで興行に出かけている。侍の中にも、余興に(のう)を舞ったりする者がいたそうである。

1589年(天正17)豊臣秀吉に背いて小田原に来ていた利休(りきゅう)の弟子宗二(そうじ)が、小田原北条氏の重臣板部(いたべ)岡江(おかこう)(せっ)(さい)に伝えた「山上宗二記(やまのうえのそうじき)」は、今日、茶道の書として最も権威のあるものだとされている。小田原にも茶の湯を流行させる基盤ができていたのである。「異本小田原記」は、その様子を「宗二によって茶の湯がことのほかはやり、早川・荻窪・久野などに茶室を作り、北条家の一門・重臣らが巡礼や虚無僧(こむそう)などの服装をして毎日出入りし、これを異風の茶の湯と呼んでいた。心ある人は不吉の兆候(ちょうこう)といったが、はたして数年のうちに北条家は滅びた。」と記している。

湯本の早雲寺は、氏綱が1521年(大永1)に建立した寺であり、小田原北条氏の文化遺産の宝庫である。有名な早雲などの三代画像や竜虎のふすま絵をはじめとした絵画、氏政使用の織物(おりもの)(ばり)文台(ふみだい)おおよび硯箱(すずりばこ)、氏政寄進の(せり)わんなど、この時代から江戸時代初期にかけての作品で、国や県の重要文化財に指定されているものを多数蔵している。

氏政は、截流斉(さいりゅうさい)と号して絵をよくし、水墨画の雪舟を学んだ雪村とも交わりがあり、狩野(かのう)(ぎょく)(らく)らを中心とした「小田原狩野派」と呼ばれる多数の画工を召抱(めしかかえ)ていた。画工たちは、寺社の建立に参加して絵を描き、明伝来の絵を模写したりして(わざ)を磨いて、関東から東北方面にまで影響を与えたといわれる。

早雲寺のふすま絵「虎」

⑶早雲寺殿二十一箇条 「小田原北条家の侍は、仁義をもっぱらとし、礼儀作法正しく、其様(そのさま)厳重ありて(ぎょう)()を乱さず、もし異様を好み、分限にすぎたるふるまいをなす者をば、人あざけるゆえ、律義(りちぎ)をたしなみ、君臣の礼いよいよ重んじたまえり。」と「北条五代記」が記している。こうした道徳性は、「早雲寺殿二十一箇条」と呼ばれる早雲の教えとかかわって成立したようである。

この教えは「仏や神を信ぜよ。夜は8時に寝、朝は5時に起きよ。家の中でも大声を出すな。家に居ても早く髪を結え。出仕の時は仲間の様子を見てから御前に出よ。暇があれば本を読み、馬に乗れ。上下万民にうそをつくな。良友は学問の友、悪友は碁・将棋・尺八の友。家に帰ったら家のまわりを調べよ。夕方6時には門を閉め、自分で火の用心をせよ。」など、家臣の心得を説いたものである。

特に第5条は「心をまっすぐ、やわらかに持ち、正直を信条とし、下の者は上の者を敬い、上の者は下の者を(あわ)れみ、ありのままな心持ちでいれば、たとい祈らなくても神の加護がある。」と述べており、「(つつ)しみ」を根本において、生活を自ら正して行くことをねらい、形式的な古い礼儀作法に代わって、新しい戦国武士の礼儀の本質を説いている。

「早雲寺殿二十一箇条」は、習字の手本として、関東で広く読み習われたというが、小田原北条氏の文教政策の基本に()えられ、侍たちに対して文武兼備を理想としながら、独特の文物・風俗を形成させていく。氏直の代には、正月7日の「お弓はじめ」の犬追物(いぬおうもの)、「鉄砲はじめ」その他の年中行事が催された。神社や寺院の門前ではもちろんのこと、道で会う人ごとにあいさつをかわすようになったそうである。また、「賢臣二君に仕へず」といって、侍たちは歯を黒く染めた。「小田原風」と呼ばれる髪型や着物の着付け、上下(かみしも)なども生まれたといわれる。

⑷戦乱の時代を生きた人々 まず、小田原北条氏随一の文化人であり、小田原北条文化の保護者でもあったといわれる北条(げん)(あん)の生涯を見てみよう。彼は、父早雲の小田原攻略の2年前、母の実家葛山(かずらやま)(静岡県裾野市)で三男として生まれた。小田原に移って間もなく、箱根権現に預けられ、大森氏出身の海実僧正から真言(しんごん)の学を学び、三井寺などにも遊学した。33歳頃箱根権現第40世の別当となったが、在任10年余で辞職し、僧籍のまま北条長綱と名のり、氏綱亡き後、氏康・氏政を武略で助けた。彼の領地は5千貫文余であり、一門中最大であった。50歳頃入道して幻庵と号した。

1545年(天文14)には、連歌師宗牧(そうぼく)と深い交わりがあり次の歌を残した。
「身をかへて(した)うとも知れ人がらに、なおなつかしき(そで)の別れ路」

幻庵は、技芸の素質に恵まれていた。伊勢氏相伝の鞍作りのほか、弓矢・庭の築山(つきやま)・茶ひきうす・尺八などの製作で名人といわれた。とくに一節切(ひとよぎり)の尺八は「幻庵切り」と呼ばれて流行し、天皇からも注文があったので、小田原の若侍がみな尺八を習ったと「北条五代記」が記している。幻庵は、小田原北条氏が滅びる8ヵ月前に久野の屋敷で死んだ。

97歳という長い生涯を小田原北条氏の盛衰と共に生きたのである。「北条幻庵おぼえ書」という文書がある。これは、氏康の娘が武蔵(むさし)の豪族吉良氏(きらし)に嫁いだ際、心得るべき礼儀作法を記して与えたもので、当時の関東武士の生活を示す貴重な資料である。「夫は上さまと呼び、なに殿と書きなさい。母は御たいほうと呼び、大かた殿と書きなさい。」などということから結婚式や年中行事の式法を懇切に説いている。

北条幻庵おぼえ書
(世田谷区立郷土資料館蔵)

戦国時代において、大名と大名の間での味方の約束は、多くの場合結婚を保証条件としていた。いわゆる政略結婚であり、小田原北条氏もこれを行なった。先の吉良氏へも氏綱の娘とその子、さらに氏康の娘を送り込んでいる。政略結婚の犠牲となったともいえる人に武田勝頼夫人がある。長篠(ながしの)合戦に敗れた勝頼は、小田原北条氏を恐れ、手をつくして氏政の妹を妻にした。しかし、勝頼は結婚の翌年、上杉謙信の死を機会に上杉景勝と結んで、謙信の養子となっていた氏政の弟景虎を自害においこみ、以後小田原北条氏とは敵になってしまった。「北条五代記」は、天目山で滅びる前「氏政の援助をとりつけてくれ。」という勝頼のことばに対して、夫人は「兄景虎を殺しておいて面目があろうか。」と答え、勝頼より先に自害したと記している。時に夫人は19歳。辞世の歌は、
「黒髪の乱れたる世にはてしなき おもいに消ゆる露の玉の緒」だが、戦乱の影響は、農民たちには、武士以上に大きいものであった。豊臣秀吉の小田原攻めが予想される頃、酒匂本郷に次のような動員令が出された。

〇侍でも百姓でも弓・やり・鉄砲、ない者は鍬でも鎌でも持って出よ。
〇15歳から70歳までの男子は1人残らず出てこい。
〇もし1人でも隠しておいたことが知れたら、小代官・百姓(ひゃくしょう)(がしら)を切る。
〇この度、心有る者は、やりを磨き、旗を持ち、よく働け、郷中で似合の望みをかなえてくださるぞ。
〇来る25日、飯泉河原へ小代官・百姓頭が連れて来て、公方(くぼう)の検使の前で帳面につけて帰れ。

農民は、戦が近づけば(しろ)普請(ぶしん)に出されることも多くなり、戦となれば戦場に動員され、味方にさえ家を焼かれたり、財産を奪われたりした。中には兵庫(ひょうごの)(すけ)・大学などの侍名を持ち、侍と先を争って「国の用に立つ」者や新田開発に努める者もある一方で、人夫を銭で免れようとしたり、(ひと)(あらた)めや年貢をごまかそうとしたりする代官や有力農民もあった。それぞれが、生活を守り向上させようと懸命であったのである。

桑原にある「おつむ塚」は、昭和になって再建されたものである。
碑面に「元亀(げんき)・天正の往時」「悲運に亡びし戦さ人の数多(あまた)かうべを集めて、吾等が祖先(ねんごろ)(とむら)い埋めしが此の塚の起因なるべし」とある。この辺は、謙信・信玄・秀吉らの小田原攻めのたびに戦場になった地で、戦死者を葬った塚が各所に残っており、今でも「(たたり)りの榎塚(えのきづか)」「崇り田」などと呼ばれて祭られている。山角町(南町)にある居神神社は、三浦義意(よしおき)を祭っている。「早雲に攻められて自殺した義意の首が、三崎から飛んで来てここの松にかみつき、3年間目を開いていた。ここを通る人が鬼にあって何人も死んだ。総世寺(そうせいじ)の僧が歌をよんだらようやく首が落ちた。その時、空から当地の守護神になるとの声がしたので、祠を建て鎮守(ちんじゅ)にした。」と「北条五代記」などに記されており、小田原北条時代より祭られていた。戦国の世に生きて滅びた人々を弔い続けた無名の人々が生み出した記念碑や伝説である。小田原が、関東地方を支配した小田原北条氏の本城の地であった時代、産業も文化も急速に花開いた。しかし、それらは、小田原北条氏の強力な政治権力と大きな経済力を支えるものとして育てられたものであった。したがって、小田原北条氏の滅亡によって、かつての繁栄は失われていったのである。

おつむ塚

5 藩領下の小田原 ―江戸―

 関が原の戦塵(せんじん)もようやく治まり、国内の統一を完成した徳川幕府は、各種の統制を厳しくして幕府の基礎固めを行なった。特に、全国に配置した大名の統制に意を用い、武家諸法度に違反した者を(きび)しく罰した。そのため、この時期には大名の取りつぶしや国替えが数多く行なわれた。

こうした政策は譜代(ふだい)の小田原藩にも及び、江戸時代を通じて藩主は大久保氏から番城(ばんじょう)期を経て稲葉氏へ、そしてまた大久保氏へとめまぐるしく代わるのである。また、幕府は封建社会の仕組を固めるために農民や町人の統制も厳しく行ない、特に封建経済の担い手である農民に対しては重い年貢や労役を課した。小田原藩政時代に生きた郷土の人たちも同様な苦しみを味わったのである。小田原地方は江戸中期以後、たび重なる災害に見舞われたこと、また東海道の主要な宿場として栄えた反面、助郷(すけごう)(やく)などの労役も加わり、苦難に満ちた生活であった。優れた農民指導者二宮尊徳が生まれたのも、このような時代の背景があったからとも考えられる。一方、小田原は江戸に近く、箱根の湯治場(とうじば)をひかえているので人の往来も多く特に文化の面で江戸とのつながりが強かった。これからこのような藩政期の小田原の移り変わりをたどってみよう。

1 城下町「小田原」

藩政の移り変り

城址に立つと、青く水をたたえたお堀とそれに影をうつ映す石垣、春ともなれば桜やつつじが満開に咲きほこり、もの静かな城下町の面影(おもかげ)を残している。この小田原は、小田原北条氏滅亡後、関東8か国を手に入れた徳川家康が1590年(天正18)三河以来の忠実な家臣、大久保七郎右衛門忠世を城主に任じた。初代城主忠世(ただよ)は、幼少の頃より家康の近くに仕え、幾度もの合戦に参加した徳川家創業期の功臣の1人である。忠世が小田原城を(たまわ)った時は、秀吉の小田原攻め終了直後であったため、戦の余燼(よじん)がまだ残り、その後始末(あとしまつ)は大変なことであったと思われる。2代城主忠隣(ただちか)は悲劇の主人公とも言える一生を送った人である。忠隣は幼時より家康、秀忠の2代の将軍に仕え、補佐役として幕府の基礎固めの重大時期に活躍したが、当時家康は大御所(おおごしょ)と称して引退していても、幕府の実権を握っていたので、2代将軍秀忠と家康の二頭政治の面が表われてきた。忠隣は将軍付の補佐役であったが、大御所付の補佐役は本多正信であった。当然2人の間に対立が始まり、忠隣は失脚して改易(かいえき)(罰を受け城を取り上げられること)となり失意のうちに1628年(寛永5)76才で配所(はいしょ)の滋賀県栗田郡中村郷で没している。忠隣は幕府の重要な地位についていたので、ほとんど江戸に詰めていて、領内の政治には直接手が回らなかったと思われるが、それでも酒匂(せき)の建設や鴨宮新田の開発などの大きな事業を行なったことが、当時の資料によって知ることができる。この改易事件に伴い、小田原北条氏が築き上げた小田原城の二の丸・三の丸の城門や櫓などが破壊されてしまった。家康が堅固な小田原城を恐れて、徳川家安泰のためにこれを破壊してしまったのであった。

大久保忠隣改易後、小田原城は番城となり幕府譜代の大名と旗本が次々と城番として治めた。この間一時阿部正次(まさつぐ)が城主となったが、1632年(寛永9)有名な春日局(かすがのつぼね)の子稲葉丹後(たんご)守正(のかみまさ)(かつ)が小田原城主に任ぜられ、番城期は終わるのである。稲葉氏が城主であった期間は正勝・正則・正通の3代で、初代正勝は小田原に来て約1年で病死、3代目正通も藩主になって4年目に越後国高田(新潟県)に転封されたので、稲葉氏3代53年間のうち2代目正則が一番長く城主であったのである。正則は35才で老中に任ぜられ24年間も中央政界で活躍した。正則は1633年(寛永10)の大地震の被害から領内を復興させる大事業に取り組んだ。被害を受けた天守は新たに三重のものとし、石垣・土塁を新たに築き直し、江戸時代にふさわしい城に造り替えた。現在の小田原城址公園は、この時の姿が元になっているのである。それと共に被害を受けた市街の復興と領内の寺院の再建にも力を尽くした。正則の行った寺院建築の中で最も大きなものは、1669年(寛文9)入生田に建立した紹太寺(しょうたいじ)である。寺の敷地は東西約1.2㎞、南北約1㎞に及ぶ広大なものである。父母の冥福(めいふく)を祈るため建立したものであるが、稲葉氏11万石の威勢を天下に示したものであったとも思われる。しかしこの寺も幕末の失火によって全焼し、今は遺跡を残すのみである。正則は1658年(万治元)より3年間全領地にわたり検地を行った。

大久保氏系図 ○印は小田原藩主

これを万治(まんじ)検地と言う。これは大地震による災害の復興に莫大(ばくだい)な経費がかかり年貢の増徴(ぞうちょう)の必要に迫られたことが大きな原因と思われる。また、この時代には名高い箱根用水の工事が行なわれた。江戸浅草の友野与衛門が中心となり行なったもので、箱根芦ノ湖の水をかんがいに利用するため、湖尻峠の山腹に全長1.34㎞の疎水(そすい)トンネルを掘る大土木工事であった。正則は61才の時、家督(かとく)を正通に譲り、1696年(元禄9)74才で病死している。稲葉正通の高田転封後、1686年(貞享3)老中大久保加賀守忠朝(ただとも)が、下総(しもうさ)国佐倉から着任した。忠隣改易より72年目にして再び大久保家が小田原藩主に返り咲いたわけである。3代将軍家光の時、徳川幕府創業よりの譜代の功臣である家柄をこのままにしておくべきではないとの考えが現われ、忠隣の孫(ただ)(もと)騎西(きさい)領(埼玉県)2万石より加納(岐阜県)5万石に封じ、以来各地を転封し続けてきたのである。老中職にあった忠朝は公務多忙のため、小田原賜城が決っても領地に来ることができず、その後十数年を経て初めて入城したとのことである。この時代はいわゆる天下太平の時代で、藩政は家臣に任せておいても大丈夫だったのであろう。忠朝死後、(ただ)(ます)が家督を継いで数年たった1703年(元禄16)小田原地方は大地震に襲われた。これ以後幕末まで小田原地方には天災が相ついで起き、平和な忠朝時代にかわって、苦難な藩政の時期を迎えるのである。 1707年(宝永4)は有名な宝永噴火(富士山大爆発)が起こり、このため田畑は荒れ、耕作不能地が増大した。藩は幕府に願い出て荒地を幕府に返してその替地をもらっている。このことがなければ藩の復興は不可能であったといわれている。忠増は1713年(正徳3)死亡したが、その藩主時代はまさに災害による苦しみの連続であったといえる。その子(ただ)(まさ)は、酒匂川の治水工事に着手した。以来代々の藩主は一度増水すると荒れ川となるこの酒匂川と対決することになるのである。1732年(享保17)忠方は病死し、忠興(ただおき)が家督を継いだ。その子忠由はその後を継いだが病弱でわずか7年で子の忠顕(ただあき)に家督を譲った。(1769年(明和6))この時、忠顕は10才の幼年であった。この時期はいわゆる天明の飢饉(ききん)で、政治・経済の面で幕府も藩も重大な時であった。この時代小田原藩 11万3,000石の石高は変らないが、領地の変動がたびたび行なわれている。災害のため荒地になった所を幕府に返し、その替地をもらったためである。このことからも当時いかに天災が多かったかを知ることができる。このような苦難な時期に生きた農民の中には、荻窪堰を完成させた川口広蔵や、少し遅れて二宮尊徳などの傑出(けっしゅつ)した人物が出ているが、これは単なる偶然とは思われない。忠顕は1803年(享和3)49才で没した。その後を継いだのが名君といわれる忠真(ただざね)聖謨(としあきら)である。忠真の藩主時代は42年間も続いたが、その間大阪城代、京都所司代を経て老中となり中央政界においても活躍をしている。忠真の人材登用には注目すべきものがある。領内においては二宮尊徳、中央においては幕末の外交官として活躍した川路聖謨や探検家間宮林蔵などがいる。また、藩校「集成館」を創設して人材養成にも力を注いだ。 1837年(天保8)老中首座に在職中、江戸藩邸において急死した。その時、「提灯(ちょうちん)がふっと消えたで娑婆(しゃば)が闇」という川柳が江戸市中に現われたといわれている。提灯とは忠真の事で娑婆とは世の中のことである。次いで忠愨(ただなお)が大久保家12代目の藩主となった。この時期は外国船の相次ぐ渡来により幕府は異国船討払令を出しており、小田原藩も海防の第一線に出て、浦賀水道を守っている。領内でも海防に力を注ぎ江川太郎左衛門に依頼して海岸に砲台を築いた。台場ヵ浜(浜町付近)の名はその名残りである。忠愨は1859年(安政6)に死亡、一男があったが幼くして死んだので、四国の松平(より)(たね)の弟、忠礼(ただのり)を養子に迎えて藩主とした。時あたかも幕末で、小田原藩にも動乱の波が押し寄せてきた。徳川譜代の大名としての小田原藩は、外様大名の薩摩・長州藩を中心とした朝廷側にやすやすとつくわけにもいかず藩論は右往左往した。箱根戊辰(ぼしん)の戦の責を負い忠礼は引退し、支藩荻野山中藩(厚木市)より12才の岩丸を迎え、名を忠良(ただよし)と改め小田原藩最後の藩主とした。こうして明治の廃藩置県を迎え小田原の藩政は終止符を打った。

城下町のようす

小田原北条氏が約100年にわたって作り上げた小田原の町は、江戸時代に入ると一時は活気を失った。しかし寛永10年の大地震で被害を受けたのを契機として、稲葉正則が新たな街づくりを行なったので、小田原北条時代のただ広くて農村的な景観をもっていた町から、まとまった城下町として完成されてきた。一方、江戸開府により東海道の利用者が増加したことと、箱根七湯の繁栄とで宿場町としても発展し、相州小田原宿の名は天下に知られるようになった。

1690年(元禄3)ドイツ人のケンペルは、長崎出島のオランダ商館付医師として日本に来て、オランダ商館の一行と江戸に行く途中小田原を通り、その印象を次のように書いている。「小田原の市街は門と番所を備え、その両側にはまことに見事な建物がある、町筋は清潔であり、糸を張ったように真直(まっすぐ)で、ことに中の通りはたいへん広い。」また「国王の住居は三重の白壁の()(ぐら)で輝いている。城のかたわらにはいくつかの寺もあり、いずれも町の北部に位置している。この地ではかおりのよい()仙薬(せんやく)(ういろう)が出来、小さな箱に入れて売り出している。ことに婦人は毎日それを用いて、口から良いかおりを発するとの事である。」そして「市民たちの品のよい服装、しとやかな振舞(ふるまい)、ことに婦人たちの優美な姿態(したい)から考えると、この地には、富貴(ふうき)の人々だけが住んでいて…」ケンペルにすこぶる好印象を与えたようである。市街は城を中心に、東・南・北の三方面は侍屋敷で城下の3分の 2を占め、町人の町は城の東南に、街道筋にそって軒を連ねていた。忠朝の頃は19の町と1つの村(谷津村)と侍屋敷を合せて、小田原府内と称し、町方の戸数は約1,100軒あったといわれている。三の丸にあった侍屋敷は、家老、年寄などの重臣が住み、三の丸の外側は重臣に次ぐ上級家臣が住んでいた。城の東の侍屋敷は中級侍の住居であった。足軽長屋は各街道に面して置かれていた。小田原府内の出入口は東海道では、東の江戸口と西の上方口、それに甲州街道の井細田口と3ヶ所にあった。これらは小田原防衛の要所であるので、道路を曲げ、木戸門を設け門内に番所を置いていた。

江戸時代の小田原

『小田原城とその城下』より(小田原市1990)

小田原の城下には寺院が多い。それは古くからの小早川・大森・小田原北条・稲葉・大久保と有力な諸氏がこの地を統治し、それぞれ自家の信仰する寺院を建立したからである。大久保氏初代の忠世が建立した大久寺は、2代忠隣が改易となったので一時さびれたが、大久保氏が復帰したので再建された経歴をもっている。また稲葉氏の建立した紹太寺は、初め城下の山角町(南町)に建立されたが、稲葉正則が府内の入生田の長興(ちょうこう)山に移転拡大した。その雄大な規模と美しさは、旅人の足を止めずにはおかなかったといわれている。紹太寺についてもケンペルは「イシウタ(入生田)村の左側にチョータイジ(紹太寺)と呼ばれる宏壮な一寺院がある。境内の敷地は方形の石で畳んであり、敷地の中の一側には美しい噴水があり、その反対側には金文字でチョートサン(長興山)と記してあった。」といっている。しかし、稲葉氏が高田に転封された後は衰え、幕末の火災以後は再建する者とてなく、(こけ)むした稲葉氏一族の墓があるのみで現在に至っている。

稲葉一族の墓所

2 旅と宿

にぎわう小田原の宿場

江戸から小田原までの道のりは20里(約80㎞)、朝、日本橋を出発すれば、2日目には小田原の宿場に到着する。

此川(このかわ)をこえゆけば小田原のやど引はやくも道に待ちうけて、やど引「あなたがたはお泊りでござりますか。」()()「きさまはおだわらか。おいらあ小清水か白子屋にとまるつもりだ。」やど引「今晩は両家ともおとまりがござりますから、どうぞ私方におとまり下されませ。」だんだん(うち)つれてほどなく小田原のしゅくにはいると、両がわのとめおんな。女「おとまりなされませ。おとまりなされませ。」』

これは、十返舎一九の「東海道中膝栗毛(ひざくりげ)」の一節で、旅館がたちならび、客引きの声もにぎやかな当時の小田原の宿場の様子がよくでている。

徳川家康は1601年(慶長6)、宿駅の制度を設け、特に江戸と京都、大阪を結ぶ東海道を主要道路として整備した。53の宿場を設け、各宿に人馬を置き、旅行者や荷物の運搬に当たらせた。小田原もこのときから、宿場としての役割を担うこととなった。17世紀も半ば過ぎになると宿場の施設も次第に整い、参勤交代の制度が設けられてからは、ますます交通が激しくなりその働きも高まってきた。1803年(享和3)「小田原宿明細帳」によると、旅館の総数は81軒、そのうち大名の泊まる本陣4軒、脇本陣4軒、一般旅行者の泊まる旅篭は73軒を数えるほどになっている。宿泊料は幕府が公定賃銀を決めて統制していた。それは、旅館の種類や、宿泊の条件などで異なっていたが、中期以後は相当に値上りをしている。

人馬の継立(つきだて)

小田原の宿場では、旅行者や荷物を上りは三島(荷物は箱根まで)まで、下りは大磯までの範囲で運んだ。これを人馬の継立といっている。継立の仕事をするところが問屋場である。当時、東海道沿いの小田原宿の長さは、東西20町56間(約2.3㎞)、道幅は普通は5間(約10m)であったが、この問屋場の前は人馬の出入が多いので、特に広くなっていた。運賃は幕府が決める公定賃銀であったが、地域や道路の事情などにより、各宿一定ではなかった。小田原宿の場合、1711年(正徳元)の公定賃銀によると、人足賃は三島まで280文、大磯までは90文であったがこれも宿泊料と同様に時代が下るにしたがって次第に高くなっていった。

ただ幕府の命令で旅に出る公用の旅行者からは料金を取らなかった。この時代、公用の旅行者が多く、継立の一切の仕事をしている問屋場の役人は出費がかさみ、財政の赤字に苦しみ、その悩みを幕府に訴えたこともある。そのため、幕府も宿場へ米を与えたり、貸付金などにより援助をしている。

酒匂の川越し、箱根の山越え

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川。」という歌があるが、この大井川と同じように酒匂川にも橋がかかっていなかったので、旅行者にとっては難儀であった。徒渉(ともわた)しといって川越し人足に渡してもらい賃銭を支払うのである。

酒匂川越しの図

しかし、川が氾濫したときはもちろんのこと、雨のため増水し、一定の深さに達すると川留(かわどめ)めになる。そのたびに旅行者は両岸の村で減水するまで待たなければならなかった。
五月雨(さみだれ)や、酒匂でくさる初なすび」 其角
川留めは、五日から長いと1か月にも及ぶ。長い間滞在する旅行者の中には旅費をすっかり使い果たすものも出てくる。それにも増して、迷惑であったのは宿場でもない酒匂村であった。にわかに名主宅が本陣になったり、農家が旅篭(はたご)の役割を果たしたりした。両岸の村では、正税以外の諸役の代わりに川越し人足をつとめていたが、川留めのときにはこのように旅行者の世話までしたのである。酒匂の川越しとともに、困難であったのは箱根八里の山越えであ る。小田原宿の箱根口から、湯本三枚橋を渡り、いよいよ山道にかかる。箱根宿までは文字どおり天下の険で、深い渓谷や「どんぐり坂」「さるすべり坂」などと呼ばれる危険な坂もあって旅行者を悩ました。17世紀後半から幕府は大金を投じて石を敷きつめて歩行の便を図った。今でもその一部が残っている。山越えに「かご」や馬に乗るものも多かった。この「かごかき」や馬を引く「馬子(まご)」を雲助と呼んだ。

箱根の石だたみ

険しい山坂に加えて箱根には検問(けんもん)の厳しい関所があった。1711年(正徳元)道中奉行の発した(おきて)によると、

一、関所を出入りするものには、(かさ)頭巾(ずきん)をとらせて通しなさい。
一、乗物で出入りするものは、戸を開けさせて通しなさい。
一、 関所から外に出る女は、くわしく証明書とてらしあわせて通しなさい。
一、 けがをしているものや、様子のあやしいものは、証明書がなければ通してはいけない。
―(略)―
関所の掟は、このように厳しいもので、この掟を破ると死罪になった。特に「(いり)鉄砲(でっぽう)出女(でおんな)」を厳しく取り締まった。これは、幕府に反乱を企てる者が、ひそかに鉄砲を江戸へ持ち込もうとするのを防ぎ、また参勤交代の制度で各藩の大名の妻を江戸に人質(ひとじち)として住まわせていたが、それが姿を変えて出ていくのを監視するためであった。 関所は「あけ六つ(午前6時)」に門が開かれ、「くれ六つ(午後6時)」に門が閉まった。関所を無事通過できれば、今度は下り坂となり、三島宿までの4里の道は楽であった。

関所跡

3 農村の生活と二宮尊徳

検地

江戸時代、小田原領内の農村ではどのような生活が営まれていたか、府川村(小田原市府川)に残された古い文書(ぶんしょ)に基づいて述べてみよう。

府川村は、酒匂川の支流の狩川に沿った小さな村であった。 1641年(寛永18)、この村で検地が行われている。検地というのは、年貢を取り立てる目的で土地の面積や農産物の取れ高を詳しく調べ、土地の台帳を作ることである。この年の府川村の検地帳によると名主七兵衛以下、21名の百姓の名前が載っている。田畑の合計は、 29(ちょう)(たん)()26()、そのうち田は7町8反5畝2歩、畑は21町9反8畝24歩となっており、畑が水田の約3倍もあったことがわかる。これを所有面積別にみると、7町歩以上の土地所有者は七兵衛ただ一人であり、1町から3町までの者が8名、2反歩から9反歩までが8名、以下4名となっている。また屋敷を持つ者が 14名、屋敷のない者が7名で、七兵衛の屋敷は2反近い広さを持ち、多くの小作人を使っていた。

検地帳に名前が載っている者を名請百姓といい、土地の耕作権を認められていた。江戸時代は年貢を負担する百姓のことを本百姓と呼んだが、この名請百姓の大部分がそれにあたるのである。この府川村では21名の名請百姓がいたことがわかる。しかし、田畑の所有高に相当の差があり、特に名主の生活が豊かだったことが想像できる。

府川村の検地帳(稲子家文書)

1658年~60年(万治元~3)、藩主、稲葉正則は領内の村々に大々的な検地を行った。このときの府川村の検地帳によると、名請百姓が29名で1町歩以上の耕作地を所有している者が12名になり、2反以下の経営規模しかない者が2名となっている。これは、わずか18年のうちに、名請百姓が8人も増えたことになる。これは府川村ばかりでなく、藩領下の各村々でも、いままで検地帳に記されていなかった水呑(みずのみ)百姓が少しずつ田畑の所持を増やしていき、いつか屋敷地も得ていったことを示しているのである。しかし、一方、このことは土地の零細(れいさい)()を示しているものであり、農民の生活が楽になったというわけではない。

年貢

当時、年貢の決め方には定免法(じょうめんほう)検見(けんみ)(ほう)(毛見法)の2つがあった。定免法というのは、過去十数年の年貢高を平均して、以後、一定期間の年貢とするもので、検見法はその年の出来具合を検査して決める方法である。

府川村をはじめ、小田原藩領内の村々では、江戸時代の中ごろまで検見法によって、年貢の徴収が行われたようである。1706年(宝永3)の府川村の年貢高は39石4斗9升2合であり、これは村高の約5割にあたる額であった。

1707年(宝永4)11月23日、突如(とつじょ)として富士山の大噴火があり、小田原藩領内に焼砂と焼石が降り、領地の大半が砂に埋まった。当時の史料には、3寸(9㎝)も積もったと記録されている。そのため、府川村でも田畑の作物はすっかり被害を受けてしまったが、このような時でも年貢を納めており、噴火の翌年の年貢高は13石となっている。

小田原藩は、藩領下の埋没地を幕府に願いでて替地を与えてもらい、藩領内の回復を待つこととなった。府川村ではこの年をきっかけに苦しい日々となり、この状態が1746年(延享3)まで続いた。その後、たびたび天災に襲われ、領内の農村は重い年貢の苦しみから逃れられなかった。

一方、貨幣経済が農村にも広がり、商品の流通が盛んになると、貧富の差が大きくなり、農村を離れて町へ出稼ぎに行くものもあり、農村は次第に変わっていった。

助郷(すけごう)制度

助郷制度が作られたのは、1635年(寛永12)、参勤交代制が確立したころからといわれている。助郷というのは、宿場の人馬が不足するときに、宿場の近くの村々から人馬を駆り出し、旅行者やその荷物の運搬を援助するというものである。農村に課せられた夫役(ぶやく)で、一種の租税のようなものである。助郷には定助郷と加助郷があり、小田原宿の場合では足柄平野の大部分の村々が定助郷となり、毎月決まって人馬を差出していた。加助郷にはそれより遠い山間部の村々がなり、臨時の代通行のときに駆り出されたのである。これは年貢のほかにかかってくる負担であったから、農村では大変苦しい役目であった。

加助郷と定助郷
(「目で見る小田原の歩み」より)

1734年(享保19)の助郷帳を開いてみると、府川村の朱印(しゅいん)(だか)は92石で、それを基準として助郷の負担が課せられている。このように助郷は村々にとって重い負担であったので、ときどき助郷村と宿場との間に争いがおこった。また、幕府に負担を軽くして欲しいと願った村もあった。

助郷帳
(小田原市立中央図書館蔵)

宗門(あらた)

宗門改めとは、キリスト教禁止の目的で行われたもので、すべての人々に対して、キリスト教徒かそうでないかの宗旨(しゅうし)を調査して、寺院にその証明書を出させるようにしたものである。人々がキリスト教徒でないことを証明してもらうためには、どこかの寺の檀家(だんか)になる。そして名主は寺の証明をつけた宗門改め帳を作ったので、今の戸籍台帳の役割をもっていた。これは毎年作成するもので、死亡者は死人と書かれ、嫁に行けば台帳から抜け、行先の村の宗門改め帳に加筆された。

府川村の宗門改め帳
(稲子家文書)

1831年(天保2)の府川村の名主、七兵衛の場合をみると、檀那寺(だんなでら)は総世寺で家族は祖母、母、妻、長男、妹の6人である。
この宗門改め帳からは、当時の村の人口や家族構成などがよくわかる。しかし、この制度はキリスト教徒を探しだす必要がほとんどなくなった江戸中期以後も引き続き厳重に行なわれているところをみると、宗旨調査の意味は薄れ、むしろ農民の転住や逃散を防止するために役立てられたものと考えられる。

年中行事

「お正月がござった。どこまでござった。飯泉までござった。何にのってござった。ゆづり葉にのってゆづりゆづりござった。」

苦しい租税と厳しい統制の中で、農民は自分たちの生活がいかに苦しくとも、正月や盆は村の祭りと共にわずかに与えられた楽しいひとときであった。特に、正月の三が日は新しい年を迎えたという喜びと仕事を離れての幸せの日々であった。ささやかではあるが、正月を祝ってご馳走を作って食べ、日ごろの忙しい仕事から離れての三が日は、どれほどか農民の心を豊かにしたことだろう。

盆おどりや村祭りも楽しい行事であった。当時の農民は、ふだん粗末なものを食べ、年貢や夫役で苦しめられていたが、このような休みの日を、せめてものなぐさみとして働いていたのである。

下田隼人(はやと)の訴え

年貢・助郷、その他の夫役は農民の生活を苦しめたが、領主の国替や、国内の整備が行われると、その負担はさらに増加した。農民の中には土地を手放して小作人となる者や、禁令を犯しては村を離れたり(逃散)、城下へ出稼ぎに行く者もでてきた。また多くの村々がまとまって領主に訴えたりした。

1658年(万治元)、藩主稲葉正則は石高を改めようとして検地を行なったが、そのとき年貢米のほか、かつて先例のない「麦租(ばくそ)徴収」の令を発した。足柄上下200余村の村民は、今回出された令があまりにも厳しいので、いまの南足柄市関本の下田隼人が村民を代表してこの発令を撤回して欲しいといくたびか、領主に訴え続けた。その結果、一応、この年の年貢は一反につき、15文ずつ下げられ、麦租は好意によって中止されたが、農民が喜んだのもつかの間、「掟にそむいて、再度訴えたことは重罪である。」とし、下田隼人は(ろう)に入れられ、1660年(万治3)ついに打首の死罪となってしまった。そして、その土地も没収され、家族も追放されたが、同村の竜福寺の住職が遺がいを引取り、寺内に葬ったといわれている。

下田隼人の碑

竜福寺

相次ぐ災害

17世紀末までは、小田原地方も平和な日々が続いた。しかし、18世紀以降はその夢は破れた。次の年表で分かるように、酒匂川の氾濫や大地震の災害に、相次いで襲われるのである。
1703年(元禄16)11月23日明け方、「小田原領内の人家を過半ゆりつぶし、城内ならびに12ヶ所より出火、小田原中残らず焼失。そのうえ大波にておびただしき死人」(元禄年録)、という「元禄地震」が起こった。当時の藩主(ただ)(ます)は、幕府から復興資金として公金15,000両を借用し江戸から帰藩したが、被害の大きいのに驚き、再び30,000両を借用して城下及び領内の復旧に取りかかった。

ところが、その回復が終わらない1707年(宝永4)11月富士山(宝永山)の大噴火が起こった。

焼石は各地にとび散り、降灰により、領内の土地はすっかり荒れ地となり、作物を作るのは不可能となった。そのため、翌年領内の被害地56,000石の替地として、幕府から伊豆、美濃(みの)(岐阜県)、三河(みかわ)(愛知県)、播磨(はりま)(兵庫県)のそれぞれ一部をもらった。

小田原領内で起こった主な災害

被害地は天領(てんりょう)(幕府領)となり、幕府は、関東代官、伊奈半左衛門(いなはんざえもん)忠順(ただより)よりに命じて復旧に当たらせた。

1782年(天明2)にも大地震が起こり、「天明小田原地震」といわれるほどで、小田原が最も被害が大きかった。小田原城は石垣がくずれ、(やぐら)(もん)(へい)などもほとんど破壊されてしまった。天守閣は倒れなかったが、北東に傾いたといわれる。その上、この頃より大ききんが全国的に広がり、小田原も凶作(きょうさく)が続き、農民は納める年貢にも事欠いて苦しんだ。藩では、幕府から5,000両を借りて復旧工事を始めたが一向にはかどらず、領内はおだやかでなくなった。

実り豊かな足柄平野は、酒匂川の賜物といってよい。しかし、雨が降り続き増水すると、酒匂川はたちまち荒れ狂い、稲の穂も、沿岸の人家をも押し流してしまうのである。1712年(正徳2)以来、何回となく洪水(こうずい)に見舞われ、土手が切れると、大口・吉田島より曽比・栢山へと押し流した。1720年(享保5)の絵図によると、富水・蓮正寺・堀之内・柳新田・新屋・小台・飯田岡・清水新田まで浸水したことが分かる。

実り豊かな足柄平野は、酒匂川の賜物といってよい。しかし、雨が降り続き増水すると、酒匂川はたちまち荒れ狂い、稲の穂も、沿岸の人家をも押し流してしまうのである。1712年(正徳2)以来、何回となく洪水(こうずい)に見舞われ、土手が切れると、大口・吉田島より曽比・栢山へと押し流した。1720年(享保5)の絵図によると、富水・蓮正寺・堀之内・柳新田・新屋・小台・飯田岡・清水新田まで浸水したことが分かる。

あふれた悪水をとり除くためには、莫大な経費と人力を必要とした。土手を確保するために、その流域の人々が、ふだんから土手にくい打ちをしたり、蛇篭などの急場に間に合うものを用意したりした。

村人は土手に松・竹・柳など、根の深くはるものを植えるなど、常に勤労奉仕に駆り出された。また、堰・用水路を造り、分流することで被害を少なくすると共に、かんがい用水に利用したのである。「酒匂堰」「文明(ぶんめい)(つつみ)」「()()()堰」「鬼柳(おにやなぎ)堰」「黒尽(くろまま)堰」などは、その主なものである。

酒匂川修復お願い絵図

新田開発

現在、小田原市内に何々新田と名付けられた地名があるが、これは、新たに開発された土地で、天変地異の際や、藩の開発奨励などで盛んに行なわれたと思われる。早いものでは、 1611年(慶長16)に開発された「鴨宮新田」(下新田)があるが、その後、「穴部新田」「中新田」「清水新田」が開発されている。最も大規模で有名なものは、「箱根用水」による開発である。駿河国(するがのくに)駿東(すんとう)(ぐん)深良(ふから)村の名主大庭(おおば)源之丞(げんのじょう)は、村が日照りに苦しめられているのを見かねて、江戸町人友野(ともの)与右衛門(ようえもん)らの資金の協力を得て、湖尻峠をくり抜き、湖水を用水として引く計画をたてた。しかし、湖水は箱根権現の「御手洗池」といわれたので、権現や土地所有者の小田原藩・沼津代官の許可が必要であった。湖水の恵みを受ける村々の名主、組頭が連署して藩に願い出て権現へ毎日祈とうをあげ、開発された後は200石を永久に神領として奉納する条件でようやく許可を受けることができた。しかし、幕府の許しがなかなか出なかったようで、待ち切れない人々によってひそかに工事を始めたため、小田原藩は毎日湖上に舟を出し、終日監視する物々しさだった。

工事は、1666年(寛文6)駿東郡と湖水側から掘り始め、長さ738間(約1.34㎞)のトンネルが開通したのは、1670年(寛文10)で、約4年の難工事であった。これに使われた費用は7,300両といい、延べで83万人を越える人々が仕事に従事した。機械をほとんど使わず、計算のもとに両方の出会いの差、わずか1mで結ばれたことは、素晴らしいことであった。

この結果、領内は約7,000石、幕府領1,000石の増収が得られたが、その後、友野与右衛門・大庭源之丞らの姿が消えてしまった。その記録も余り残されていないが、ひそかに処罰されたという説がある。

新田開発が盛んに進められる一方、その場所や方法、計画によっては、大きな制限を受けたこともあったのであろう。

「荻窪用水」(湯本(ゆもと)(せき))と川口(ひろ)(ぞう)

小田原市荻窪では、1884年(明治17)頃より、村の春秋2度の彼岸(ひがん)の時、「湯本堰大明神」と書いてある軸をかかげ、収穫したものなどを持ち寄り、「念仏講(ねんぶつこう)」を開いている。さらにその軸をよく見ると、足柄上郡川村岸(山北町)の川口広蔵が湯本堰を開いたので、その恩に報いるためとある。現在、荻窪を始め西部の丘陵地帯には水田が広がっているが、天明のころの荻窪は150軒ほどの村で、地続きの水の尾・板橋・風祭・入生田とともに畑地が多く、水不足で悩んでいた。そこで、この悩みを解決するため、早川の水を湯本から取り入れ、これらの集落に堰を作って水を流し、水田を作ったのである。現在、この堰を荻窪用水と呼んでいる。

この工事は、藩の命令によって行なわれたといわれるが、その中心となって活躍したのが川口広蔵である。彼はなぜ、工事に関心を持ったのだろう。彼の家業は酒屋ともいわれるが、本百姓であったらしい。

荻窪用水水路図
(「おだわらの水」より)

農閑期(のうかんき)になると、「み」「ざる」などを作って領内を行商して歩き、この地域に詳しかったと思われる。また、1734年(享保19)上郡川村の名主湯山弥五右衛門は以後3代にわたり、「宝永の砂かぶり」で荒れた土地を開発するため、皆瀬(むなせ)川から「瀬戸堰」という用水路を作った。この工事には地元の農民たちも動員されたので、当然、川口広蔵も加わり、工事の仕方も経験しており、相次ぐ災害や水不足で悩んでいる様子を見聞して、用水があればと感じていたようである。

工事は、1782年(天明2)に始まった。大小のトンネルをたくさん掘り、その間を「掘割(ほりわり)みぞ」でつなぐ難工事であった。また、増水するとすぐ壊れるので、「そらし水門」とよばれる落とし口を作った。そらし水門は大水の時水抜きのことでよく争い、特に、風祭・入生田の水門は、「けんか水門」ともよばれた。完成したのは、20年後の1802年(享和2)である。これは技術が幼稚で、何回も失敗したためと思われる。

この用水により水田となった土地は、58町歩余りである。その後も、村々では堰組合をつくり、その田畑の面積によって堰を維持する費用を受け持ったり、毎年1回「せぎさらい」をやったり、元堰(取入口)や各水門には堰番を置いて水門を管理した。

川口広蔵はその功績により、藩主に名主格に取上げられ、名字・帯刀も許され、年々玄米5俵を藩から与えられた。

荻窪用水湯本取入口

二宮尊徳の登場と報徳仕法

小田急線の栢山駅を降りて南へ県道をしばらく行くと、豊かな実りを思わせる足柄平野の一角に、「二宮尊徳先生誕生地」という標識と「尊徳記念館」が見える。辺りはまだ、のどかな田園風景である。記念館の中の展示室には「二宮尊徳画像」が掲げられている。身長6尺(1.82m)体重25貫(94㎏)と、当時としては堂々とした体格で、開墾しつつある田畑をやさしい表情で眺めている姿から、彼の人生が田畑と共にあったことが忍ばれる。二宮尊徳が、どのような環境の中で生活し、成長していき、「報徳思想」という独自の考え方を生み、社会の中で実行していったか、彼の年譜(ねんぷ)をもとにたどってみよう。

二宮尊徳生家

生家の内部

二宮尊徳画像
(尊徳記念館)

1787年(天明7)7月23日、足柄上郡栢山村で父利右衛門(りえもん)と母よしとの間に生まれ、幼名を金次郎といった。利右衛門は、中くらいの農家で、生家をみると使われた木組みがけやきであり、八畳の間を中心として広い土間と立派な仏だんがある。この財産をつくったのは、祖父(ぎん)右衛門(えもん)である。父利右衛門は病弱であったが、栢山の善人といわれ村人に親しまれていた。平和な二宮家の生活を一変させたのは、1791年(寛政3)の大洪水である。

この時、二宮家の田畑は、一夜にしてことごとく押し流されてしまった。金次郎が5才の頃である。そして利右衛門が病気に倒れ、一家の生活はさらに苦しくなっていった。 金次郎は病気の父に代り、生活のため働かなければならず、他家へ子守りに行ったり、夜なべにわらじを作ったりした。

二宮尊徳年譜

また、昼間は農業のほか、酒匂川の治水工事の手伝いもした。14才で父を失ない、さらに16才の時に母も亡くなったことで田畑は人手に渡り、残ったわずかの田畑は、また起こった酒匂川洪水のため土石の下に埋められてしまった。両親と財産を失った金次郎は、2人の弟と別れ、おじの万兵衛の元で暮らすこととなる。

万兵衛は、彼を立派な百姓に仕上げようとし、骨身を惜しまぬ働き者になるようにしつけた。一方で金次郎は、百姓であっても知識を身に付けたいと思い、一日の仕事を終えた夜に勉強をしようと考えた。金次郎は、万兵衛に迷惑をかけぬように自分で菜種を収穫してそれを灯油と交換してもらうことを思い立ち、友人から菜種5勺を借り、仙了川のほとりにまき7升しょうを得た。また、田植えの時に捨てられた苗を拾って荒地を直した田に植えて、その年の秋に1俵の収穫をあげた。こうした経験は、小さなことの積み重ねが大きな成果に結びつく「積小為大」という考えの元となり、成長した後の仕事に生かされているのである。

彼の念願は一家の再興にあり、19才のころに万兵衛家から独立して手放した田畑を少しずつ買い戻し、24才の時についに自分の家を再建した。この頃から小田原城下の武家に奉公するようになり、26才の時に藩家老の服部家で働くこととなった。金次郎は服部家に実力を認められ、1815年(文化12)に家政再建を依頼された後、1818年(文政元)から服部家の借金返済に本格的に取り組んでいる。また、1818年は藩主大久保忠真から領内の働き者の1人として表彰された年でもあった。

金次郎が日光御神領の取締役に命じられた幕府からの辞令

小田原藩にもその実力が知られるようになった金次郎は、藩主大久保家の分家である宇津家が治める「()州桜町領」(現栃木県真岡市)の復興を1822年(文政5)に命じられることとなる。この時、金次郎は家財を売り払い任地に(おもむ)き、領民や藩役人との対立といった苦労を抱えながらも、10年の歳月をかけて復興を実現する。金次郎の復興策の特徴は、普段の生活を送るのに十分なお金の額を定めて余分を取っておく「分度」、余分となった財産を自身の将来や子孫または他人に譲る「推譲」の二つの考えにあった。こうした金次郎独自の復興方法は「報徳仕法」と呼ばれ、桜町領周辺の藩や村々の注目を集めていった。いくつかの村や藩は、実際に尊徳の指導を受けて、村の再興や藩財政の再建に取り組んだ。

1837年(天保8)に金次郎は小田原藩に呼び戻され、飢饉に苦しむ領民の救済を命じられた。金次郎はそのまま小田原藩領の復興を指導するはずであったが、忠真が亡くなってから藩の意見が変わり、実現することはなかった。

そして、1842年(天保13)に江戸幕府の役人となり、この時から「二宮尊徳」の名乗りを使うようになった。尊徳は日光東照宮にまつわる「日光神領」の復興を計画するよう幕府から命じられたが、計画を実行に移す機会はなかなかやってこなかった。この間に尊徳は、弟子たちとともに、日本全国どこでも報徳仕法が行えるように、その見本となる「日光仕法ひな形」を作り上げている。また、現在の栃木県から茨城県にかけての幕府領の復興を命じられ、現地で指導にあたった。

1853年(嘉永6)、ついに幕府から日光神領の復興を実行するように命が下り、尊徳は日光に向かった。すでに60才を超えていた尊徳だが、積極的に領内各地を回って復興の指導にあたった。しかしついに病気に倒れ、1856年(安政3)70才の時に、今市(いまいち)(現栃木県日光市)の報徳役所で亡くなった。尊徳はそのまま今市に埋葬されたが、その遺髪と遺歯は弟の三郎佐衛門たちの手で故郷に持ち帰られ、二宮一族の墓所がある善栄寺に葬られた。

尊徳は、自身が生きた江戸時代の幕藩体制という枠組みの中で、人々が安定した生活を送るための方法を考え続けた。そうした尊徳の考えの一つに「天道」と「人道」というものがある。尊徳の説く「天道」は自然そのままの状態であり、「人道」はそこに人間の手が加わった状態である。人間は、地面を耕して田畑を作ったり、川に堤防を作って洪水を防いだり、争いごとが起きないように法律を作ったり、といった「作為」をすることで安定した社会を築いている。

もし人間が、田畑の手入れや堤防の修理を行わなかったり、法律を無視したりしてしまうと、たちまちその安定は失われ、人間は動物と変わらないような生活を送ることになってしまう。だからこそ人間は、私利私欲に走らず、まじめに働いて、倹約をして、道徳を守る行動をしなければならないと尊徳は説くのである。尊徳が人々に求めたこのような内容は、弟子の富田高慶によって「至誠」・「勤労」・「分度」・「推譲」という四つの言葉にまとめられた。また、この「天道」と「人道」とを明確に分ける尊徳の思想は、当時広まっていた儒教の思想と異なる、彼独自の考え方であった。

尊徳が自ら出かけて仕法を行ったところや、弟子によって実行されたところもある。
「相馬仕法」は、最もすぐれたものといわれた。

尊徳の教えは、彼の亡くなった後も多くの弟子たちによって広められていった。尊徳の影響を受けた人々は、各地で「報徳社」という組織を作って、社員同士の助け合いや地域貢献に取り組んだ。小田原では、1843年(天保14)に、全国の報徳社のさきがけとなる「小田原宿報徳社」が結成されている。当地方では、以下の人々が尊徳の思想を受け継いで各地で活躍した。

安居院(あぐい)庄七(しょうしち)」(秦野生まれ)―
秦野の米穀(べいこく)商で商売に失敗して尊徳に借金を申し込みに来た時に報徳仕法を知る。 庄七は仕法の考えをもとに商売の立て直しに取り組み、見事再建に成功した。庄七はその後、東海地方を旅する身となり、行く先々で尊徳の教えを話した。この時に尊徳の教えに興味を持った人々により東海地方の各地で報徳社が結成された。

福山(ふくやま)(たき)(すけ)」(市内古新宿・今の浜町生まれ)―
小田原町の菓子屋で、一時活動を止めていた小田原宿報徳社の再建に取り組んだ。のちに福住正兄の推薦を受けて、安居院庄七の後継者として遠江国(現在の静岡県西部)に渡り、各地の報徳社を指導した。

 「福住正兄(ふくずみまさえ)」(平塚生まれ)―
片岡村の報徳仕法を進めた名主の大澤家の出身で、家族の勧めを受けて尊徳の弟子となり、のちに箱根湯本の福住旅館を継いだ。『二宮翁夜話』など多くの著作があり、本を通して尊徳の業績や思想を紹介した。箱根・小田原の発展に貢献した人物でもあり、尊徳を祭神とする「報徳二宮神社」の建設にも力を尽くした。

4 産業の発達と特産物

豊かな小田原の自然

―梅干しから石材まで―
『小田原宿の土産 ......................... (とう)(ちん)(こう)(ういらう)、遂鮧(ついい)(塩辛)、(ちょう)(ちん)、梅実
湯本、湯本茶屋、畑宿の土産 .... 盒器(ごうき)(箱根細工)
石橋、米神、前川の土産 ........... 蜜柑(みかん)
石橋、米神、根府川の土産 ....... 根府川石、荻野の尾石、磯朴石、小松石
久野の産物 ................................ 柿実、梨子(なし)(わらび)
海 .............................................. (たい)(まぐろ)(かつお)比目魚(ひらめ)(あじ)(さば)

これは「新編相模国風土記稿」(1841年、天保12)に記されている当時の小田原地方の産物である。農産物あり、海産物あり、工芸品あり、石材まである。国内が平和になった江戸時代には、産業が著しく発達し、各地に様々な特産物が現われてきた。それは、農民たちが苦しい生活を少しでも向上させようとした努力の結果であるが、それと同時に、土地を経済の基礎とする領主たちが、貨幣経済の発達していく中で、財政を楽にするために領内の産業、とりわけ特産物を強く保護、奨励したからでもある。これらの小田原地方の特産物の大部分は、何百年か経った現在でもその地位を失わず、ますます発展し、いくつかのものは海外にまで進出している。私たちの祖先の血と汗のにじむ努力がしのばれると共に、小田原の自然の素晴らしさを改めて感じさせる。それでは、小田原地方の産業の様子をこれらの特産物を通して見ていこう。

景気がよかった石材業

昔、真鶴・根府川方面で「石屋は豆腐の皮をむいて食う」などといわれていたという。石屋の生活はぜいたくだったので、豆腐のようなものでも外側を切り捨てて真ん中だけを食べているので、他の者がうらやましがったというのである。石屋は随分景気が良かったものである。小田原北条時代、関八州の総棟梁の地位にあった板橋の(せき)(しょう)棟梁、石屋善左衛門は家康からも認められ、江戸城の石垣工事を行っており、代々、幕府から特別の保護を受けるようになった。江戸時代に入ると石材の需要はさらに多くなっていった。江戸城の構築や修築、また大名屋敷からの需要など、大消費地江戸に近いという強みが発揮されたのである。採石場も多様であった。幕府は御ご(よう)丁場(ちょうば)(採石場)を確保して、管理を諸藩に(ゆだ)ね、また、大名たちも遠い自領から運搬する労を省くためにここに採石場をもっていた。これらの採石場の間に交って民間業者の丁場が営まれていた。産石量の多かったのは根府川・岩・真鶴で、根府川に16丁場、岩に10丁場、真鶴に14、5丁場であった。そのほか、板橋・米神・石橋に数丁場あった。

貴重だったみかん

石橋・米神方面にはみかんも栽培されていたが、「新編相模国風土記稿」によると、前川村のみかんの方が上等とされていたと記されている。潮風を受け、温暖で海に面した丘陵地帯にはみかんが鈴なりになっていたことだろう。種類は紀州みかんである。鈴なりだからといって、農民にとって一つ、二つどうでもよいというわけではなかった。1622年(元和8)の記録に「大久保七郎右衛門尉殿の時からみかんの木1本の栽培が許可されているということであるから、前々のようにしておく」というのがある。これは、小田原城主阿部氏から一色村名主剣持三次郎に与えたものである。みかんは大変貴重なものとされ、課税の対象にもなったので、一本といえども許可なしには栽培できなかったことを示している。また、次のような記録もある。

御用蜜柑(おぼえ)
安政3年10月13日飯田富右衛門様お越しに相成り、一統(いっとう)役人御案内にてお改めに相成り、木数書き上げ224本、持主41人に相成り候。同4年10月お改め蜜柑全部で3145玉仰付けられ、お払い代銭は1玉につき2文あて下され置き候。
これは、1774、5年に代官が前川村に来て、木の本数、持主を調べたこと、御用みかんとして1個につき2文で買い上げたことを記したものである。本数も、生産者もかなり多かったことがわかる。

旅人に喜ばれた梅干

 「梅漬の名物とてやとめおんな くちをすくして旅人をよぶ」(東海道中膝栗毛)名物の梅干をもじった狂歌である。梅干は弁当の腐敗を防ぎ、疲れをいやし、一種の清涼剤になるといって旅人たちに大変喜ばれた。また、箱根越えの雲助は必ず梅干を用意していたといわれる。それは、霧の多い峠道にさしかかった時、梅干を口にふくんで息を吐き出せば、霧が晴れて危険を免れるといわれたからである。18世紀末には、地面にころげ落ちても土つかずといわれた「しそまき梅干」も工夫され、次第に需要が増えていった。19世紀に入ると小田原の漬物業者だけでは需要に応じられなくなり、漬物の本場の前羽に中心が移っていった。材料の梅実も地元だけでは足らず、甲斐(かい)(山梨県)や福島地方から移入するほどであった。漬物に用いる塩は小田原から前羽の海岸にかけて製塩されていたが、特に前羽が盛んであったようである。

家も評判だった「ういろう」

 「おや、ここの内は屋根にでえぶでくまひくまのある内だ」(「でくまひくま」とは、突き出た所とへこんだ所)といって、()()さん、喜多(きた)さんが感心したういろうも有名である。この家の造りは「外郎(ういろう)(やつ)(むね)(づくり)」と呼ばれ、小田原葺といわれる板葺屋根ばかりの街道筋の中で、白壁に(かわら)葺、菊花(きくか)(もん)のある破風(はふう)の店舗は異彩を放ったであろう。ういろうは古い歴史を持ち、世に聞えた名薬である。1718年(享保3)歌舞伎舞台で二代目市川団十郎が「ういろう売り」の姿になって、ういろうの由来と効能(こうのう)を連ねたせりふを早口ことばで述べ立て、観客を()かせたことがういろうの宣伝に効果があり、その後、交通が頻繁(ひんぱん)になるにしたがって秘薬の名声はますます高まっていった。

八棟造りのういろう家(明治後期)

名物 箱根細工

 「またここに湯本の宿というは両側の家作(かさく)きらびやかにして、いづれの内にも()()よき女2、3人ずつ、店さきに出て名物の挽もの細工をあきなう」(東海道中膝栗毛)(ひき)(もの)細工というのは箱根細工の一種である。このように箱根細工が土産物屋で販売され、特産物として注目されてくるのはいつ頃からか、はっきりしないが、紀行文などからみると、18世紀の後半(明和・寛政年間)からであるらしい。寛政の頃になると、箱根細工の問屋と店頭販売を兼ねた大きな店ができてきたようである。中でも湯本茶屋の伊豆屋と畑宿の茗荷(みょうが)屋は有名であった。店頭が色とりどりの箱根細工できれいに飾られていた様子が「東海道名所図絵」(1791年)などの記録からわかる。

箱根細工の種類は挽物細工と指物(さしもの)細工に分けられ、そのうち、挽物細工はくり物とも呼ばれ、(めし)びつ、(じゅう)(わん)、盆などのように木材をくり抜いて作る細工物で、その歴史は非常に古い。その起源をたどれば、平安時代までさかのぼるといわれる。1837年(天保8)の大平台村人別(にんべつ)書上(かきあげ)(ちょう)によれば、職業人口65人のうち、木地(きじ)(ひき)が32人(49%)で群を抜いて多い。(とち)、けやき、水木(みずき)等の用材が豊富で、くり物生産が盛んであったことがよくわかる。これは、山村で農耕地が狭く、農業だけで生活を支えられず、木地挽などの農間稼に励まなければならなかったからであろう。挽物細工の中には、くり物のほかに挽物玩具や漆器などもある。指物細工は、たんす、机、各種の箱物などを作るもので、ふつう指物、寄木細工(よせぎざいく)象眼(ぞうがん)細工(ざいく)に分かれるが、これらはいつ頃から作られ始めたかはっきりしない。しかし、シーボルトの「江戸参府紀行」によれば、「象眼したもの、編んだもの」が陳列されてあったというから、1820年代には作られていたと思われる。指物細工は、家内労働でできる挽物細工と違って、経験を積んだ職人でなければ生産できないので、業者数が少なく、販路が狭い江戸時代には、十分発展できなかった。

網漁業の発達

 現在、小田原地方は定置網漁業地として全国に知られており、その中心漁場は岩・江之浦・米神であるが、この地方に定置網が張られるようになった時期はそう古いものではない。

幕末から明治時代にかけて、一時期を画した漁獲網に()(ごさえ)網というのがある。これは、1883年(明治 16)の水産博覧会に出品され「東海屈指(くっし)の大網」といわれて、大好評を博したのであるが、実は小田原地方における定置網の創業は、この根拵網をもって始まりとするのである。それでは、根拵網はいつ頃から小田原地方に張られるようになったのだろうか。「伊東誌」(1820年代、文政年間)によると次のようである。

19世紀の初め、加賀国(石川県)の籐七という人が伊豆山村(熱海市)に来て、網を張ったところ非常に大漁であった。そのことを真鶴村の名主五味(ごみ)台右衛門が聞き、網を模造して張ってみたが最初は成功しなかった。その後、海底の深浅、魚道などを研究し、さらに、1824年(文政7)に網に改良を加えてからは年々大漁で、 10年ぐらいで台右衛門は大富豪となり、村内も富むようになったといわれる。これが「伊東誌」に記されている根拵網張立の経過であるが、同じようなことが「新編相模国風土記稿」にも記されている。

根拵網の図
大小の魚を根こそぎとるのでこの名がついたといわれる

根拵網は、期間中張立てたままにして置き、魚の大群が入ったら袋だけを揚げればよいのである。居ながらにして魚のとれる驚異の新網が現われたのである。なお、江戸時代においては年貢を本途物成(ほんとものなり)というのに対して、田畑以外の収益に対して課せられる税を小物成(こものなり)といい、漁獲高に対する10分の1税もこの中に入っていた。税のないところには権利もなかったので、台右衛門も10分の1税を納めて、初めて根拵網の権利を領主から認められたのである。ところで、このような真鶴村の多獲漁法の発達は近隣の村々を非常に刺激し、真鶴村との間で激しい争いがあったようだ。しかし、結局、藩の許可を得て、次々と根拵網の張立てがおこなわれた。こうして、明治初年までには真鶴から早川までの地先にずらりと根拵網が並び、定置網漁業地の基礎ができあがるのである。

それでは、定置網出現以前の漁業はどのようであったろうか。

戦国時代から江戸時代中期にかけて、小田原地方の漁業は飛躍的に発展したといわれる。江戸時代初めの漁業関係の記録を見ると、早川・山王原・酒匂・小八幡等に藩から舟役が課せられたことが記されており、舟や漁民の数が増加したことが推測される。また、1654年(承応3)の記録には、(せん)()小路(こうじ)(本町)が早川村から漁獲高の3分の1の場代でうずわ網場を借りたことが記されているし、1672年(寛文12)の記録によれば、(よん)(そう)(ちょう)(もう)海老(えび)(もう)(ぶり)(もう)(ささげ)受網、(たい)長縄(ながなわ)、ぼら網などの張網漁業が行われていたことがわかる。さらに、1686年(貞享3)の記録には、立網(たてあみ)手繰(てぐり)(もう)平目(ひらめ)(もう)の名も見え、張網の種類はずい分多かったようである。特にそのうちの四艘張網は、根拵網が現われるまでもっとも有力な網として普及していたもので、四ッ手網のような四角い大網を海底に密着して敷設して、魚群が来るのを待ち、魚群が中に入ると網の四隅を持っている船上の大勢の船子たちが、掛け声も勇ましく網を引き上げるというものである。記録によれば、1680年代(貞享(じょうきょう)年間)には根府川から真鶴までの地先に16畳も張られていた。

戦国時代から江戸時代中期にかけての、このような網漁業の発達の要因はなんだろうか。いろいろの要因が考えられるが、最も直接的なものとしては、上方(かみがた)漁民、特に紀州漁民(和歌山県)の進出である。技術においてはるかに優れた上方漁民は、戦国時代から江戸時代初期にかけて関東の海に出漁あるいは移住し、関東では知られていなかった漁具や漁法をもたらしたのである。上方漁民は、初めは漂流などの偶然の事情から、やがては組織的な出漁や移住によって進出してきたのである。家康が江戸へ入った時、江戸湾沿岸に漁民集落(佃島(つくだじま))を設け、将軍御用の魚類を献納させたが、その領民は摂州(つくだ)村(大阪府)の人々であったし、有名な九十九里浜のいわし地曳(じびき)網を始めたのは紀州漁民であった。小田原においては、小田原北条氏が紀州漁民40人を千度小路と網一色に居住させたことに始まり、その後、江戸時代の初めまでに真鶴などへ紀州漁民が何回か進出して来たのだろう。こうして、地曳網や四艘張網などの網漁業がもたらされたものと思われる。

このように網漁業の発達によって小田原地方の漁獲高は次第に増えていった。魚はすべて漁場から城下町小田原に集荷され、問屋によって買い受けられた。18世紀前半になると常設の魚市場が開かれ、魚座(仲買人)は80戸もあったという。

水産加工(魚商の副業)

 漁獲される魚の種類も豊富になり、魚商は加工法をいろいろと工夫していった。当時はかつおがよくとれたらしく、かつおのたたきやかつおの塩辛(しおから)が名物として知られていた。また、いかもよくとれたのでいかの塩辛がつくられていた。 17世紀の中頃相模湾にいかの大群が押し寄せた時、漬物屋の美濃屋吉兵衛が大量に買いとり、塩漬けにし、こうじを混ぜておいたところ大変味のよい塩辛ができたといわれる。

かまぼこについては、「新編相模国風土記稿」などに名物として記されてないが、それほど有名ではなかったのだろう。初期のかまぼこは(かま)の穂のように、ちくわの穴に捧をさしたようなものであったけれども、江戸時代の後期になると、三角形の杉板の上に魚肉をのせた形になってくる。小田原で板付かまぼこが作り始められるについての記録はないが、おそらく1780年代(天明年間)だろうといわれている。魚商を営む女性たちは、魚の取扱いに慣れていたので、男手を助けて副業としてかまぼこなどの水産加工品の製造に従事していたのであろう。

その他の産物

「おさるのかごや」の童謡で知られる小田原提灯(ちょうちん)は、新宿町(浜町)に住んでいた甚左衛門という人が、関本(南足柄市)の最乗寺山中の木材で製造したのが始まりだと伝えられる。材料が霊山の木であるために、夜道で狐にだまされたり、盗賊におそわれたりの災いを免れるという伝説が世に広まり、18世紀の前半(享保の頃)より諸国に通用するようになったといわれる。「小田原は伸び縮みよき小提灯」と川柳にも歌われ、小田原の代名詞として使われるほど、評判が高かったようである。

物指(ものさし)の生産が小田原(酒匂)で盛んになるのは明治からであるが、この時代においても多少行われていたと思われる。当時、酒匂村の名主鈴木新左衛門が幕府の命によって公用の物指を作っていたようである。製造を命じられたのは八代将軍吉宗の頃(18世紀の前半)からであるという。吉宗は、紀州熊野神社の蔵にあった古い物指を標準にして標準尺(その時の年号をつけて「享保尺」と呼ばれている)を定めたといわれるが、新左衛門に作らせたのは、この享保尺だと伝えられている。

5 多彩な文芸

豊かな小田原の自然

関八州の新領主となった徳川家康は、やがて1603年(慶長8)江戸に幕府を開いたが、江戸の開発を進めるにあたり、小田原の文化、産業を大幅に取り入れた。江戸時代の初め頃は文化の中心は上方(かみがた)であったが、文化文政の頃になると民衆に親しまれる内容をもった独特の文化が江戸を中心に盛んとなった。小田原は東海道の宿場町として、また箱根の東玄関として早くから文人などの往来も多く東西文化の影響を受け、特に文化文政の頃より多彩な文化に色どられていった。

(きり)()のおこり

まず大衆文化の代表である演劇だが、「声色(こわいろ)も小田原までは通用し」と詠まれているように、小田原では江戸の名優の芝居をしばしば見ることができた。それは小田原に桐座という劇場があって東海道往来の名優や箱根に湯治(とうじ)に来た江戸の役者がここで興行を行ったからである。桐座の本家である大橋家は1523年(大永3)北条氏綱の時代に小田原に来住して以来、代々小田原北条家の舞太夫職として仕え、小田原北条氏滅亡後も大久保、稲葉の各城主から名字帯刀を許されて明治に及んでいる家柄である。1545年(天文14)大橋政義の時、北条氏康より一字を賜って政氏と称した。政義は三女おせんに家職を譲ったが、それ以来同家は代々女子が家を継いだ。せん女は美貌(びぼう)のうえ歌舞の才能が豊かであったらしい。やがて姓を桐と改め尾上(おのうえ)という芸名にして小田原の自宅に舞台を設け、それを桐座といった。常に歌舞を興行して、城内にめでたいことでもあれば尾上の舞を勤めるのが例であった。城主大久保氏への年賀には必ず桐尾上が筆頭であったともいい、桐家の家督相続にはいちいち城主の許しを得たといわれる。

当時、小田原の桐座の構えは高く櫓を組みあげ、それに紺地へ桐の紋を大きく染めだした幕を張り、入り口には「御城附女舞太夫桐尾上」と書いた(ひのき)看板を掲げて、その左右に定紋(じょうもん)のついた高張(たかはり)提灯(ちょうちん)を立てた。桐座は荻窪(寺町)の旧甲州街道に面した劇場であった。

長安寺にある桐家の墓

小田原の歌人・俳人

ついで文芸に目を転じてみると、特に歌道にすぐれた大久保忠真があげられる。忠真は小田原藩の名君といわれるが和歌の道にもすぐれていた。18世紀の中ばごろより古典を研究する国学の導入によってようやく小田原でも和歌が盛んとなった。忠真も京都所司代として京都に滞在中、加藤千蔭(ちかげ)の門人、加茂(かも)()(たか)に学んだ。1817年(文化14)仙洞御所(せんとうごしょ)の宴席でうたった。

「にぎはえる都の民の夕けむり 冬ものどかに(かすみ)立つ見ゆ」
が秀歌と評判になり、公卿たちから「霞の侍従(じじゅう)」といわれるようになったという。忠真の歌集として「(しゅん)(おう)集」三巻が残されている。

「三冬つき春立ぬれハ我が宿の 垣の外面に(うぐいす)ぞなく」 忠真また、万葉集の復活をとなえた賀茂真淵(かものまぶち)の歌風を受け継いだ歌人に、町人出身の飯田梁がある。本名を飯田喜兵衛といい代官町(本町)で綿商を営んでいた。梁の父は賀茂真淵の門人であり、長兄はまた本居宣長と交渉のあった人であったから、その影響をうけて加藤千蔭を師とし和歌に精進を重ねた。その著に「(りょう)家集(かしゅう)」等がある。また、この飯田梁の系統をひく歌人として著名なものに国学者吉岡信之、尊徳の高弟福住正兄、書家の小西(まさ)(かげ)がいる。

吉岡信之は1813年(文化10)に生まれた。国学を修め、小田原藩士として17歳で藩校集成館の小幹事にあげられた。1874年(明治7)62歳で没したが、その作品に小田原八景をよんだものがあるので紹介してみよう。

連歌(れんが)(ばし)(ゆう)(しょう)
さす汐に争ひ兼て(まり)子川  夕日の影もなみにたゆたふ

石橋山秋月(しゅうげつ)
武士(もののふ)の昔と今にすみ渡る  いしばし山の秋のよのつき

早川浦帰帆(きはん)
早川のうらハの浪の末くらく  雲より帰る海士(あま)の釣船

住吉松夜雨
木のもとに人住吉の松の影  雨も幾代を重ねてや降る

長興山晩鐘(ばんしょう)
夕暮のかねの音聞ゆ白雲の  五百重が奥に入生田の里

大稲荷山晴嵐(せいらん)
やつ山や稲荷の森の朝嵐  たがぬさしろと紅葉ちりかふ

国府津耕地落雁(らくがん)
さがみねの小峯うち越て古里を  こふつの畑に落つる(かりがね)

二子山暮雪(ぼせつ)
箱根山あらし吹き絶て玉筺  二子の峯そ雪にくれ行く

福住正兄は二宮塾に6年間おり、親しく尊徳の教えを受けたが国学と和歌では吉岡信之を師と仰いだ。正兄の歌は長歌、短歌多数残されているがその一つをあげてみよう。

「 おぼろ夜のなごりはあれど卯の花の 垣根の月はさやけかりけり」

1892年(明治25)69歳で没し湯本の早雲寺に葬られている。

小西正蔭は1828年(文政11)沼津に生まれ、1848年(嘉永1)小田原の薬商小西家の養子となった。正蔭は伊勢国、鬼島(うじま)(ひろ)(かげ)の門人として国学和歌を学んだが、信之や正兄とも親交があり、後には指導を受けた。正蔭はまた書道の大家として小田原地方で知られ、明治16年、65歳で没した。筆という題で次のような歌がある。 「 かきも見ずとるもはづかしわかわざの みちかき筆に心しられて」

和歌にくらべて小田原の俳諧の歴史は古い。元禄時代、松尾芭蕉が出て俳風の革新をおこす以前においても、すでに小田原出身作者の名が江戸で知られていたほどである。芭蕉の没後、その弟子たちによって句作が広く地方の町人や地主の間に普及した。しかし、その普及が進むと一般に低俗にながれ、高い芸術性が失われようとしたので、しばしば芭蕉の精神に戻れという復興運動が起こったが、大衆化が進めば進むほど社交(しゃこう)遊楽(ゆうらく)()となっていった。この間にあって、小田原地方の俳諧は18世紀の後半、最も活気を呈し、その指導的位置にあったのが大久保有隣(ゆうりん)と神田()(けい)である。有隣は小田原藩の家老で文武両道に通じていた。1821年(文政4)81歳で没している。その作に
「なぐさめんとするもの更に秋の暮」
「さみだれやあまり星ふる文使」などがある。

有隣の子、楚南(そなん)もまた有名である。その作に「松の花世のへつらはぬ風情なり」がある。楚南は集成館の創立にも力を尽した。神田素兄は小田原藩の下級武士であった。1819年(文政2)没したが、次のような作がある。

「出てみれば出らるる日なり梅の花」

19世紀のはじめである文化文政時代に入ると、俳諧は庶民の間にますます広く普及していったがまたその反面なおいっそう低俗化し活気も失なわれていった。このなかにあって注目されるのは岩波()(しん)と円城寺(らん)(そう)である。
岩波午心は小田原から江戸に出て活躍した俳人である。1817年(文化14)没したが、その作に次のような句がある。

「夕風の人にすがるや枯野原」 (小田原時代)
()きかけてものいう(まで)に柳ちる」 (江戸時代)
円城寺嵐窓は1777年(安永6)に生まれ、1838年(天保 9)に62歳で没した小田原藩士である。「音やむはつららとなりし玉水か」の作があり、辞世の句として「氷る身も瑠璃(るり)光明のゆくみ(かな)」がある。

この時期に小田原が生んだ農聖二宮尊徳が1つの教養として俳句に親しみ、その作品がいくつか残されている。「山吹や古城を守る一つ家」「はる雨や濡れて耕す人こころ」ついで川柳であるが、川柳は五・七・五の17文字の短詩であり、こっけい、機知(きち)、皮肉などを特色とした。表現のおもしろさが江戸市民に親しまれ、明和年間(1764~71)より流行している。小田原出身の作者ははっきりしないが、小田原に関しての川柳は多数見い出すことができる。柄井川柳の「(やなぎ)多留(だる)」には「小田原の魚をすそ野へかつぎこみ」「やけどした小田原あばら片身出し」「小田原を付けて又消す(なが)評議(ひょうぎ)」などがあり、1801年(享和元)の「柳樽(やなぎだる)拾遺(しゅうい)」には「秀吉が出て小田原のこけを引き」「素見物土手で小田原評定し」「声色も小田原までは通用し」等がある。

狂歌については川柳とちがい武士や上流商人にもてはやされた。こっけいと皮肉、時には弱い時事風刺(ふうし)を盛りこんだ。流行しはじめるのは安永、天明年間(1772~88)からで、代表的な作者としては文化文政時代に四方赤良(太田蜀山人)や宿屋(やどやの)飯盛(めしもり)(石川雅望)などの大家が活躍している。小田原からは蜀山人の門人として(きの)(かる)(んど)がでている。当時の本をみると軽人の作品がこれら大家のものと並んでほとんどのものに姿をみせているから、中央狂歌界でも重んぜられた1人であったらしい。軽人は桃李(とうり)園と号し、本名を藤井甚兵衛といった。はじめ筋違(すじちがい)橋(南町)で呉服商を営んでいたが、火事で全焼して江戸に流浪(るろう)し、太田蜀山人との交友がひらけたといわれる。軽人は1830年(文政13)箱根芦の湯で没した。
(あじわ)へばすいな兄貴の梅よりも にがみばしってよい弟菊」という作品がある。

小田原の画家

大久保家に仕え、小田原の画家として知られる岡本(しゅう)()は、1810年(文化7)江戸に生まれた。名を隆仙といい、大西(けい)(さい)、渡辺崋山に学び、写実的な花鳥画を得意とした文人画家である。大久保忠真も秋暉に絵を学んだ。そのため秋暉は時々小田原に来遊した。やがて小田原に落ち着き足軽格として大久保家に仕えることになった。忠真が取り立てようとしても「栄達(えいたつ)は画業の(さまた)げなり」といって辞退したという。秋暉は山水、人物画よりも一心に花鳥を研究してそれを写実的に表わすことを日課としていた。最も得意なものは孔雀(くじゃく)であり、(りゅう)にもすぐれていた。絵を描くにあたっては、古人の手本などは参考とせずもっぱら写実を中心にしたという。

秋暉の家には、二宮尊徳がたびたび遊びにきた。秋暉は尊徳より20余歳年下であったが、互いに先生と呼びあって風流を楽しんだという。秋暉はある時、尊徳を栢山にたずねた。その折、尊徳の門人の家に泊めてもらったことがある。その家の主人がぜひ尊徳の肖像を描いてもらいたいと依頼したので快く承諾し尊徳にモデルになることを願った。尊徳も喜んでモデルになった。しかし固苦しく座られては描きにくいので、尊徳が他人と対談しているところを障子のすきまからのぞいて描いた。これが現在小田原報徳神社の宝物になっている二宮尊徳肖像であるといわれている。秋暉は1862年(文久2)52歳で没した。墓は大久保家の菩提(ぼだい)寺である東京世田谷の教学院にある。

岡本秋暉の絵

藩校と寺子屋

家康をはじめ代々の将軍はさかんに学問奨励を行なったが、特に1797年(寛政9)幕府が昌平坂(しょうへいざか)学問所を直営として教育の振興を図って以来、各藩もこれにならって藩校を続々と作るようになった。

小田原藩では1822年(文政5)藩主大久保忠真によって「集成(しゅうせい)館」が創設されている。これは浦賀にあった小田原藩の陣屋を城内三の丸(現三の丸小学校)に移築したものである(明治2年6月には文武館と改称された)。当時小田原藩はたびたびの天災により経済的に苦しんでいたが、人材養成のため、忠真は手元金千両を基金として集成館を開校し儒学中心の教育を行なった。藩校はもともと藩主が家臣教育のために設立したものであるから、その修業者は藩士の子弟に限られて庶民の入学は認めなかった。一方、庶民の教育機関としては寺子屋があり、これは主として読み書きの初歩を授ける学校であった。17世紀後半から農村では商品作物の栽培がさかんとなり、城下町やその他の都市の需要に応えるようになると、町人はいうに及ばず農民といえども「文字」は生活に欠くことのできないものとなった。そして庶民の間にも文字の学習熱が高まり各地に多くの寺子屋が生まれてきた。

小田原地方(足柄上、下郡を含む)の寺子屋は「日本教育史資料」によると1844年(弘化1)より1869年(明治2)の25年間に31校が開設されている。これらの寺子屋の師匠(教師)の身分をみると、農民がもっとも多く11人、ついで僧侶、武士、神官の順となっており、寺子(生徒)は平均して50人に及んでいる。

なお、この中で牟礼(むれ)タキが経営した寺子屋は女子のみ120名を収容しており、これは他にあまり例がない。

6 明治の夜明け

幕末の小田原

18世紀の終り頃となると外国船の渡来が目立ち、海防対策がさけばれるようになった。1792年(寛政4)ロシア政府のラックスマンが通商を求めて来たのを機会に、時の老中松平定信は、海防計画を積極的に打ち出した。小田原藩に対しても、人数等を整え防衛体制をとるように指示している。翌年3月には海防のため定信みずから伊豆・相模の海岸を見回って、小田原に立寄っている。ついで藩主忠真の時代の1804年(文化1)に、またロシア使節レザノフが通商を要求して来たが、これに対して幕府が拒絶したため、北方海域にロシアの船がしきりに出没するようになった。そこで幕府は海防対策をますます厳しくし、江戸湾の防衛を一層固めるため、1820年(文政3)相模国沿岸の防衛を小田原藩と川越藩に受け持たせた。忠愨(ただなお)が藩主になってすぐ、1837年(天保8)6月米国船モリソン号が江戸湾に入って来た。浦賀水道を守っていた小田原藩は川越藩と共に、砲撃をして追払ったが、このモリソン号は、我が国の漂流民を送り届けに来た非武装船だったのである。砲術が幼稚であったので、損害を与えずにすんだ事は幸いであった。これがモリソン号事件である。この事件を非難し、さかんに開国論をとなえた渡辺崋山・高野長英らは幕府に捕えられ処断された。小田原藩は以後ますます沿岸の防衛に力を入れるのである。

1848年(嘉永元)、小田原藩は、江川太郎左衛門の門弟らの指導で、小田原城下の海岸で小銃を用いた実践訓練を行い、また、外国船渡来の際の出兵についての細かい規則を藩士一同に示している。翌年、伊豆の下田港に外国船が来るにおよんで、いよいよ重大な時機になった。1850年(嘉永3)、小田原藩は江川太郎左衛門に依頼して大砲の鋳造(ちゅうぞう)を始め、海岸に3つの台場を築いた。上の台場(荒久(あらく)海岸)・中の台場(御幸の浜)・下の台場(袖の浜)といわれた。このほか大磯の照ヶ崎海岸と真鶴岬の先端にも台場を築いたので、これを小田原五台場といった。このような情勢の中で、1853年(嘉永6)2月またもや小田原地方に大地震(嘉永小田原地震)があり、大きな被害を受けた。この天災に加えて六月には、ペリーの率いる米国艦隊が浦賀に入港するなど、まさに物情騒然(ぶつじょうそうぜん)たるあり様で、また物価は上がり生活もしにくくなっていったようである。

戊辰箱根戦争

この頃の不穏(ふおん)な空気の中で1868年(明治元)の正月を迎えたが、前年(慶応3)の大晦日(おおみそか)の大火のためか、この正月は恒例(こうれい)の藩主に対する年賀もなく、正月15日の松原神社の祭礼も中止された。この時の様子を関老母((せん)()小路の質屋善左衛門の妻女)は日記に次のように書いている。「(たつ)正月一五日は明神(みょうじん)様(松原神社)のお祭りも取り止めになり、町の人たちは荷物を(ざい)田舎(いなか))へ運び始め、世間はそうぞうしくなりました。一八日の朝は今にも戦争が始まるかのように皆様はいっていました。家の普請に来ていた大工も半日で仕事を止めてしまい、まるで下々(しもじも)(私たち)のいくさ(戦争)の様です。二〇日には荷物を在へ送る事を御所様(領主)よりさしとめられました。二一日にはさわぎも鎮まる様な気がして普請も少しずつ進めていますが心は油断していません。家の二つの蔵にたくさんある品物を、あづけている人が(かね)(返済金)を持たずに受け取りに来て、ことわると土蔵ではいくさの場合安心出来ないから在へ預けろと毎日の様に掛合(かけあい)(談判)に来て困ってしまいます。実に途方(とほう)にくれるという事は、この様な事かと思います。」来るべき争乱を予想して、町方の人々があわてている様子がよく出ている。この庶民の予想は遠からず的中するところとなり、小田原藩は幕末の騒乱(そうらん)の渦にまき込まれることとなった。

1868年(明治元)4月征討大総督有栖川宮(ありすがわのみや)(たる)(ひと)親王の軍が西郷隆盛を参謀として江戸を目指して進発した。小田原に到着すると藩主忠礼(ただのり)は親王を旅館に訪れ、自ら警備の指揮をとり朝廷側の一員としての勤王の態度を明らかにした。しかし徳川譜代の小田原藩士の気持には複雑なものがあった。4月11日には江戸城が開城され徳川将軍の居城は、ついに朝廷の手に渡った。その頃、旗本伊庭(いば)八郎が上総(かずさ)国(千葉県)請西(しょうざい)藩主の林昌之助を首領として、旗本の二・三男を中心に遊撃隊を組織していた。これは江戸で立ちあがった彰義(しょうぎ)隊に(あわ)せて、すでに江戸に入城している官軍を江戸と小田原ではさみ討ちにする目的をもっていたのである。遊撃隊は海路を館山より真鶴に上陸し、その代表は早速小田原城に来て家老杉浦平太夫・渡辺了叟(りょうそう)に面会し、遊撃隊への協力を要請した。藩の中ではこれに好意を寄せる気配(けはい)もあったが決断できず、藩主への謁見も認められなかったため、遊撃隊は韮山代官所と沼津藩を説得するため、小田原を出発した。江戸にいた官軍はすぐさま、小田原藩の弱腰を正すべく軍監として中井(はん)五郎と三雲(みくも)為一郎を送って来た。一方、上野で彰義隊が壊滅したことを知った遊撃隊約350人は江戸を目指して箱根に戻ってきた。小田原藩には関所を厳重に守れとの厳命が官軍から下されていたため、箱根関所をはさんで19日から戦いを交えることになった。その頃、小田原城中では、佐幕派が勢いを盛り返し、藩論を佐幕(さばく)と決定していた。その理由としては、藩主大久保忠礼は前将軍徳川慶喜のいとこで、藩の重臣にもまだ佐幕を捨てきれない人がいたことや、奥州の諸大名11家が90,000人の軍勢を引き連れ江戸を攻撃しようとしているとの誤報が遊撃隊から流されたこと、さらには官軍が軍用金として、4,500両を徴収したことによる不信感などが考えられる。翌20日早朝、小田原藩と和睦した遊撃隊は、箱根関所を通り小田原城下へ向かう途中で、この急変を知らずに関所に向かった、軍監中井範五郎と芦ノ湖畔の権現坂で出会い彼を殺害している。軍監三雲為一郎は宿舎で藩の急変と中井軍監の死を知ると、漁船で海路を藤沢まで行き江戸に急行して、小田原藩の変を官軍に報告した。この小田原藩寝返りの報が江戸に伝わると、江戸詰めの藩士中垣秀実は急ぎ小田原に帰り、城内において佐幕の非を説き、激論の末再び朝廷側支持へと藩論をひるがえさせた。そこで城下にとどまっていた遊撃隊へ退去を申し渡したが、遊撃隊はなかなか聞き入れず、25日の午後になりようやく箱根に向けて出発した。しかし箱根の入り口(湯本の山崎)に来るとにわかに戦闘隊形を取り、湯本に本陣を置き小田原藩兵を迎え撃つ準備をした。驚いた小田原藩は、これを一挙に撃滅し藩の汚名をそそごうと激しく攻め立てついにこれを撃破し四散させた。この戦を戊辰箱根戦争という。

このように小田原藩の動きは、すでに新政府支持を決定しながらその態度を二転三転させた。これは徳川300年の恩に報いようとする複雑な気持がそうさせたことであろう。家老の1人であった岩瀬大江之進は、家老職にありながら藩主補佐の任を充分果さず藩の大事を引き起してしまったことに責任をとり、6月10日自宅において割腹自殺をとげている。また同じく家老の渡辺了叟は江戸に護送され、切腹を命じられて自害した。藩主忠礼は永蟄居(ちっきょ)および38,000石を減封された。10月8日、支藩である萩野山中藩より11歳の大久保岩丸を名を忠良と改め、75,000石の新藩主に迎えた。1871年(明治4)、廃藩置県により名実共に藩政の機能を失った小田原藩は、280年の藩政の歴史に終止符をうち、明治の新政に入っていったのである。

6 近代のあゆみ ―明治・大正・昭和―

 日本の近代は明治維新から始まる。ここでは明治維新から小田原に市制が施行される昭和15年(1940年)までの約70年間の歴史をたどってみよう。小田原は、江戸時代には有数の譜代藩として、また、東海道の主要な宿場町として栄えていたが、明治維新によって廃藩置県、宿場制度の廃止という大変革に直面した。近代日本の歩みは政治・経済・社会・文化のすべてにわたる偉大な進展の歩みであったが、町勢は衰え、昔日(せきじつ)の面影もなくなった小田原の歩みはどうであったろうか。何に活路を見い出し、町勢の回復に努めていったのだろうか。また、明治から大正にかけて小田原はしばしば災害に見舞われているが、どのように立ち直っていったのだろうか。このように、小田原の近代は一面では苦難な歴史であったが、他面、このような中でも、町政のしくみを整え、学校教育を充実させ、産業、文化を発展させるなど、近代化が力強く進められていった。これから70年間の歴史を振り返って、近代小田原の苦悩と発展の跡をたどってみよう。

1 苦難な明治の小田原

城は無用の長物

藩主大久保忠良は1870年(明治3)、次のような願書を新政府に提出している。 「当藩の城は秋以来のたびたびの暴風雨で大破してしまい、修理しようにも藩にはその力がありません。しかし、いまの時勢を考えると、城は無用の長物になってしまいましたので、修理しても無駄であると思います。そこで、取払って廃城にしたいと思いますので、お伺い申し上げます」

新政府の許可はすぐに下りて、その年の末には天守やその他の(やぐら)が高梨町(浜町)の平井清八郎に払い下げられ、直ちに取り壊されてしまった。翌年の正月の本丸には天守台が寂しく残っているだけであった。数百年にわたって武家政治の象徴として厳然とそそり立ち、無言の圧力を加えて来た天守は、無用の長物として破壊されてしまったのである。時代の大きな転換期であった。

建物が解体される直前の小田原城

廃藩置県(はいはんちけん)と小田原

新政府ができたばかりの時は各地に江戸時代そのままの藩があり、領主がそれを支配していた。そこで、1869年(明治2)新政府の中心勢力であった薩長土肥の四藩が率先して版籍奉還(はんせきほうかん)をし、他藩も自発的にそれにならわせたのである。小田原藩においても、藩主を引き継いだばかりの忠良が大勢に遅れまいと版籍奉還を願い出ている。さらに、新政府は各藩の行政長官として新たに知藩事を設け、忠良などの旧藩主をこれに任命すると、次々に命令を発し、藩政の改革をさせていった。またさらに、新政府は統制力を強くするために、藩主と領民を切り離し、藩を廃止することによって、藩兵を解散させ、全国の年貢を政府自身が徴収しようとした。1871年(明治4)7月に行われた廃藩置県がこれである。小田原藩においては、これによって忠良は知藩事をやめて華族となり、住居も東京に移った。

1686年(貞享3)忠朝の時、再度小田原の領主となってから 185年間続いた大久保氏の支配はここに終わりを告げたのである。廃藩置県によって小田原藩は小田原県と名称を変えた。地域は藩の時と同じである。県としては狭いようだが、当時は全国が3府302県に分けられており、現在の神奈川県の範囲にも神奈川県、六浦(むつうら)(けん)荻野(おぎの)山中(やまなか)県と、この小田原県の4県もあったのである。忠良なきあとの県政は大参事がやっていたが、それもわずか4か月で終わりとなってしまった。同年11月には小田原県に荻野山中県と伊豆を加え、足柄県と名称を変えた。この時、全国は3府72県に整理されている。足柄県庁は旧藩時代の政庁であった小田原城二の丸に置かれ、新しい行政官として、参事に元韮山(にらやま)県(静岡県)参事の柏木忠俊、(ごん)参事に元伊万里(いまり)県(佐賀県)小参事の杉本芳照の両名を迎えた。旧藩主の大久保氏は、この両名を迎えるに当たって士族庶民一同に()直書(じきしょ)を布告している。その中で、朝廷の言い付けをよく守り、柏木、杉本の両名と対立することのないようにと、こまごまと諭している。

1876年(明治9)に政府はまたも行政区域の整理を行った。これによって足柄県は廃止され、伊豆が静岡県に入ったほかは、すべて神奈川県に編入された。小田原には神奈川県小田原支庁が置かれ、ここに廃藩置県以来の目まぐるしい行政区域の移り変わりは終わるのである。

地方自治の芽ばえ

町政も目まぐるしく変わっていった。江戸時代に城下町は侍屋敷と町屋(まちや)に分かれ、町屋はさらに一九か町に分かれていたが、足柄県になるとすぐに士族町を3区、町屋を3区の合計6区に区分けされた。この区制は、1871年(明治4)に制定された戸籍法を実施するための区域として全国一斉に設けられたものであるが、その後、大区、小区を設け、行政の単位になっていった。1875年(明治8)には従来の19か町を十字・幸・万年・新玉・緑の5か町としたが、小田原の総称としては、宿駅制度の名残りで「小田原駅」という呼び名が町制が施行されるまで使われていた。翌年神奈川県に編入された小田原は、神奈川県第二21大区 1小区となった。この区において行政事務を行ったのは、県から任命された戸長、副戸長である。戸長、副戸長は初め県庁へ出勤していたが、その後、役場を持つようになり、1876年(明治9)に幸町(本町)大久保貫一邸に小田原で初めての役場が設けられた。地方制度が整えられてくるのは、1878年(明治11)にいわ ゆる三新法(郡区町村編制法、府県会規則、地方税規則)が公布されてからである。これによって、県会議員の選挙が行われて、県会の仕組みが整えられ、また、行政単位としての郡が作られて、郡会も開かれた。そのため、神奈川県小田原支庁に代って、足柄下郡役所が置かれた。さらに、大小区が廃止され、小田原は5か町にそれぞれ戸長が任命された。しかし、五か町連合の仕組みをとったため、実質的には1か町として行政が行われていた。三新法が公布された翌年、町村会の仕組みを定めた町村会規則が制定された。小田原でも議員選挙(定員40名)が行われ、5か町連合町会が開かれた。選挙権は地租を納める満20才以上の男子、被選挙権は同じく25才以上の男子に与えられた。この町会の権限は非常に限られており、住民の意志を反映するものとは言えなかったが、選挙された住民の代表による町会が開かれたということは、地方自治の発達の上に大きな意義があった。その頃はちょうど自由民権運動が一番盛んな時に当たり、町会が開かれた翌年、十字町(南町)の士族の松本福昌外13名を総代として、神奈川県下9郡559町村の23,555名の人々が、元老院に国会開設の請願書を提出している。

町政は、その後、大きな変化もなく進められていったが、政府は、憲法の調査研究と併せて、本格的な地方制度の研究を行っていった。この研究は、板橋に古稀庵(こきあん)を営んだ山県有朋(やまがたありとも)を中心に進められ、 1888年(明治21)に市制、町村制として公布された。これによって、五か町連合町は名実共に小田原町となり、町政は公民(2年以上住み、地租あるいは2円以上の直接国税を納め、1戸を構える男子)の代表によって行われるようになったのである。1889年(明治22)には新たに町会議員の選挙(定員24名)が行われ、さらに、当選した議員によって初代町長として今井徳左衛門が選出された。小田原町の自治は、このようにして進展していったのである。

灯が消えたような小田原

大久保忠良が東京に移住するため、小田原を去る時の様子が「明治小田原町誌」に、次のように記されている。
「大久保従五位殿(忠良)が東京にご出発になられるので、町年寄を始め各町役人及び有志の者が酒匂川までお見送りした。時勢の移り変わりは止めることはできないが、先君が藩主になられて初めて小田原にお入りになった時の行列の盛装を思い浮べ、ひそかに涙を流した者もあったことだろう」

まさに時代の流れを強く感ずる一場面である。すべてが時代の転換点に立たされていた。特に、士族たちの生活の苦悩は深く、侍屋敷の小路(こうじ)に「貧乏小路」という汚名が付けられるほどであった。 1883年(明治16)の士族の実情として、次のような統計がある。

士族の戸数1,104戸の内
かなり生計を維持する者・・・32戸

ようやく生計を立っているが、段々と生きる道を失いつつある者・・・989戸

いままさに飢餓(きが)に陥ろうとする者・・・・83戸

いかに士族の生活がぎりぎりのところまで来ていたかがよくわかる。俸禄(ほうろく)をうち切られ、その代り与えられた一時金や公債(こうさい)は借金の返済や抵当(ていとう)のために失うし、また、いろいろな商売を始めても、「士族の商法」といわれて失敗してしまった。多くの士族が内職をしたり、家財道具を売ったりして、その日暮しをしていたのである。

一般庶民の家々も大変であった。小田原宿は他の宿と異なり、田畑がほとんどなく、城下町として、また、宿場町として生計を維持し、発展してきたのである。しかし、明治維新によってすべてが一変してしまった。それでも、足柄県庁があった頃までは多少の旅客があったが、その後はほとんどなく、旅館は全く経営困難になった。料理屋に転業したものも多かったが、それもはかばかしくなかった。

このような打ち沈んだ状態は人口の動きにも現われている。

1872年(明治5) 13,306人
1876年(明治9) 13,314人
1878年(明治11) 13,574人
1882年(明治15) 14,091人

特に、1872年から76年までの4年間には8人の増加しか見られず、大量の流出があったことがわかる。小田原での生活に困窮し、東京に出た者、親類縁者を頼って他の地方に行った者などさまざまであろう。士族、平民共々に苦難な時代であった。

沈滞(ちんたい)からの脱出

1887年(明治20)、東海道線国府津駅が開設された。当時の東海道線は国府津から今の御殿場線を通って沼津に抜けており、小田原は幹線から外れてしまった。しかし、沈滞期にあった小田原にとっては、この国府津駅の開設は大きな刺激となった。早くも翌年、京浜方面からの客をあてこんで、小田原の海岸近くに旅館と料亭を兼ねた鷗盟(おうめい)館が有志によって建設され、続いて国府津から湯本までの馬車鉄道が敷設された。「国府津おるれば馬車ありて」と鉄道唱歌に歌われた馬車鉄道は、雨天に泥がはねるといって沿道の家々の苦情もあったようだが、年間25万人(明治28年)もの乗客を運び、順調に発展していき、1900年(明治33)には、馬車に代って電車が走るようになった。これは小田原電気鉄道と呼ばれ、日本で2番目に早くできた電車として知られている。

人車鉄道
芥川竜之介の小説「トロッコ」に鉄道建設の風景が描かれている。

このような中で熱海方面への来遊客が増え、1896年(明治 29)には小田原、熱海を結ぶ人車鉄道が開通した。これは客を乗せた箱車を人夫が押していくという、かなり風変わりな交通機関であったが、湯河原、熱海の温泉へ行くには一番便利だった。小説家の国木田独歩(くにきだどっぽ)もよく利用したらしく、彼の随筆に人車鉄道のことを記している。しかし、1906年(明治39)には、この人車鉄道に代って蒸気機関車が引っぱる軽便鉄道が登場した。これは志賀直哉(しがなおや)が小説「真鶴」で描いているように「煙突の上に丸いオーブンでも乗せたような」「小さい軌道列車が大粒の火の粉を散らしながら息せき」切って走っていたが、人車鉄道よりもだいぶ便利になったと言われて、京浜方面からの湯治(とうじ)客に喜ばれたのである。

こうして小田原は、箱根や熱海方面への玄関口という有利な位置にあったため、交通機関の順調な発達に恵まれ、維新以来の打ち沈んだ町勢は次第に回復に向っていった。このような情勢を反映して、交通機関が整備される明治30年以降、人口も急速に伸び、 1911年(明治44)には、ついに、20000人台に達している。小田原はいよいよ発展期の大正時代を迎えるのである。

2 教育の発展

藩校より小学校へ

戊辰箱根戦争によって、大きな痛手を受けた小田原藩は、時流に取り残されないようにするため、藩校集成館の改革を行った。

1869 年(明治2)には、英学科を新たに作り、さらに、 1871年(明治4)には、国学科を加え、一般庶民の入学を認めた。これらはすべて新政府の方針、当時の思想界の動きを敏感に取り入れたものである。1872年(明治5)4月、政府の命令により、集成館は50年の歴史を閉じて廃校となったが、引き続いて、小田原駅には「共同学校」(中学)と、「日新館」(小学)の2校が開校した。この2校は、足柄県権令(ごんれい)柏木忠俊の尽力と、旧藩主や、士・民有志の寄付によってできたのである。

次いで、8月、新政府によって学制が頒布(はんぷ)された。国民教育の目標が示され、各地に小学校ができていった。日新館は、翌年4月より公立小学校となり、共同学校は、のちに教員養成のための講習所となった。小田原の公立小学校は日新館のほかに、啓蒙(けいもう)館、壱丁田(いっちょうだ)学校、西海子(せいかいし)学校が相次いで開校した。なお、現在の小田原市内に学制頒布直後に創立された小学校は、別表のとおり15校であった。これらの学校は一部を除いて、ほとんど寺院を借りて校舎にあて、教員もまたほとんど旧小田原藩士で、教室では羽織(はおり)(はかま)の先生が、(むち)をもって掛図を指し、生徒が一人ずつ立ってこれを唱え、それが終って全生徒が唱和するというような授業風景であったらしい。当時の就学率は資料が欠けているので明らかではないが、小田原では1874年(明治7)には、39%と推定されており、全国平均32%に比して、相当高かったようである。以後、これらの学校はいくたびかの統廃合をくりかえして現在に引き継がれてきたのである。

※小田原駅
 小田原の総称として、宿駅制度の名残りで、「小田原駅」という呼び名が町制が施行されるまで使われていた。

小田原で出版された習字の教科書

明治初期の卒業証書

中等学校の設立

1872年(明治5)4月、小田原に中学校が開校した。名称は「共同学校」、所在地は十字四4丁目(南町)にあった旧藩主、大久保家の私邸であった。福沢諭吉の慶応義塾に学んだ小野太一郎その他が教員となり、主としてアメリカの教科書を使っていたようである。しかし、共同学校は開校以来、生徒数が少ない上に経費がかさむので、ついに1874年(明治7)廃止されて、教員養成のための師範学校(はじめは師範講習所といった)となった。この小田原師範学校内に、1876年(明治9)に至って、また中学校が併設されている。これは、共同学校廃止後、中学校再興の機運が高まったためであろう。しかし、この小田原師範学校は1879年(明治12)には、横浜師範学校に合併吸収されてしまった。そして、これに代って同年、郡立小田原中学校が設立され、生徒数77名をもって開校された。しかし、これも1885年(明治19)に廃校になってしまった。郡立小田原中学校が廃止されて、2か月後に小田原英語学校が設立されたのであるが、これも経営に窮して 1年を待たずに翌年廃校となった。小田原英語学校の廃校によって、中学校は小田原から姿を消してしまったのである。しかし、この頃、向学の意気盛んな民間人が、私費を投じて私立英和学校というのを開設した。将来は郡立中学校とする目的であったが、維持していくのが困難となり、目的を達せず1890年(明治23)に廃校となった。このように設立されても廃校の運命をたどることになったのは、ひとつには資金不足による経営の困難性があげられる。そのため小田原有識者の中学校再興運動は、自力建設よりもむしろ県立の中等教育機関の小田原への誘致運動に熱意と努力が傾けられていった。この間、師範学校誘致の運動もおこったが、結局鎌倉に建設された。しかし、熱心な運動がついに報いられ、待望久しい県立中学校が1901年(明治34)4月、神奈川県立第二中学校(神奈川県立小田原高等学校)として小田原英語学校廃止以来、14年ぶりに誕生したのである。

県立第二中学校の設立(現在の小田原高等学校)

ひろがる女子教育

明治初期、小田原の小学校の特色の1つに女子の就学率の高さがあげられる。1874年(明治7)、全国男女別就学率は、男子45%、女子19.6%であるが、小田原では、推定男子42%、女子36%であり、また、同年、小田原の3校に在学している生徒の男女別比率をみると男子54%、女子46%となっている。この数字は、女子の教育熱の高さをはっきりと示している。女子の教育の広まりは、江戸時代からの伝統に基づくもので、幕末にすでに私塾に25名、寺子屋に140名の入学があったことが記録されている。

やがて、女子の中等教育への関心が高まり、幸町の高等小田原小学校に、1903年(明治36)より、「女子補習科」が設けられ、続いて5年後の1908年(明治41)に、町立小田原高等女学校(神奈川県立小田原城内高等学校)ができた。これより6年前の1902年(明治35)に新名(にいな)()()によって裁縫(さいほう)伝習(でんしゅう)(しょ)がつくられ、やがて、新名裁縫女学校(旭丘高等学校)となった。これは報徳精神に基づいて良妻賢母を育成するというものであった。

大正以後の教育

大正時代の教育は、明治時代の精神と方向を受けつぎ、日本の国際的地位の高まりとともに、著しい発展を示すようになった。そして、職業教育の必要から実業学校を作る動きがおこってきた。そのため、小田原の隣村、足柄村にも1921年(大正10)村立の足柄実科高等女学校(現在の神奈川県立小田原東高等学校)ができ、さらに1927(昭和2)、夜間の実業学校として小田原商業学校(現在の神奈川県立小田原東高等学校)が、向学心に燃える働く人たちのために作られた。

昭和の初めは不景気の世の中で、国民の生活は不安定であった。やがて、満州事変、日華事変がおこり、国をあげて戦争への道を歩みはじめ、教育もまた国家主義をもとにした教育方針が打ち出され、次第に軍国主義の方向へと導かれていった。1941年(昭和16)、尋常高等小学校が解消され、国民学校令が公布されて、初等科6年、高等科2年の国民学校となった。

3 近代文学と小田原

小田原は一地方都市でありながら近代文学史上に名を残す人々を生んでいる。それは江戸時代から文学愛好の伝統があり、さらに気候風景に優れたこの町に往来した多くの文士の影響もあったからであろう。

保養地小田原

明治、大正期の小田原が保養地としてクローズ・アップされたのは風景、気候もよく箱根の温泉にも近いということが大きな要因になっている。1887年(明治20)7月に東海道線が国府津まで開通し翌年には国府津・小田原・湯本間に小田原馬車鉄道が営業を開始した。交通が便利になるとともに、酒匂の松濤(しょうとう)(えん)や、鷗盟館(おうめいかん)などの旅館が建設されて京浜方面からの客の誘致に活気ある活動を展開した。1890年(明治23)10月、小田原海岸(本町)に伊藤博文が滄浪閣(そうろうかく)という別荘を建てた。この頃の伊藤は貴族院議長の席にあり、小田原滞在中は名士の往来も多かった。 1894年(明治27)伊藤は民法起草のために滄浪閣を提供した。1900年(明治33)、旧小田原城内に皇室の御用邸を建設する案が進み、1月地鎮祭を行なって工事に着手し、翌年1月に竣工した。

この御用邸には明治天皇の皇女、常宮(つねのみや)(かねの)(みや)がしばしば滞在され、また大正天皇も皇太子時代よく利用された。しかし、1923年(大正12)9月1日の関東大地震でつぶれ、22年間の小田原御用邸としての存在は終わった。1907年(明治40)には山縣有朋(やまがたありとも)が板橋に古稀庵(こきあん)を建て、1922年(大正11)84歳で没するまでここに住んでいた。この間、山縣は国家の元老として大きな力をもっていたので、来訪する名士が後を絶たなかったといわれる。

板橋の丘陵は気候・風景も佳く古稀庵の周辺には閑院宮別邸をはじめ実業家、政治家などの別荘が次々と建てられた。現在、南町で公開・活用が行われている田中光顕(みつあき)が建てた別邸(現在の小田原文学館)や、黒田長成が建てた別荘「清閑亭」は、そのような建物が現在も残されている例である。

文士の往来

一方、小田原の風光を愛した文学者たちが小田原に移り住むことも次第に多くなり明治後半期から大正の前半期がその頂点になった。詩人北原白秋が小田原に来たのは1918年(大正7)で、初めは十字町御花畑(南町)に住んでいたが、間もなく天神山の伝肇寺(でんじょうじ)の境内に移り「(みみ)(ずく)(いえ)」を建てた。

白秋の小田原生活は8年間であるが、ここで彼は後世に多くの業績を残したばかりでなく、小田原地方にも大きな影響をあたえた。小田原時代の作品として「雀の生活」「水墨集」の詩集、「とんぼの眼玉」「まざあぐうす」などの童謡集があり、その他散文集、民謡集等、その作歌は2,000余首にのぼるといわれる。雑誌では鈴木三重吉らと「赤い鳥」を創刊(1918年)し、山田耕作と「詩と音楽」を創刊(1922年)、その他、短歌雑誌等も出している。北原白秋の小田原における記念碑は天神山伝肇寺の境内と同時に小田原文学館敷地内に建てられ、有名な「赤い鳥小鳥」の童謡が刻まれている。このほか小田原に来往した作家には明治時代に、村井弦斎(げんさい)・斎藤(りょく)()・小杉天外などがあり、大正時代に入っては、谷崎潤一郎・加藤一夫などがいる。

小田原文学館にある北原白秋の「赤い鳥小鳥」童謡碑(足柄上郡誌・足柄下郡史」より)

小田原出身作家の活躍

⑴北村透谷(とうこく) 小田原出身の近代作家といえば、まず北村透谷をあげなければならない。透谷は明治初期の文学界で指導的な役割を演じ、詩や評論の世界に華々しく活躍した天才的文学者であった。その生涯は極めて短かったが、その作品は明治文学の指針となった。以下透谷の文学的系譜(けいふ)をひも解いてみよう。1868年(明治元)彼は父北村快蔵、母ゆきの長男として唐人町(浜町)に生まれた。本名は門太郎である。1881 年(明治 14)家族とともに東京へ移住したため、小田原の小学校から京橋の泰明小学校へ転入学した。当時は自由民権運動が最も盛んな時であり、透谷にも影響を与えていた。

泰明小学校卒業後、透谷は自由民権運動への政治熱を高め、政客たちとの親交を深めていったが、やがて政治に行き詰まると、政治熱も低下していった。1883年(明治16)東京専門学校(早稲田大学)に入学、政治から離れた彼は文学に自己を生かす道を求めた。1889年(明治22)透谷20歳の年「()(しゅう)之詩」を自費出版した。これが世に出た彼の最初の作品である。1892年(明治 25)には文壇に乗り出す機会を得て全力を文学に打ち込もうと決意した。評論「厭世(えんせい)詩家と女性」を女学雑誌に掲載し、女学雑誌からは毎月執筆を依頼された。島崎藤村を知るのもこの年である。さらにこの年は「国民之友」などに多くの作品を発表し、飛躍の時代を迎える。透谷23歳の年であった。1893年(明治26)女学雑誌から分かれた文芸雑誌「文学界」が創刊された。透谷はこの創刊号に同人として随筆「富嶽(ふがく)の詩神を思ふ」を発表し世評はおおいに高まった。続いて「内部生命論」も論評として文学界に発表されている。この年8月末、国府津(ざい)前川村(小田原市)長泉寺の一室へ転居した。ここで 「眠れる蝶」、「双蝶のわかれ」 などの詩を発表したが、経済的窮乏、精神的疲労、創作力の衰えを自覚してあせりを感じはじめた。10月には藤村が突然長泉寺に透谷を訪ねている。

北村透谷記念碑

この間の事情は藤村の小説「春」に詳しい。12月長泉寺から東京の父母の実家へ戻ったが精神的な苦悩は一層高まり、もはや進んで筆もとれないほどであった。その後、精神状態はますます悪化し1894年(明治27)5月、芝公園内の自宅の庭で縊死(いし)をとげた。満25歳であった。

透谷の小田原生活は12歳までで、その後東京生活へ移ったが 1891年(明治24)小田原地方出身学生の団体である(かん)(とう)会に入会、その機関誌「函東会報告誌」に小論文を発表したり役員になったり、東京例会にも出席したりして、少年時代の郷土とのつながりを保っている。しかし、1893年(明治26)には役員も辞し東京の例会にも出席することはなかった。現在彼の生家近くには「北村透谷生誕之地」の碑が建てられ、また小田原文学館には北村透谷記念碑が建てられている。碑文の筆者は島崎藤村である。

⑵牧野信一 牧野信一は1896年(明治29)小田原に生まれ、 1936年(昭和11)小田原で没した作家である。彼の文学活動は、同人雑誌「十三人」に載せた「爪」が藤村に認められ「新小説」に紹介されたことから始まる。これが文壇に出るきっかけとなったのである。彼の作品には虚構(きょこう)(想像によって現実の物語のように仕組むこと)と事実を織りまぜて、自らの生活の身辺を描写したものが多く、いわゆる私小説作家であった。

彼は緑1丁目(栄町)に父久雄、母ヱイの長男として生まれた。父渡米後、母ヱイの勤務する尋常小田原小学校へ入学、その後神奈川県立第二中学校(小田原高)へ、続いて1914年(大正3)早稲田大学へ進学した。卒業後時事新報社の記者となった。藤村の紹介で「新小説」に「凸面鏡」を掲載、評論家の批評の対象となったのは1920年(大正9)信一が25歳の時である。初めて小説の依頼を受けたのは「新潮」からで、1923年(大正12)「熱海へ」を発表、当時、文壇に最も影響力があったといわれる同誌の「創作合評(がっぴょう)会」で取り上げられた作家として、文壇に認められることになった。やがて 「中央公論」、「文藝春秋」等の有力誌に「村のストア派」、「ゼーロン」等多くの作品を発表した。しかし、1932年(昭和7)頃になると神経衰弱が始まり生活も苦しくなった。やがて彼の苦悶(くもん)の時代が始まるのである。その後、「文藝春秋」に「鬼涙村」を発表、世評は高かったがその作風は次第に暗い現実味を帯びはじめていった。1936年(昭和11)神経衰弱がこうじて単身小田原へ帰った。新潮に掲載された「風流旅行」は彼が生前発表した最後の小説であった。病勢は悪化し寝たり起きたりの状態であったが、同年3月24日、新玉2丁目(浜町)の実弟宅で縊死した。41歳であった。

菩提寺(ぼだいじ)は寺町の清光寺であり、故人の20回()の墓前祭が1956年(昭和31)に行われた際、新たに伊藤()(さく)題字、久保田万太郎碑文の「牧野信一之墓」が建立された。

⑶福田正夫 大正期の詩壇に「民衆詩派」の詩人たちの活躍があるが、福田正夫はその中の一人として同人誌「民衆」を発刊し名声を高めた小田原の詩人である。「民衆詩派」は人間の生活力を愛情をこめて歌おうと努め、現実のあらゆる素材を詩の世界に取り入れ平明な自由詩を作った。
福田正夫は1893年(明治26)十字4丁目(南町)の医師、堀川好才の五男として生まれ、後に新玉4丁目(栄町)の女学校や幼稚園を経営していた福田方に身を寄せ、養子となった。1908年(明治41)に神奈川師範学校(横浜国大)へ入学した。この頃より文学に興味を持ちはじめ師範学校を卒業後、根府川小学校に赴任した。その後、川崎の玉川小学校へ赴任、詩人白鳥省吾、富田砕花の勧めで詩集「農民の言葉」を初めて自費出版した。 1916年(大正5)片浦村 石橋分教場に赴任し、1921年(大正10)までの5年間、教鞭(きょうべん)をとるかたわら青年会にも関係して夜学に尊徳夜話、透谷選集等を講義したり、幼稚園を作ったりするなど、村の指導に努めた。1918 年(大正 7)小田原在住の詩人たちと雑誌「民衆」を創刊し、「民衆詩派」の名を起こした。当時、小田原在住の北原白秋と交遊、「民衆」創刊号この間、「トラウベル詩集」、「未墾地」を出版した。

1921年(大正10)3月には前後8年間の教員生活と別れ教壇を去った。翌年には白秋と詩作についての論争が4か月にわたり行われている。その後、次々と作品を発表して名声を高め人気を博した。1927年(昭和2)、28年には「福田正夫詩集」(1集 15集)を出している。

しかし、やがて創作活動は低調となり、震災後は東京世田谷へ移住した。1951年(昭和26)脳出血の発作(ほっさ)をおこし、翌1952年6月帰らぬ人となった。59歳であった。1か月後、遺骨は小田原へ帰り早川の久翁(きゅうおう)寺の祖先の墓地に埋葬された。なお1966 年(昭和41)の15回忌には、遺族によって「福田正夫詩碑」が境内に建立された。また、城山公園にも井上康文詩碑と並んで福田正夫の「民衆碑」が建設されている。これは 1959年(昭和34)に城内に建てられたものを、1989年(平成元)に現在地に移設したものである。

「民衆」創刊号

4 近代産業のめばえ

名産のあれこれ

小田原特有の産物は、訪れる人々の格好(かっこう)の土産として評判になり、商品の販路も広がり、製造方法も新しい技術が取り入れられるようになった。

⑴箱根細工の発展 明治以後、箱根細工は、全国の需要に応ずるため生産が増大していった。原材料も箱根山で満たすことができなくなり、広く各地に求めるようになった。そこで、生産の中心地は、箱根から次第に交通の便利な、板橋・十字(南町)へと移っていった。大正期に入ると、谷津・荻窪の山ろく地帯へ、昭和になると、栄町・浜町・中町・井細田から、さらに、小八幡・国府津・堀之内と、市内各地で盛んに製造されるようになった。製造方法は、むかしの「手ぼり」や「足ぶみろくろ」に代わって電動力を使い、数十人の職人が分業で仕事を進めるようになった。製品の種類には余り変化は見られないが、(ひさ)(もの)では、おぼん、茶たくなど、指物(さしもの)では、寄木細工・玩具(がんぐ)が多く作られるようになった。

箱根細工生産地の広がり

⑵ものさし 酒匂の竹ものさし製造は江戸時代の後期から行われていたらしいが、明治に入っても、はじめは製造人の制限などがあって、業者の数は少なかった。明治29年に、「度量衡(どりょうこう)検定所」が設けられ、翌年には法律が制定されて、製造人の人数制限が解かれたため、製造業者も次第に増えていった。工場の規模も家内工業的なものから新しい器具・機械などの設備をもつ、工場生産に発展していった。こうして「竹ものさし」は小田原の特産品として全国に知られるようになり、産額も明治末期には全国産額の4分の1を占めるようになった。以後、大正・昭和にわたり、全国一の生産量を維持して来た。

しかし、材料の良質の竹が不足してきたことや、各地で、金属・セルロイドなどの材料を用いて安価で大量生産のできる新しい度器が作られるに及んで、酒匂の竹ものさしも、独占の時代からきびしい競争の時代を迎えることとなった。

⑶みかん 小田原周辺の丘陵地帯が開けてくると、みかんの生産は東部の大磯丘陵では、前羽から国府津・田島・下曽我へ、西部の箱根山ろくでは、根府川・片浦から、大窪・荻窪・久野へと広がっていった。明治の中頃までは、紀州みかんと温州みかんが半々に栽培されていたが、大正・昭和になり、温州みかんの改良種が普及していった。実が大きく、皮もなめらかで、甘味・酸味・香味ともによくなり、生産額も増加するようになった。初めは、みかんの仲買人に売っていたのが、その後、共同販売するようになった。

技術が改良された水産業

⑴定置網 ぶり・あじ・さば・かます・うずわ・きんめだい・いわしなど、小田原近海で獲れる魚の種類は多い。明治の初め頃まで、()(こさい)(あみ)が真鶴から早川沿岸によくかけられた。やがて、各地で発達したぶり漁法が、小田原でもとり入れられるようになり、「大敷(おおしき)(あみ)」という、魚をとる身網と誘導する垣網との組合せによる定置網が工夫され、大漁の日が続いた。大正時代には、「大謀網(だいぼうあみ)」という大型のものがかけられ、朝夕網を閉めることで、漁獲高も増加していった。昭和の初めには「落し網」が米神・真鶴漁場にかけられるようになった。これは、竹束などで作られた大きな浮きが数個ついていて、長く大きな垣網に誘われた魚群が箱網に引き入れられる能率的な網であった。

定置網が取り入れられると、漁獲高の増減も大きく、網の流失もあり、多額の資本が必要となったため、外部の事業家、資本家が経営する場合も出てきた。地元の人々の間で、漁業組合を作ったり、その他の団体や事業家へ賃貸(ちんが)しをしたりする仕組みも行なわれてきた。しかし、その権利や利益の配分などで近代的な仕組みができたのは、戦後になってからである。

大謀網の模型

⑵かまぼこ 今日のように長方形の板付が作られるようになったのは明治以降のことで、ゆで、あげ、やきぬきなど種類も多くなった。大正末期には販路は東京を中心として東日本に広がり、生産量も増加した。しかし、沿岸漁業の不振により、原料が不足し、朝鮮近海の「グチ」などが運ばれてくるようになると、材料高のため、そうざい料理からご馳走(ちそう)料理に代わっていった。生産の能率も上がるようになり、魚肉身取り器、肉ひき機、蒸気の蒸器蒸器(むしき)などを使い始め、業者も次第に増加していった。

足柄下郡物産分布図(大正5年)(足柄上郡誌・足柄下郡史より)

明治・大正・昭和初期の主な工場

近代工業のおこり

明治の中頃より産業革命の波が各地に広がり、小田原もその影響で次第に近代的工場が建設されるようになった。1916年(大正5)小田原製紙会社が足柄地区に設立されたのを始めとして、酒匂川右岸地域に製綿、製紙、織物などの工場が次々と建設された。この地域は土地が広く、豊かな工業用水に恵まれ、交通の便が良いので、昭和に入ると、富士フイルム、湯浅電池、小西六などの写真、化学の工場が進出した。そして、1941年(昭和16)に、酒匂に内閣省印刷局(現国立印刷局)の大工場が作られたことは、その後、酒匂川左岸の地域が近代的な工場地帯へ発展するきっかけとなったのである。

商業の発達

小田原は明治に入り、町勢が一時さびれたとはいえ、西湘の中心地として近郷の買物客を集めていた。当時の商店は、旧東海道沿いの本町・宮の前(本町)、旧甲州街道沿いの青物町・大工町・須藤町(栄町・浜町)に軒を並べていた。1889年(明治22)東海道本線が国府津から御殿場回りで開通すると、国府津が新興商店街として急速に発展するようになった。その後、国府津―湯本間の電車の運行などにより、本町・宮の前は引続き栄えたが、1920年(大正9)の国鉄小田原駅の開設は、小田原の商店街に大きな変化をもたらすことになるのである。大正末期から昭和にかけて、各私鉄が小田原へ乗り入れ、小田原は県西の交通の要地となり、駅に近い須藤町(銀座通り)が中心的商業地域として発展した。そして、この須藤町と駅を結ぶ錦通り商店街も開けていった。

小田原の商業は、古い伝統と堅実な商法により発展してきたが、交通の発達や産業の進歩に伴って各種商品の販路も広がり、発展の時代を迎えるのである。

5 明治の海しょうと関東大震災

明治の海しょう

1902年(明治35)に小田原は台風による海しょうの被害を受けた。9月4日の午後から海岸に大浪が打ち寄せ始め5日には、家屋の半潰10戸、全潰4戸、浸水100戸、負傷者数名の被害をもたらした。その後波浪(はろう)はおさまったが、28日に至りまたも海しょうに襲われた。この日、朝からの雨は午前10時頃から小降りとなり、午後には晴れそうな空模様となったが、夜からの激しい浪は高さと振動を加える一方で、ついに午前11時には最大に達した。数mの高波は防波堤を超えて大地を揺がす振動と共に陸地に押し寄せて、人家を潰し、船を流し堤防、道路、田畑を破壊し、午後1時頃まで2時間にわたって暴威を振るう。当時の調査によると、被害状況は死亡12人、負傷184人、家屋の全壊 144戸、半壊69戸、破壊550戸、流失293戸、床上浸水 300戸、床下浸水700戸にも上っている。これは小田原町だけの数である。現在の小田原市の海岸線を考えると被害はもっと大きかったと思われる。

これより以前、小田原地方は1877年(明治10)7月、1880年(明治13)10月、1892年(明治25)9月、1899年(明治32)10月というように、しばしば高潮や高浪による災害を受けている。昔は海岸の幅が広かったようであるが、1703年(元禄16)の大地震で海岸に沈降があり、砂浜は狭くなった。江戸中期以後は堤防の修理と保護に手が回らず、特に幕末から維新にかけては動乱のため修理の余裕がなく、その上明治になっても年々の土用波に洗われ破壊が進んでいた。これらのことを考えると1902年(明治35)の海しょうによる大被害は、人災の要素を多分に持っていたともいえる。この海しょうの後、防波堤の建設が小田原町政の重要問題となった。そこで県の補助金をもとに町費および寄付金をもって堤防建設に着手した。1905年(明治38)4月に完成した堤防の全長は約2㎞であった。その堤防も現在は海岸寄りに国道1号バイパス(西湘バイパス)が建設されたので、内側にわずかに名残をとどめるばかりとなってしまった。

関東大震災

1923年(大正12)9月1日、関東地方は大地震(大正関東地震)におそわれ、続いて大火災を起し、東京・横浜をはじめ各地に大きな災害をもたらした。

小田原駅前の惨状

余震が続き、火は燃えさかり、一瞬のうちに、阿鼻叫喚(あびきょうかん)(ちまた)と化した。夜になっても火勢は衰えず、人々は寝る場所を一晩中探し求めた。なにしろ大地震と火災で通信は途絶え、新聞の発行も止まり、どこでなにが起っているのか少しもわからない状況であった。そのような中、社会主義者や朝鮮人が放火をしたり、暴動を(くわだ)てたりしているというデマも広がり、人々は不安を(つの)らせた。どの町内でも「自警団」を組織し、竹槍などを持ち町内を守った。
当時の小学校の児童が、満1年たった1924年(大正13)9月1日に、1年間を思い出して書いた作文集から、1編をここに掲載しよう。

震災当時の感想 五ノ一 最上亀代子

『9月1日と聞いてさえぞっとする日悪魔にのろわれし9月1日の正后、大地はゆらゆらと振動しはじめました。始めに続いて大地はますますはげしくゆれ四方の家々はばたばたとたおれる。私の家のうらの人々もひめいを上げつつ逃げまどっている。一寸と見上げれば雲はどんよりとし太陽は赤く気み悪く光っている。四方の家々に起るひめい、続いてばたばたとあてもなく逃げまわる。私どもはすこしの物を持ち多くの人々にまじって逃げまわった。やっと安国寺の空地へ逃げのびた。あたりを見まわすと火の手はもう御幸(みゆき)()の前までおし寄せて来た。ほのおの町、人々は口々にわめき立てながら、ばたばたと逃げまどう、もまれながらやっと空地まで出た私は、またも心配におそわれなければならなかった。おそろしき旋風は吹き立て、吹き立て、矢の如くあおり立てる、火花は散る、今は火の海の中に私どもはどうすることも出来ず、まごつくばかり炎々(えんえん)として燃え上るほのおは一軒一軒と用捨(ようしゃ)なく勢にまかせ焼き倒す、時々パチパチという恐しい火焔の迫り来る音、四辺の家の焼ける火気で暑くてたまらない、「あっ火が……火が」と多くの人々はまたもばらばらに散り始めた。私は「少し物でも」と思うと引きかえして自分のかばんを家の中からひきづり出そうとした。必死の力は恐しいもので上の行李(こうり)をのけ、やっと出して外へ出た。また御幸座から「ごーう」とすごい音を立て、立ちのぼった黒煙、たつまきがおそい、だんだんと広まって行く、悪魔ののろいのほのおは我が関東地方を(ひと)なめにしようとしているのだ、黒煙はますます猛烈においかぶさり大きな火の子は雨あられと降ってくる。空地に逃げのびた私たちはほっと一安心していると恐しい旋風につれて火はだんだんと広がる。それをよけるため少しの物を草で払いながら休んでいると、間もなく夕方となりました。少しばかりの米をたきそれを、おむすびにして食べながら見ると火のため天地が真赤に染っている。震災後1年を去る今日になってもその時の事が、目にちらつくようです。』

根府川駅から転落した電車

当時のなまなましい状況がよくわかる。小田原町では建物はほとんど倒れ、火災が起り多数の死傷者を出した。当時、小田原町の人口は22,778人で死者は407人、負傷者は1,918人で、全戸数5,312戸のうち全壊1,740戸、半壊1,304戸、全焼2,268戸を数えている。また足柄村井細田(小田原市)の小田原紡績株式会社では、一度に工場建物が全壊したので作業中の社員と男女工員合せて134人が圧死し、重傷76人を出すという大惨事となった。一方、地震に伴って起きた山津波によって片浦地区が受けた被害も大きく、西方、(ひじり)岳の一部で日陰と称する山の一角が地すべりを起し、土砂は白糸川の渓流を伝い根府川の集落を(おそ)ったのである。被害は埋没戸数64戸、死者357名となった。ちょうどその時、熱海線根府川駅に入って来た小田原発真鶴行の列車も土砂のため、機関車1両を渚に残し他の6両は乗客約200名を乗せたまま海中に転落したのであった。このように、この大地震が小田原地方に与えた被害は言語に絶するものがあった。

6 よみがえる小田原

丹那トンネルの開通

かつて東海道の宿駅として栄えた小田原も、明治に入ると一時沈滞(ちんたい)したが1887年(明治20)7月、新橋・国府津間に東海道線が開設されたことによって、町勢回復の刺激が与えられた。だが、小田原が名実共によみがえったのは、1934年(昭和9)丹那トンネルの開通によって東海道本線の主要駅として登場してからである。

小田原に初めて駅ができたのは、1920年(大正9)10月21日で熱海線が国府津・小田原間に開通した日である。この熱海線は将来丹那トンネル開通後は東海道本線に予定されていたもので、 1922年(大正11)には早川・根府川・真鶴の3駅が同時に開設され、1924年(大正13)には湯河原駅、翌年3月25日には熱海駅が完成して熱海線全線が開通した。しかし、その先の箱根山の山腹をくりぬく丹那トンネルの工事が一大難工事であった。工事開始は1918年(大正7)4月1日からで、完成は1934年(昭和9)11月30日だった。当初の予定では工事期間7年であったが、実に16年間もの長期間にわたる難工事となってしまった。その原因は、極めて不安定な地質で無数ともいえる断層が横たわり、さらに大量の湧水などの悪条件によるものであった。丹那トンネルが開通したことにより、同年12月1日東海道本線は小田原を通ることになり、町民はこぞって盛大な祝賀を行なった。こうして小田原は再び日本の交通幹線上に復帰することになった。

小田原市の誕生

小田原駅の開設により駅前に商店街ができ、私鉄の乗り入れも行なわれた。1925年(大正14)には、小田原・関本間の大雄山線が開通、ついで1927年(昭和2)小田原急行電鉄が、新宿より県北西の農村地帯を結んで開通し、1935年(昭和10)には箱根登山鉄道も小田原駅に乗り入れた。このことにより、小田原の商圏が拡大し、北は足柄上郡をはじめ秦野付近まで、西は静岡県の熱海 ・ 伊東 ・ 御殿場におよび、東は平塚の商圏と二宮町あたりで接するようになった。とくに、足柄上郡の農村地域と箱根 ・ 湯河原の温泉地域の物資供給源としての位置を確立して、西湘地方の商業の中心都市としての性格が形成された。一方、箱根は、温泉と風光明媚(めいび)な景観とが調和した観光地として多くの観光客が訪れるようになり、その玄関口としての小田原も大いに発展した。また工業の面においても近代工業が進出し始め、1933年(昭和8)富水に小西六写真工業が建設され、ついで1938年(昭和13)富士写真フイルム小田原工場が建設された。このように企業体もだんだんと集まり産業面でも活発化し始めた。小田原町当局は1931年(昭和6)に市制施行調査委員会を発足させ、市域の範囲、隣接町村の財政状態など、種々の調査検討を加え、かつ、各町村を訪問して打診を行なっている。その後、種々の問題があったが、1939年(昭和14)になると急速にその気運が高まってきた。その理由は、翌年は自治制発布50周年に当る年なので、国内を挙げてそれぞれ記念事業を計画している時期であったからである。小田原はこの記念事業に念願の市制施行を取り上げることに決定し、全町会議員を市制準備委員として小田原市誕生に乗り出したのである。そして1940年(昭和15)12月20日、足柄町・大窪村・早川村および酒匂村の一部山王原・網一色を合併して、面積57㎢、人口54,699人となり、市制を施行した。神奈川県では横浜 ・ 川崎・横須賀・平塚についで5番目で、初代市長に益田信世がなった。

第3章 現代と生活

小田原市の市章

1941年(昭和16)に太平洋戦争が始まった。それは小田原に市制がしかれた翌年のことである。そして、歴史上かつてない大きな損害を受けて、1945年(昭和20)に終戦を迎えた。戦後わが国は平和を愛する民主国家として生まれ変わり再出発したが、生活の苦しさは言語に絶するものがあった。しかし、その後国民の努力によって、高度の工業国に見事に立ち直ることができた。そして、1964年(昭和39)には東京オリンピックを、また1970年(昭和45)には大阪で万国博覧会を開き、世界の多くの人々に改めて戦後の日本の復興を認識させるまでに成長した。

私たちの郷土小田原もこうした苦難の道を歩みながら今日に至った。ここに掲げた市章(シンボルマーク)は、市制施行の翌年に制定されたものである。五弁の花びらは小田原の名産である梅を表し、また、漁業が盛んであることを示す相模(さがみ)灘の波がしらが花びらを固く結びつけている。この市章が象徴しているように、1940年(昭和15)12月20日、小田原町、足柄町、大窪(おおくぼ)村、早川村、酒匂(さかわ)村の一部が合併して小田原市が誕生した。戦時中の小田原は幸いにも、市街の大半を焼かれるような大きな被害は受けなかったが、それでも終戦の年の8月15日未明、空襲により浜町と本町の一部約400戸が焼かれた。戦後、復興に立ち上るとともに近隣の町村を合併して市域を拡大し、1971年(昭和46)4月、(たちばな)町と合併し現在の市域を確定した。この間、財源確保のため大工場の誘致を行い、市の東部地域に多くの工場が進出した。1995年(平成 7)には、人口が20万人を超え、首都圏内の主要都市として、また県西地域の産業 ・ 経済・文化の中心都市として躍進している。

この章では、小田原市の人口、産業、交通、生活環境、行政、財政の現状を明らかにし、さらに将来に対する見通しやそれを実現するための計画について触れてみたい。そして、産業と生活環境の調和のとれた住みよい市をつくるためには、市民としていかに努力したらよいかを考えてみたい。

1 小田原市の発展と人口

20万都市小田原

私たちの郷土小田原市は、市制が施行されてから、周囲の町村と合併を重ね、現在の市域を持つようになった(図1)。そして、1995年(平成7)6月22日、ついに人口が20万人を突破した。2021年(令和3)10月1日現在の人口は、188,401人(男91,424人・女96,977人)で、横浜・川崎・相模原の政令指定都市を除いた県下16市の中では7番目である。

市域の拡がり(図1)

人口の移り変わり

小田原市の中心である旧小田原町の人口は、1859年(安政6)に町人5,899人、武士及びその家族約5千人と推定されている。明治維新後の1878年(明治11)に13,574人となり、1912年(大正元)には2 0,387 人、 1926 年(昭和元)に 26,448人となっている。

人口の移り変わり年表

1940年(昭和15)12月20日の小田原市が誕生した時点では、54,699人となり、市域拡大とともに市発展の基礎が築かれた。その後戦争のため人口は一時減ったが、終戦とともに再び増加し、1947年(昭和22)には68,911人となり、市制が施行されてから7年間に約14,000人が増えた。その後、数回の合併により現在の市域が定まり、人口も市制施行当時の約 3.6倍になった。1995年(平成7)6月には人口が20万人を超え、2000年(平成12)には、市制60周年を迎えるとともに、11月1日からは特例市となった。しかし、市制施行以後合併した地域の人口を、市の誕生した1940年(昭和15)と2021年(令和3)を比べてみると、81年間に約2. 3倍になったにすぎない。これは、全国の増加率約1. 7倍より多いが、神奈川県の増加率約4. 2倍より少ない。さらに、市域がだいたい定まった 1955年(昭和30)当時と2021年(令和3)を比べると、全国の増加率約1.41倍、神奈川県の増加率約3.2倍に対して、小田原市の増加率は約1.5倍である。これは、小田原市が都心から距離があるため、増加率が低いことを示している。

地域別人口の変遷(表1)

地域別人口の移り変わり

表1をみると、地域別人口の増え方は一様ではない。市制が施行された 1940年(昭和15)と 1995年(平成7)を比べると、平均より高いのは、下府中、桜井、豊川、上府中、酒匂である。逆に低いのは、片浦、下曽我、大窪、早川、本庁、橘、国府津である。1955年(昭和30)と1995年(平成7)を比べると特色地域の構成(図2)が一層はっきりしてくる。桜井、豊川、下府中、上府中、酒匂、橘は全体の増加率約1.6倍より高くなっている。これらの地域は大部分が市の中心部に近く、交通の便のよい酒匂川周辺の平坦部にある。そして、山沿いの地域の人口増加はあまり多くないのに、平坦部にある小田急電鉄沿線の増加が著しいため全体の増加率が高い。また近くに大きな工場が建てられると、それに伴い宿舎やアパートができ、関連して大型ショッピングモールなどができることが人口増加の理由となる。その例としては、酒匂に大蔵省の印刷工場ができたときや、県営・市営住宅や会社の社員宿舎が盛んに建設された富水・桜井地域、団地造成の行われた橘地域、盛んに開発が行われてきた酒匂川東部地域(川東(せんとう)地区)があげられる。一方、旧小田原町を中心とした中央地域は、家屋が密集しているため人口が増える余裕がなかったが、近年では再開発が進められ、人口の流入が図られている。片浦地区は自然環境に恵まれているが、人口減少が続いている。しかしながら近年、根府川付近では住宅の開発が進み、人口の増加を期待されている。

図2のように地域構成が変わったため、表1の地域別人口の内訳が2007年(平成19)から変わっており、今後も地域開発によって人口の変化が予測される。

地域の構成(図2)

人口の自然増・社会増減(表2)

人口の自然増減・社会増減

人口の増減について考えてみよう。 2019年(令和元)中における小田原市の人口は、977人減少した。この年に生まれた人は1,193人、死亡した人は2,250人で1,057人の自然減があった。一方、7,255人が小田原市に移り住み、その反対に7,175人が他市町村へ転出して、80人の社会増となった。2019年(令和元)における本市の人口増加は、他市町村から転入した人がいることによる。神奈川県全体をみると自然減19,600人(△97%)、社会増39,800人(197%)、合計20,200人増加となり、県全体の傾向としてこの数年間は、他地域からの転入による人口増加の比率が増加傾向にある。

表2でみると1955年(昭和30)には自然増約74%、社会 増約26%で自然増の方が著しく多いが、1960年(昭和35)にはその差が縮まり、1961年(昭和36)からは社会増の割合が多くなり比率が反対となる。この傾向は1966年(昭和41)まで続き、1967年(昭和42)以後はまた自然増の方が多くなる。社会増の理由は、酒匂川東部を中心に、日立ランプ、明治製菓足柄工場、園池製作所、ライオン歯磨など大工場が建設され、それに既設の工場の拡張が加わり、関係者の移住、さらに住宅建設ブームが拍車をかけたものと思われる。1967年(昭和42)以降、社会増は一段落し、1970年(昭和45)に都市計画法による線引きが行われた。1973年(昭和48)からの2度にわたる石油危機の影響を受け、人口流出傾向がみられたが、1985年(昭和 60)頃にはそれにも歯止めがかかった。その後、交通網の発達や県西広域行政整備等に伴い、その中心都市として人口が増加してきた。

しかし、1995年(平成7)頃からは、再び人口流出傾向がみられ、かつ少子高齢化により2005年(平成17)には、初めて自然減にもなり人口は減少してきた。最近は、社会増の傾向がみられている。

人口年齢構成

2019年(令和元)の本市の人口の年齢別構成をみると、15歳未満の年少人口が全体の約11%、15歳から64歳までの生産年齢人口が約59%、65歳以上の高齢者人口が約 30%である。日本全体がそうであるように、急速な高齢化により高齢者人口が増加し、少子化社会を迎えて年少人口は減少し、年齢別構造は男女とも65~69歳と40~44歳の2つの山をもつ「ひょうたん型」となった。(図3)

年齢(5歳区分)・男女別人口(図3)(平成17年10月1日現在)
年齢(5歳区分)・男女別人口(図3)(平成27年10月1日現在)
産業別就業人口

図4に示した産業別就業者の推移をみると、 2015年(平成27)における就業者は90,000人弱で、これは小田原市の全人口の約半数である。これを産業別に分けてみると、第一次産業の農業、林業、水産業の占める割合は、全体の約3%である。さらに、この中でも農業が約98%であるが、経済の高度成長と都市化の進展により、減少傾向が続いている。第二次産業は、建設業、製造業などであるが、全体の約25%を占めている。その中でも製造業が74%ともっとも多く、高度成長期には基幹産業として順調な伸びを示したが、1973年(昭和48)の第一次石油危機による経済不況の影響などから就業者数が減少した。その後、平成景気により就業者数は増加に転じたが、1990年(平成 2)をピークに減少している。第三次産業は商業、サービス業、運輸業などで、全体の約72%を占めている。

産業(3分類)別就業者数
昼間人口と夜間人口

小田原市は県西地区の政治、経済、文化、交通の中心である。また、静岡県に近く、京浜地方への通勤通学圏内でもあるためこれらの地域との往来が多い。2015年(平成 27)10月1日における人の動きをみると、市内在住者も含め、昼間市内にいた人は190,541人(昼間人口)で、市内常住者 194,086人(夜間人口)より3,545人少ない。これは通勤通学のため市内に入ってくる人より、出ていく人のほうが多いことを示している。(図5)

人の往き来は、図6に示したように、市外から通勤通学で市内に来る人たちを地域別にみると、南足柄市を含めた1市8町がもっとも多く、全体の43%を占めている。次いで秦野市、平塚市、横浜市、静岡県となっている。

これに対して、図7に示したように、市外へ通勤通学で出ていく人たちを地域別にみると、県西1市8町がもっとも多く、次いで東京都、横浜市、平塚市となっている。

小田原市昼夜間人口

図5をみると、1985年(昭和60)までは、昼間人口が夜間人口を上回り、近隣の他の自治体から小田原市に通勤・通学のために通ってくる地方の中心的な都市であったことを示しているが、1990年(平成2)以降は、夜間人口が上回り、ベッドタウン化が進んでいたことを示している。

流入者の割合(2015年)総数34,726人
流出者の割合(2015年)総数38,284人

2 小田原市の産業

1 小田原の工業

工業の特色

小田原は古くから、高度な技術を誇る箱根物産を中心とした各種の伝統的な工業がさかんであるが、工場の立地条件にも恵まれているため、戦後急速に近代工業が発展した。特に昭和30年代、町村合併による工業適地の増加で、各種の大工場が進出し、県西の重要な工業地帯に発展した。

横浜、川崎を中心とする臨海工業地帯をもつ神奈川県は、日本有数の工業県で各種の工業が発達し、生産額においても日本の上位に位置している。小田原の工業もその一翼を担っているが、小規模工場が圧倒的に多い。しかし、好景気を反映して、1989年(平成元)には、製造品出荷額が1兆円をこえた。現在は、その後の景気の低迷等により出荷額が減少傾向にある。

次に、2020年(令和2)の産業別製造出荷額の割合をみると、小田原の産業を代表するような軽工業に分類される食料・印刷・紙製品などの割合は全体の約10%で、それに対し化学・電子部品・プラスチックなどの重化学工業製品の割合が全体の約90%を占める。特に、化学工業では、豊富で良質な小資源を生かした医薬品・化粧品などの生産が盛んである。

製造業の規模別事業所数の割合(従業員4人以上)
(小田原市統計要覧令和2年(2020年)版より)

産業別製造品出荷額と割合(従業員4人以上) 総額606,962百万円(小田原市統計要覧令和2年(2020年)版より)
工場の分布と立地条件

小田原市の工場分布の状況をみると、小工場の多い伝統工業地域と、大工場の多い近代工業地域の二つに分けられる。箱根物産、かまぼこなどの伝統工業は旧市街の周辺に多くみられ、大工場は酒匂(さかわ)川を中心とした地域、巡礼街道沿いの(しも)府中(ふなか)から国府津(こうづ)にかけての地域に多く分布している。巡礼街道沿いにある主な工場をあげると、ライオン、クボタシーアイ、日本インジェクタ、第一三共ケミカルファーマなどがあり、酒匂川の両岸には、花王、富士フイルム、Meiji Seika ファルマ、三菱ケミカルハイテクニカ、日本新薬などの工場が並んでいる。これらの工場をみると、小田原市が快適な都市生活を守るため、また、観光地箱根、伊豆を控えているために公害の少ない企業を誘致してきたことがうかがわれる。

近代工業の立地条件には、①市場に近いこと、②本社や研究所との連絡が良いこと、③輸送が便利なことなどがあげられる。小田原の場合、ほとんどこの条件を満たしており、特に市場に近いことや工業用水に恵まれていることなどから、一部大工場は戦前から進出していた。戦後はさらに、町村合併による工業用地の増加で急速に発展をみるようになった。

小田原市内の主要企業の分布
市内の大手企業と主な製品
工業 番号 事業所 業務開始年 主要製品
化学 1 日本曹達(株) 1984 農薬、医薬品原薬、基礎科学品
2 花王(株) 1960 化粧品全般の開発、製造
3 第一三共ケミカルファーマ(株) 1963 医薬品の原体及び中間体等の製造、製造技術開発
4 Meiji Seika ファルマ(株) 1963 医薬品・酵素・動物薬・農薬等の研究開発
5 日本新薬(株) 1964 医療用医薬品の製造
6 ライオン(株) 1964 歯磨・洗口剤、医薬品、化粧品
7 三菱ケミカルハイテクニカ(株) 1986 電子写真用感光体(OPCドラム・シート)の製造、蛍光体(LED用)の製造
8 Meiji Seika ファルマ(株) 1940 医薬品の製造(製剤工場)プラスチック
プラスチック 9 富士フイルム(株) 1938 記録メディア製品、フラットパネルディスプレイ材料、化成品
10 クボタシーアイ(株) 1960 塩化ビニル管・継手の製造
11 相模容器(株) 1963 プラスチック製容器
12 児玉化学工業(株) 2009 自動車部品等
食料品 13 (株)幸楽苑 2004 生麺、餃子、スープ、チャーシュー、チャーハン
14 鈴葊かまぼこ(株) 1994 水産練製品
15 山安(株) 2009 ひもの
16 関東ダイエットクック 2018 惣菜食品加工
印刷 17 独立行政法人国立印刷局 1941 日本銀行券等
18 共同印刷(株) 1964 ラミネートチューブ等
その他 19 日本インジェクタ(株) 1986 ガソリン燃料噴射システム
20 ケイミュー(株) 1960 住宅用外装材(屋根材)の製造
21 YKKAP(株) 1984 窓生産(複合断熱商品、ガラス加工、アルミサッシ組立)
22 (株)ミクニ 1944 総合的な技術開発、新事業開発
23 (株)コイワイ 2007 鋳物、3Dプリンターによる試作品、金型等の製造
製品の販路

箱根細工等の伝統的な工業製品は、国内各地で売られ、近代的な工業製品は国内だけでなく、海外にも輸出され、世界に進出している。国内の出荷量でみると、全体的には京浜地方への出荷が最も多い。現在では、時代に合わせた新商品開発や需要拡大の取り組みも行われている。

盛んな伝統産業

小田原では木製品、かまぼこ、ひもの、漬物、菓子、鋳物等を伝統的な地場産業としている。現在、これらの産業は、長い伝統の中で育まれてきた技を受け継ぐだけでなく、その伝統を時代に合わせながら生かし近代化を図るための努力が続けられている。

①小田原漆器 室町時代中期に箱根山系の豊富な木材を使用し、木地(きじ)()きされた器物に(うるし)を塗ったのが始まりといわれている。その後、第3代小田原城主北条氏康が塗師を城下に招いたことから、小田原漆器は発展していった。そして、江戸時代中期には実用漆器として継続的に江戸に出荷するなど、東海道屈指の城下町、宿場町として漆器づくり技術が確立された。ケヤキ材などが持つ自然の木目を活かした「すり漆塗り」や「木地呂塗り」を特徴とする。盆、椀、鉢、皿等が主体となっており、1984 年(昭和 59)に、経済産業大臣により伝統的工芸品として指定された。

②箱根細工 旧市街地の周辺を中心に行われている箱根細工は、神奈川県にとっても重要な伝統産業となっており、(ひき)(もの)指物(さしもの)・寄木細工に分けられる。特に、食卓台所用品などの製造工場は、この業界では大きな工場であるにも関わらず、従業員100人以上のところはない。箱根寄木細工も、1984年(昭和59)に国の伝統的工芸品に指定された。

小田原漆器

③小田原木製品 平安時代初期に京都のろくろ師集団が早川に移住し、ろくろを使って木地を加工する挽物技術を伝承したことが始まりとされている。そして、室町時代後期に第3代小田原城主北条氏康が城下に工人を招き、発展に力を注いだことにより、生産が盛んになった。戦後はサラダボウルや玩具を中心に、北米、ヨーロッパ方面へ大量に輸出され、一時は全国生産のほぼ7割を占めていた。

現在、輸出は減少し、国内向けの生産に変わってきている。これは中国やベトナムなどが安い労働力を背景に日本よりも安く輸出していること、プラスチック製品の流通も大きな理由として考えられる。同じく戦後生産が開始されたこけしも、一時は全国生産の大半を占めたこともあるが、現在では生産されていない。

④小田原かまぼこ 小田原かまぼこも古い歴史を持っている。明治・大正・昭和と、交通機関の発達や冷蔵技術の進歩により製造業者も急速に増加した。原料はオキギス、ムツが早くから使われていたが、現在では東シナ海方面からのグチを使用し大量に生産している。製造方法は、皮と骨をとった魚肉を水でさらし、血合や油分、魚臭を取り除く。それをすりつぶし、塩を加えて練り、のり状にして、砂糖、みりん、卵白などを加える。このようにして練りあげられた魚肉を板にのせて蒸すと、弾力のあるかまぼこができあがる。現在ではこの工程のほとんどが機械化されているが、製法的には以前となんら変わりはない。かまぼことともに、この技術を利用したちくわ、はんぺん等の各種練り製品もまた好評を得ている。近年、臭いに伴う公害対策として静岡県の大井川河口に工場の一部を移したかまぼこ製造会社もあるが、規模拡大のため成田(なるだ)桑原(くわはら)の工業団地へ移転をした例も見られる。また、原材料として冷凍すり身の輸入割合も増えている。最もかまぼこを美味しく味わえる厚さは、約10等分(約1㎝)といわれている。

小田原市の工業対策

地場産業や中小企業の振興策とともに、工場の適正配置や優良企業の誘致などの基盤整備を図っている。また小田原市では中小企業の経営近代化及び住工混在の解消を図るために、成田、桑原、鬼柳に工業団地をつくり、橘地区に西湘テクノパークを造成するなど、企業の誘致を行っている。

その他にも、市では中小企業融資制度を設け、低い利子で金を貸し付けたり、小田原箱根商工会議所等と連携して経営指導をしている。また、各種見本市などを開き、業者の意欲を盛り上げるように努力している。

2 小田原の農業

小田原の農業

小田原は首都圏に位置しながらも豊かな自然に囲まれており、酒匂川流域の足柄平野と、それを囲む東西の丘陵地帯となっている。前者には米、足柄梨が、後者には野菜、梅、キウイフルーツ、花木類、そして全国的に知られている温州ミカンや神奈川県が開発した湘南ゴールドといった柑橘類が栽培されている。1970年(昭和45)に4, 303戸あった農家も、2015年(平成27)には1, 180戸に減少しており、全国的な課題でもある農家の高齢化や担い手の不足をはじめ、イノシシやシカなどの有害鳥獣による農作物の被害等、小田原の農業を取り巻く環境も厳しい状況にある。

専業兼業別農家戸数の推移と農地面積(小田原市の統計要覧)
柑橘栽培

栽培地は箱根山東部斜面の片浦・早川・久野の丘陵地帯と東部の大磯丘陵周辺の曽我・下曽我・田島・国府津・橘地区の2つが中心となっている。

これらの地域はミカンに有利な立地条件である①温暖な気候、②日当たりと通風のよい傾斜地、③排水のよい土壌(ローム層)などの条件を満たしている。しかし、小田原のミカンは酸味が強いので、年内は贈答用を中心に販売し、年明けは3月上旬まで甘味の増した貯蔵みかんを販売している。どちらも、京浜市場を中心に出荷している。

近年は、需給の不均衡から生じるミカン価格の低迷と、従事者の高齢化と後継者不足により、栽培面積、生産量とも年々減少傾向にある。それらの対策のため、晩柑類や湘南ゴールドなどの新品種への改植により他産地に負けない品質のよいものを生産し、収益を上げることを実践している。また、2020年(令和2)に県西地域産レモンの愛称を「湘南潮彩レモン」に決定したため、今後、生産体制を整備するとともに、新たなブランド名による販売展開を図っていく予定である。

柑橘栽培

下曽我・曽我地区の丘陵地帯ではミカンに代わって梅の栽培が盛んになり、梅林が山頂まで断続的に伸びている。 収穫された梅は、梅干・梅酒用として東京市場へ出荷されている。特に梅干用の十郎梅については、小田原のブランド梅として市内外にPRしている。 また、この地区では、観光事業にも力を入れるようになり、50年以上前から梅園を開放した梅まつりに地域ぐるみで取り組み、農家が食堂や売店を運営している。

足柄梨

明治末期から栽培が始まり、太平洋戦争中は食糧増産のため伐採されたが、戦後著しく復興した。水稲との複合経営が多い。

キウイフルーツ

1970年(昭和45)ころより久野・曽我地区を中心にミカンの代わりに栽培が行われるようになった。主に「ヘイワード」という品種が栽培されており、11月に収穫されたものを低温貯蔵庫に保管し、品質管理を行いながら年末から4月にかけて出荷されている。また、2008年(平成20)に品種登録された「片浦イエロー」は果肉が黄色で糖度も高く、一般的なキウイフルーツの出荷期間よりも早い11月から出荷されている。

主な果樹の作付面積と生産量

その他の農産物

酒匂川流域の平野部を中心に水稲栽培が行われており、県内の小・中学校の米飯給食にも提供されている。また、たまねぎは県内約20%の生産量を誇っており、その中でも下中地区で収穫される「下中たまねぎ」は牛糞堆肥をふんだんに使用することで甘みが強く、生で食べても辛味が少ないという特徴がある。

3 小田原の漁業

小田原市では、古くから定置網漁業が盛んに行われ、時期により獲れる魚の種類も変化し昭和30年頃までのブリ、昭和40年代のアジ、昭和50年代のウマズラハギ、平成の初期のアジ、近年はサバ、イワシなどが主体となっている。なお、2001年(平成13)には、アジが「小田原市の魚」の1つに制定されている。

小田原市では、漁業協同組合員の減少や組合経営の改善に対処するため、沿岸全域を一体化した小田原市漁業協同組合が1993年(平成5)に設立された。さらに、1998年(平成10)に米神沖合いに、災害に強く、かつ省人数化・省力化に対応した通称「モデル定置網」を県・市・漁協の協力で設置したことにより、漁獲量・漁獲金額が安定し、その結果、定置網従事者の若返りが図られた。また、ヒラメやサザエ、アワビ等の稚魚・稚貝の放流を通じて、漁業者の資源保護に対する意識も高まっている。2014年(平成26)には、災害対策や大型金庫網(定置網の構造の一部で、一時的に魚を溜めておく網)の導入などの改良を施したことで、市民への鮮魚の安定供給が可能となった。

小田原漁港

小田原沖の相模湾は駿河湾、富山湾と並び称される日本三大深湾の一つに数えられ、多くの魚種が漁獲される好漁場に恵まれている。

小田原の海岸は、御幸の浜に代表される砂浜の地形であり、古くは砂浜から漁船を漕ぎ出し漁を行っていたが、昭和20年代初頭に地元漁業関係者の強い要望により早川の地に全国的にも珍しい「掘り込み式」の漁港として整備が始まった。

1960年(昭和35)に防波堤の先端に灯台の火がともった。

1968年(昭和43)1月に現在の「本港」が完成し、同時期に「小田原市公設水産地方卸売市場」が開設され、1969年(昭和44)2月には、「第三種漁港」に変更指定され、同年11月に漁港の管理が小田原市から神奈川県に移管された。

1981年(昭和56)には新港が、2019年(令和元)には新港西側エリアが完成し同年11月に「漁港の駅TOTOCO 小田原」が開業した。

現在の小田原漁港は、大型の定置網漁業も盛んに行われており、東京や横浜などの大量消費地に近く、背後には箱根、湯河原の観光地も控え、県西地域の拠点漁港の役割を担っている。

小田原市公設水産地方卸売市場 主な魚の取扱い数量
小田原市公設水産地方卸売市場 取扱い状況(水揚品)

4 小田原の商業

小田原の農業

小田原は、古くから城下町、宿場町として栄え、商業も長い歴史と伝統に培われて発展してきた。現在では神奈川県西部で独自の商業圏が形成されており、交通面でも東海道本線、新幹線、小田急線などが集まり、めぐまれた立地条件となっている。このような中で、1970年代前半(昭和40年代後半)から小田原駅を中心に百貨店などの大型店が相次いで進出し、店舗の集積が進んで県西部における商業の中心として発展した。しかし、平成に入り、車社会の発達などにより、川東地区や近隣市町に次々に大型商業施設が進出し、中心市街地では百貨店が撤退したり、周辺商店街が衰退するなど、商業地として魅力が低下してきている。こうした中、地下街(HaRuNe 小田原)の再開や、新たに小田原駅東口駐車場・小田原市民交流センター(UMECO)、広域交流施設(ミナカ小田原)が新設されるなど、小田原駅周辺の商業の活性化につながることが期待されている。

商業統計調査等で比較してみると、店舗数は年々減少傾向にある。販売額については、1991年(平成3)をピークに減少傾向にあったものの、2016年(平成28)では上昇した。小田原駅周辺における再開発の効果などがうかがえる。

店舗数・従業員数・販売額の推移
(商業統計調査及び経済センサス‐活動調査)

3 整備される交通

交通幹線の集まる小田原

小田原駅が1920年(大正9)に開設された当時、1日の乗降客は4,000人あまりに過ぎなかった。それが2019年度(令和元)では、JRだけでも106, 000人余りで約27倍になっている。私鉄の乗降客を含めれば約 270, 000人であり、1993年(平成5)と比較しても、約 50, 000人増加している。現在の小田原は、東海道線で1時間 20分、東海道新幹線では35分で東京と結ばれている。また、小田原駅は3つの私鉄が乗り入れており、交通結節点としての役割を果たしている。新宿を起点として県の中央を通り、小田原に入る小田急電鉄小田原線は、東京の副都心と県南西部を結ぶ重要な役割を担っている。箱根登山鉄道線は開設の歴史も古く、観光地箱根の主要な交通機関の1つとして観光客の輸送、沿線に住む人たちの通勤・通学の手段等の大切な役割を果たしている。大雄山(だいゆうざん)名刹(めいさつ)大雄山最乗寺(さいじょうじ)参詣(さんけい)の足として、また足柄平野北西部と小田原を結ぶ重要な路線となっている。

道路交通については、小田原北条・大久保氏の城下町として、また江戸と京都を結ぶ交通の要衝として発達した道路をもとにして現在に至っている。国道1号は、わが国の大動脈として、箱根や伊豆、関西方面と京浜地方を結ぶ重要な働きをしている。また、混雑緩和(かんわ)のために西湘バイパスも1972年(昭和47)に開通した。早川口JRガード際から国道1号と分かれ、片浦を経て熱海、伊東、伊豆半島南端を結ぶ国道135号は、1960年(昭和35)根府川(ねぶかわ)真鶴(まなづる)間に有料道路が新設され、2008年(平成20)には無料化された。1969年(昭和44)に開通した小田原厚木道路は、観光道路として、また、県南西部との連絡路線として著しく重要性を増してきている。北西平野部には、国道255号、県道、主要地方道として小田原―山北線、怒田(ぬだ)―開成―小田原線、山北―国府津線などが放射状にのび、秦野・厚木 ・ 小山(おやま)御殿場(ごてんば)方面を交通勢力圏に組み込んでいる。これらの道路を栢山(かやま)―曽我線、沼田―国府津線、巡礼街道、穴部ー国府津線などが横糸のように結び足柄平野の道路網を形成している。この縦横(じゅうおう)に発達した道路を、箱根登山、伊豆箱根、富士急湘南、神奈川中央交通のバスが走っている。

増えた駅の乗降客数

現在小田原市内には、鉄道6路線18駅があるが、熱海線の国府津―小田原間が開通した1920年(大正 9)には、小田原駅のJR乗降客数は、1日平均約4,000人であったのが、熱海まで線路が延びた1925年(大正14)には約 6,000人となり、丹那トンネルが開通し東海道本線が現在の所を通るようになった1934年(昭和9)にはそれが8,600人余りとなった。これは開通当時に比べると2倍以上の増加である。その後激増を続け、終戦後の1946年(昭和21)には60,000人近くになっている。それでもその当時は交通機関の整備が遅れていたため、ひどい交通ラッシュで乗車できない人がたくさん出たが、生活の安定に伴い買い出しなどが少なくなった1950~51年頃は乗降客数も減っている。その後、生活にゆとりができ、社会が安定し湘南電車も運転されるようになると、観光旅行熱がおこり、経済の発展も伴って、乗降客数は年を追うごとに増えていった。観光地を控えた小田原はこれら社会の動向を敏感に反映している。

JR小田原駅一日平均乗客数の変化
小田原市内各駅乗降客数(神奈川県交通関係資料集)2019 年度

新幹線開通後における東海道本線の乗降客数を小田原駅についてみると、開通当初は減少傾向がみられ石油ショックの頃最大の減少となった。その後徐々に増加傾向にあったが、1986年(昭和61)に入り乗降客数が激減した。これは主に定期券の利用者が激減したことによるものだが、その後も乗降客数は回復せず現在に至っている。1964年(昭和39)東京オリンピックの年に開通した新幹線は、2019年度(令和元)現在、1日平均約 22, 000人になっている。市内各駅の乗降客数の変化を見ると、鴨宮駅では、1959年(昭和34)には約7,600人に過ぎなかったのが、2010年度(平成22)には約25,000人を数えるまでになっており、その数は、現在もあまり増減はみられない。これに対して、根府川駅は1959年(昭和34)に約1,700人だったものが、1994年(平成6)には約800人まで激減し、現在は無人駅となっている。これらのことは地域の人口、住宅、工場、交通手段の変化と密接な関係があり、発展しつつある地域は、駅の乗降客の増加が顕著である。

バス路線についても同様のことが起こっているものと思われる。乗車券を種類別にみると、小田原駅において、2019年度(令和元)ではJRでは約56%、小田急電鉄が約53%、伊豆箱根鉄道では約61%が定期券利用者であるのに対して、箱根登山鉄道では約22%に過ぎない。これは通勤通学者の多い路線、観光客の多い路線などそれぞれに路線の特徴が出ている。小田原駅のもうひとつの特色として、下車してバスなどを利用する人も多いが、JR・私鉄の乗換駅としての利用者が多いことで、本市が県西地域の中心的性格を持っていることを表している。また、本市は背後に日本有数の観光地箱根を控えているため、箱根町では全観光客の約5分の1が宿泊するのに対して、小田原では約20分の1しか宿泊しない。本市を素通りしていく観光客が多く、それが商業の発展にも大きな影響を与えている。

貨物輸送

小田原市内の東海道本線の駅で貨物を扱っていたのは、小田原駅、鴨宮駅、根府川駅であったが、その後、西湘貨物駅に小荷物を除いて全部まとめられた時期があった。しかし、さらなる効率化を求めて、相模貨物駅との統合が図られ、2002年(平成14)10月31日に鉄道貨物の取り扱いは休止された。

バス

近年自動車交通の発達はめざましく、小田原駅を中心としたバス路線は網の目のように張りめぐらされている。その路線を通して小田原市中心部と周辺部、近郊の市や町が密接に結ばれ、通勤通学者、一般市民の足として、また観光客輸送の役割を果たし、産業経済に大きく寄与している。

2019年(令和元)において小田原駅を起点または終点としてバスを運行している会社は4社で、富士急湘南バスが市中心部や山北・松田方面および御殿場線の沿線で運行している。神奈川中央交通は主に橘地域から国府津や二宮を結び、地域の重要な交通機関となっている。伊豆箱根バスは主に市内久野方面や市外箱根方面と連絡している。特に、行政の中心の市役所や、市立病院などと小田原周辺を結び市民の重要な足の役目を果たしている。運行回数、輸送人員が最も多いのは箱根登山バスで、主要となる小田原駅や鴨宮駅、国府津駅などから市内各地を結ぶほか、箱根町方面にも運行されている。また箱根からは、御殿場駅への運行のほか、高速バスで東京方面に行く路線がある。このほかに会社、旅館などの送迎、貸し切り、臨時便を合わせると相当な数になる。これらのことから見ても小田原が県西地域の拠点として重要な役割を担っていることがわかる。

各バス会社路線図より作成
交通量の変化

小田原市内は国道、県道、市道が網の目のように張りめぐらされ、道路の整備も進み全国的な自動車の激増に伴い交通量が増えてきた。そのため、市内の交通利用の多いところでは渋滞などがしばしば見られた。しかし、近年は、新しい幹線道路や酒匂川に新しい橋がかかり交通渋滞の緩和が進んだ。市内では交通量が増加している場所はあるが、傾向としては、国道を中心に減少している場所が増えている。2015年(平成27)における交通量調査によると、国道255号の西大友では、5 年前と比べ約1,300台減少している。同じく市内を南北に結ぶ道路では、県道松田国府津線でも約2,500台も減少している。増加している場所としては、県道成田国府津線の成田で、5 年前の調査と比べて、約 4, 500台も増加している。市内を東西に結ぶ沼田国府津線は、片側二車線の広い道路で、南北に結ぶ道路と多く交わり、小田原厚木道路へのアクセスもよいため、利用が増えていると考えられる。

12時間交通量調査 2015年(平成27)

観光

小田原には、年間約624万人(令和元年延べ人数)の観光客が訪れるが、観光小田原を代表するものは、小田原城である。かつて天下の名城として知られていた小田原城も1870年(明治 3)に天守は解体され、1923年(大正12)の関東大震災によって石垣も崩れた。その後市民からの寄付などにより、1960年(昭和35)に、市制20周年を記念して天守が再建された。この天守の内部には、小田原城や歴代城主に関係する歴史資料等が展示されており、小田原の歴史観光の拠点として、多くの観光客を集めるとともに市民の教養の場となっている。最上階からは、箱根山地、丹沢山地、相模灘(さがみなだ)、伊豆方面の雄大な景観を展望することができる。2016年(平成28)には、耐震改修および展示内容を刷新し、小田原の歴史的魅力を発信する役割をさらに強めた。付近一帯は国の史跡に指定され、市もそれを受けて小田原城の復元を進め、 1971年(昭和46)に常盤木門、1997年(平成9)には銅門、2009年(平成21)に馬出門が復元された。隣には二宮尊徳翁をまつる二宮神社が木立の中にあり、市民の貴重ないこいの場となっている。この外、石垣山一夜城、石橋山古戦場、曽我兄弟の菩提(ぼだい)寺の城前(じょうぜん)寺、春日の(つぼね)菩提(ぼだい)寺の長興(ちょうこう)紹太(しょうだい)寺、飯泉観音、板橋地蔵尊、北村透谷(とうこく)の碑など、史跡、名刹、文化人の碑などが市内いたるところに散在している。観光行事として、「小田原梅まつり」、「小田原桜まつり」、「小田原北條五代祭り」、「小田原酒匂川花火大会」などがあり、飯泉観音の「だるま市」(12月)は名物として昔から知られている。毎年春に行われる「小田原北條五代祭り」には、武者行列が市内を練り歩き、その装束(しょうぞく)や行進は往時(おうじ)の華やかさをしのばせてくれる。

平成の大改修後の銅門と馬出門

平成の大改修後の(あかがね)(もん)馬出(うまだし)(もん)

4 向上する市民生活

1 生活環境

進む住宅対策

太平洋戦争終戦後は、引揚者も多く、小田原駅や城址公園で野宿する人までもいて、食糧問題とともに住宅問題が深刻であった。本市は戦争による被害は軽かったが、空襲による被害をできるだけ少なくするために、戦時中に家を間引いて壊したりした。また、古くなって住むことができない家屋も多かったので、住宅難は他の市町村に劣らず重要な問題であった。そこで、市は 1949~50年(昭和24~25)にかけて市内にあった建物を買い取り、住宅に困っている人に住んでもらう等、住宅難に対応した。しかし、1951年(昭和26)11月に万年地区に発生した大火によって、住宅が焼失した人を受け入れる住宅の建設が急務となる等、さらに深刻な状況に陥ったこともあり、1952~70年(昭和27~45)にかけて新規団地の建設を行った。この頃の市営住宅は、質より量を求められ、住宅に困っている世帯の住居の安定を図るために低額な家賃の住宅をより多く提供することを目標としていた。1970年(昭和45)以降は、新規団地を建設する土地の確保が極めて困難な状態となったため、1970~94年(昭和 45~平成6)にかけては、老朽化が目立つ平屋建ての木造住宅等を、3~5階建ての住宅に建替えをすることにより、提供する戸数を増やしてきた。最近の傾向としては、量から質へと住宅問題が変わってきている。

さて、2021年(令和3)4月現在、本市には18団地(1, 591戸)の市営住宅があるが、建物の老朽化が大きな課題となっている。このため、建物を長い期間で有効に活用できるように、外壁の改修工事や雨漏りを防ぐための屋上の防水工事等を計画的に行っている。また、階段への手すりの設置や、駐車場の整備等によって、市営住宅で暮らしている人たちが安心して生活できる環境づくりを行っている。近年、募集戸数に対する入居希望者の平均倍率は1倍前後で推移している。

整備される上水道

都市での生活環境の望ましい条件として、清潔で住み良いことがあげられ、上下水道、清掃等の施設は欠くことのできないものである。本市の上水道事業の経過をたどってみよう。上水道は水源を清水新田の地下水に求めて(第一水源地) 1934年(昭和9)に着手し、1936年(昭和11)に完成、くみ上げた水を小峰配水池に送り、ここから給水した。当時町内には掘り抜き井戸が多数あった上、小田原北条時代の遺構といわれる、早川の水を板橋で取り入れた小田原用水を利用する者が多かったため、給水申込はきわめて少なく、申込金1円で10mまでを町費負担で工事する等普及に苦心した。当初の1日最大給水量は5,775㎥、給水地域は旧小田原町の全域で、1938年(昭和13)には総戸数5,568戸に対し普及率は43%になった。やがて1940年(昭和15)の4町村との合併により、新市域への給水が必要となったので、第一期拡張事業を1950年(昭和25)に開始し、8年後に完成した。この事業は、酒匂川、狩川の合流地点で酒匂川の伏流水を取り入れるもので(第二水源地)、1日最大給水量は11,800㎥であった。次に、酒匂川以東や小田急沿線地域への給水のため、第二期拡張事業を1959年(昭和34)に開始、 6年後に完成した。これは成田(なるだ)堤下(現在の成田・桑原地区工業団地内)で酒匂川の伏流(ふくりゅう)水を取り入れるもので(第三水源地)、1日最大給水量は44,000㎥であった。さらに、人口の急増や市民生活の向上とともに水需要が年々増加したため、従来の地下水や伏流水だけでは水量不足が見込まれたので、その原水をきれいにする浄水場を建設し、1974年(昭和49)新たに酒匂川の表流水を神奈川県内広域水道企業団の飯泉堰から取水して給水を開始した。その後、将来的に水質汚染が心配される水源の変更を図り、あわせて人口の減少や節水循環型の水道への対応等に備えて、2002年(平成14)に第五期拡張事業を開始した。この事業では2020年度(令和2)を計画目標年度として、計画給水人口を178,545人、1日最大給水量を71,037㎥とし、現在に至っている。 2006年(平成17)には片浦地区簡易水道事業を市水道事業に統合し、市内の簡易水道がすべて統合された。今後は、本市の基幹施設である高田浄水場を地震災害等にも耐えられ、将来の水需要にも柔軟に対応できるような浄水場に造り変える工事を進め、その他の老朽化した施設の改良等も推進する。道路などに埋まっている水道管についても地震に強い水道管への取り替えを順次行っていく。

普及が進む下水道

下水道も上水道と同様に市の事業である。かつて各家庭の台所等の排水や雨水は、道路の側溝、かんがい用水路により、早川、山王川、酒匂川等から海へ流され、し尿は、汲み取り式便所により各家庭でためた後、収集、処理されていた。本市の下水道は、県下では横浜、川崎、藤沢、横須賀についで1959年(昭和34)に工事にとりかかった。当初、建設省(現・国土交通省)の認可を得た区域は、早川以東から山王川以西で、北は市立病院から久野川に沿った445㌶で、計画排水人口102,000人であった。本市は、し尿や台所等の排水の汚水と雨水を別々に流す分流式を採用した。これは、汚水は道路等の地下に整備した下水道管により終末処理場へ流し、雨水は既設の道路の側溝や排水路を利用して直接川から海へ流す方法である。1966年(昭和41)には、寿町終末処理場で、活性汚泥(おでい)法による汚水の処理を開始した。これにより各家庭は、トイレを水洗化することで、台所等の汚水と合わせて下水道に流すことができるようになった。

一方、神奈川県の取組としては、昭和30年代後半から県西部でも都市化と工業化が進み、酒匂川をはじめとする河川の水質が悪化しはじめてきたことから、1971年(昭和46)から酒匂川流域下水道計画の検討を始めた。そして、1982年(昭和57)に西酒匂に建設した左岸処理場で、1997年(平成9)に扇町に建設した右岸処理場で、それぞれ汚水の処理を開始した。現在、この 2ヶ所の処理場では、小田原市のほか、秦野市、南足柄市、二宮町、中井町、大井町、松田町、山北町、開成町の汚水の処理をしている。また、2016年(平成28)4月からは、寿町終末処理場で行っていた処理をやめ、汚水を酒匂川の河床下に埋設した下水道管により、対岸の左岸処理場へ送り、処理を行っている。

2021年(令和3)3月末時点で、下水道が使える区域の面積 は2, 547㌶であり、その区域の人口は157, 100人で、全市人口に対する割合は83. 1%である。また、下水道が使える区域にある86, 272戸のうち、93. 9%にあたる81, 009戸が下水道に接続している。

変貌するごみ処理

いろいろな都市問題のうち、市民一人一人に密接に関係する問題がごみ処理である。それは、ごみを捨てるという行為が、子どもから大人まで年齢に関係なく、生活する中で発生するものだからである。

ごみに対する意識や問題は、時代とともに変化している。戦時中及び終戦直後の生活が苦しかった時代には、家庭や工場から出るごみの量はきわめて少なく、各自で処理できた。ところが、戦後70年以上が経過し、生活の豊かさが増すにしたがい、ごみの量も急激に増加し、ごみの内容にも大きな変化が生まれた。電化製品、プラスチックや塩化ビニル等の石油化学製品の増加により、ごみの処理が複雑化し、ごみ処理にかかる費用も増大した。

本市のごみ処理は、1997年(平成9)4月から、9分類15品目で始めた指定ごみ袋制による分別収集・処理が大変革となった。9分類とは、燃せるごみ、びん類、かん類、ペットボトル、「トレー類・プラスチックゴミ表記表示のあるもの」(略して「トレ・プラ」)、紙 ・ 布類、燃せないごみ、スプレー缶ほか、大型ごみで、15品目とは、紙類のうち新聞紙や雑紙などの分類の中でさらに細かく分けて処理するもので、現在は(平成27年度)ビデオテープ類、その他紙、廃食用油を品目に加えた18品目で分別収集し、15品目で資源化を図っている。2013年度(平成25)からは、障がい者施設の協力を得て小型家電製品の資源化を始めるなど、新たな資源化品目の拡大にも努めている。

このような分別・資源化の結果、燃せるごみの量は1996年度(平成8)の75, 878㌧から2020年度(令和2)は 48, 806㌧に大きく減少した。しかし、経費面では、市内のごみ処理に約24億円(令和元年度)が費やされるなど、資源化を含め、ごみの処理には依然、高額な予算が使われている。

また、本市の焼却灰の埋め立て施設である堀ヶ窪最終処分場の残余容量不足から、処理先の確保が喫緊の課題となっている。特に、東日本大震災後の原発事故により、東日本各地の焼却灰から放射性物質が検出され、一部の施設で受け入れてもらえなくなり、焼却灰の新たな処理先の確保が各地で問題となった。幸い、本市は受入先を確保することができたが、焼却灰は資源化よりもまず処分することが優先される状況が続いていた。現状ではそうした状況が改善されつつあることから、焼却灰の資源化に対応した受入先を確保し、資源化率の向上を図っているところである。

小田原市の燃せるごみの量の推移

このような状況の中で、本市では燃せるごみを減らす努力を続けている。燃せるごみを分析すると、紙類と生ごみで約6割を占めており、効果的に燃せるごみの減量を図るためには、紙類と生ごみに対する取組が必要である。紙類については、2014年度(平成26)から実際に収集を行う小田原市古紙リサイクル事業組合と協力し、小さな紙も紙の収集日に出すよう分別の徹底を呼びかけている。また、2015年度(平成27)からは、高齢者世帯向けのサービスとして登録制の戸別収集を始めるなど、紙類を分別しやすい環境づくりを進めている。

生ごみの削減については、発生抑制と再生利用の両面で減量を進めることができる。生ごみとして出されるものの中には、本来は食べることができたのに捨てられている食品「食品ロス」がある。 2018年度(平成30)の日本の食品ロスは年間600万トンと推計され、小田原市では、家庭から出される燃せるごみの約2割が食品ロスである。そのため、使い切れる量を購入することや、消費期限と賞味期限の違いを正しく理解することなどで食品ロスを減らすことができるよう、市民へ啓発している。また、2010年度(平成22)から「生(いき)ごみ小田原プロジェクト」を実施し、段ボールコンポストによる生ごみの堆肥化を推進している。このプロジェクトには、 6, 300世帯を超える参加件数(2021年8月現在)があり、全国的にみても規模の大きな取組となっている。

燃せるごみを開封した時の様子

燃せるごみの内容

市民の分別状況に着目すると、ペットボトルの収集日に出された袋に、石や包丁が入れられたり、トレ・プラの収集日に出された袋にトレ・プラ以外の物が多く含まれたりするなど、市民の分別意識の改善が課題となっている。このため、自治会の組長会議での説明や、小学4年生への出前授業を実施するなど、改めて啓発に力を入れ始めたが、分別状況を改善するためには、市民一人一人が現状を把握し、「資源化を進める」、「燃せるごみの減量」といった分別の意義を理解し、分別に努めることが重要である。

環境保全と公害対策

本市は、市民の健康と良好な生活環境を守るため、公害の未然防止を基調とする予防的な公害行政を推進している。

現在、市内で広域的な公害の発生は報告されておらず、1年間に受ける公害苦情件数もここ数年60件前後である。水質保全の対策としては、市内の主要河川や海域・地下水などを日ごろから監視し、市内工場及び事業場にも定期的に立入調査を実施している。また、生活排水による水質汚濁の未然防止に関してホームページに掲載し、市民への周知啓発を行っている。1991年度(平成3)から開始した合併処理浄化槽への転換にかかる補助金制度の実施も継続しており、河川の汚濁防止に努めている。大気保全対策としては、神奈川県が市庁舎及び旧市民会館で日ごろから監視を行っているほか、川東タウンセンターマロニエにおいて移動測定機による測定や、交通量の多い交差点付近における窒素酸化物簡易調査を行い、市内の大気の状況を観測している。また、光化学スモッグ対策については、「小田原市光化学スモッグ対策実施要綱」に基づき被害防止に努めている。

年度別公害苦情件数 (小田原市統計要覧)

騒音振動対策として、主要幹線道路については、常時監視を行っているほか、新幹線鉄道、住環境等の騒音や振動の調査を行っている。ここ最近は、規制が難しい建設現場や屋外作業場における騒音苦情が増加しており、事業所等に対し適宜指導を行っている。

森・里・川・海がひと連なりとなった小田原の豊かな自然環境を守り、子や孫に引き継ぐことは今を生きる我々の義務である。そして、この恵まれた環境の恩恵をすべての市民が受け、守り育てていかれるよう環境保全に関する条例が作られ、1995年(平成 7)4月1日から施行された。この条例施行に伴い、「市の鳥(コアジサシ)」が決まり、環境ボランティアの活動が広がり、環境ボランティア協会が組織され、清掃活動などが継続されている。また、 2016年(平成28)3月には、環境との共生に向けた市民活動の活性化を目指すため、おだわら環境志民ネットワークが設立され、環境保全に取り組む団体、企業、個人の連携を支援している。

本市は、2011年(平成23)の東日本大震災を契機に、地域資源の一つである再生可能エネルギーに着目し、エネルギーの地域自給による持続可能なまちの実現に向け、取組を推進している。

2014年(平成26)には、市、市民、事業者が一丸となって再生可能エネルギーの利用等の促進に取り組むため「小田原市再生可能エネルギーの利用等の促進に関する条例」を制定。翌年の 2015年(平成27)に「小田原市エネルギー計画」を策定し、市内で生活や事業活動を行う人々が再生可能エネルギーの利用等に取り組むための方向性を示した。

また、現在、世界中で地球温暖化が進行し「気候変動」が起こり、災害が発生している。そこで、気候変動の原因となる温室効果ガスの排出を2050年までに全体としてゼロにする「脱炭素社会」の実現が求められている。再生可能エネルギーの利用は温室効果ガスの削減につながるもので、本市でも、2050年までに温室効果ガスの半分以上を占める二酸化炭素の排出量実質ゼロを目指すことを 2019年(令和元)に表明し、脱炭素社会を見据えたエネルギー政策をより一層進めているところである。

保健に力をつくす市立病院・保健センター

市立病院を設け、これに伝染病院を付属させることは、市制施行時に合併町村から要望された条件であった。その後、市長及び市議会は公約実現に努力したがきわめて多額の資金が必要なので実現はなかなか困難であった。しかし、市内のみならず西湘方面にも総合病院としての施設を完備する病院は少なかったので、病状によっては遠く東京、横浜の大病院へ治療を求める人も多く、市立病院建設の要望は年々強まっていった。

そこで、市は1951年(昭和26)より他市の公立病院について調査を行い、資料を集めて研究を重ねた結果、1957年(昭和 32)に市議会で市立病院設置を満場一致で可決した。その後1年 2か月を要して1958年(昭和33)久野の日加工業跡地に完成した。開設当時は病床数110床、外来診療科9科で、設備としてはコバルト60の装置を導入した県西地域におけるがんセンター的性格があった。その後、医療需要の増大と地域住民の要望を背景に、 1972年(昭和47)12月には、病床数345床(一般300床、伝病45床)、外来診療科10科に増設した。そして、患者数のさらなる増加、高齢化社会の進展や疾病構造の変化に伴う医療需要の複雑多様化などに対応するため、1981年(昭和56)12月から総事業費約80億円をかけて全面改築事業を実施し、1985 年(昭和60)3月に現病院が完成した。現病院では、高度医療の推進、特殊医療の実施等のほか、患者の社会復帰を促すためのリハビリテーション室を設置するなどの機能を拡充させ、一般病床417床、外来診療科14科となった。

また、高度医療や様々な医療ニーズに応えるため、診療科も増やし、NICU(新生児特定集中治療室)やICU(特定集中治療室)、 HCU(高度治療室)を備え、CT(コンピュータ断層撮影装置)、 MRI(磁気共鳴断層撮影装置)、PET/CT(陽電子断層撮影装置)、放射線治療装置などの高度医療機器を導入した。現在では、外来診療科26科、一般病床417床となっている。そのほか、災害拠点病院(平成10年3月指定)、地域周産期母子医療センター(平成17年1月指定)、地域がん診療連携拠点病院(平成18年8月指定)、救命救急センター(平成21年4月開設)、地域医療支援病院(平成21年10月承認)などの様々な医療機能を有し県西地域の基幹病院としての役割を担っている。

一方、国では、大きな病院の待ち時間の問題や最近の医師不足など、医療環境を改善するため、病院はより専門的な医療や高度な医療、入院医療や救急医療などを担当し、医院やクリニックでは初期診療や家族のきめ細かな健康チェックができる私たちの身近なかかりつけ医としての機能を地域で分担することとし、限られた医療資源の有効活用をするため、医療機能の分化・連携を進めており、急性期から回復期、在宅療養に至るまで、地域全体で切れ目なく必要な医療が提供される「地域完結型医療」を目指している。 2015年(平成27)には、都道府県に二次医療圏域ごとの地 域医療構想の策定が義務付けられ、神奈川県西部では、県西地域の 2市8町で二次医療圏となっているが、その圏域内における市立病院の機能は、引き続き高度急性期・急性期医療を担う病院である。また、現病院施設は、建設後35年以上が経過し、老朽化や狭隘化(きょうあいか)が進んでいることから、再整備に取り組んでおり、2018年度(平成30)には新病院が担う診療機能や療養環境、病床規模等についての考え方を示す「小田原市立病院再整備基本構想」を策定し、 2020年度(令和2)には「新病院建設基本計画」を市議会の議決を経て策定し、2026年度(令和8)の新病院の開院を目指して取組を進めている。

また、健康への関心が高まり、生涯を通じての健康づくりをめざした施設の充実が求められていたことから、乳幼児から老人まで市民の健康を守る保健施設として、1988年(昭和63)12月、小田原市保健センターが酒匂に開館した。ここでは乳幼児健診、健康教室、健康相談、検診等の各種保健事業が行われているほか、会議室等は市民による保健活動の場としても利用されている。2018年度(平成3 0)の利用状況は、保健関係事業が1, 672 件、 63, 154人、保健事業以外の利用が359件、10, 270人で、合計73, 000人を超える人の利用があった。

治安を守る警察と消防

社会の治安を維持するために警察と消防があり、日夜市民のために働いている。1948年(昭和23)に警察法が制定され、市及び人口5,000人以上の町村には自治体警察がそれ以外の地域には国家地方警察が置かれた。本市においては同年「小田原市警察職員の定数及び警察署の位置、名称、管轄区域に関する条例」が議決され、従来の小田原警察署庁舎を県より受け継ぎ、翌1949年(昭和24)4月、市の北東部が手薄なので、井細田に足柄警察署を設けて充実を図った。しかし、その徹底した地方分権化は全国的な犯罪の発生に対して捜査を困難にし、また次第に増加する警察費に対して、地方公共団体の財政上の負担が重すぎたので、1954年(昭和29)に警察法の全面改正が行われ、以後県警察に一本化された。

さて、小田原市内の刑法犯(暴行、傷害、詐欺、器物損壊など)の認知件数をみると、2020年(令和2)は749件で3年連続で減少しているが、近年は特殊詐欺(オレオレ詐欺、還付金詐欺)の被害が目立っており、小田原警察署や市、小田原地方防犯協会などといった機関・団体が、注意を呼び掛けている。

次に交通事故の状況については、小田原市内の2020年(令和 2)の交通事故件数は542件で3年連続で減少しているが、65歳以上の高齢者関係事故の割合は増加傾向にある。また、同年の交通事故の負傷者数は630名で6年連続で減少している。

消防は、警察と同じく1948年(昭和23)に消防組織法が制定されたことにより、それまでは警察行政の一部として消火を担当していたが、独立して自治体消防になった。以後市町村長を責任者として、市町村が区域内の消防活動を行うことになり、費用は市町村の負担となった。それを受けて、本市では、1948年(昭和23)「小田原市消防本部ならびに消防署設置条例」の議決により警察署と同時に発足した。本市には常設消防として、消防本部・小田原署(前川(まえがわ))、南町分署・出張所3(荻窪、成田、栢山)と非常勤の消防団23分団が置かれている(2021年4月現在)。2020年中(令和 2 年中)の火災発生件数は 46 件、損害金額は約3, 598万円、死傷者はなかった。主な原因としては、放火、たき火、タバコの火の不始末、こんろなどとなっている。

消防勢力(人員・車両等)は市町村の実情に応じて備えることになっているが、本市における2021年(令和3)4月1日現在の状況は、職員374人、消防車両は消防ポンプ自動車10台、救助工作車2台、化学消防ポンプ自動車1台、はしご付消防自動車1台、高規格救急車8台、支援車1台、その他の車両22台の合計45台であり、消防水利は消火栓2,296基、防火水槽(40㎥以上)722基である。

大規模化・多様化する災害や住民ニーズの多様化など、近年の消防を取り巻く環境は大きく変化しており、消防にはこうした変化に的確に対応していくことが求められている。このような中、2014年(平成25)3月31日から、県西地域(小田原市、南足柄市、中井町、大井町、松田町、山北町、開成町)の消防の広域化が図られることとなった。消防の広域化により、消防署や職員の数が増えたり、災害現場に最も近い消防署から消防車や救急車が出動できるようになったりするなど、災害に対応する基盤がより一層強化された。

このように、環境や生活の変化に対応しながら、警察や消防は、犯罪や交通事故、火災、災害等の様々な危険から、住民の生命や財産を守り、地域の安心安全な生活を支えているのである。

高まる防災意識

我が国は、古代より幾度となく地震による被害にさいなまれてきた。本市でも、1923年(大正12)の関東大地震では壊滅的な被害を受け、現在も東海地震や南海トラフ巨大地震、大正型関東地震、神奈川県西部地震等、さまざまな地震の切迫性が指摘されているところである。

神奈川県では、これら地震による「想定外」の被害をなくすため、 2011年(平成23)3月に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)により明らかになった知見を反映させた「神奈川県地震被害想定調査報告書」を2015年(平成27)3月に発表した。また、東日本大震災では、津波により多くの尊い命が失われた。本市では、津波による被害を最小限に食い止めるため、「津波防災地域づくりに関する法律(2011年(平成23)法律第123号)」に基づき、2021年(令和3)6月に「小田原市津波防災地域づくり推進計画」を策定するなどし、地震対策の強化・充実を図っている。

さらに、近年では、台風や集中豪雨に伴う風水害が全国的に頻発しており、本市においても河川氾濫による洪水や、土砂崩れや土石流による土砂災害等のリスクが高くなっている。このような状況の中で、あらゆる自然災害から命と財産を守るため、本市では「強くしなやかな国民生活の実現を図るための防災・減災等に資する国土強靭化基本法(2013年(平成25)法律第 95号)」に基づき、2022年(令和4)に「小田原市国土強靭化地域計画」を策定し、ハード・ソフト両面による防災対策の充実を図るとともに、行政と市民が両輪となって災害に立ち向かう体制づくりを推進している。主な施策として次のような取組を進めている。

①自主防災組織の育成強化

ア 防災資機材の整備に対する補助事業
イ 住民防災訓練事業
ウ 地域防災リーダー等育成事業 【2021年(令和3)現在250名】

②防災資機材の整備充実 市内4ヵ所に大型資機材等の集中備蓄をしているほか、市内39ヵ所に防災倉庫を設置して応急対策用資機材を備蓄するとともに、発災時に広域避難所となる小中学校の教室等を利用して、生活必需品等の備蓄も進めている。また、地震災害時の初期消火対策として、街頭に消火器を設置している【2021年(令和3)現在4, 876本】。

③災害時における飲料水等の確保対策 災害時における飲料水や生活用水の確保のため、100㌧又は60㌧の水が確保できる地下埋設の飲料水兼用耐震性貯水槽を市内に20基設置している。また、避難所内の配水管が破損した場合でも水道管から直接水が出せる応急給水栓を2017年(平成29)から小中学校に順次設置しており、2023年(令和5)にすべての小中学校に設置が完了する。

④防災行政無線の整備充実 災害情報等を市民に対して迅速に伝達するため、屋外スピーカー(子局)から一斉放送する防災行政無線を1986年(昭和61)に整備している。その後、2007年(平成19)にデジタル方式に完全移行し、すべての子局が国の発信する「全国瞬時警報システム(Jアラート)」に対応している。

【無線局数:2021年(令和3)現在228局】

⑤災害時の情報発信手段の充実

ア 防災メール 事前登録されたメールアドレスに防災行政無線の放送内容や台風の事前の注意喚起情報等を配信している。
イ 音声自動応答装置(テレホンサービス)による情報発信防災行政無線の放送内容を電話(フリーダイヤル)で確認できるシステムを2011年度(平成23)に導入している。
ウ FMおだわらによる情報発信 2007年(平成19)の FMおだわら開局を機に、災害時の情報発信手段として広く情報の提供を行っており、開局に合わせて同年に高齢者や障がい者を対象にポケットラジオを無料配布した。 2011年(平成23)には、国の発信する「全国瞬時警報システム(Jアラート)」を割込放送する設備を整備している。
エ その他 市ホームページや市公式 SNS、テレビデータ放送(J:COM小田原)、緊急速報メール(ドコモ、au、ソフトバンク)など、さまざまな媒体を活用した情報発信を行っている。

⑥防災啓発の推進

ア 各種ハザードマップの作成・配布 本市には地震による津波、大雨による洪水や土砂災害など、さまざまな災害リスクがある。自宅やその周辺における防災情報を事前に把握し、家庭での防災対策の推進を図るため、防災マップや各種ハザードマップを作成して全戸配布している。
イ わが家の避難行動マニュアルの作成・配布 いざというときに適切な行動が取れるよう、各家庭で取るべき行動や事前に準備しておくべき物資等を記した「わが家の避難行動マニュアル」を全戸配布している。
ウ 防災講演会・防災教育等の実施 防災関係の専門家や有識者を講師に招き、市民を対象とした講演会を定期的に開催しているほか、小中学生や自治会役員を対象とした防災教室等を開催し、防災意識の向上を図っている。

住民防災訓練の様子

⑦地震被害軽減化の促進 地震の揺れによる人的被害を軽減するため、道路や公共施設に面した危険なブロック塀等の撤去に対する補助や、木造住宅の耐震診断や耐震補強工事に対する補助を行っている。

2 社会保障

福祉・医療の充実

介護保険制度が始まった2000年(平成 12)は、小田原市の高齢者人口は33, 519人、総人口に対する高齢化率16. 7%、要支援・要介護認定者数が3, 158人であったが、2020年(令和2)には、高齢者人口が、57, 050人、高齢化率30. 1%、要支援・要介護認定者数が9, 749人と、大きく増加している。障がい者手帳所持者は、2005年(平成17)は7,040人であったのに対して、2008年(平成20)は8,021人、 2011年(平成23)は8,664人と年々増加している。また、本市の生活保護世帯数は、1999年度(平成11)には 914世帯であったが、2002年度(平成14)には1,000世帯を超え、2009年度(平成21)には1,500世帯、 2012年(平成24)10月には2,000世帯を超えるなど、著しい増加傾向が続いている。このように、福祉を取り巻く環境は日々変わり、同時に福祉課題も多様化しているので公的な制度だけでは、福祉課題や生活ニーズにきめ細かく対応することが難しくなっている。

そのため、住民に最も身近な市町村として住民や事業者と協力して地域福祉を推進するために本市では「小田原市地域福祉計画」(第1期 平成19年度~平成23年度、第2期 平成24年度~平成28年度)を策定している。地域福祉計画とは、地域の人と人とのつながりを大切にし、お互いに支え合い助け合う関係を築こうとするものである。福祉課題が日々変化している現在、公的な制度のみでなく、住民の努力と周りの人々の支え(共助)により地域で福祉課題を解決する仕組みが必須である。

そこで、自治会、民生委員・児童委員、地区社会福祉協議会などとの連携により、福祉サービスを必要とする人の把握と関係機関との情報共有に努めるとともに、福祉サービスや地域団体の活動など、地域福祉に関する情報提供を行っている。

他にも、超高齢社会となった本市では、地域内の公民館や体育館などを利用して様々な介護予防の取り組みを進めたり、市内12カ所に地域包括支援センターを設置(平成29年度)し、主に高齢者やその家族の相談、高齢者の見守り、心身の状態に合わせた支援などを行い、高齢者が可能な限り自立した生活を営むことができるよう支援している。

小田原市では、公的な制度を運営するだけではなく、地域内での「絆」や「つながり」を大切にしながら「生涯を通じ安心していきいきと暮らせるまち」をめざしている。

3 教育と文化

学校教育

まず市制施行後の教育の歩みをたどってみよう。市制施行により小学校は、従来の第一・第二・第三各小学校のほかに、足柄第一・足柄第二・大窪・早川各小学校と酒匂小学校から分かれた山王原分教場を第三小学校の分校として校数は倍以上に増加した。やがて終戦を迎え、教育制度の改革である六三制実施のために払った努力は大変なものであり、特に中学校教育を行うにも独立した校地、校舎はなく、その上小学校も増改築を要するものが多く前途は多難であった。1946年(昭和21)12月、新学制実施準備会を設置して対策を協議し、小学校の校舎を一部借りるなどして、翌年5月、新制中学をいっせいに開校した。しかし、保護者はこの不自由を見るに忍びず、各中学校区ごとに建設委員会を設け校舎建設に努力した結果、1947年(昭和22)、一中(城山中)をはじめとする中学校が建設されるに至った。その後、新設校もできて、1995年度(平成7)には小学校25校、中学校13校(うち私立1校)になった。2010年(平成22)3月に片浦中学校が生徒数減少のため城山中学校へ統合されたことから、現在の学校数は小学校25校、中学校12校(うち私立1校)である。

さて、2022年(令和4)4月に策定する第 6 次小田原市総合計画における重点施策の 1 つに「質の高い学校教育」があり、具体的な取組として「教育活動の推進」「地域とともにある学校づくり」「きめ細やかな教育体制の充実」「教育環境の整備」の4つを掲げている。

学校教育においては、2016年(平成28)3月に「小田原市教育大綱」を、2018年(平成30)3月に「小田原市学校教育振興基本計画」を策定した。めざす子ども像を「未来を創るたくましい子ども」とし、「自ら考え表現する力」「命を大切にする心」「健やかな心と体」「ふるさとへの愛」「夢への挑戦」の育成に取り組んでいる。小田原の豊かな地域資源を生かし、学校・家庭・地域社会・行政が一体となって、教育環境の充実を進めている。

生涯学習

経済や科学技術の進歩による社会の急激な変化に対応し、時代と歩調を合わせて生きていこうと考えると、学校教育だけでなく、生涯を通して学習していくことが必要となる。そこで、市では生涯学習を推進するために、生涯学習センターを拠点として、様々な事業を行っている。

生涯学習センター本館(愛称「けやき」)は、市民の学習活動や文化活動を総合的に支援するため、学習情報の提供、学習相談、自主的な学習活動の支援などの新たな機能を付与した生涯学習振興の拠点として、従前の中央公民館から名称変更し、2007年(平成19)4月に開設した。市民による主体的な生涯学習活動を基本に、市民の生涯を通じた学ぶ意欲を支え、多様な学習の機会を提供するとともに、学んだ成果を適切に生かすことができる環境を整備し、生涯学習の振興を図っている。

その他の生涯学習に関連する施設としては、生涯学習センター国府津学習館、中央図書館・小田原駅東口図書館、小田原文学館、郷土文化館、松永記念館、尊徳記念館等がある。

国際交流

本市は、海外の姉妹都市であるアメリカ合衆国カリフォルニア州チュラビスタ市、そして海外の友好都市であるオーストラリア・ニューサウスウェールズ州ノーザンビーチーズ市(旧マンリー市)と、青少年相互派遣による国際交流事業を行っている。

チュラビスタ市は、太平洋に面し、気候も温暖で、柑橘類を栽培しているなど、本市との類似点が多いまちである。姉妹都市提携を行ったのは1981年(昭和56)11月で、1984年(昭和 59)から青少年交流事業を実施している。対象は、市内在住在学在勤又は市内の高校を卒業した18歳から28歳までの人である。その他、市民訪問団の相互派遣を定期的に行うなどして交流を深めている。

シドニー近郊に位置するノーザンビーチーズ市は、美しいビーチや四季を通じて過ごしやすい気候が好まれ、憧れの住宅地として知られている。ノーザンビーチーズ市と実施している青少年交流事業「ときめき国際学校」は、1991年(平成3)に市制50周年記念事業の一つとして、本市の青少年が旧マンリー市でホームステイを行ったことがきっかけで始まった。対象は、市内在住の中学2年生から高校3年生までの生徒である。旧マンリー市は、2016年(平成28)に周辺都市と合併し、現在ノーザンビーチーズ市となっている。

オーストラリア・ノーザンビーチ市との交流

文化財保護

私たちの郷土小田原は、西は箱根連山が、東は大磯丘陵が連なり、南は相模湾に面している。そして、中央を流れる酒匂川は肥沃(ひよく)な足柄平野を潤し、温暖な気候と相まって恵まれた環境にある。このような恵まれた環境にあるため、紀元前13,000年以前の旧石器時代から先人が住んでいたと考えられており、各時代の歴史の足跡が多く残されている。特に戦国時代の小田原北条氏の時代には関東一円を治め文化の中心地となり、全国屈指(くっし)の城下町に発展した。これが現在の小田原の礎になっていることを見逃すことはできない。小田原にある文化財は、そうした厚みのある歴史の中で生まれ、大切に保存されてきたもので、いずれも小田原の歴史や文化を正しく理解するためには欠かすことのできないものとなっている。主な文化財としては、国指定の重要文化財として「絹本(けんぽん)(ちゃく)(しょく)阿弥陀如来(あみだにょらい)(ぞう)」(南町報身寺所蔵)、大日如来(だいにちにょらい)坐像(国府津(ほう)金剛(こんごう)寺所蔵)、真教坐像(国府津蓮台寺所蔵)、「相模人形芝居」(小竹(おだけ)下中座(しもなかざ))があり、史跡として「小田原城跡」、「石垣山」、「江戸城石垣石丁場跡(早川石丁場群関白沢支群)があり、天然記念物として「早川のビランジュ」がある。この他、県指定の文化財が25件、市指定の文化財が115件ある(令和3年8月現在)。なお、国指定史跡の小田原城跡では、史跡の保存と活用を進めるため、史跡の公有化を行ったり、発掘調査を行ったりして、当時の姿がうかがえるよう整備する事業を進めている。

相模人形芝居(下中座)

社会体育と体育施設

少子高齢化社会の到来や情報化の進展、余暇の増大など、社会がこれまで以上に変化していく中で、充実した自由時間の実現や健康・生きがいづくりなどから、市民のスポーツに対する志向は今後ますます高まることが予想される。競技者を中心とした従来からの種目活動に加え、ウォーキングをはじめ、ペタンクやグラウンドゴルフなどのニュースポーツに取り組む人々も増え、スポーツがこれまで以上に身近なものになってきている。

スポーツ活動へのニーズが多様化し、また、スポーツに対して新たな価値観が生まれるなど、これまでのスポーツ環境に変化が現れている中、子どもから高齢者まで、だれもが、どこでも、いつまでもスポーツ活動を行えるようスポーツ環境をより充実させていくことが、今後のスポーツ振興を支え・発展させる鍵となっている。

現在、本市のスポーツ施設は、1998年(平成10)第53回国体バスケットボール会場になり、子どもから高齢者まで全ての市民がスポーツレクリエーション活動に楽しめるよう、生涯スポーツ活動の拠点となることを目的とした小田原市総合文化体育館・小田原アリーナ。同国体会場としても使用された小田原テニスガーデンや酒匂川スポーツ広場。2019年(令和元)のラグビーワールドカップ日本開催を控え、日本代表の練習拠点としての利用を契機に、幅広い層の市民に親しまれ、より多くの人々に利用される、スポーツ振興を後押しする場となるようリニューアル工事をした城山陸上競技場。その他にも、城山庭球場、小峰庭球場、城内弓道場、鴨宮運動場、酒匂川左岸サイクリング場、酒匂川サイクリングコース、御幸の浜プール等、数多く有しているが、老朽化の進行や利用状況などを踏まえた今後のスポーツ施設のあり方を検討し、整備を進めスポーツ環境を充実させていく。

5 くらしと政治

1 行政

行政のしくみ 

行政は、住民が快適に生活できるように生活環境を整えたり、種々のサービスに努めることを目的としている。

その行政の最高責任者である市長は、国の政治と違って、議員と同様に住民が直接選挙する。本市においても、市制施行当時は議会の推せんによったが、1947年(昭和22)地方自治法の施行に伴い、四代から公選となった。また、市長を補佐する副市長は、議会の同意を得て市長が任命している。その他、執行機関として各種の行政委員会が置かれているが、これは市長と市議会の関係と同様に、それぞれ権限を分け合い、1つの機関の判断で勝手な政治が行われるのを防ぐ目的で設けられたものである。本市には、選挙管理委員会、公平委員会、固定資産評価審査委員会、教育委員会、農業委員会、監査委員がおかれている。

歴代市長

次に行政機構をみると、増加する行政需要にこたえるために次第に大きくなる傾向にある。そのため、1969年(昭和44)に大幅な機構改革を行ったが、その中で目立ったのは、企画部を新しく設け、その下に企画課(現企画政策課)と財政課(現総務部財政課)を置いたことである。このことは、今後地域開発を進めて行くにあたって、長期にわたる見通しをもった総合計画を立案すること、及び、総合計画の土台となる財政を健全化することを重視したためである。

行政機構の拡大と同時に、事務内容の能率的処理が求められるようになると、この目的達成のため、1962年(昭和37)に小田原市行政事務改善委員会が設けられ、職員の事務改善の意欲が高められた。1965年(昭和40)には待望の小型電子計算機が取り入れられ、市民税、固定資産税、国民健康保険料、清掃手数料等の計算に活用する等、事務処理のスピード化が図られるようになった。また、行政改革についても、住民の意思を反映した新しい自治スタイルの形成に取り組むことをねらいに、行政改革推進委員会が1995年(平成7)に設置された。

さて、本市における市民サービスの窓口の中心となるところが市民部で、この中には本庁以外に、川東タウンセンター(マロニエ)、城北タウンセンター(いずみ)、橘タウンセンター(こゆるぎ)、アークロード市民窓口が置かれている。

施行時特例市

2000年(平成12)11月1日に小田原市は特例市になった。自治体が自らの裁量で市民生活・都市環境の質を高めていくことのできる様々な事務権限が移譲され、地域の実情にあったまちづくりができるようになった。今後も、地方分権が進んでいくと思われるが、そのことを市民・行政ともに強く自覚することが大切である。なお、特例市制度は2014年(平成26)に廃止となり、中核市移行に向けて検討を進めてきたが、行革を優先すべきとの判断から、法定期限内の移行を断念した。

市議会

市議会には、定期的に開かれる定例会と必要に応じて開かれる臨時会がある。市議会の会議の中心となるのは、議員全員(現定数27人)が出席する本会議で、市長や議員が提出した議案などについて、質疑、討論、採決などが行われ、ここで議決されたものが、議会の最終的な意思となる。

また、本会議ですべての案件を審議するのは困難であるため、本会議とは別に、市の事業部門を分けて担当し、専門的に効率良く審査を行うために常任委員会のほか、必要に応じ特別委員会が置かれ、委員会での審査結果は本会議に報告され、決定に役立てられる。

選挙

最近の投票率をみると、低い状態が続き、政治に対する市民の関心は必ずしも高いとは言えない。政治に対する信頼と共感を得ることができなければ、市民は政治に失望してますます無関心になり、民主政治は大きな危機を迎えることになる。なお、平成27年6月に公職選挙法等の一部を改正する法律が成立・公布(施行日・平成28年6月19日)され、選挙に参加できる年齢が満20才から18才以上に引き下げられた。

国政選挙だけでなく県・市政選挙においても、住民自治の原則に基づく高い政治意識に支えられた投票行動がより一層望まれる。

≪小田原市議会に設置の常任委員会≫

小田原市における各種選挙の投票率

注・衆議院議員総選挙(大選挙区・中選挙区・小選挙区)における投票率の推移
・1996 年より、衆議院議員選挙は小選挙区比例代表並立制が導入された
・2009 年から衆議院議員選挙の投票率は、小選挙区の数字
・2017 年より、選挙権年齢が 18 歳以上に引き下げられた
・参議院議員通常選挙(地方区・選挙区)における投票率の推移
・本市は選挙管理委員会、全国は総務省(旧自治省)調べ

市民とのコミュニケーション

市民と行政が、互いに理解を深め、協力体制をつくるためには、広報、広聴等の活動が必要である。広報は行政の実情を住民へ知らせることであり、本市では「広報小田原」「市議会だより」を発行し、自治会や市内公共施設を活用して配布している。近年では、ホームページやソーシャルネットワークサービス等のインターネットを利用した広報活動にも力を入れるようになった。

次に、広聴は市民の声に耳を傾けることであるが、市民の声を市政に反映させるため、本市では様々な活動に積極的に取り組んでいる。1968年(昭和43)には、市民相談室を設け、市民の要望や苦情を聞いたり、身上相談にも応じたりしている。市政関係の相談内容は、交通安全施設及び交通規制の要望、市道・農道等の管理及び補修、河川の管理、福祉、教育、市税、環境衛生等、あらゆる分野にわたっており、その数は市民の生活上の諸問題も含めて2014年度(平成26)中で2,279件に上っている。同様な趣旨で1969年(昭和44)から、市長が市民から率直な意見を聞き市政に反映させるための「市民と市長との懇談会」を開催してきたが、2008年(平成20)に「市民と市長のまちかどトーク」に形を変え、その後2012年(平成24)からは、より和やかな雰囲気の中で市民と市長が交流できるよう「まちカフェ」を開催している。このほか、現在では「市長への手紙」、「広聴ボード」、インターネットを利用した問い合わせの受付など、時代や環境、住民のニーズの変化にあわせて様々な形で広聴活動を行なっている。また、自治会を基盤に組織された地区広報委員長会議も、広報のみならず、市民の要望をくみ上げる広聴の役目をはたしている。

以上、市が市民へ働きかける広報 ・ 広聴の概要を述べたが、逆に市民による市への働きかけとして市民活動団体の活動がある。市民活動団体の活動内容は、地域社会の向上発展に尽くそうとするものであり、その中には、市への提案や協力のほか、協働による事業の実施などがある。

さて、市民や市民団体が市政等について意見や要望がある場合には、請願や陳情を市議会に提出することができる。請願は、市議会議員の紹介が必要である。原則として、所管の委員会に付託して審査され、本会議で最終的に採択か不採択か決められる。採択した場合には、その内容により市長部局等に送付し、議会は処理の経過と結果報告を求めることができる。一方、陳情は紹介議員の必要はない。本市議会では、原則として所管の常任委員会等に付託して審査され、本会議で最終的に採択か不採択か決められる。2007年(平成19)から2011年(平成23)にいたる5年間で受けつけた請願は5件、陳情は135件(継続件数を含む)である。

住民組織として、自分の住んでいる地域は自分たちの力で住みやすくしていこうと、住民自らが主体となって様々な問題に取り組んでいるのが自治会である。戦後、町内会は住民の生活をしばる組織であるとして解散させられたので、本市は市民との連絡を図るために外勤嘱託員制度を採用した。しかし、地域住民による自主的な住民組織結成の機運が盛り上がりを見せ、1958年(昭和33)、市内全域に住民の総意による自主的な自治会が誕生した。市は、自治会に、広報回覧の配布、防犯等の仕事を依頼し、行政がすみずみまでゆきわたるようにしている。以上のように自治会は、会員が相互に親睦を図り、自治意識を高めることにより地域社会の向上発展を図るという本来の活動の外に、住民と行政との橋渡し役としての役割があるとともに、円滑な行政運営を進めていくために必要な存在となっており、地震や自然災害に強いまちづくり、地域の環境美化を進めていく上でも重要な団体となっている。

また、自治会連合会26地区ごとに地域が目指す将来像とそれを実現するための取組内容等をまとめた地域別計画が策定されている。この計画の実現に向けて活動する組織として、地域コミュニティ組織が設立されており、地域の各種団体が連携・協働することで、地域課題解決の促進を図っている。

以上、本市の行政の概要を述べたが治体との協力により広域的に行政運営をする必要があるとの考えのもと、1970年(昭和45)に県西地域2市8町(発足当時1市10町)による県西地域広域市町村圏協議会(平成22年4月に神奈川県西部広域行政協議会に統合される)がつくられた。以来、2市8町等との間では、スポーツ施設や図書館の相互利用をはじめ、消防の広域化や斎場事務の連携などを行い、行政の効率化や住民サービスの向上に大きな効果を上げている。

2 財政

地方財政の主な財源は税金であることから、無駄をはぶき、最少の経費で最大の効果を上げなければならない。

本市の財政の移り変わりを見ると、1945年度(昭和20)一般会計歳出決算額は259万円余であったが、戦後のインフレと占領軍による諸制度の改革は財政規模を拡大し、当時の全国的傾向と同様に、本市財政も1948年度(昭和23)より赤字財政となった。その後、1955年(昭和30)公布の「地方財政再建促進特別措置法」にもとづき、翌年より4ヶ年にわたる自主財政再建計画を立て赤字をなくすよう努力した結果、早くも1958年度(昭和33)には黒字に変わった。その後、人口や産業の集中による都市化と福祉の向上、上下水道の普及、し尿処理、道路整備等の財政需要が増大し、好景気とそれにともなう物価上昇もあって、1993年度(平成5)の637億円まで拡大を続けた。しかし、景気の悪化等による税収の落ち込みなどがある一方、高齢化による社会保障費の増加など財政需要は高まっており、厳しい財政運営となっている。

当初予算の推移

市の予算には市民生活全般をまかなう一般会計、競輪や国民健康保険などの特別会計、水道・病院などの企業会計の3種類があり、それぞれに歳入(収入)と歳出(支出)がある。一般会計は、福祉・教育・道路整備・ごみ処理など、市が基本的に行うべき事業のための会計であり、一般会計をいかに予算配分するかが市政の推進に密接にかかわってくる。

歳入のうち市税が約半分を占め、市有施設の使用料や諸収入などを合わせた自主財源が約60%で、国や県からの補助費や市債など依存財源が約40%である。

歳出の変化を見ると、少子高齢化や景気低迷のためか、福祉関係の経費である民生費の占める割合が増加し、その他の経費の割合が減少する傾向にある。

「健康」「教育」を柱に子育て環境や学習環境の充実を図ることと、都市基盤整備を推進し、中心市街地など地域経済の活性化にも取り組むという、市政の難しさが現れている。

主な費用の構成比の変化

小田原市の令和3年度 一般会計
歳入の内訳

自主財源は、市民の皆さんが納めた税金など市が直接調達できる財源です。依存財源は、国や県から入ってくる財源で、額が国や県の基準で決められています。

歳出(目的別)の内訳

6 あすの小田原

本市では、2010年度(平成22)に策定した「おだわらTRYプラン(第5次小田原市総合計画)」に基づき、「市民の力で未来を拓く希望のまち」を目指し、市民力や地域力を生かした課題解決の取組をはじめ、様々な施策に取り組んできた。

この間、国際社会においては、持続的な成長が課題となる中、「誰一人取り残さない持続可能な社会」を実現し、豊かで活力ある未来をつくるため、2015年(平成27)の国連サミットでSDGsが採択され、現在その達成に向けた取組が世界中で進められている。また、2019年(令和元)に発生した新型コロナウイルス感染症は、またたく間に世界中に広がり、人の命が脅かされるだけでなく、暮らしや地域経済に深刻な影響を及ぼした。しかし、この危機は、社会全体のデジタル・トランスフォーメーション*を加速させる機会となり、新たな時代を見据えた働き方や暮らし方への対応が行政にも求められることとなった。

このような情勢のなか、2022年(令和4)4月に「第6次小田原市総合計画」がスタートする。

*進化したデジタル技術を浸透させることで人々の生活をより良いものへと変革すること

「第6次小田原市総合計画」の概要

小田原には、森里川海がひとつらなりとなった豊かな自然環境、先人より継承された文化・伝統産業、そして、我が国でも特筆すべきレベルに成長した市民力や地域力といった人の力がある。また、都心からほど良い距離にあり、鉄道や高速道路などのインフラが整備されている都市という要素は、未来に向かって発展していくための重要な礎である。

こうした基盤を活かしながら、人、地域、時代をつなぐまちづくりの視点を大切にし、次世代に責任を持てる持続可能なまちを築くため、第 6 次小田原市総合計画では、2030年に目指す小田原の姿や将来都市像「世界が憧れるまち“小田原”」を掲げた。

第6次小田原市総合計画は、「基本構想」と、「実行計画」で構成される。

基本構想では、将来都市像の実現に向け、3つのまちづくりの目標「生活の質の向上」「地域経済の好循環」「豊かな環境の継承」を定め、実行計画では、重点施策と基本構想に掲げるまちづくりの3つの目標に対する25の施策と、「行政経営」「公民連携・若者女性活躍」「デジタルまちづくり」の 3 つの推進エンジンを位置付けた。

小田原の「豊かな環境の継承」を土台に、「生活の質の向上」と「地域経済の好循環」を具現化することで、小田原の魅力を最大限に磨き上げ、国内外の人たちが、行ってみたい、住んでみたいと憧れ、そして住む人に住み続けたいと思ってもらえる「世界が憧れるまち“小田原”」を実現していく。

小田原歴史年表

                                                                                         
時代 小田原地方 日本
先土器・縄文・弥生 時代 約 1.5 万年前 狩猟や採集の生活が行われる 狩猟生活が行われる
前 2 世紀 農耕生活が始まる
1世紀 農耕生活が始まる 1世紀 小国家が分立する
大和・奈良・平安時代 4世紀 大和朝廷の国土統一が進む
7世紀 久野に高塚式古墳が作られる 645年 大化の改新が始まる
8世紀 中央貴族の封戸となる 710 年 都を平城京に移す
足下郡の防人の歌、万葉集にのる 741年 国ごとに国分寺を造る
794 年 都を平安京に移す
11 世紀 各地に荘園ができる(早川、成田、大井など) 935 年 平将門の乱が起こる
各地に武士がおこる(中村氏、土肥氏など) 1086 年 白河天皇の院政が始まる
鎌倉・室町・安土桃山時代 1180 年(治承4) 源頼朝が石橋山で平氏方に敗れる
1192 年 頼朝が征夷大将軍となる
1193 年(建久4) 曽我兄弟が富士の巻狩りで父の仇を討つ
1221 年 承久の変が起こる
1334 年 建武の新政が行われる
1338 年 足利尊氏が征夷大将軍となる
1394 年(応永1) 大森頼明が関本に最乗寺を建てる
1416 年(応永 23) 土肥、土屋氏が滅びる(上杉禅秀の乱)
1467 年 応仁の乱が起こる(以後、戦国の乱世となる)
1495 年(明応4) 北条早雲が小田原城をおとしいれる
1504 年(永正1) 早雲に招かれた宇野藤右衛門が秘薬「秀頂香」(ういろう)を作る
1521 年(大永1) 北条氏綱が湯本に早雲寺を建てる
1543 年 ポルトガル船が種子島に漂着し、鉄砲を伝える
1552 年(天文21) 北条氏康が管領上杉憲政を越後に追い関東を制覇する
1561 年(永禄4) 長尾景虎(上杉謙信)が小田原に来攻する
1569 年(永禄12) 武田信玄が小田原に来攻する
1573 年 室町幕府が滅びる
1590 年(天正18) 豊臣秀吉が小田原城を攻めて、北条氏を滅ぼす
大久保忠世が小田原藩主となる
1590 年 秀吉が全国を統一する
1600 年 関ケ原の戦が起こる
江戸時代 1603 年 徳川家康が征夷大将軍となる
1619 年(元和5) 箱根に関所が置かれる
1632 年(寛永9) 稲葉正勝が小田原城主となる
1638 年(寛永5) 小田原宿に人馬 100人、100頭が置かれる
1639 年 鎖国令が出される
1649 年 慶安の御触書が出る
1658 年(万治1) 藩主稲葉正則、全領地の検地を始める
1660 年(万治3) 関本の名主下田隼人、重税に苦しむ農民を救うため藩主に訴え死罪となる
1670 年(寛文3) 箱根用水が完成し、約7000石の増収が得られる
1686 年(貞亨3) 大久保忠明、佐倉から小田原に移され城主となる(10万3129石)
1703 年(元禄16) 江戸大地震により、領内の被害大きく、天守閣も破壊される
1707 年(宝永4) 富士山の大噴火により、藩内一帯が降灰のため、大きな被害を受ける
1716 年 享保の改革始まる
1782 年(天明2) 小田原地方に大地震があり、大きな被害を受ける
1783 年 天明の大ききん始まる
1787 年(天明7) 二宮尊徳が栢山に生まれる 1787 年 寛政の改革始まる
1802 年(享和2) 川口広蔵の指導のもとに荻窪堰が完成し、58 町余の水田が開発される
1822 年(文政5) 藩主大久保忠真、城内三の丸(三の丸小の地)に藩校集成館を作る
1837 年 大塩平八郎の乱が起こる
1838 年(天保9) 小田原の俳人円城寺(六花苑)嵐窓死ぬ
1841 年 天保の改革始まる
1842 年(天保13) 二宮尊徳、幕府の普請役格となる
1850 年(嘉永3) 小田原藩が防備のため、小田原海岸に台場を造る
1853 年 ペリーが浦賀に来航する
1858 年 日米修好通商条約を結ぶ
1862 年(文久2) 小田原の画家岡本秋暉死ぬ
1867 年 江戸時代が滅びる(大政奉還)
明治時代 1868 年(明治 1) 箱根戊辰の役が起こる
1869 年(明治 2) 藩主大久保忠良が藩知事となる 1869 年 版籍奉還
1871 年(明治 4) 小田原県が置かれたが、その年に廃され、足柄県となる 1871 年 廃藩置県
1872 年(明治 5) 藩校集成館を廃し、中学校と小学校ができる 1872 年 学制を定める
1873 年(明治 6) 学制にもとづく小学校ができる 1872 年 地租改正条項が公布される
1876 年(明治 9) 足柄県を廃し、神奈川県に編入される
1877 年 西南の役が起こる
1878 年(明治 11) 小田原に足柄下郡役所を置く
1887 年(明治 20) 新橋ー国府津間に鉄道が開通する
1888 年(明治 21) 国府津ー小田原ー湯本間に馬車鉄道が開通する 1888 年 町村制公布される
1889 年(明治 22) 町制がしかれ、小田原町となる(人口約 1万6000人) 1889 年 大日本帝国憲法が公布される
1890 年 第1回帝国会議が開かれる
1894 年(明治 27) 北村透谷が思想上の行き詰まりから自殺する(25 歳) 1894 年 日清戦争始まる
1896 年(明治 29) 小田原ー熱海間に人車鉄道が開通する
1900 年(明治 33) 国府津ー小田原ー湯本間に電車が開通し、また、この年に小田原に電燈がつく
1901 年(明治 34) 県立第二中学校が開校する(後の小田原高校) 1901 年 八幡製鉄所が創業する
1902 年(明治 35) 小田原に大津波がおそい、大きな被害を受ける
1903 年(明治 36) 小田原に電話が開通する
1904 年 日露戦争が始まる
1906 年(明治 39) 小田原ー熱海間の人車鉄道が軽便鉄道となる
1908 年(明治 41) 町立小田原高等女学校が開校する(後の城内高校)
1914 年 第一次世界大戦に参加
大正時代 1918 年(大正 7) 北原白秋が「みみづくの家」を建てる
1914 年(大正 9) 熱海線が小田原まで開通し、箱根登山鉄道も開通する
1923 年(大正 12) 関東大震災が起こり、小田原も大被害を受ける
1925 年(大正 14) 大雄山線が小田原ー関本間に開通する 1925 年 治安維持法、普通選挙法が公布される
昭和時代 1927 年(昭和 2) 小田急線が新宿─小田原間に開通する
1931 年 満州事変が起こる
1933 年 国際連盟を脱退する
1934 年(昭和 9) 丹那トンネルが開通し、東海道本線が小田原市街地を通るようになる
1936 年(昭和 11) 小田原の上水道ができ、給水を始める
1937 年 日華事変が始まる
1940 年(昭和 15) 小田原町、足柄町、大窪村、早川村、酒匂村の一部が合併して小田原市が誕生する(人口約5万5000人)
1941 年(昭和 16) 酒匂に大蔵省印刷局ができる
1945 年(昭和 20) 米空襲により浜町、本町の一部が焼ける 1945 年 太平洋戦争が終わる
1947 年(昭和 22) 6・3・3 制により新制中学校が開校する 1947 年 日本国憲法が施行される
1948 年(昭和 23) 下府中村が小田原市と合併する 農地改革が行われる
1950 年(昭和 25) 小田原で子供文化博覧会が開かれる
桜井村が小田原市と合併する
1951 年 サンフランシスコ平和条約が結ばれる
1954 年(昭和 29) 豊川村、酒匂村、国府津町、上府中村、下曽我村、片浦村が小田原市と合併する
1956 年(昭和 31) 曽我村の一部(上曽我、下大井、鬼柳、曽我大沢)が小田原市に編入する 1956 年 国際連合に加盟する
1960 年(昭和 35) 小田原城天守閣が復興する
このころ大工場の誘致が盛んとなる
1960 年 日米安全保障条約が改定される
1964 年(昭和 39) 東海道新幹線が開通し、特急が小田原に停車する 1964 年 オリンピックが東京で開かれる
1965 年 日韓条約が結ばれる
1966 年(昭和 41) 新住所が一部施行される
1968 年(昭和 43) 小田原漁港が完成する
1969 年(昭和 44) 小田原厚木道路が開通する 1969 年 東名高速道路が開通する
1970 年(昭和 45) 鴨宮新貨物駅が操業を始める 1970 年 万国博覧会が大阪で開かれる
1971 年(昭和 46) 橘町が小田原市と合併する 1971 年 沖縄返還協定が調印される
1972 年(昭和 47) 西湘バイパスが全面開通する
学校給食センターが完成する
1972 年 沖縄復帰、日中復交成る
1975 年 冬季オリンピックが札幌で開かれる
1976 年(昭和 48) 市の木(くろまつ)市の花(うめ)が制定される
荻窪 300 番地に新庁舎が完成する
小田原駅東口広場が整理され、地下街が完成する
1977 年 成田空港が開かれる
1978 年 日中平和友好条約が調印される
1979 年(昭和 54) 東海地震に関わる地震防災対策強化地域に指定される
1980 年(昭和 55) 新中央公民館が完成する(市制40 周年記念)
1981 年(昭和 56) 小田原新漁港が完成する
1988 年(昭和 63) 尊徳記念館改築完成
平成時代 1990 年(平成 2) 石垣山一夜城跡が歴史公園として整備される
市制50周年記念式典が行われる
1990 年 バブル景気が崩壊する
1992 年(平成 4) 本町小、城内小が統合され、三の丸小学校が開校する
1994 年(平成 6) 「かもめ」図書館が開館する
小田原文学館が開館する
1995 年(平成 7) 6月22日、20万人都市誕生、市の鳥(コアジサシ)が制定される
1995 年 阪神淡路大震災
1996 年(平成 8) 小田原市総合文化体育館・小田原アリーナが完成する
1998 年(平成 10) 小田原城銅門が復元される 1998年 冬季オリンピックが長野県で開かれる
2000 年(平成 12) 小田原市が特例市になる
小田原こどもの森公園わんぱくらんどがオープンする
2003 年(平成 15) 小田原駅東西自由連絡通路・アークロードが全面開通する
2004 年(平成 16) 小田原駅西口駅前広場が完成する
小田原市教育都市宣言が制定される
2004 年 新潟県中越地震
2005 年 国際博覧会が愛知県で開かれる
2007 年(平成 19) 中央公民館が生涯学習センター本館「けやき」となる
2010 年(平成 22) 片浦中学校閉校、城山中学校に統合される
2011 年 東日本大震災
福島第一原子力発電所
事故が発生する
2015 年(平成 27) おだわら市民交流センター
UMECO がオープンする
令和時代 2020 年(令和 2) 市立図書館が閉館する
小田原市立かもめ図書館を小田原市立中央図書館に改称(かもめ図書館は愛称として継続)する
2020 年 コロナ感染症対策のため全校の学校が一斉休校
2021 年(令和 3) 小田原駅東口図書館が開館する
小田原三の丸ホールがオープンする
2021 年 東京オリンピック・パラリンピック開催

主な参考文献

小田原市史 (小田原市)
日本の歴史 (読売新聞社)
日本の歴史 (中央公論社)
郷土資料おだわら (小田原市教育研究所)
小田原の自然 (小田原市教育研究所)
日本地理集成神奈川県の地理 (光文館)
小田原地誌 (香川幹一・金子俊男)
はこね (箱根町教育研究所)
小田原市文化財調査報告書第三集 (小田原市教育委員会)
馬場遺跡の縄文時代配石遺構 (杉山博久)
神奈川県史 資料1 (神奈川県)
中世社会の展望と地域変貌 (中丸)
日本戦史 (参謀本部)
小田原戦史 (中村徳五郎)
後北条の覇業とその当時の小田原 (中野敬次郎)
新編相州古文書 (貫 達人)
北条史料集 (萩原龍夫校註)
横浜市史第一巻 (横浜市)
戦国大名 (杉山 博)
概説北条幻庵 (立木望隆)
久野の歴史 第一・二巻 (立木望隆)
箱根町誌 第一巻(箱根町誌編纂委員会)
片岡文書 (市立中央図書館)
二宮尊徳 (奈良元辰也)
日本の名著「二宮尊徳」 (児玉幸多)
川口広蔵と荻窪堰の由来 (中野敬次郎)
ハコネ用水の話 (タカクラテル)
二宮尊徳全集 第十四巻 (二宮尊徳偉業宣揚会)
さかわ第五集 (小田原市立酒匂中学校郷土研究部)
小田原市漁業史料 (小田原市水産課 本多康宏)
日本漁業経済史 (羽原又吉)
小田原桐座の発見 (木村錦花)
小田原劇場物語 (石井富之助)
小田原古今俳句集 (飯田九一)
小田原近代百年史 (中野敬次郎)
明治小田原町誌 (片岡永左衛門)
福田正夫詩集 (福田正夫詩集刊行会)
足柄下郡郷土読本 (足柄下郡教育会)
小田原教育小史⑵明治初期の教育 (高田 稔)
年表小田原の歴史 (内田哲夫 )
小田原の産業 (市教育研究会小学校社会科研究部)
神奈川県勢要覧 (神奈川県)
市の各種統計
おだわらの水 (小田原市)
目で見る小田原の歩み (小田原市)
悠久の美 (小田原市郷土文化館)
図説・小田原・足柄の歴史 (播摩晃一他)

郷土読本「小田原」

発行日   
令和4年3月31日
発行所   
小田原市教育研究所
小田原市荻窪300
電話 0465(33)1730
発行者
石井 政道
印刷所
(有)石橋印刷
表紙デザイン
宇城 はやひろ 氏(漫画家)
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