

小田原市民憲章
1健康で明るい生活を大事にし、豊かな心をそだてましょう。
1元気で働くことを喜び、しあわせな家庭をきずきましょう。
1隣人と仲よくし、だれにもやさしく親切にしましょう。
1きまりを守り、力をあわせ、住みよいまちをつくりましょう。
1緑と水を大切にし、平和な明日の繁栄につとめましょう。





1健康で明るい生活を大事にし、豊かな心をそだてましょう。
1元気で働くことを喜び、しあわせな家庭をきずきましょう。
1隣人と仲よくし、だれにもやさしく親切にしましょう。
1きまりを守り、力をあわせ、住みよいまちをつくりましょう。
1緑と水を大切にし、平和な明日の繁栄につとめましょう。
6~9ページの写真と、上の小田原市の写真で、市のようすを見てみましょう。
わたしたちが住んでいる小田原市は、山、川、海などの自然に恵まれています。このすばらしい自然がある小田原市のようすを地図を使って調べていきましょう。
地図を見て、自分たちの住むまちが、小田原市のどの方位にあるのか調べてみましょう。
酒匂川
相模湾
田
みかん畑
酒匂川の近くにある大きな工場
小田原駅の周辺
鴨宮地区の商店
小田原駅には,JR東海道線や小田急線などの,いろいろな鉄道が集まっていて,多くの人たちがのりおりしています。また,小田原駅前には,タクシーのり場や,いろいろな方面へのバスのり場があります。
小田原市には、鉄道のほかに、国道1号や国道255号、小田原厚木道路、西湘バイパスなどの大きな通路も通っています。
小田原市には,市役所や川東タウンセンター「マロニエ」のように、いろいろな公共しせつがありますが、それぞれ働きがちがいます。まず、川東タウンセンター「マロニエ」について調べ、その他の公共しせつについても調べていきましょう。
「マロニエ」の人の話
このしせつは、川東タウンセンター「マロニエ」といいます。「マロニエ」という名前は、市民からぼ集して決められたもので、「西洋トチノキ」という木の名前です。「マロニエ」のしき地にも植えられています。このたて物の中には,会議をする部屋、料理ややきものをする部屋、歌をうたう部屋などたくさんの部屋があります。また、音楽会やスポーツなどができる大きなホールもあります。小さい子どもが遊べる部屋や、みなさんも利用できる図書室もあります。子どもからお年よりまで、多くの人が集まり、遊び、学び、ふれあう場として気がるに利用できるしせつです。
自治会長さんの話
ここは、「まちの創作室」という部屋です。月に一回、各地区の自治会長さんたちがこの部屋に集まって会議をしています。自治会では、まちをきれいにする活動や、地震などの災害に備えた防災活動、お祭の計画、学校のあいさつ運動や防犯パトロール、一人暮らしのお年寄りの方に声をかける活動、その他さまざまな行事などの計画を立て、活動を行っています。地域に住む人たちが、安心・安全に暮らせる住みやすいまちをめざして、毎月、このマロニエで話し合いをしています。
江戸時代より少し前,北条氏が小田原をおさめていたころ,同じ仕事をする人たちが集まって住んでいました。今でも,大工町,青物町などという地名として残っています。
そして,江戸時代の小田原は,城下町であるとともに東海道の中でもにぎやかな宿場町として栄えていました。東は酒匂川の徒歩渡り(10月から3月の間は橋がかけられました),西は箱根ごえがひかえていたので,小田原で宿はくする人が多く,90けん前後の旅龍(旅館)がありました。また,大名行列も来ましたので,本陣,脇本陣といわれる大きな宿もたくさんありました。
小田原宿で宿はくする人のために,みやげ物や旅に必要な物を売る店も多く,かまぼこ,梅干し,ういろう,小田原ちょうちんなどが小田原の名物として広く知れわたるようになりました。市内には江戸時代から続く古い店が残っており,今でも伝とうをひきついで,これらの名物を作ったり売ったりしています。
小田原には、さまざまなお店があります。家の人がよく行くお店を調べてみましょう。
小田原市成田に平成20年にオープンした「朝ドレファ~ミ♪」は、毎日たくさんのお客さんでにぎわっています。ほかのお店とどんなところがちがうのか、調べてみましょう。
店の名前について
「朝採れ」は新せんな農産物、「ファーマーズ」は農家、「ファミリー」は家族と「ドレミフア…」の音階をもじってリズミカルなイメージを出しています。農家の人が一生けんめい育てた新せんな農産物を家族みんなでそろって楽しみに買いに来てくれる、そんなお店を目ざしたいという願いをこめた名前です。
お店の売り場のようす
店長さんの話
毎朝、8時~9時の間に農家の人が品物をならべにきます。その日に売れ残ってしまった品物も、作った農家の人が引きとりに来ます。お店の品物は、すべて日本でとれたもので、外国からの輸入品もは一つもありません。しかも、半分以上が地元の品物です。「朝ドレフア~ミ♪」では新鮮、旬、安い、安全、安心、生産者の顔が見える、地元の農業を学べる、品ぞろえやしゅるいがほうふ。食べ方をしょうかい(教えてもらう)、交流、野菜や果物のよさやねだんを知ることができる、行くと楽しい、そんなお店をめざしています。
市内には,他にもさまざまなお店があります。みなさんも調べてみましょう。
お店に行かなくても買い物ができる!?
パソコンやスマートフォンなどを使って、インターネットで買い物ができるようになりました。直接お店に行かなくても、画面で好きなものをえらんでもうしこむと、品物を家までとどけてくれます。本や服、食料品まで何でも買うことができます。お店の人には会わないので、お金をはらう方法もいろいろあります。
小田原城や箱根の温泉へ来た人たちが、「小田原のおみやげ」としてよく買っていく物の一つに「かまぼこ」があります。みなさんも、かまぼこを食べたことがあると思います。県外の親せきや知り合いの家をたずねる時に、おみやげとして持っていく人も多いようです。どうして、かまぼこが「小田原のおみやげ」として有名になったのでしょうか。かまぼこは、何からできているのでしょうか。そして、どうやって作られるのでしょうか。かまぼこについて、調べていきましょう。
工場のおじさんの話
小田原市では,昔からかまぼこづくりがさかんで,東海道を旅する人たちによろこばれてきました。近くの海でとれる魚をすりつぶし,まわりをやいたりむしたりして、長持ちしやすくしたものが始まりだと言われています。とれたばかりの魚が使えるので、海に近い方がべんりだったのでしょう。
工場の中は、かまぼこをむすにおいや、油でさつまあげをあげるいいにおいがしていました。
なぜ板についているの?
かまぼこに板がつけられるようになったのは、安土桃山時代からとされています。形を整えやすい、持ち運びにべんりといった理由のほかに、むしたり冷やしたりするときによ分な水分をすってくれるので、くさりにくいというこうかもあります。
はたらいている人の話
この部屋は、かべのあなから空気が強くふき出して服についたかみの毛やほこりをはらい落としてくれます。入口は、自動ドアになっていて、手洗いとアルコール消毒をしないと扉が開かず、工場の中へ入れないしくみになっています。わたしたちは食べ物を作っていますから、えいせいには、とくに気をつけています。えいせいのためには、しせつも大切ですが、はたらく人の心がけが一番大切なのです。
かまぼこをつくる以外にも、かまぼこづくりのためのしごとがあります。
かまぼこの色や形が、正しくできているかどうかを調べています。小さなちがいを、すばやく見つけるには、人が見るのがいちばんたしかです。みなさんに安心して食べていただくために、色や形に、ちがいがでないようにしています。
よりおいしいかまぼこをつくるために、原料や、できたかまぼこのテストをしています。また、新しいしゅるいのかまぼこをつくるために研究もしています。味や歯ごたえをたしかめるときには、食べることもあります。
かまぼこの原料はどこから運ばれてくるのでしょう。
・魚のすり身・しお・水・さとう・卵白・みりん・油
○グチ・・・おもに「シログチ」を使用します。
工場の人の話
昔のかまぼこづくりは、近くの海でとれた魚を使って、すり身をつくるところから始められていました。しだいに多くのかまぼこがつくられるようになってくると、多くの原料をいつでも手に入れることができるように、いろいろな所でとれた魚が使われるようになりました。最近では、すり身を冷凍して運ぶことができるようになったので、外国の工場や船の上でも、すり身がつくられるようになったのです。
工場では、かまぼこのほかに、ちくわやあげものなど、たくさんのしゅるいの品物がつくられています。できあがった品物のゆくえを調べてみましょう。
かまぼこ工場では、かまぼこの他にもいろいろな物をつくっています。
お客さんによろこんでもらえるように、新しい商品の開発も行っています。アジやイワシなど、小田原の近くの海でとれる新せんな魚と、小田原の山で育った杉の木をかまぼこ板に使った、新しいかまぼこ作りにとりくんでいます。
1.魚のかわとほねをとりのぞいて
手づくりのかまぼこを上手につくることができるようになるまでに、10年はかかるといわれています。でも手づくりのかまぼこはとくにおいしいとお客様からひょうばんをいただいています。これからも手づくりのよさを伝えていきたいと思います。
小田原市では,みかんづくりがさかんです。市でたくさんつくられているみかんは,どんなところで,どのような工夫をしてつくられているのでしょう。
みかん農家の高橋さんの話
みかんは、日当たりのよい、あたたかい土地でとれるくだものです。東や南むきのしゃ面は、とても日当たりがよいです。さらに海が近いと、平地よりも温かい空気が流れやすいので、夜になって、急に冷えることが少ないのです。また、急なしや面は、水をたくさん必要とする米づくりにはむきません。そこで、農家の人たちは、しゃ面をつかって、あたたかい土地でとれるみかんをつくってきました。
おいしいみかんをつくる「3つの光」
小田原のみかん畑には、みかんの木にあたたかさをあたえてくれる太陽の光について、こんなひみつがあるそうです。
①太陽の光
畑がしゃ面になっていることで、みかんの木がならんでいても重ならないので、たくさん太陽の光をあびることができます。
②海からの光
海に面していると、海に当たった太陽の光がはねかえって、木に当たります。また、温まった海水はさめにくいので、温かさが長くつづきます。
③石垣からの光
海に面していると、海に当たった太陽の光がはねかえって、木に当たります。また、温まった海水はさめにくいので、温かさが長くつづきます。
せんてい
えだを切ることで風通しをよくして、かれないようにします。最近のみかんづくりは、むかしにくらべて、農薬(害虫などがつきにくくしたり、みかんの病気をふせぐための薬)をへらすようになりました。そこで、1年じゅう、こしにせんていばさみをかけて、木のようすを気にかけています。
とり入れ
とり入れのあと、貯ぞうをする前に、へたを短く切り落とします。貯ぞうをするときには、みかんがきずつかないようにしています。少しのしょうどくでも、みかんがいたみにくいようにしています。
てき果
たくさんなった実から、小さいものや、きずのあるものをとりのぞいて、大きくて、きずのないみかんが育つようにします。
貯ぞう
とり入れたみかんは、すぐにしゅっかせずに倉庫に置いておきます。それには、
①ほかの県としゅっかの時期をずらす。
②みかんの酸味(すっぱさ)をへらして、甘味をふやすという理由があります。
せんていやとり入れが楽にできるように
みかんの木は、人のせの高さに合わせて、ひくく育てるようにしています。せんていをしたり、とり入れたりしやすいので、しごとが楽になります。
車を使って、みかんを楽に運べるように
とり入れたみかんは、トラックで運んでいます。トラックが走る近くの農道まで、みかんを運び上げたり下ろしたりするときには、運ぱん用のモノレールを使います。農道をふやして、できるだけ車が畑に入りやすいようにしています。
農家の高橋さんの話
最近では、つくったみかんを農協にあずけるだけでなく、農家の人が農協の直売所(朝ドレファ~ミ♪)に運んで販売したり、農家とお客さんがちょくせつやりとりをして「注文販売」をしたりすることもふえました。農家では、新しいしゅるい、甘味の強いしゅるいなど、お客さんのきぼうに合わせてみかんをつくるように努力しています。お客さんから「今年はどんなみかんがおいしいですか。」「毎年高橋さんのみかんを楽しみにしています。」という声をいただけると、うれしくなります。
みかんやレモンをつかった商品の開発
つくった作物がいろいろな人にとどくように、作物をそのまま販売するほかに、ほかの商品につくりかえて販売することもあります。
いろいろなアイディアで、新しい商品の開発もされています。
〈商品の例〉
○レモンサイダー、みかんサイダー
○マドレーヌ、夏みかんゼリーなど
○ジャム
みかん農家では、1年を通してしゅうかくができるように、計画を立てて、何種類もの、みかんやかんきつ類をつくっています。
農家の高橋さんの話
スマートフォンやパソコンがすくに新しい種類になるのと同じように、みかんもつねに新しい品種が出てきます。その中から、小田原の土地や気候に合っていて、おいしくてお客さんがよろこんでくれるものをさがすのです。たいへんなことですが、やりがいもあります。「農業技術センター」では、よい品種を作る研究をしています。農家の人にも,新しい品種を教えてくれたり、みかんにあわせたせんていのしかたを教えてくれたりします。
みかんオーナー制度
早川の農協では、「みかんオーナー制度」をつくり、農家ではない人にも、みかんのしゅうかくをしてもらえるようによびかけています。しゅうかくしたみかんは、オーナーのものになります。 みかんを育てる人が高れいになってきている、ほかにも仕事をしていて、しゅうかくがむずかしいなどの問題をかいけつする助けになるようにしています。
みかんだけではなく、小田原にはいろいろな作物をつくっている農家の人がいます。ほかの作物をつくるしごとについても調べてみるといいですね。
小田原漁港の水揚げランキング(令和3年度)
みなさんは、上の写真を見てどんなことを思いましたか。私たちが住む小田原は海に面していて、そこで魚をとったり、売ったりすることをしごとにしている人たちがいます また、私たちの近所の魚屋さんやスーパーには、日本各地のいろいろな種類の魚や貝、えびなどといっしょに、小田原の海でとれた魚も売られていて、私たちの毎日の食生活をささえています。 左の表は、小田原漁港で、とくに多く水あげされた魚です。ほかにも、いろいろな種類の魚が、私たちの住む小田原の近くの海でとれるのです。
魚をとるしごとをしている漁師さんは、市内に120人ほどいます。米や野菜、くだものを作りながら漁に出ている人も多いそうです。漁師さんの一日のしごとは、どのようになっているのでしょうか。下のグラフは、漁師さんと小学生の一日です。 くらべてみましょう。
小田原の海は、岸から急に深くなっているところが多く、漁師さんたちは、その海のとくちょうを生かして、漁のしかたを工夫しています。小田原で多くおこなわれている漁が、定置網漁や刺し網漁で、ほかにつりなどで漁をする人もいます。
漁師さんは、日の出前から船に乗り、あみをしかけた場所に出かけていきます。つりで漁をする人たちは、魚のむれをさがすための魚ぐんたん知機や海鳥の動き、長年のけいけんから、魚のつれそうなポイントをさがして漁をします。場合によっては、魚を迫って一日中船に乗っていることもあるそうです。
漁船には、大きな水そうがあり、とれた魚はその中の氷水に入れて、新せんなまま運ばれます。
小田原漁港へもどると、水あげし、魚の種類や大きさごとに分けます。最近では、魚の大きさごとに、自動的に分ける機械も使われています。分けた魚を魚市場の人に出したあと、明日の漁にそなえて船のそうじをしたり、道具などのじゅんびをしたりします。
漁師さんの話
小田原の漁業は,昔も今も近くの海で魚をとる漁業が中心になっています。今は,船を動かすことやあみのまき上げ,水あげなどが機械でできるようになったので,ずいぶんと楽になってきました。たくさんの魚を水あげする時は,とてもうれしいですね。しかし,天気や気候の変化など,自然じょうけんが大きくえいきょうするしごとでもあります。大きな台風が来るとあみがこわされたり,海の水の温度がいつもの年とちがうと,とれる魚の種類や量が変わったりします。 また,小田原では,若い漁師も少しずつふえていますが,全国的には少なくなっています。ほかにも,川や海にすてられたごみなど,私たち人間の生活によって海がよごれ,魚がすみにくくなっています。これからも,おいしい魚がたくさんとれるゆたかな小田原の海であるように,みんなで気をつけていきたいですね。
定置網漁ってな~に?
定置網漁とは,泳いでいる魚が,あみなどのしょうがいぶつに当たると沖ににげる習せいを利用して,魚の通り道に大きなあみ(定置網)をしかけて魚をとる漁のことです。定置網は,いつも決まった場所にしかけておくので,漁師さんたちは海のそこの様子や海の流れなどを考えたり,長年のけいけんから魚が通る場所を考えたりしてあみをしかける場所を決めます。また,同じ場所でも,季節によってとれる魚の種類はちがってきます。
漁師さんたちがとった魚は、小田原漁港の中にある魚市場に運ばれます。そして、種類や大きさごとにはっぽうスチロールの箱などに入れられ、おろし売り場にならべられます。魚市場には、近くの海ではとれない魚や、水産加工品(魚を加工したせい品)、冷凍の食品なども、他のちいきからトラックで運ばれてきて売られています。魚市場では、きょかをえた魚やさんなど買受人だけが魚を買うことができます。魚市場の人は「せり」を行い、一番高く買ってくれる人に魚などを売ります。「せり」は朝早くに行われますが、ねだんを決めるために指での合図や大きな声がとびかい、とても活気があります。 また「せり」のほかにも、魚市場の人と買受人との間でほしい魚を必要な量、予約する相対取引という方法もあります。買受人などは、買った魚などをトラックにつんで、自分のお店に運びます。魚市場の人は、魚を売り終わると魚市場のそうじをしたり、どれだけ魚が売れたかなどを計算したりするしごとにうつります。あわただしかった魚市場も、昼ごろには、シーンとしずまリ返ります。
①朝市を開いて、新せんな魚を安く売っています。
②みなとまつりなどのイベントを行っています。
③漁港の駅TOTOCO小田原でも魚を買えます。
①研究された大がかリな定置網
②さいばい漁業
高いねだんで売れるヒラメを、7~8センチくらいになるまで育ててから、海に放ちます。そうすると、大きく育ちやすくなるのだそうです。そして、小田原の海で大きく育ったヒラメをとっています。
海で魚をつりたいという人たちのために、船をつり船として沖合に出すしごとをしている人たちもいます。
自分の家や近所の家から、昔のことがわかるものをさがして、調べてみることにしました。
昔の道具から、昔の人たちのくらしのようすについても調べてみましょう。
実さいに昔の道具を使ってみて、今のものとのちがいをくらべたりそれを使っていた昔の人たちの気持ちを考えたりしてみましょう。
昔のせんたくは、いどから水をくみ上げ、たらいに入れてからせんたく板でごしごしあらったのよ。よごれがひどいところは、石けんを使って何度もこすったものよ。寒い冬は冷たい水を使ってのしごとだったので、とてもたいへんだったのよ。
家の人や近所の人から聞いたことや、自分で調べたことをもとにして、くらしのうつりかわりをまとめてみましょう。
小田原市きょう土文化館
きょう土文化館の人の話
このころは、町の中に田や畑がたくさんありました。今よりも農家が多く、食べものも着るものも自分の家で作っていました。今のようなきかいがなかったので、午や馬を使って田畑をたがやしたり、田うえなどのたいへんなさぎょうは家族や近所のひとたちなどみんなで力を合わせておこなったりしていました。子どもたちは、田や川、山などで魚や虫、鳥などをとってあそんでいました。ほかにもまりつきであそんだり、下の子の子守をしたりもしていました。小田原の町には電とうがつき、馬車鉄道からかわって電気鉄道が走りました。1920年には東海道線がのびて、小田原駅ができました。町の人たちは駅ができたおいわいをせい大にしたそうです。駅前には,お店や旅館がたちはじめてにぎやかになりました。パンやキャラメル、洋服などのめずらしいものも手に入るようになったそうです。
今から80年ほど前に、大きなせんそうがありました。小田原も空しゅうにあい、多くの人たちがひ害を受け、たいへんな生活をおくりました。
地いきのおばあさんの話
せんそうがはげしくなると、食べ物も生活にひつようなものも十分に手に入らなくなりました。そこで、学校の運動場を畑にしてさつまいもなどを作りましたが、それでも十分に食べることができませんでした。勉強よりも食べ物を作ったり、働いたりすることのほうが、大事に考えられていました。また、小田原もせんそうが終わる直前に空しゅうにあいました。ばくだんは学校の校庭にも落とされました。この空しゅうで400戸くらいの家がやかれてしまいました。みんな1日1日をせいいっぱい生きていました。今のように、毎日が平和なことは。とても幸せなことだと思います。
せんそうの時代を今も伝えるもの
小田原のまちには、せんそうのおそろしさを今もわたしたちに教えてくれるものが残っています。そのひとつが市内にある機銃の弾のあとがのこる旧青橋(小田原城の西がわの東海道線などの線路の上にかかる橋)の橋げたです。鉄でできた橋げたをかんたんにつらぬいているようすはせんそうのおそろしさを今も伝えています。みなさんの地いきにも、ぼうくうごうのあとや石碑などせんそうの時代を伝えるものがあるかもしれません。
70年くらい前の小田原のようすとくらし
おじいさんの話
せんそうが終わり、生活をよりよくしようと、当時の人たちは、一生けん命にはたらいたんだ。 そのおかげで,人々のくらしは豊かになってきたんだよ。 小田原にも大きな工場がたてられるようになって、しごとのために小田原にひっこしてくる人もふえたんだ。 それから、昭和39年(1964年)になると、新かん線が通って、小田原にも停車するようになったよ。たくさんの人が小田原に集まるようになったんだよ。 そのころの子どもたちは、外で遊ぶことが多かったなあ。野球をしたり、メンコやベーゴマで遊んだり、近所の子どもたちが、みんないっしょに遊んでいたものだよ。 電気せい品がくらしの中に出てきて、カラーテレビを初めて見たときはびっくりしたなあ。
40年くらい前の小田原のようすとくらし
お父さんの話
子どもの遊びにもきかいで作られたものがふえてきて、コンピューターゲームがはやって、むちゅうになって遊んだなぁ。昔よりも家の中で遊ぶことが多くなったかもしれないね。小田原のまちでは、小田原駅の東口がせいびされて、小田原地下街もできて、多くのお店やお客さんで駅のまわりはとてもにぎわっていたよ。
お祭りで聞こえてくる「おはやし」は、市内のさまざまな地区で受けつがれています。多古地区(足柄小学校学区)でも、「小田原ばやし多古ほぞん会」の人びとが、おはやしを大切に守り続けてきました。
多古公民館では、月に3回ほど小学生や中学生、高校生が集まって、たいこやふえの練習をしています。えんそうのしかたは、おはやしをえんそうできる大人の人が教えてくれます。ほぞん会の人びとは、地いきのお祭りのほかにも、さまざまなもよおしものにさんかしています。
おはやしを教えている下田さんの話
わたしは、小学生の時にたいこを始めました。おはやしは、地いきの先ぱいから習っておぼえました。今は、わたしが教える役です。練習会では、子どもたちと向かい合ってたいこのリズムを教えています。たいこがたたけるようになった上学年の子どもには、笛のえんそうもおぼえてもらいます。おはやしをおぼえるには、笛のメロディーが大切なのです。ほぞん会では、大人も子どもも、いっしょになって長い伝統のある「小田原ばやし」を守っています。
人びとの生活が変わってきて、おはやしやお祭りに対する考え方も、むかしとは変わってきています。これから大人になっていく子どもたちが、地いきで守られてきた「たからもの」に、きょう味をもってくれるとうれしいですね。
ほぞん会の子どもたちの話
1年生のときから、上の学年のお兄さんお姉さんたちのえんそうを見ながら、たいこのたたき方をおぼえてきました。おはやしは、いろいろな曲があって、むずかしいなと思うときもあります。とくに、笛のえんそうをするには、長い楽譜をおぼえなくてはいけないので、たいへんです。でも、お祭りや大きな発表会で、練習したことがきちんとできると、ほっとします。自分たちのえんそうをたくさんの人にきいてもらえたときには、とてもうれしいです。
小田原市は、よりよいまちになっていくために、すんでいる人や、はたらいている人、学校に通っている人など、地域のみんなと市がいっしょになってまちづくりをしています。
そこで、3つのまちづくりの目標を立てています。
①生活の質の向上
生まれてからずっと幸せと安心を感じられるまち、子どもたちが夢や希望をもって成長できるまちをめざします。
②地域経済の好循環
小田原の商売が活発になるように国内外から人や会社が集まるまち、四季を通してにぎわいが生まれるまちをつくります。
③豊かな環境の継承
自然環境と市民がともに生きるまち、気候変動にも対応した災害に強いまちをつくります。
めざすまちのすがた「世界があこがれるまち“小田原”」
「世界があこがれるまち“小田原”」にするために、すんでいるみんなが「小田原が大好き!」と言えるまちとすること、そして、自分のすんでいるまちのことを「大好き!」と言えるあなたのことを見て、世界中から「小田原ってすてきなまちなんだ!」と思ってもらえるようなまちをめざしていきます。
〈市の取組の一部〉
「SDGs」ってなに?
「わたしたちがずっと地球にすみ続けることができる方法で行動しよう」と2015年に世界193の回で、17の目ひょう(SDGs)を作り、2030年までの達成を目指しています。
小円原市は2019年に同からSDGs未来都市として認められ、市民のみなさんと協力して、身の回りにある問題のかいけつに向けて様々な取組を行っています。
わたしたちは、毎日、家でも学校でもたくさんの水を使っています。
じゃ口から出てくる水道水は、川の水とくらべるとずいぶんちがうことがわかります。
わたしたちの使っている水は、酒匂川を流れる水(表流水)を集めてきれいにしたものです。
浄水場では、どのようにして水をきれいにするのでしょう。
小田原市には、高田浄水場でつくられた水のほかに、次のような水道の水を使っている地区もあります。 ゆう水や井戸水による水道・・・小田原市には、ゆう水をためたり、深い井戸をほったりして水を引き、消毒して配水池から水を配っている地域があります。また、小田原市には地下水がほうふな地区が多く、水道のほかに井戸水も利用している家庭が多くあります。中には、さい害の時に使えるようになっている井戸もあります。 県営水道・・・橘地区で使われている県営水道は、県の水道局がとりあつかっている水道です。 相模川の水を取り入れて、高田浄水場のしくみと同じ方法できれいな水をつくっています。
生活の中で、何にどれくらいの水を使っているのか、調べてみました。
ダムはどのようなはたらきをしているのでしょう。
わたしたちが使っている水のみなもとには、三保ダムによってできた丹沢湖があります。
ダムの係の人の話
三保ダムは、高さが95メートルあり、小田原市の水道を使う人たちのおよそ2年分の水をためることができます。このダムは、洪水をふせいだり、水道の水をかくほするために川の水量を調整したりしています。ここから流された水は、飯泉の取水せきで取り入れられて、小田原市のほかに遠く横浜市や川崎市へも送られています。
森林はどのようなはたらきをしているのでしょう。
水をたくわえる水源林
森林には、ダムと同じように水をたくわえるはたらきがあります。森林は、雨水を土の中にたくわえ、少しずつ川に流しています。そのため、長いこと雨がふらなくても、川には水が流れています。また、たくさん雨がふっても、森林の土の中に雨水をたくわえ、いちどにたくさんの水が出ていかないように、洪水をふせぐ役目もしています。このようなことから、森林は「緑のダム」とよばれています。
しかし、最近では森林があれてきているので、このままでは緑のダムとしてのはたらきができなくなるかもしれません。そのため、小田原市内には森林を守る活動に取り組んでいる市民団体があります。
森林を守る活動に参加している人の話
わたしたちは、「ブリの森づくりプロジェクト」に参加している団体です。計画的に森林の手入れや調査をしたり、市民のみなさんによびかけて、間伐の体験会や自然観察会を開いたりしています。(間伐・・・木がよく育つように、ほどよく木を切ること)県の水道局も、わたしたちの活動に協力してくれます。わたしたちにとって大事なはたらきをしている森林を大切に守り、育てていきましょう。
これからの水の使い方について考えてみましょう。
市の水道局の人の話
1936年(昭和11年)に初めて小田原に水道をひいたときの給水人口は3万5千人でしたが、今では、約17万人へと広がりました。(※給水人口…市の水道を使っている小田原市民の数)水道局では「おだわら水道ビジョン」という計画をつくり、市民のみなさまへいつまでもおいしい水をおとどけできるように、高田浄水場など、さまざまな水道しせつを整えて守ってきました。また、おおむね3年を目安に計画の内容をかくにん、よりよいしせつとなるよう計画の見直しを行っています。
わたしたちが、毎日自由に水を使い、安心して水が飲めるようにするために、多くの人が仕事をしています。また、たくさんのお金もかかっています。(水1㎥をつくるのに135円一今和2年)わたしたちにとって1日もかかせない大切な水を、これからどのように工夫して使ったらよいか、話し合ってみましょう。
市の水道は、どのように広がっていったのでしょう。
水道ができる前、市の人びとは井戸を使って飲み水を手に入れていました。水道は、今から80年ほど前に初めてひかれましたが、始めのころは、井戸や小田原用水を利用する人が多く、申しこむ人は少なかったそうです。しかし、50年ほど前から、家や工場がふえはじめ、井戸をたくさんほるようになってからは、水の量が少なくなったり、流れ出なくなったりしました。また、伝せん病をなくすためにも必ず消毒された水道を使う必要がでてきました。その結果、多くの人が水道を利用するようになりました。
わたしたちが使った水は、下水として下水管を通ってしょ理場へ集められます。下水は、下水しょ理場できれいにされて、最後は川や海に流されます。
下水道のはたらき
①川や海がよごれないようにする。
②水洗トイレを使えるので、きれいで快適なくらしになる。
③雨水から家や道路を守る。
水再生センターの人の話
わたしたちが使った水は、はじめは近くの川や海にそのまま流していました。川や海は、「水をきれいにする力」をもっています。しかし、使う水の量がふえたので、川や海の力だけでは水をきれいにすることくができなくなりました。水のよごれがひどくなると、魚や水辺の生物が住めなくなったり、川の水を飲み水として使えなくなったりします。水再生センターでは、よごれた水をあつめてしょ理し、自然にもどす役目をしています。下水しょ理場では、自然がもっている「水をきれいにする力」と同じように、とても小さな生き物の力をかりて水をきれいにしています。
市内には、まだ下水道がつくられていないところもあります。そのようなところでは、使った水を家の外のみぞに流しています。よごれをとる自家浄化そうを使っていても、完全にはきれいにならないので、川の水がよごれる原因のひとつになっています。そこで、下水道は小田原駅周辺からしだいにほかの地いきにもつくられるようになり、だんだんと広がってきています。
市の下水道せいび課の人の話
下水道をつくるには、たくさんのお金がかかります。また、ほかの市や町の協力がないと、わたしたちの飲み水になっている酒匂川の水は、なかなかきれいになりません。そこで、県では、酒匂川流いきに下水しょ理場を2カ所つくりました。酒匂地区は1982年(昭和57年)にできあがり、扇町地区も1997年(平成9年)にできました。この下水しょ理場は、小田原市をはじめ10の市と町で利用しています。
家や学校などからは、燃せるごみや燃せないごみ、かんやびん、ペットボトルなど、いろいろな種類のごみが出されます。小田原市では、ごみの分け方や出し方、出す日などのきまりを作って、これらのごみを集めています。ごみは、係の人がしゅう集車で集め、環境事業センターに運びます。
市の係の人の話
ごみをきちんと集めるために、ごみを出してもらう時間や集める道じゅんを決めています。集める時にこまることは、ごみの分け方や出し方のきまりを守らないで出されたりふくろがやぶれ、カラスなどにあらされて、ごみがばらばらに散らかってしまっていたりすることです。みんなが気持ちよく生活をするために、一人ひとりがきまりを守ってごみを出してほしいですね。また、台所からの生ごみは、水をよくきって出すなど、少しの工夫をしてもらうことで、ごみの量はもっとへっていきますね。
燃せるごみのしょ理
環境政策課の係の人の話
小田原市ではみなさんがごみを出すときに、9種類のごみにこまかく分けて出してもらっています。あきかん・あきびん・紙・布・ペットボトル・トレー・プラスチック類など、「資源」として再利用できるものをほかのごみと別にして出してもらい、それを再び利用する「リサイクル」を進めています。このようにすることで、今まで燃やしたりうめ立てたりしていたごみも資源として生かすことができ、燃やすごみの量自体がへるので燃やした後に出る灰もへらすことができます。さらに、かぎられた資源の節約にもつながりますので、市では市民のみなさんに資源を生かすことへの協力をよびかけています。また、「リサイクル」のほかにも、ごみ自体を出さないように努力する「リデュース」、使いすてをやめてものを何度もつかうようにする「リユース」を心がけることも、ごみをへらすためにとても大切なことですね。みんなで心がけていくことで、必ずごみをへらしていくことができます。
小田原市では,平成9年度からごみの分別方法が変わりました。分別され集められたごみは「焼却(燃やす)」「資源化(リサイクル)」「うめたて」されます。
市内から集められたペットボトルは、環境事業センターの中にあるペットボトルをしょ理するしせつに送られます。このしせつには、年間約760トン(1トンでペットボトル約3万5千本分)ものペットボトルが集められ、とくに、夏の時期はふだんの倍の量になるそうです。キャップをはずしたペットボトルは、機械で約700本分をまとめてつぶして固められます。一つあたり、約20kgのペットボトルのかたまりがたくさん作られ、せん門の業者に引き取られて加工され、ふたたびペットボトルや別の新しいせい品になります。
係の人の話
小田原市ではペットボトルをごみとして出すときに、中をよく洗い、キャップをとるルールになっています。しかし、10本のうち3本ほどはキャップがはずされずに出されています。そのようなキャップは係の人がすべて手作業ではずさなければならず、その数は一人で5000こ近くにもなります。また、ペットボトルとして出されたごみ袋の中に、かんや、びん、時にはほうちょうなどのきけんなものが入っていることも少なくありません。みなさんにはルールを守って正しくごみを出してほしいですね。
せい品によって原料となるペットボトルの量はちがいますが、学校で使うものでは、じょうぎやペン、ランドセルや体育で使うマット、ボールネットなどにもなります。また、糸にもなるので、シャツや手ぶくろ、バッグなどにもなります。ペットボトルにかぎらず、かんやびんはもちろん、新聞紙やざっしなどの紙類、トレーやかん電池、テープなど分別して集められたごみの多くが資源として再利用されています。
ごみをへらすために、わたしたちができることは何か考えてみましょう。
小田原市でとりくんでいる5R
神奈川県内でおきた交通事故や事件などを知らせる110番の電話は、すべて横浜市にある警察本部の通信司令室につながります。小田原警察署では、小田原市のほか、箱根町、真鶴町、湯河原町も受け持っているので、これらの市や町で事故や事件が起きたときにも、通信指令室から主に無線で連らくがはいります。そこから連らくを受けた小田原警察署は、すぐに交番や駐在所、パトカーに連らくします。連らくを受けた警察官は、急いでその場所へかけつけます。
警察の人だけでなく、学校や市役所、交通安全協会、地いきの人たちなど、たくさんの人たちが、協力し合って、交通事故をふせぐために努力しています。
わたしたちの生活を守る仕事について、下の写真を見て話し合いました。
わたしたちのまちの消防しせつを、調べてかいてみましょう。
学校にはどのような消防しせつがあるか、調べてみましょう。
その他の学校の防火しせつ
「119番」のしくみはどのようになっているのか、調べましょう。
①火事か、救急か、はっきり伝える。
②場所を伝えるときは、番地のほかに近くの目印も伝える
③もえているものは何かを伝える。
交通事故、事件のときは、110番(警察署)
火事、病気やけがのときは、119番(消防署)
海の事故のときは、118番(海上保安庁)
消防署の人の話
119番通ほうは、消防本部消防指令センターにつながります。消防指令センターからは市内すべての分署や消防団、警察署、市の水道局などに、火事が起きたことが連らくされます。(火事の場所に近い消防署や消防団がすぐに消火に向かえるよう消防指令センターから指示がでます)小田原市では市内のどこで火事が起きても消防車が到着できるように、5つの消防署、分署、出張所が配置されています。
働く人の仕事のようすや、しせつを調べよう。
消防署の仕事にはどんなものがあるか調べよう
消防隊の人の話
消防隊は火災の通ほうを受けて出動します。いつでも出動できるように、交代しながら24時間待機しています。火災の現場は大変きけんです。ヘルメットや消火服などそう備を身につけて消火にあたります。火災の消火などのほかに、地いきの消防団の訓練や総合防災訓練なども協力しておこなっています。
レスキュー隊の人の話
消防署には事故の連らくも入ります。事故や災害で建物や車などに人が閉じこめられてしまうことがあります。そういう人たちを救助するのがわたしたちの仕事です。つぶれた車体を押し広げる機械など、特しゅな道具をそなえています。また、高いところからの救助などさまざまな場面を想定して訓練をつみ、いつでも救助のために出動できるようにそなえています。
救急車の仕事(令和4年消防年報)
救急隊の人の話
救急隊は事故や災害などの連らくを受けた時にすぐ出動できるように待機しています。救急車にはけがをした人や、具合の悪くなった人を乗せるためのじゅんびがしてあります。救急隊の仕事は病気やけがの手当てを学んだ消防隊員がおこなっています。救急車は消防指令センターや各地の病院と連らくが取れるようになっていて、できるだけ早くけがをした人や具合の悪い人を病院へ運びます。
まわりの市や町とどんな協力をしているでしょう。
神奈川県では、火事が起きると火事の場所や大きさによって、となりあっている市や町がお互いに協力し合って消火にあたる約束をしています。例えば、箱根町や二宮町で火事があれば、小田原市からおうえんに出ることもあります。また反対に小田原市で火事があれば、箱根町や二宮町がおうえんに来ることもあります。
消防署の人の話
小田原市消防本部では、平成25年3月31日から小田原市のほか、南足柄市、中井町、大井町、松田町、山北町及び開成町の2市5町で活動しています。これを広いき消防といいます。
小田原市消防本部には10の消防署があり、火災などの災害が発生したときには、小田原市だけでなく、多くの消防署から消防隊が出動します。
「出動」がないときは
出動がないときは、消防しせつの点検や火災・救急の救助訓練などをしています。火災予防のよびかけや、地いきで行われる消火訓練を指導するのも大切な仕事です。消防署には24時間いつでも出動することができるように、消防署員が交代でねとまりしています。
ひ害のようす1923年(大正12年)9月1日(現在の小田原市のはんい)
しん災を体験した杉本萬吉さん(当時12才)の話
関東大しん災体験記録集より(山王網一色地区自治会・公民舘)
地しんの後、何分、何十分たってからか分かりませんが、小田原の町中は大火事でした。それはそれは大変なさわぎでした。火事で竜巻が起こったのです。その竜巻のためにいろいろなものがふき上げられてとんでくるのです。トタンなどが火の粉とともに、とんできました。真っ黒なけむり、赤いほのお、おそろしいかぎりでした。
神奈川県西部地しん説
小田原市の周辺では昔から大きな地しんが起きていました。これからも大きな地しんにそなえる必要があります。
小田原市では災害のためにひ害を受けるおそれがあったり、ひ害を受けたりした場合にそなえて、市民によびかける防災ぎょうせい無線や海からのひ害をふせぐための防潮とびらなど、市民の安全のためにそなえています。また学校など市内のしせつに海ばつ(海面からの高さ)の表示をとりつけたり、津波がおきたときにひなんできるしせつを表示したりしています。
防災対策担当の人の話
小田原市の小学校・中学校は地しんにたえられる建物なので、その多くが広域避難所になっています。またいざというとき市民にわたせるように、小学校・中学校などに、食料や水など、必要な品物をたくわえています。さらに小田原市では、市内を8地区に分けてハザードマップを作っています。このハザードマップでは、地いきごとの避難場所や避難けいろなどのかくにんができるようになっています。ハザードマップは地いきやかく家庭に配布しています。
地しんは、いつやってくるかわかりません。もしひ害にあってしまったら、地いきの人がおたがいに協力して、ひ害をできるだけ大きくしないようにすることが必要です。火事を起こさないよう火のしまつをし、けが人を救助して安全な避難場所へ集まれるように日ごろから訓練していただきたいと思います。
小田原市ハザードマップ
わたしたちの学校は、災害があったときに地いきの避難所になります。けがをした人が大勢いた場合は仮設救護所もつくられます。小田原市では小中学校の防災倉庫に、災害時に使う道具などを保管しています。
自治会長さんの話
自治会では災害などにそなえて、訓練や用具の準備をしています。災害の時は、小田原市が広域避難所を開くまで、自治会で避難場所をつくります。私たちの自治会は、助け合って災害をふせぐため、「防災会」(自主防災組織)をつくりました。「防災会」では、連らく係、消火係、救出係などの役割を決め、地いきの人々の安全を考えています。
また、いざという時に、落ちついて行動できるように、消火訓練や救護訓練、避難訓練などをしています。さらに自治会では、薬、ロープ、バール、のこぎり、なた、スコップ、たんかなどを用意しています。食料などは地いきにある商店にたのんで、ひ害を受けた時に協力してもらえるようにお願いしてあります。非じょう時にはどのように情報を得るのかが問題です。FMおだわらのような地いきの放送局に期待しています。また、地いきの情報収集手段として無線を配備し、何があった時は消防団の情報もあわせて、すばやく活動できるようにしています。
小田原市では市と自治会そしきを中心にして,消防署、警察署、自衛隊、水道局、電力会社、電話会社、建設団体などと協力して大災害に対する訓練をしています。災害はいつ起きるかわかりません。そこでいざという時の助け合いができるように、防災訓練を学校で行う地いきもあります。
学校で訓練に参加した中学生の話
火事の時に役立つように、消火器の使い方を習いました
火事の時は「まず落ち着くこと、火事を大声で知らせること、消火器はしっかりレバーをにぎること」を習いました。非じょう用食料が炊き上がって、アツアツのごはんができたときはうれしかったです。食べてみると、味がうすかったけど食べられました。でも、こういう食事ばかりだときびしいなと思いました。避難生活は、大変だなと思いました。
石碑にきざまれている話
この石碑は、荻窪せぎの記念碑です。
このせぎをつくるときに、中心になって働いた川口広蔵をしのんで、荻窪の人たちが建てたものです。このせぎは、今から200年ほど前に、苦労してつくりあげたといわれています。湯本から早川の水を引いて、荻窪などの田に使われてきました。
荻窪村は山のふもとにある村です。水が足りずに,あまり米ができなかったので,おもに畑で,おかぼや麦,粟などをつくっていました。また,村の人たちは,農業のあいまに,山でたきぎをとって小田原のまちに売りにいき,くらしの助けにしていました。そのため,村の人たちは,田を開いて,米をもっとつくりたいと願い続けてきました。「水があったら,たくさんの米がつくれるのに。水がほしい。」ということが,村の人たちの長い間の願いだったのです。
そのころ(今からおよそ300年前),小田原に大きな地しんが起こりました。その地しんで,わずかにわき出る水を集める村の水路がこわれてしまいました。また,同じころ、富士山がふん火して,畑にも灰があつくつもってしまいました。このため,畑はあれはてて,荻窪村の人たちのくらしは,ますます苦しくなってしまいました。
家の戸がすさまじく音を立て,雷のような音が鳴りひびき,あられかと思うと黒石まじリの軽石が降ってきた。夜の八時すぎから砂が降りはじめ,次の日の二十四日になると雷をまじえて大雨のように降った。昼間であるにもかかわらず砂煙で夜のようになり一日中暗かった。
▲1707年(宝永4年)11月23日富士山のふん火のようす
(足柄下郡小船村一現小田原市小船の名主さんの記録から)
ところが、このころの農家の人たちは、村をおさめていた役所(小田原藩)に、年貢(税金)として、おもに米をおさめなければなりませんでした。人々のくらしは苦しくなるばかりでした。
「水がほしい。」と、願い続けた荻窪村の人たちでしたが、用水をどこからどのように引いたらよいかわかりませんでした。川口広蔵は、今の山北町に住んでいました。広蔵は、山北の瀬戸せぎをつくる工事を手伝ったことがあるので、そく量や土木工事などの高い技じゅつを使う、用水路づくりの方法を知っていました。あるとき荻窪村にきた広蔵に、村の人たちは自分たちの願いを話しました。話を聞いた広蔵は、荻窪村に用水路をつくり、水に困らない米づくりのできる村にかえたい、村人が安心してくらせる土地にしたいと考えました。村の人たちと力を合わせて用水路づくりをしようと決心した広蔵は、さっそく荻窪村のまわりの山や谷を調べ始めました。
その結果、早川の上流の湯本から水を引き入れる水路をつくり、山にトンネルをほれば、荻窪村まで水を引くことができると考えました。この計画を広蔵は、村の人たちに話しました。村の人たちは、水の取り入れ口が速いうえに、その間に山がかさなり、谷や沢が深いので無理ではないかと反対しましたが、それでも力を合わせて、この大仕事をやってみようということになりました。
広蔵は、村の代表者とともに工事の願いを小田原藩に出しましたが、あまりにも大きな計画だったため、なかなかゆるしが出ませんでした。しかし、村人たちの強い願いと、米の生産を高めることにも役立つということで、ようやくゆるしが出ました。さっそく、広蔵は、小田原藩のえんじょを受けて村の人々とともに工事のじゅんびにとりかかりました。
工事は、水路を決めることから始まりました。早川の水の取り入れ口と、荻窪村がわの出口の高さの差を考えて、用水路の道すじを決めなければなりません。しかし、計画の道すじには山がおりかさなるように続き、深い谷や沢がたくさんあるのです。
用水路の高低をはかるのには、予定した場所に板やすげかさをならべ、むかいの山から見通して旗をふってはかりました。夜は、旗のかわりに、ちょうちんを使いました。また、水路が谷や沢をこえるところは、板でといをつくり、橋のようにしてわたす工夫をしました。
このような苦心のすえに、はばが90cm~180cm、長さがおよそ10.3kmの用水路の道すじを決めました。
そして、その長さの間に、短いものをふくめると40以上ものトンネルをほりぬくということも決めました。
トンネルほりも、たいへんな苦労でした。じしゃくで方向を、水準器でかたむきを調べながらほっていきましたが、ほりまちがえてしまったときもありました。
トンネルの中はまっくらなので、がんどうやカンテラなどをあかりにしました。トンネルをほる道具は、石のみとつち(ハンマー)だけです。石のみを岩にあて、つちでたたきくだいていきました。くだいた岩は、もっこで外に運び出すのです。かたい岩ばかりの烏帽子岩トンネルは、ほるのに1年以上もかかりました。
カンテラなどの油として、およそ70l入りのたるを13たる(ドラムかんで約5本分)も使ったといわれています。
また、土がやわらかいところの水路づくりは、水がもれたり土手がくずれたりするので、土台を石がきて固めました。そして、その上に箱せぎをつなぎ合わせて、水を通しました。
こうして始まった用水路づくりでしたが、むずかしい工事やさい害(ききんや大雨や日照りなど)が続いて、計画よりたいへんおくれてしまいました。工事が長びくにつれて、完成をうたがう人や仕事をやめる人も出てきました。
また、村の人たちからは、ほった土や岩が雨で流されてきて、山があれてこまるといううったえがあったり、寺からは、しき地の中に用水路を通すのはこまるという反対があったりしました。
さらに、広蔵がもっともたよりにしていた協力者の弟子のひとりが、工事中の事故でなくなってしまうということもかさなりました。
そのうえ、工事のとちゅうに、このあたりで、ききんや大雨によるこう水など、思いがけないできごとが次々におこりました。そのため、小田原藩からの工事のえんじょもとだえがちとなりました。こうして、工事は計画よりもおおはばにおくれてしまったのです。
小田原藩のえんじょと広蔵や村の人たちの苦労と努力によって、この大工事も、ついに完成しました。長い間の願いがかなって、用水路に早川からの水が流れでたとき、人々は、手を取り合ってよろこびました。荻窪村はもちろん、用水路ぞいの村々(湯本・入生田・風祭・板橋・水之尾など)のあれ地に水田が開かれ、米づくりができるようになったのです。(用水を村々に分けるために、8つの水門と水路をつくりました。) 6つの村の人々は、次々に田をふやし、やがて、合わせて58haほどの新田ができました。用水路が完成してから70年後には、荻窪村の水田はおよそ2.5倍にもなったそうです。また、用水を利用して水車をまわし、米つきなどもできるようになりました。こうして、広蔵は、大工事をやりとげたはたらきによって、小田原藩から毎年5俵ずつの米をあたえられるようになったということです。
360年ほど前
1659年(万治2年)
140年ほど前
1876年(明治9年)
荻窪の人々は、今でも春と秋のお彼岸には、「広蔵念仏」をとなえるために集まったり、お墓まいりをしたりして、広蔵や村の人たちの苦労をわすれないようにしているようです。
荻窪用水は、その後、水路などのしゅう理や改良をくわえながら、ずっと利用されてきました。
ところが、今からおよそ100年前におきた大地しんによって、用水路は、すっかりこわれてしまいました。
しかし、用水路ぞいの村の人たちは、県の助けをかりて、用水路をしゅう理したり、つくりかえたりして、水をとり入れられるようにしました。
このため、つくりなおす前のようすとちがっているところが見られます。その1つが、用水の取り入れ口です。
用水の使い方も、昔とくらべて変わってきました。昔は、おもに米づくりや水車を回すために使っていました。今では、そのほかに、みかんづくりや発電、ぼう火用水、はい水路などにも利用されています。このように、荻窪用水は、今も用水路ぞいの多くの人たちに使われているのです。また、平成23年には、きちょうな「土木遺産」としてにん定されました。
酒匂川は、富士山や丹沢の山々のふもとから流れ出したたくさんの川(支流)の水を集め、足柄平野の中央を流れています。その水は米づくりや水道水などに利用されています。
この川は、川はばがおよそ200m~300mと広いわりに、ふだんは水かさが少なく、河原が多く目立ちます。人々の生活をささえてきた酒匂川ですが、ひとたび大雨がふリ続くと、急に水かさがふえて、川はばいっぱいにものすごいいきおいでうねりながら流れる川に変わります。このように、酒匂川は、変化のはげしい川としても知られています。
むかしの酒匂川
江戸時代の酒匂川は、大雨が続くと、ていぼうがよく切れて、こう水となりました。そのたびに田畑はあらされ、ひどいときには、人や家まで流されました。このような酒匂川のこう水は50回以上もあったといわれています。
大口土手(文命堤)のこう水〈南足柄市〉
このていぼうは、今の南足柄市にあり、およそ400年ほど前に(小田原城主の大久保氏によって)つくられ、大口土手といわれていました。この土手が大水で切れると、川の西がわの21の村が水害をうけ、東がわの16の村は水不足になって、米づくりができなくなり、人々が苦しむもとになっていました。この土手は酒匂川でとくに重要なていぼうと言えます。今から300年ほど前(1708年)の大こう水は、とくにひ害が大きく、6つの村が流され、酒匂川の川ぞこになってしまうほどのひどさでした。このため、やく500けん、およそ2800人の村人たちは、家と田畑を失い、約20年間もよその村でひなん生活をおくることになってしまいました。人々はそまつな小屋に住み、また、ひなんした所には、前の年にふん火した富士山からの火山灰がたくさんつもっていたので、畑をつくるのもむずかしく、食べ物にもとてもこまりました。不自由な生活をつづけ苦しむ人々は、そのようすを江戸(今の東京)の幕府の役人にうったえています。
さらに、1711年には、大口土手が切れる大こう水がおきました。あまりのひ害の大きさに、幕府は、川崎の田中丘隅という人に命じて土手をつくりかえ「文命堤」と名づけました。しかし、しばらくすると、これも切れてしまうほどのこう水(1734年)が起きて、土手をつくり直さなければなりませんでした。その後、この土手は切れなくなりましたが、これよりも下流の土手がよく切れて、村々に大きなひ害をもたらしました。
三角土手のこう水
この土手は、川音川が酒匂川と合わさる所にあって、川の東がわの村々は、近くから水を取り入れて米づくりに利用していました。今からおよそ290年ほど前に起きたこう水では、ここから鬼柳村までのていぼうが切れて、16の村がひどいひ害をうけました。特に西大井、鬼柳、桑原、成田の4つの村は、田や畑ばかりでなく家まで流され、あれ地となってしまいました。村の人々は近くの村でくらしましたが、食べものも着るものも十分でないくらしに、なやみ苦しみました。
そこでかつやくしたのが蓑笠之助という人でした。田中丘隅のあとをついで酒匂川の工事をまかされた蓑笠之助は、川音川と酒匂川の合流点の東側に大きな土手をつくる工事の中心となりました。この大きな土手が今の三角土手のきそとなり、川の東がわの村々がこう水にあうきけんがへりました。
江戸時代になり、酒匂川の両岸にはていぼうが多くつくられるようになりました。しかし、ひとたび大雨がふり続くと、村々の人はみんなで協力して、ていぼうが切れないように守らなくてはなりませんでした。
今からおよそ230年ほど前の1791年の大水の時には、多古のていぼうが切れて、多古、井細田、池上、中島、今井、町田、山王原の村々が水害をうけ、人々のくらしがおびやかされました。また、この時、栢山のていぼうも切れてしまい、あたり一面の田畑は水びたしになってしまいました。しかし、その後、村の人たちは力を合わせて、ていぼうをなおす工事にとりかかりました。その中には、二宮金次郎もいました。まだ少年だった金次郎も、村の力になろうとこれにくわわって仕事をしたといわれています。
大水のいきおいでていぼうがくずれそうになると、竹であんだ細長いかご(じゃかご)に石をつめて土手にならべたり、土手にはえている木を切って、川の強い水の流れにあてたりしました。しかし、あまりにも水のいきおいがはげしく、ふせぎきれずに、ついに土手が切れてしまうこともありました。
そこで、ていぼうのところどころに切れ目をつくり、二重にかさなるていぼう(かすみ堤ともいいます)をつくっていきました。こうすることによって、ていぼうにそっていきおいよく流れてきた水は、切れ目にくると力がちらばっていきおいがよわまり、ていぼうとていぼうの間に流れこんで大きなよどみ(水たまり)をつくります。このようなよどみをいくつかのていぼうの間につくって、川の流れのいきおいをよわめる工夫をしました。
かすみ堤のしくみ
①酒匂川に大水が出ると、かすみ堤(二つのていぼうの間)に水が入ってきます。(遊水池になります。)
②川に近いていぼう(本ていぼう)をこえてきた水も遊水池に入ってきてたまります。
③酒匂川の水がへってくると、遊水池に入った水は川にもどっていきます。こうすることで、こう水などのひがいを少なくすることができます。
今でもこのようなていぼうは、酒匂川でいくつか見ることができます。また、最近の台風などによる大水の時にもその役わりをはたしています。
このように、水を治めるたたかいが、私たちのそ先の知えと努力によって、むかしから続けられてきました。しかし、一方で、生活にめぐみをもたらす川としての酒匂川を大切にしてきました。
今も見られる酒匂の二重堤防(かすみ堤)
写真右側の松があるあたりが本ていぼうとなっていて、そのむこうに酒匂川が流れています。
写真左側の松があるあたりが、ひかえていぼうになっています。写真中央には小田原アリーナが見えます。
酒匂川ぞいを歩いてみると、私たちのそ先から今まで、酒匂川とともに生活してきたことがわかるものにたくさん出会います。
酒匂川の近くや土手には、さまざまな時代のさまざまな人がたてた石碑やお地蔵様、水神様があります。それらには、酒匂川のこう水の苦しみをのりこえようと努力し、安全で安心した生活をのぞんだ当時の人々の強い願いがこめられています。
みなさんも近くにあるお地蔵様や水神様にこめられたねがいや、石碑にきざまれた地いきの歴史を調べてみてはどうでしょうか。
昔の久野川は、曲がりくねって流れていました。大水になると、たびたび水害をおこして田畑をあらし、村の人々を苦しめてきた川でした。
今からおよそ100年前(1923年)に、関東大震災がありました。家や道などがこわれただけでなく、川のていぼうもくずれてしまったので、村の人々は、久野川耕地整理組合をつくり、これをなおす工事に取りかかりました。
工事は、1924年12月に始まり、7か月ほどで完成しました。川になるところを2mほり下げて、長さおよそ2kmのまっすぐな新しい川をつくっていきました。ほり出された土や石は、昔からの川のうめ立てやていぼうづくりに使いました。
この工事で苦労したのは、費用のことでした。国から出るお金がへらされたため、足りない分は銀行からお金をかりて、組合の人たちはそれを毎年返していきました。
そのため、役員の人たちはとてもつらい思いをしてきました。
左の写真は、兎河原橋のたもとに置かれ、川づくりに努力した先人を伝える碑です。その碑には、川のはんらんに苦しめられてきた歴史と、新しい川づくりに立ち上がり完成させた先人のがんばりがかかれています。また、曲がりくねった昔の久野川と、直線状になおされた新しい久野川とが図で示されています。
その後の久野川は、水害の心配のない川になり、まわりの土地もひらけてきました。
久野川の下流の山王川も、昔は、曲がりくねって流れていたために、大水のたびにていぼうがくずれました。橋が流されたり、田畑があらされたりして、人々をこまらせた川でした。
この川も、関東大震災がきっかけとなって、村の人たちが山王川耕地整理組合をつくり、川と田畑の形をなおしていきました。工事といっしょに、通路や水路もなおす、村づくりも行いました。川づくりは、8か月ほどの工事で1925年に、田畑や道路・水路づくりは1927年に完成しました。しかし、この工事にもたいへんな費用がかかりました。組合員は、工事費のやりくりと、川や田畑・道路や水路をつくりなおすのに必要な土地のやりくりに苦労と努力をかさねました。これがみのって、水害のない、形のよい田畑と道路がととのった、農業のしやすい地いきにかわりました。
このような像をどこかで見かけたことはありませんか。これは二宮金次郎の像です。
二宮金次郎は今から230年ほど前に栢山に生まれました。少年のころ、酒匂川のこう水で田畑が流されてしまいました。父母はその後の苦労などが重なりあいついでなくなってしまいました。
しかし、金次郎は希望を失わず努力を重ねて良く働き、まずしかった家をりっぱに立て直しました。
そして、全国で600ものまずしい村をゆたかな村につくりかえる仕事をなしとげるなど、人々の幸せのためにつくした人です。
金次郎は病気の父のかわりに酒匂川のていぼうを直す仕事に出ましたが、大人のように働けません。その分、夜にわらじをあんで村の人に使ってもらいました。また、松苗売りのおじいさんが売れなくてこまっているのを見て、金次郎は子守りでかせいだお金で松苗を買いました。 そして「洪水がおきそうな時に、松を切りたおしてならべれば水の勢いを弱められるだろう。」と考え、酒匂川のていぼうに植えました。このように、少しでも人のためになるように考えて実行しました。
13才で父を、15才で母をなくした金次郎は、おじさんの家にあずけられました。夜、勉強するには明かりに使うあんどんの油が必要です。そこで一握りの菜種を仙了堤にまいたところ、次の年の初夏には約7升(12.6ℓ)のしゅうかくがありました。それを菜種油に代えて勉強を続けました。
また、田植えの時にすてられた苗を拾い集めて、あれ地をたがやして植えました。
そして、秋には1俵(約60kg)を次の年には5俵の米をしゅうかくしました。「小を積んで大となす」(積小為大=小さい事を積み重ねて、やがては大きいことを成しとげる)という尊徳の教えは、このような自然の力を生かす工夫と努力から学んだといわれます。
博物館の館長さんの話
金次郎(尊徳)は小田原のとの様大久保忠真に、桜町領(今の栃木県真岡市)の立て直しを命じられました。そこの村々は、田畑もあれはて村人の心もすさんでいました。金次郎(尊徳)は家や田畑を売りはらい一家で桜町にうつり住み、村の立て直しに当たりました。まず、その村の土地のようす、水の便、気候、村人のくらしぶりをたんねんに調べました。そして、米の取れ高を調べて、との様に年貢(お米ではらう税)を低くおさえてもらい、余ったしゅうかくの分は村の立て直しに使うようにしました。そして、毎日まだ暗いうちから起き、村を回って早起きをすすめ、作物の育ち、田畑の様子を見て回りました。また、よく働く者には米や農具をあたえてほめ、村人のやる気を出させました。
また、自然のめぐみにかんしゃしその力を生かす努力の大切さを教え、むだをなくししゅう入にあったくらしをし(分度)、あまった分をたくわえ世の中のため人のために譲る(推譲)生活をすすめました。
こうした苦労と努力の積み重ねにより、10年後には桜町はゆたかな村に立ち直りました。
桜町がりっぱな村に立ち直ったことを聞き、各地より農村の立て直しの方法(仕法といいます)を学びに人々が集まりました。金次郎(尊徳)は多くの人たちを指導し、まずしい農村をゆたかにするために一生をささげました。
小田原領がききん(米が取れずうえに苦しむこと)の時、人々を救う働きをしました。そして、小田原でも、農村をゆたかにする仕事に取りかかりました。
曽比村では、冷たい地下水がわきだすために稲の育ちが悪く、村人は苦しんでいました。金次郎(尊徳)は、その冷水を取りのぞくために排水路をほらせました。この作業には老人も子どもも進んで参加したといいます。その結果、田の水の温度が上がり、今まで以上のしゅうかくをあげることができるようになりました。
上の写真の品物は、すべて小田原の伝統工芸品です。
伝統工芸品は、昔から伝わる技術やいろいろな方法で職人さんが作り上げたもので、材料は自然にあるものを使っています。
小田原市は、昔からゆたかな自然にめぐまれ、また、古くから人々の行き来が多い土地がらでした。そのような自然と歴史の中で生み出され、多くの人々によって守られてきた伝統工芸品は、全国的にも有名です。
漆器は、日本各地で作られています。小田原漆器の特色は、木の自然の木目をそのまま生かしているところです。よく使われる木はけやきで、木地職人が木を器の形にして、塗職人がうるしをぬって仕上げていきます。
小田原漆器が作られ始めたのは、今からおよそ500年前といわれています。箱根や伊豆には(木材やうるしなど)たくさんの良い材料があり、木地を作る職人が集まっていました。小田原で漆器づくりの技術が発達したのは、北条氏康の時代に、うるし職人が全国から集まってきたからだそうです。また、小田原は東海道の宿場町として人々の行き来が多かったので、生活によく使われる小田原漆器は一気に有名になりました。
うるしのこうきん作用
小田原漆器はすべて天然の原料で作られています。うるしはうるしの木のじゅ液です。 いっぱんの人はさわるとかぶれるので、気をつけてください。最近の研究で、うるしにはこうきん効果があることが分かりました。大ちょう菌などは1日たてばゼロになってしまうそうです。
うるしのよさは、①変色しない②じょうぶ③ぬり直すと新品のようになることかな。
うるしは手をかければかけるほど、すばらしいものになる。根気のいる作業だし、
温度やしつ度によってうるしのじょうたいが変わるのでむずかしいね。
今まで何千何万つくってきたか分からないけど、会心の作というものはないね。
まだまだ修行中かな。
伝統工芸士の大津さんの話
①すり(ぬり)
すりうるしをはけでぬる。
ぬりむらがないようにする。
②かんそう
風呂でかんそうさせる。
うるしは一日一回しかぬることができない。
③とぎ
よく日うるしをすいこんでけば立った木地をろくろで回し、目の細かいやすりでなめらかにする。
④仕上げ
といでなめらかになった木地の表面に、もう一度うるしをぬる。
塗師は①から④を、3回、4回・・・とくりかえす。そうすることで、だんだんと色のこいじょうぶな漆器ができあがる。
伝統工芸士の大津さんの話
小田原漆器の職人になるには職人さんに教えてもらいながら修行をしないといけません。漆器の職人になりたいという人はいるのですが、10年たってもなかなか1人前とはいきません。その間、お給料はもらえません。だから漆器の職人を育てるのは大変なのです。伝統をたやさないためにも若い職人さんを育てるための工夫が必要だと思います。また、漆器を作っていくには、木地師も塗師も続いていかなければいけません。協力して伝統を守っていきたいです。
きれいなもようですね。これらは、箱根寄木細工のせい品です。見たこと、使ったことがあるという人もいるかもしれませんね。ところでこのもようは、どうやってつけたのでしょう。筆などで線をかいたり色をつけたりしたのでしょうか。
箱根寄木細工は、江戸時代の終わりごろ、箱根畑宿の石川仁兵衛という人によって作り出されました。箱根山は、日本の中でも特に木の種類が多い地いきです。いろいろな種類の木のかけらをよせ集めてもようをつくり、それをかんなでうすくけずり、箱などにはり合せたものです。明治時代になって、技じゅつが発達して、ふくざつな連続もようが何百種類もつくられるようになりました。
主な模様
露木さんのお話
材料となる木材を集めるのが大変ですね。材木屋さんでは売っていないことが多いので、必要な色の木材が見つかったときに連らくをしてもらって買うようにしています。 また、寄木細工を作るには、いくつもの細かい作業が正かくにできなくてはいけません。ですから、一人前の職人になるには10年はかかります。 自分のイメージどおりの作品ができあがったときが一番うれしいですね。これからも、ふだんの生活の中で使ってもらえるような作品を作ったり、新しい作品にちょうせんしたりしていきたいと思います。
木象嵌
組木細工
小田原工芸鋳物
小田原ちょうちん
足柄刺繍
時代 | 年代 | おもなできごと | |
---|---|---|---|
先土器・縄文・弥生時代 | 1世紀以前 | 狩りや魚とりの生活がおこなわれる | |
1世紀 | 農耕生活が始まる | ||
大和・奈良・平安時代 鎌倉・室町・安土桃山時代 |
7世紀 | 久野に高塚式古墳が作られる | |
11世紀 | 小田原周辺で武士が登場する(村氏,土肥氏など) | ||
1180年 | 治承4 | 源頼朝が石橋山で平氏方に敗れる | |
1495年 | 明応4 | 北条早雲が小田原城をおとしいれる | |
1504年 | 永正1 | 早雲に招かれた宇野藤右衛門が秘薬「秀頂香(ういろう)」をつくる | |
1590年 | 天正18 | 豊臣秀吉が小田原を攻めて,北条氏をほろぼす 大久保忠世が小田原城主となる |
|
江戸時代 | 1703年 | 元禄16 | 江戸大地震がおこり,天守閣もこわれるほど大きな被害をうける |
1707年 | 宝永4 | 富士山が大噴火し,火山灰により大きな被害を受ける | |
1708年 | 宝永5 | 大口土手が切れる | |
1711年 | 正徳1 | 大口土手が切れる | |
1726年 | 享保11 | 田中丘隅,文命堤をつくる | |
1782年 | 天明2 | 小田原地方に大地震がおこり,大きな被害を受ける | |
1787年 | 天明7 | 二宮尊徳が栢山に生まれる | |
1799年 | 寛政11 | 小田原藩と川口広蔵の指導のもとに荻窪せぎが完成し,58町余の水田が開発される | |
明治時代 | 1871年 | 明治4 | 小田原県ができたが,その年のうちに,足柄県になった |
1872年 | 明治5 | はじめての小学校,日新館(今の三の丸小)ができる | |
1876年 | 明治9 | 足柄県が神奈川県にふくまれることになった | |
1878年 | 明治20 | 新橋―国府津間に鉄道が開通した | |
1888年 | 明治21 | 国府津―小田原―湯本間に馬車鉄道が開通する | |
1889年 | 明治22 | 小田原町となる(人口約1万6000人) | |
1896年 | 明治29 | 小田原―熱海間に人車鉄道が開通する | |
1900年 | 明治33 | 国府津―小田原―湯本間に電車が開通し,また,この年に小田原に電燈がつく | |
1903年 | 明治36 | 小田原に電話が開通する | |
1906年 | 明治39 | 小田原―熱海間の人車鉄道が軽便鉄道となる | |
大正時代 | 1913年 | 大正2 | 小田原で初めて家庭用ガスが使われる |
1920年 | 大正9 | 熱海線が小田原まで開通し,箱根登山鉄道も開通する | |
1923年 | 大正12 | 関東大震災がおこり,大きな被害を受ける | |
1925年 | 大正14 | 大雄山線が小田原―関本間に開通する 久野川が現在の流れになる |
市章の由来
小田原市の市章は、昭和16年に決まりました。
小田原は昔から梅の名所として知られ、また相模湾に面して漁業がさかんです。こうした小田原の特ちょうを表すため、波頭で梅の花をかたちづくって、市章としました。
時代 | 年代 | おもなできごと | |
---|---|---|---|
昭和時代 | 1927年 | 昭和2 | 小田急線が新宿―小田原間に開通する |
1934年 | 昭和9 | 丹那トンネルができ,東海道線が小田原経由となる | |
1936年 | 昭和11 | 小田原の上水道ができ,給水を始める | |
1940年 | 昭和15 | 小田原町,足柄町,大窪村,早川村,酒匂村の一部と合ぺいして小田原市がたんじょうする(人口約5万5000人) | |
1945年 | 昭和20 | 小田原の町が何度も空しゅうをうける | |
1948年 | 昭和23 | 下府中村が小田原市と合ぺいする | |
1950年 | 昭和25 | 桜井村が小田原市と合ぺいする | |
1954年 | 昭和29 | 豊川村,酒匂町,国府津町,上府中村,下曽我村,片浦村が小田原市に入る | |
1956年 | 昭和31 | 曽我村の一部(上曽我,下大井,鬼柳,曽我大沢)が小田原市に入る | |
1960年 | 昭和35 | 小田原城の天守かくがつくり直される | |
1964年 | 昭和39 | 東海道新幹線が開業し,特急が小田原に停車する | |
1969年 | 昭和44 | 小田原本港が完成する 小田原厚木道路が開通する | |
1971年 | 昭和46 | 橘町が小田原市と合ぺいする | |
1972年 | 昭和47 | 西湘バイパスが全面開通する | |
1976年 | 昭和51 | 市の木(くろまつ),市の花(うめ)が制定される 現在地に市役所ができる 東口広場が整備され,地下街が完成する |
|
1978年 | 昭和53 | 三保ダムが完成する | |
1979年 | 昭和54 | 久野に新しい清そう工場ができる | |
1925年 | 大正14 | 大雄山線が小田原―関本間に開通する 久野川が現在の流れになる |
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平成時代 | 1994年 | 平成6 | 小田急線が新宿―小田原間に開通する |
1995年 | 平成7 | 6月22日,小田原市が20万人都市となる 市の鳥(コアジサシ)が制定される |
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1996年 | 平成8 | 小田原市総合文化体育館・小田原アリーナが完成する | |
1997年 | 平成9 | ごみを9種類にわけ,資源の分別収集,リサイクルが始まる | |
1998年 | 平成10 | かながわ・ゆめ国体が開催され,小田原も会場となる | |
2000年 | 平成12 | 市の魚(メダカ,アジ)が制定される 小田原城銅門が復元される 小田原市が施行時特例市になる 小田原こどもの森公園わんぱくらんどがオープンする |
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2001年 | 平成13 | 都市計画道路小田原早川線開通(城山トンネル開通) | |
2003年 | 平成15 | 小田原駅東西自由連絡通路(アークロード)が完成する | |
2004年 | 平成16 | 小田原西口駅前広場が完成する 小田原市教育都市宣言が制定される | |
2007年 | 平成19 | コミュニティ放送局・FMおだわらが開局する | |
2011年 | 平成23 | 小田原のまちづくりにかんする,新たな総合計画(おだわらTRYプラン)がはじまる | |
2015年 | 平成27 | おだわら市民交流センターUMECOが開設される | |
2016年 | 平成28 | 小田原城天守閣リニューアルオープン | |
2017年 | 平成29 | 城山陸上競技場リニューアルオープン | |
令和時代 | 2019年 | 令和1 | 漁港の駅TOTOCO小田原がオープンする |
2020年 | 令和2 | 市立図書館が閉館する 小田原市立かもめ図書館を小田原市立中央図書館に改称(かもめ図書館は愛称として継続)する 小田原駅東口図書館が開館する |
|
2021年 | 令和3 | 小田原三の丸ホールがオープンする |
出生
1日当たり2.9人
死亡
1日当たり6.3人
転入
1日当たり19.0人
転出
1日当たり17.5人
結婚(本市届出件数)
1日当たり1.8件
離婚(本市届出件数)
1 日当たり 0.8件
JR乗車人員
(小田原駅・東海道本線)
1日当たり23,768人
小田急線乗車人員
(小田原駅)
1日当たり20,813人
図書館の貸出冊数
1日当たり752冊
ごみ(処理量)
1日当たり183t
し尿(処理量)
1日当たり4.4kl
水道(使用量)
1日当たり51,171㎥
火災
(市消防本部管内)
1日当たり0.18件
刑法犯罪
(小田原警察署管内)
1日当たり2.3件
交通事故
(小田原警察署管内)
1日当たり2.0件
天守閣入場者数
1日当たり584人
株式会社カネボウ小田原工場
ライオン株式会社
MeijiSeikaファルマ株式会社
株式会社ダイナシティ
フレスポ小田原シティーモール
JR東日本
JR東海
小田急電鉄㈱
箱根登山鉄道㈱
伊豆箱根鉄道㈱
松原神社
㈱済世堂薬局小西本店(薬博物館)
欄干橋ちん里う(梅万資料館)
籠常商店(かつおぶし博物館)
株式会社丸絵江嶋事業部(倭紙茶舗)
有限会社早瀬幸八商店(ひもの工房)
株式会社ういろう
朝ドレファ~ミ♪(JA)
小田原駅名産店
小田原蒲鉾協同組合
教育出版株式会社
鈴廣蒲鉾株式会社
高橋 忠克さん
小田原柑橘倶楽部
魚竹
中村 泰良さん
小伊勢屋
株式会社田中組
小田原囃子多古保存会
下田 誠一さん
ブリの森づくりプロジェクト
青柳 守さん
報徳二宮神社
報徳博物館
旧村田医院
善栄寺
㈱小田原魚市場
大川 肇さん
大津 晃さん
薗部産業株式会社
露木木工所
小田原警察署
開成町教育委員会
足柄歴史再発見クラブ
神奈川県水産技術センター相模湾試験場
神奈川県企業局利水電気部利水課
流域下水道酒匂管理センター
神奈川県流域下水道整備事務所
帝国書院
水産航空株式会社
㈲石橋印刷
小田原市役所
企画政策課/広報広聴室/地域政策課/観光課/産業政策課/商業振興課/農政課/水産海浜課
生涯学習課/文化財課/環境政策課/環境事業センター/消防総務課/防災対策課/水道整備課
下水道整備課/川東タウンセンターマロニエ/市立図書館/郷土文化館/小田原市観光協会
神奈川県行政資料室
引用・参考文献
「1枚の古い写真」小田原市立図書館/「小田原・足柄の100年」千秋社/「とみず子ども風土記」
「足柄歴史新聞 富士山と酒匂川」足柄歴史再発見クラブ
「小田原市立久野小学校開校50周年記念誌」/「関東大震災体験記録集」(山王網一色公民館)
編集・執筆
◎納今日子(酒匂小学校) ○長山武司(東富水小学校) ○横山聡(下府中小学校)
星野真吾(曽我小学校) 小林あゆみ(富士見小学校) 松井香織(富士見小学校)
〔◎委員長 ○副委員長 所属は平成26年3月31日現在〕
小田原市教育研究所職員
イラスト(さし絵)
堀井寛子(保健給食課)隅田美砂子(教育総務課)〔所属は平成24年3月31日現在〕
市川実咲(三の丸小学校)〔所属は平成26年3月31日現在〕
表紙デザイン
odango crafty
「わたしたちの小田原」は、昭和44年発行の「おだわら」が前身となっています。その後、昭和55年に「わたしたちの小田原」と名を変え、今にいたります。改訂の時は、それまでの内容を参考にし、時代に合ったものを作成しています。昭和44年から、この副読本の編集に関わった方たちは次のとおりです。(順不同)
府川元治/海野勇/三橋進/秋山起一/久保寺康治/山内 鉄男/安西洋 斎藤清一郎/山田三郎/飯田和昇/竹内通雄/米山真/飯沼武/浜脇幹 和田章/市村昇/原田豊/内田清/星崎茂/横井清賢/市川敬一 勝俣淳一郎/杉山勉/石綿勉/渡辺喜充/森田邦元/浅川 京子/青柳守 山内淑江/日比野英男/芥川三千忠/遠藤倫弘/尾上弘美/片山達夫/呉地初美 佐久間秀樹/宮川千枝子/坂元繁雄/本多晋/諏訪部光夫/大場得信/久保寺仁 梅村正美/小林守/松尾和俊/古屋守/宮内守/鍵和田輝夫/林允之 五関義幸/石井政道 (敬称略)
小学校社会科副読本
新版「わたしたちの小田原」