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わたしたちの小田原表紙
わたしたちの小田原
小田原市民憲章

小田原市民憲章(しみんけんしょう)

1健康(けんこう)で明るい生(かつ)大事(だいじ)にし、(ゆた)かな心をそだてましょう。

1元気で(はたら)くことを(よろこ)び、しあわせな家庭(かてい)をきずきましょう。

1隣人(りんじん)(なか)よくし、だれにもやさしく親切(しんせつ)にしましょう。

1きまりを(まも)り、力をあわせ、()みよいまちをつくりましょう。

1(みどり)(みず)大切(たいせつ)にし、平和(へいわ)明日(あす)繁栄(はんえい)につとめましょう。

市の花「ウメ」
市の木「クロマツ」
市の魚(淡水魚(たんすいぎょ))「メダカ」
市の魚(海水魚)「アジ」
市の鳥「コアジサシ」

小田原の風景(ふうけい)

小田原の風景

曽我(そが)梅林(ばいりん)富士山(ふじさん)
白糸鉄橋(しらいとてっきょう)
早川漁港(はやかわぎょこう)
広がる稲田(いなだ)
けやき通り
酒匂(さかわ)
北条早雲像(ほうじょうそううんぞう)
復元(ふくげん)された銅門(あかがねもん)馬出門(うまだしもん)
北條五代祭(ほうじょうごだいまつ)
勝福寺(しょうふくじ)(飯泉観音(いいずみのかんのん))の大いちょう
御幸(みゆき)(はま)での初泳ぎ
長興山(ちょうこうざん)のしだれ(ざくら)

空から見た小田原市

空から見た小田原市/東

空から見た小田原市/西

わたしたちの市のようす

市の地形と土地利用

 6~9ページの写真(しゃしん)と、上の小田原市の写真(しゃしん)で、市のようすを見てみましょう。

 わたしたちが住んでいる小田原市は、山、川、海などの自然(しぜん)(めぐ)まれています。このすばらしい自然(しぜん)がある小田原市のようすを地図を使って調(しら)べていきましょう。

地図を見て、自分たちの()むまちが、小田原市のどの方位(ほうい)にあるのか調(しら)べてみましょう。

市の地形の様子や、土地の使われ方について調(しら)べましょう。

酒匂(さかわ)

相模湾(さがみわん)

田や畑の多いところは、どこでしょう。

みかん畑

大きな工場が多いところはどこでしょう。
高速道路を使いやすい場所にある工場

酒匂(さかわ)川の近くにある大きな工場

店や(じゅう)たくが多いところはどこでしょう。

小田原(えき)の周辺

鴨宮(かものみや)地区の商店

共通のようす −交通の中心になっている小田原(えき)

市の交通のようすについて調(しら)べましょう。

 小田原(えき)には,JR東海道(ジェイアールとうかいどう)線や小田急(おだきゅう)線などの,いろいろな鉄道(てつどう)が集まっていて,多くの人たちがのりおりしています。また,小田原(えき)前には,タクシーのり場や,いろいろな方面(ほうめん)へのバスのり場があります。

小田原(えき)JR改札口(かいさつぐち)
小田原(えき)
鉄道のりば
バスのりば(西口)
小田原駅の1日あたりの平均利用人数
バスのりば(東口)

市を通る鉄道(てつどう)と大きな道路(どうろ)のようす

 小田原市には、鉄道(てつどう)のほかに、国道1号や国道255号、小田原厚木道路(あつぎどうろ)西湘(せいしょう)バイパスなどの大きな通路も通っています。

国道1号
国道255号
県道(けんどう)717号

市にある公共(こうきょう)しせつ ー川東(せんとう)タウンセンター「マロニエ」をたずねてー

市の公共(こうきょう)しせつについて調(しら)べる計画を立てましょう。
川東(せんとう)タウンセンター「マロニエ」

 小田原市には,市役所(しやくしょ)川東(せんとう)タウンセンター「マロニエ」のように、いろいろな公共(こうきょう)しせつがありますが、それぞれ(はたら)きがちがいます。まず、川東(せんとう)タウンセンター「マロニエ」について調(しら)べ、その()公共(こうきょう)しせつについても調(しら)べていきましょう。

「マロニエ」の中のようす

川東(せんとう)タウンセンター「マロニエ」には、どんな部屋(へや)があるのでしょう。
マロニエ図書室
児童(じどう)プラザラッコ
マロニエホール
集会(しゅうかい)
マロニエ住民窓口(じゅうみんまどぐち)
()部屋(へや)
()創作(そうさく)

「マロニエ」を利用(りよう)する人たち

どんな人がどのように利用(りよう)しているでしょう。

「マロニエ」の人の話

このしせつは、川東(せんとう)タウンセンター「マロニエ」といいます。「マロニエ」という名前は、市民からぼ集して決められたもので、「西洋(せいよう)トチノキ」という木の名前です。「マロニエ」のしき地にも()えられています。このたて物の中には,会()をする部屋(へや)、料理ややきものをする部屋(へや)、歌をうたう部屋(へや)などたくさんの部屋(へや)があります。また、音楽会やスポーツなどができる大きなホールもあります。小さい子どもが遊べる部屋(へや)や、みなさんも利用(りよう)できる図書室もあります。子どもからお年よりまで、多くの人が集まり、遊び、学び、ふれあう場として気がるに利用(りよう)できるしせつです。

自治会長(じちかいちょう)さんの話

 ここは、「まちの創作室(そうさくしつ)」という部屋(へや)です。月に一回、各地区(かくちく)自治会長(じちかいちょう)さんたちがこの部屋に集まって会議をしています。自治会(じちかい)では、まちをきれいにする活動や、地震(じしん)などの災害(さいがい)(そな)えた防災(ぼうさい)活動、お(まつ)計画(けいかく)、学校のあいさつ運動や防犯(ぼうはん)パトロール、一人()らしのお年寄(としよ)りの方に声をかける活動、その他さまざまな行事(ぎょうじ)などの計画を立て、活動を行っています。地域(ちいき)()む人たちが、安心(あんしん)安全(あんぜん)()らせる()みやすいまちをめざして、毎月、このマロニエで話し合いをしています。

小田原の歴史を伝えるもの

 江戸(えど)時代より少し前,北条氏(ほうじょうし)が小田原をおさめていたころ,同じ仕事をする人たちが集まって住んでいました。今でも,大工町(だいくちょう),青物町(あおものちょう)などという地名として残っています。

 そして,江戸(えど)時代の小田原は,城下町(じょうかまち)であるとともに東海道(とうかいどう)の中でもにぎやかな宿場(しゅくば)町として(さか)えていました。東は酒匂(さかわ)川の徒歩渡(かちわた)り(10月から3月の間は橋がかけられました),西は箱根(はこね)ごえがひかえていたので,小田原で宿(しゅく)はくする人が多く,90けん前後の旅龍(はたご)(旅館(りょかん))がありました。また,大名行列(だいみょうぎょうれつ)も来ましたので,本陣(ほんじん),脇本陣(わきほんじん)といわれる大きな宿(やど)もたくさんありました。

 小田原宿(じゅく)宿(しゅく)はくする人のために,みやげ物や旅に必要(ひつよう)な物を売る店も多く,かまぼこ,梅干(うめぼ)し,ういろう,小田原ちょうちんなどが小田原の名物として広く知れわたるようになりました。市内には江戸(えど)時代から続く古い店が残っており,今でも伝とうをひきついで,これらの名物を作ったり売ったりしています。

市の人たちのしごと

商店のしごと

 小田原には、さまざまなお店があります。家の人がよく行くお店を調(しら)べてみましょう。

JAかながわ西湘農産物直売所(せいしょうのうさんぶつちょくばいじょ)「朝ドレファ~ミ♪」

 小田原市成田(なるだ)に平成20年にオープンした「朝ドレファ~ミ♪」は、毎日たくさんのお客さんでにぎわっています。ほかのお店とどんなところがちがうのか、調(しら)べてみましょう。

店の名前について

朝採(あさど)れ」は新せんな農産物(のうさんぶつ)、「ファーマーズ」は農家(のうか)、「ファミリー」は家族(かぞく)と「ドレミフア…」の音階(おんかい)をもじってリズミカルなイメージを出しています。農家の人が一生(いっしょう)けんめい(そだ)てた新せんな農産物(のうさんぶつ)家族(かぞく)みんなでそろって楽しみに買いに来てくれる、そんなお店を目ざしたいという(ねが)いをこめた名前です。

お店の売り場のようす

開店前に品物をならべる農家の人たち
イベント情報

店長さんの話

毎朝、8時~9時の間に農家(のうか)の人が品物(しなもの)をならべにきます。その日に売れ(のこ)ってしまった品物(しなもの)も、作った農家(のうか)の人が引きとりに来ます。お店の品物(しなもの)は、すべて日本でとれたもので、外国からの輸入品(ゆにゅうひん)もは一つもありません。しかも、半分以上(いじょう)が地元の品物(しなもの)です。「朝ドレフア~ミ♪」では新鮮(しんせん)(しゅん)(やす)い、安全(あんぜん)安心(あんしん)生産者(せいさんしゃ)の顔が見える、地元の農業(のうぎょう)を学べる、(しな)ぞろえやしゅるいがほうふ。食べ方をしょうかい(教えてもらう)、交流、野菜や果物のよさやねだんを知ることができる、行くと楽しい、そんなお店をめざしています。

花の寄せ植え体験の様子

 市内には,他にもさまざまなお店があります。みなさんも調(しら)べてみましょう。

小田原シティーモール
ミナカ小田原
小田原ラスカ

お店に行かなくても買い物ができる!?

パソコンやスマートフォンなどを使って、インターネットで買い物ができるようになりました。直接(ちよくせつ)お店に行かなくても、画面で好きなものをえらんでもうしこむと、品物を家までとどけてくれます。本や服、食料品まで何でも買うことができます。お店の人には会わないので、お金をはらう方法もいろいろあります。

かまぼこを作るしごと ー小田原みやげの代表(だいひょう)「かまぼこ」ー

どうして小田原のおみやげにかまぼこを買っていくのかな。

 小田原(じょう)箱根(はこね)温泉(おんせん)へ来た人たちが、「小田原のおみやげ」としてよく買っていく物の一つに「かまぼこ」があります。みなさんも、かまぼこを食べたことがあると思います。県外(けんがい)の親せきや知り合いの家をたずねる時に、おみやげとして持っていく人も多いようです。どうして、かまぼこが「小田原のおみやげ」として有名(ゆうめい)になったのでしょうか。かまぼこは、何からできているのでしょうか。そして、どうやって作られるのでしょうか。かまぼこについて、調(しら)べていきましょう。

小田原のかまぼこ工場

かまぼこは、どんなところでつくられているのでしょうか。

工場のおじさんの話

小田原市では,昔からかまぼこづくりがさかんで,東海道(とうかいどう)を旅する人たちによろこばれてきました。近くの海でとれる魚をすりつぶし,まわりをやいたりむしたりして、長持ちしやすくしたものが始まりだと言われています。とれたばかりの魚が使えるので、海に近い方がべんりだったのでしょう。

かまぼこができるまで

かまぼこができるようすや、働く人のようすを調べましょう。

 工場の中は、かまぼこをむすにおいや、油でさつまあげをあげるいいにおいがしていました。

シログチ
①魚のすり()()ります。手でさわってすり()のようすをかくにんしながら、(あじ)つけをします。
②形を整えて、板にのせて切っていきます。
③じょう気でむして、さまします。
④きかいではうそうし、箱につめて送り出します。

なぜ板についているの?

かまぼこに板がつけられるようになったのは、安土桃山(あづちももやま)時代からとされています。形を整えやすい、持ち運びにべんりといった理由のほかに、むしたり冷やしたりするときによ分な水分をすってくれるので、くさりにくいというこうかもあります。

はたらいている人のようす

はたらいている人の話

この部屋は、かべのあなから空気が強くふき出して服についたかみの毛やほこりをはらい落としてくれます。入口は、自動ドアになっていて、手洗いとアルコール消毒をしないと(とびら)が開かず、工場の中へ入れないしくみになっています。わたしたちは食べ物を作っていますから、えいせいには、とくに気をつけています。えいせいのためには、しせつも大切ですが、はたらく人の心がけが一番大切なのです。

 かまぼこをつくる以外にも、かまぼこづくりのためのしごとがあります。

けんさのしごとをしている人

かまぼこの色や形が、正しくできているかどうかを調べています。小さなちがいを、すばやく見つけるには、人が見るのがいちばんたしかです。みなさんに安心(あんしん)して食べていただくために、色や形に、ちがいがでないようにしています。

研究室ではたらく人

よりおいしいかまぼこをつくるために、原料(げんりょう)や、できたかまぼこのテストをしています。また、新しいしゅるいのかまぼこをつくるために研究もしています。(あじ)()ごたえをたしかめるときには、食べることもあります。

じむ室ではたらく人
工場でつくるかまぼこのりょうを決めたり、原料(げんりょう)注文(ちゅうもん)したりしています。かまぼこは、長くほぞんができないし、月によって売れる数がちがうので、いつ、どれくらいのりょうをつくるのか、よく考えます。

原料(げんりょう)はどこから

かまぼこの原料(げんりょう)はどこから運ばれてくるのでしょう。

かまぼこの原料(げんりょう)

・魚のすり()・しお・水・さとう・卵白(らんばく)・みりん・油

小田原かまぼこの原料(げんりょう)となる魚

○グチ・・・おもに「シログチ」を使用します。

工場の人の話

昔のかまぼこづくりは、近くの海でとれた魚を使って、すり()をつくるところから始められていました。しだいに多くのかまぼこがつくられるようになってくると、多くの原料(げんりょう)をいつでも手に入れることができるように、いろいろな所でとれた魚が使われるようになりました。最近(さいきん)では、すり()冷凍(れいとう)して運ぶことができるようになったので、外国の工場や船の上でも、すり()がつくられるようになったのです。

原料(げんりょう)はどこから

できあがった品物は、どこへ、どのようにしてとどけられるのでしょう。

 工場では、かまぼこのほかに、ちくわやあげものなど、たくさんのしゅるいの品物がつくられています。できあがった品物のゆくえを調べてみましょう。

小田原かまぼこのおいしさのひみつ

①よい原料(げんりょう)を使う。
よい原料(げんりょう)となる魚を集めることです。スケトウダラのれいとうすり()が中心となった今でも、小田原のかまぼこは、グチを多く使っているので、色が白く、歯ごたえがあると全国でも有名(ゆうめい)です。
②よい地下水を使う。
魚のかわやほねをとって肉だけにしたものを、地下からくみ上げた水でよくさらすのです。小田原の水はミネラルをほどよくふくんでいるので、かまぼこ作りにとても(てき)しているのです。
③すり方をくふうする。
魚のしゅるいやきせつによって、しおなどの(りょう)やすりつぶす時間をかえています。けいけんのある人でないとできないむずかしいしごとです。

 かまぼこ工場では、かまぼこの他にもいろいろな物をつくっています。

 お客さんによろこんでもらえるように、新しい商品の開発も行っています。アジやイワシなど、小田原の近くの海でとれる新せんな魚と、小田原の山で育った杉の木をかまぼこ板に使った、新しいかまぼこ作りにとりくんでいます。

(むかし)から伝わるかまぼこの作り方

1.魚のかわとほねをとりのぞいて

2.くだいた()を、水にさらす
3.水をしぼる
4.塩を入れながらすりばちでする
5.うらごしする
6.すり()を板につける
7.せいろでむす
8.ほうそうしてできあがり

工場の人の話

手づくりのかまぼこを上手につくることができるようになるまでに、10年はかかるといわれています。でも手づくりのかまぼこはとくにおいしいとお客様からひょうばんをいただいています。これからも手づくりのよさを伝えていきたいと思います。

みかんをつくるしごと ー小田原でさかんなみかんづくりー

みかんづくりについて調べる計画をたてましょう。

 小田原市では,みかんづくりがさかんです。市でたくさんつくられているみかんは,どんなところで,どのような工夫をしてつくられているのでしょう。

小田原市のおもな作物がつくられている土地の面積

みかんづくりの農家をたずねて

農家をたずねて、みかんづくりのようすを調べてみましょう。

みかん農家の高橋さんの話

みかんは、日当たりのよい、あたたかい土地でとれるくだものです。東や南むきのしゃ面は、とても日当たりがよいです。さらに海が近いと、平地よりも温かい空気が流れやすいので、夜になって、急に冷えることが少ないのです。また、急なしや面は、水をたくさん必要とする米づくりにはむきません。そこで、農家の人たちは、しゃ面をつかって、あたたかい土地でとれるみかんをつくってきました。

おいしいみかんをつくる「3つの光」

小田原のみかん畑には、みかんの木にあたたかさをあたえてくれる太陽の光について、こんなひみつがあるそうです。
太陽の光
畑がしゃ面になっていることで、みかんの木がならんでいても重ならないので、たくさん太陽の光をあびることができます。

海からの光
海に面していると、海に当たった太陽の光がはねかえって、木に当たります。また、温まった海水はさめにくいので、温かさが長くつづきます。
(がき)からの光
海に面していると、海に当たった太陽の光がはねかえって、木に当たります。また、温まった海水はさめにくいので、温かさが長くつづきます。

おいしいみかんづくり

みかんづくりには、どのような仕事があるか調べましょう。
みかん農家の仕事カレンダー(温州(うんしゆう))みかんの例)

せんてい

えだを切ることで風通しをよくして、かれないようにします。最近(さいきん)のみかんづくりは、むかしにくらべて、農薬((がい)虫などがつきにくくしたり、みかんの病気をふせぐための薬)をへらすようになりました。そこで、1年じゅう、こしにせんていばさみをかけて、木のようすを気にかけています。

とり入れ

とり入れのあと、(ちょ)ぞうをする前に、へたを短く切り落とします。(ちょ)ぞうをするときには、みかんがきずつかないようにしています。少しのしょうどくでも、みかんがいたみにくいようにしています。

てき果

たくさんなった実から、小さいものや、きずのあるものをとりのぞいて、大きくて、きずのないみかんが育つようにします。

(ちょ)ぞう

とり入れたみかんは、すぐにしゅっかせずに(そう)庫に置いておきます。それには、
①ほかの県としゅっかの時期をずらす。
②みかんの酸味(さんみ)(すっぱさ)をへらして、(あま)()をふやすという理由があります。

みかん農家の人たちの工夫

しごとをしやすくする工夫について調べましょう。

せんていやとり入れが楽にできるように

 みかんの木は、人のせの高さに合わせて、ひくく育てるようにしています。せんていをしたり、とり入れたりしやすいので、しごとが楽になります。

車を使って、みかんを楽に運べるように

 とり入れたみかんは、トラックで運んでいます。トラックが走る近くの農道まで、みかんを運び上げたり下ろしたりするときには、運ぱん用のモノレールを使います。農道をふやして、できるだけ車が畑に入りやすいようにしています。

トラックで運ばれるみかん
畑のすぐそばを通る農道
みかんを運ぶモノレール

みかんのゆくえ

とり入れられたみかんは、どのようにしてわたしたちの手元にとどくのでしょう。

農家の高橋さんの話

最近では、つくったみかんを農協にあずけるだけでなく、農家の人が農協の直売所(朝ドレファ~ミ♪)に運んで販売(はんばい)したり、農家とお客さんがちょくせつやりとりをして「注文販売(はんばい)」をしたりすることもふえました。農家では、新しいしゅるい、甘味(あまみ)の強いしゅるいなど、お客さんのきぼうに合わせてみかんをつくるように努力しています。お客さんから「今年はどんなみかんがおいしいですか。」「毎年高橋さんのみかんを楽しみにしています。」という声をいただけると、うれしくなります。

みかんやレモンをつかった商品の開発

つくった作物がいろいろな人にとどくように、作物をそのまま販売(はんばい)するほかに、ほかの商品につくりかえて販売(はんばい)することもあります。 いろいろなアイディアで、新しい商品の開発もされています。
〈商品の例〉
○レモンサイダー、みかんサイダー
○マドレーヌ、夏みかんゼリーなど
○ジャム

これからのみかんづくり

これからのみかんづくりについて調べましょう。

 みかん農家では、1年を通してしゅうかくができるように、計画を立てて、何種類(しゅるい)もの、みかんやかんきつ(るい)をつくっています。

みかん・かんきつ(るい)のしゅうかく時期カレンダー

農家の高橋さんの話

スマートフォンやパソコンがすくに新しい種類(しゅるい)になるのと同じように、みかんもつねに新しい品(しゅ)が出てきます。その中から、小田原の土地や気候(きこう)に合っていて、おいしくてお客さんがよろこんでくれるものをさがすのです。たいへんなことですが、やりがいもあります。「農業技術(ぎじゆつ)センター」では、よい品(しゅ)を作る研究をしています。農家の人にも,新しい品(しゅ)を教えてくれたり、みかんにあわせたせんていのしかたを教えてくれたりします。

みかんオーナー制度(せいど)

早川(はやかわ)の農協では、「みかんオーナー制度」をつくり、農家ではない人にも、みかんのしゅうかくをしてもらえるようによびかけています。しゅうかくしたみかんは、オーナーのものになります。 みかんを育てる人が高れいになってきている、ほかにも仕事をしていて、しゅうかくがむずかしいなどの問題をかいけつする助けになるようにしています。

近くの農家では

みなさんの近くの農家では、どんな作物がつくられているか調べましょう。

 みかんだけではなく、小田原にはいろいろな作物をつくっている農家の人がいます。ほかの作物をつくるしごとについても調べてみるといいですね。

キウイフルーツ
いろいろな野菜

魚をとるしごと ー小田原でとれる魚ー

小田原では、どんな魚がとれるのだろう。

小田原漁港の水揚げランキング(令和3年度)

 みなさんは、上の写真を見てどんなことを思いましたか。私たちが住む小田原は海に面していて、そこで魚をとったり、売ったりすることをしごとにしている人たちがいます また、私たちの近所の魚屋さんやスーパーには、日本各地のいろいろな種類(しゅるい)の魚や貝、えびなどといっしょに、小田原の海でとれた魚も売られていて、私たちの毎日の食生活をささえています。 左の表は、小田原漁港で、とくに多く水あげされた魚です。ほかにも、いろいろな種類(しゅるい)の魚が、私たちの住む小田原の近くの海でとれるのです。

漁師(りょうし)さんのしごと

漁師(りょうし)さんは、どんなしごとをしているのだろう。

 魚をとるしごとをしている漁師(りょうし)さんは、市内に120人ほどいます。米や野菜、くだものを作りながら(りょう)に出ている人も多いそうです。漁師(りょうし)さんの一日のしごとは、どのようになっているのでしょうか。下のグラフは、漁師(りょうし)さんと小学生の一日です。 くらべてみましょう。

 小田原の海は、岸から急に深くなっているところが多く、漁師(りょうし)さんたちは、その海のとくちょうを生かして、漁のしかたを工夫しています。小田原で多くおこなわれている(りょう)が、定置網漁(ていちあみりょう)()網漁(あみりょう)で、ほかにつりなどで(りょう)をする人もいます。

 漁師(りょうし)さんは、日の出前から船に乗り、あみをしかけた場所に出かけていきます。つりで(りょう)をする人たちは、魚のむれをさがすための(ぎょ)ぐんたん知機(ちき)や海鳥の動き、長年のけいけんから、魚のつれそうなポイントをさがして(りょう)をします。場合によっては、魚を迫って一日中船に乗っていることもあるそうです。

せんべつ()を使わない場合は、水揚げされた魚を大きさや種類ごとに手でわけます。

 漁船(ぎょせん)には、大きな水そうがあり、とれた魚はその中の氷水に入れて、新せんなまま運ばれます。

フィッシュポンプというきかいで船からちょくせつ魚をすい上げ、せんべつ()に送ります。

 小田原漁港(ぎょこう)へもどると、水あげし、魚の種類(しゅるい)や大きさごとに分けます。最近では、魚の大きさごとに、自動的に分ける機械(きかい)も使われています。分けた魚を魚市場の人に出したあと、明日の(りょう)にそなえて船のそうじをしたり、道具などのじゅんびをしたりします。

魚はせんべつ()で大きさによって分けられ、氷の入ったはっぼうスチロールのはこにつめられます。
漁師(りょうし)さんのしごとには、どのような喜びや苦労があるのだろう。

漁師(りょうし)さんの話

小田原の漁業(ぎょぎょう)は,昔も今も近くの海で魚をとる漁業(ぎょぎょう)が中心になっています。今は,船を動かすことやあみのまき上げ,水あげなどが機械(きかい)でできるようになったので,ずいぶんと楽になってきました。たくさんの魚を水あげする時は,とてもうれしいですね。しかし,天気や気(こう)の変化など,自然じょうけんが大きくえいきょうするしごとでもあります。大きな台風が来るとあみがこわされたり,海の水の温度がいつもの年とちがうと,とれる魚の種類(しゅるい)や量が変わったりします。 また,小田原では,若い漁師(りょうし)も少しずつふえていますが,全国的には少なくなっています。ほかにも,川や海にすてられたごみなど,私たち人間の生活によって海がよごれ,魚がすみにくくなっています。これからも,おいしい魚がたくさんとれるゆたかな小田原の海であるように,みんなで気をつけていきたいですね。

定置網漁(ていちあみりょう)ってな~に?

定置網漁(ていちあみりょう)とは,泳いでいる魚が,あみなどのしょうがいぶつに当たると(おき)ににげる(しゅう)せいを利用(りよう)して,魚の通り道に大きなあみ(定置網(ていちあみ))をしかけて魚をとる(りょう)のことです。定置網(ていちあみ)は,いつも決まった場所にしかけておくので,漁師(りょうし)さんたちは海のそこの様子や海の流れなどを考えたり,長年のけいけんから魚が通る場所を考えたりしてあみをしかける場所を決めます。また,同じ場所でも,季節(きせつ)によってとれる魚の種類(しゅるい)はちがってきます。

定置網(ていちあみ)に魚が入る仕組み

魚市場のしごと

魚市場では、どんなしごとをしているのだろう。

 漁師(りょうし)さんたちがとった魚は、小田原漁港(ぎょこう)の中にある魚市場に運ばれます。そして、種類(しゅるい)や大きさごとにはっぽうスチロールの箱などに入れられ、おろし売り場にならべられます。魚市場には、近くの海ではとれない魚や、水産加工品(さんかこうひん)(魚を加工(かこう)したせい品)、冷凍(れいとう)の食品なども、他のちいきからトラックで運ばれてきて売られています。魚市場では、きょかをえた魚やさんなど買受人(かいうけにん)だけが魚を買うことができます。魚市場の人は「せり」を行い、一番高く買ってくれる人に魚などを売ります。「せり」は朝早くに行われますが、ねだんを決めるために指での合図や大きな声がとびかい、とても活気があります。 また「せり」のほかにも、魚市場の人と買受人(かいうけにん)との間でほしい魚を必要な量、予約する相対取引(あいたいとりひき)という方法もあります。買受人(かいうけにん)などは、買った魚などをトラックにつんで、自分のお店に運びます。魚市場の人は、魚を売り終わると魚市場のそうじをしたり、どれだけ魚が売れたかなどを計算したりするしごとにうつります。あわただしかった魚市場も、昼ごろには、シーンとしずまリ返ります。

これからの小田原の漁業(ぎょぎょう)

魚を多くの人に買ってもらうために

①朝市を開いて、(しん)せんな魚を安く売っています。
②みなとまつりなどのイベントを行っています。
漁港(ぎょこう)の駅TOTOCO(トトコ)小田原でも魚を買えます。

魚をいつもとれるようにするために

①研究された大がかリな定置網(ていちあみ)

小田原市米神漁場(小田原市漁協)
この定置網(ていちあみ)は、とても速い海の流れにもこわれにくく、少ない人数でも作業できるように研究された(さい)新の定置網(ていちあみ)です。

②さいばい漁業(ぎょぎょう)

 高いねだんで売れるヒラメを、7~8センチくらいになるまで育ててから、海に(はな)ちます。そうすると、大きく育ちやすくなるのだそうです。そして、小田原の海で大きく育ったヒラメをとっています。

観光(かんこう)としての漁業(ぎょぎょう)

 海で魚をつりたいという人たちのために、船をつり船として沖合(おきあい)に出すしごとをしている人たちもいます。

市の人たちのくらしのうつりかわり

古い道具調べ ー古い道具をさがそうー

身のまわり古い道具をさがしてみましょう。

 自分の家や近所(きんじょ)の家から、(むかし)のことがわかるものをさがして、調べてみることにしました。

火ばち
わらじ
はがま
きねとうす
七輪(しちりん)

 (むかし)の道具から、(むかし)の人たちのくらしのようすについても調べてみましょう。

(むかし)と今のくらしをくらべてみよう

古い道具が使われていたころのくらしのようすを調べてみましょう。

 実さいに(むかし)の道具を使ってみて、今のものとのちがいをくらべたりそれを使っていた昔の人たちの気持ちを考えたりしてみましょう。

せんたく板

(むかし)のせんたくは、いどから水をくみ上げ、たらいに入れてからせんたく板でごしごしあらったのよ。よごれがひどいところは、石けんを使って何度もこすったものよ。寒い冬は冷たい水を使ってのしごとだったので、とてもたいへんだったのよ。

火のし
炭火(すみび)アイロン

くらしのうつりかわりを調べてみよう

くらしのうつりかわりを調べて、絵や年表などにまとめてみましょう。

 家の人や近所(きんじょ)の人から聞いたことや、自分で調べたことをもとにして、くらしのうつりかわりをまとめてみましょう。

小田原市きょう土文化館

80年から120年くらい前の小田原のようすとくらし

80年から120年ほど前のくらしを調べてみましょう。

きょう土文化館の人の話

このころは、町の中に田や畑がたくさんありました。今よりも農家が多く、食べものも着るものも自分の家で作っていました。今のようなきかいがなかったので、午や馬を使って田畑をたがやしたり、田うえなどのたいへんなさぎょうは家族や近所(きんじょ)のひとたちなどみんなで力を合わせておこなったりしていました。子どもたちは、田や川、山などで魚や虫、鳥などをとってあそんでいました。ほかにもまりつきであそんだり、下の子の子守(こもり)をしたりもしていました。小田原の町には電とうがつき、馬車鉄道からかわって電気鉄道が走りました。1920年には東海道線がのびて、小田原駅ができました。町の人たちは駅ができたおいわいをせい大にしたそうです。駅前には,お店や旅館がたちはじめてにぎやかになりました。パンやキャラメル、洋服などのめずらしいものも手に入るようになったそうです。

農作業では、馬の力を使っていた
田植えのようす
大人たちが働いている間、赤ちゃんの世話は子どもの仕事だった
電気鉄道が走り始めた
当時の小田原駅のようす

 今から80年ほど前に、大きなせんそうがありました。小田原も空しゅうにあい、多くの人たちがひ害を受け、たいへんな生活をおくりました。

地いきのおばあさんの話

せんそうがはげしくなると、食べ物も生活にひつようなものも十分に手に入らなくなりました。そこで、学校の運動場を畑にしてさつまいもなどを作りましたが、それでも十分に食べることができませんでした。勉強よりも食べ物を作ったり、働いたりすることのほうが、大事に考えられていました。また、小田原もせんそうが終わる直前に空しゅうにあいました。ばくだんは学校の校庭にも落とされました。この空しゅうで400戸くらいの家がやかれてしまいました。みんな1日1日をせいいっぱい生きていました。今のように、毎日が平和なことは。とても幸せなことだと思います。

空しゅうのあと
はたらく学生

せんそうの時代を今も伝えるもの

小田原のまちには、せんそうのおそろしさを今もわたしたちに教えてくれるものが残っています。そのひとつが市内にある機銃(きじゅう)(たま)のあとがのこる旧青橋(小田原城の西がわの東海道線などの線路の上にかかる橋)の橋げたです。鉄でできた橋げたをかんたんにつらぬいているようすはせんそうのおそろしさを今も伝えています。みなさんの地いきにも、ぼうくうごうのあとや石碑(せきひ)などせんそうの時代を伝えるものがあるかもしれません。

40年前から70年くらい前の小田原のようすとくらし

40年まえから70年くらい前のくらしを調べてみましょう。

70年くらい前の小田原のようすとくらし

おじいさんの話

せんそうが終わり、生活をよりよくしようと、当時の人たちは、一生けん命にはたらいたんだ。 そのおかげで,人々のくらしは(ゆた)かになってきたんだよ。 小田原にも大きな工場がたてられるようになって、しごとのために小田原にひっこしてくる人もふえたんだ。 それから、昭和39年(1964年)になると、新かん線が通って、小田原にも停車するようになったよ。たくさんの人が小田原に集まるようになったんだよ。 そのころの子どもたちは、外で遊ぶことが多かったなあ。野球をしたり、メンコやベーゴマで遊んだり、近所の子どもたちが、みんないっしょに遊んでいたものだよ。 電気せい品がくらしの中に出てきて、カラーテレビを初めて見たときはびっくりしたなあ。

40年くらい前の小田原のようすとくらし

お父さんの話

子どもの遊びにもきかいで作られたものがふえてきて、コンピューターゲームがはやって、むちゅうになって遊んだなぁ。昔よりも家の中で遊ぶことが多くなったかもしれないね。小田原のまちでは、小田原駅の東口がせいびされて、小田原地下街もできて、多くのお店やお客さんで駅のまわりはとてもにぎわっていたよ。

地いきの人びとが受けついできた文化(ざい) ー地いきの「たからもの」を大切にする人たちーと年中行事

わたしたちのまちの「たからもの」は、どのようにして守られてきたのでしょう。

 お祭りで聞こえてくる「おはやし」は、市内のさまざまな地区で受けつがれています。多古(たこ)地区(足柄(あしがら)小学校学区)でも、「小田原ばやし多古(たこ)ほぞん会」の人びとが、おはやしを大切に守り続けてきました。

 多古公民館(たここうみんかん)では、月に3回ほど小学生や中学生、高校生が集まって、たいこやふえの練習をしています。えんそうのしかたは、おはやしをえんそうできる大人の人が教えてくれます。ほぞん会の人びとは、地いきのお祭りのほかにも、さまざまなもよおしものにさんかしています。

おはやしを教えている下田(しもだ)さんの話

わたしは、小学生の時にたいこを始めました。おはやしは、地いきの先ぱいから習っておぼえました。今は、わたしが教える役です。練習会では、子どもたちと向かい合ってたいこのリズムを教えています。たいこがたたけるようになった上学年の子どもには、(ふえ)のえんそうもおぼえてもらいます。おはやしをおぼえるには、(ふえ)のメロディーが大切なのです。ほぞん会では、大人も子どもも、いっしょになって長い伝統(でんとう)のある「小田原ばやし」を守っています。

人びとの生活が()わってきて、おはやしやお祭りに(たい)する考え方も、むかしとは()わってきています。これから大人になっていく子どもたちが、地いきで守られてきた「たからもの」に、きょう味をもってくれるとうれしいですね。

ほぞん会の子どもたちの話

1年生のときから、上の学年のお兄さんお姉さんたちのえんそうを見ながら、たいこのたたき方をおぼえてきました。おはやしは、いろいろな曲があって、むずかしいなと思うときもあります。とくに、(ふえ)のえんそうをするには、長い楽譜(がくふ)をおぼえなくてはいけないので、たいへんです。でも、お祭りや大きな発表会で、練習したことがきちんとできると、ほっとします。自分たちのえんそうをたくさんの人にきいてもらえたときには、とてもうれしいです。

市の人たちが守り,伝えてきたもの(一例(いちれい))

わたしたちの住んでいるところでは、どんなものを大切に守り、伝えてきたのでしょう。(行事、お祭り、おどりや歌)

これからのまちづくり ー2030年の小田原に向けてー

まちの(ゆめ)やみんなの(ゆめ)をかなえるために何が必要(ひつよう)かいっしょに考えよう。

 小田原市は、よりよいまちになっていくために、すんでいる人や、はたらいている人、学校に通っている人など、地域のみんなと市がいっしょになってまちづくりをしています。

そこで、3つのまちづくりの目標(もくひょう)を立てています。
①生活の(しつ)向上(こうじょう)
生まれてからずっと幸せと安心を(かん)じられるまち、子どもたちが(ゆめ)希望(きぼう)をもって成長できるまちをめざします。
地域経済(ちいきけいざい)好循環(こうじゅんかん)
小田原の商売(しょうばい)活発(かっぱつ)になるように国内外から人や会社が集まるまち、四季(しき)を通してにぎわいが生まれるまちをつくります。
(ゆた)かな環境(かんきょう)継承(けいしょう)
自然環境(しぜんかんきょう)市民(しみん)がともに生きるまち、気候変動(きこうへんどう)にも対応(たいおう)した災害(さいがい)に強いまちをつくります。

めざすまちのすがた「世界(せかい)があこがれるまち“小田原”」
世界(せかい)があこがれるまち“小田原”」にするために、すんでいるみんなが「小田原が大好き!」と言えるまちとすること、そして、自分のすんでいるまちのことを「大好き!」と言えるあなたのことを見て、世界中から「小田原ってすてきなまちなんだ!」と思ってもらえるようなまちをめざしていきます。

〈市の取組(とりくみ)の一部〉

学習用端末(がくしゆうようたんまつ)整備(せいび)
一人一台の学習用端末(がくしゆうようたんまつ)で、疑問(ぎもん)に思ったことについて(ふか)調(しら)べたり,自分のペースで学習したりします。
②小田原三の丸ホール
芸術文化活動(けいじゅつぶんかかつどう)の場となる小田原三の丸ホールは、新しいにぎわいの拠点(きょてん)として多くのイベントが行われています。
再生可能(さいせいかのう)エネルギーの導入(どうにゅう)
2050年の脱炭素社会(だつたんそしゃかい)実現(じつけん)に向けて、再生可能(さいせいかのう)エネルギーを積極的(せっきょくてき)に取り入れています。
④市と市民(しみん)の力をあわせた取組(とりくみ)
未来の小田原をより良くするために、いろいろな人が力をあわせて協力しています。

「SDGs」(えすでいーじーず)ってなに?

「わたしたちがずっと地球ちきゆうにすみつづけることができる方法ほうほう行動こうどうしよう」と2015年に世界193の回で、17の目ひょう(SDGs(えすでいーじーず))を作り、2030年までの達成を目指しています。
小円原市は2019年に同からSDGs(えすでいーじーず)()(らい)都市(とし)としてみとめられ、市民しみんのみなさんと協力して、の回りにある問題もんだいのかいけつに向けて様々さまざま取組とりくみを行っています。

健康(けんこう)を守る工夫

水はどこから

 わたしたちは、毎日、家でも学校でもたくさんの水を使っています。

 じゃ口から出てくる水道水は、川の水とくらべるとずいぶんちがうことがわかります。

水がとどくまで

水は、どのようにしてわたしたちの家にとどくのでしょう。
1.酒匂(さかわ)川の水をとる

 わたしたちの使っている水は、酒匂(さかわ)川を流れる水(表流水(ひょうりゅうすい))を集めてきれいにしたものです。

飯泉取水(いいずみしゅすい)せきのようす
2.きれいな水にする(浄水場(じょうすいじょう)の仕事)

 浄水場(じょうすいじょう)では、どのようにして水をきれいにするのでしょう。

酒匂川の水が飲み水になるまで・・・・・・
安全な水を送り出すために

小田原市には、高田浄水場でつくられた水のほかに、次のような水道の水を使っている地区もあります。 ゆう水や井戸(いど)水による水道・・・小田原市には、ゆう水をためたり、深い井戸(いど)をほったりして水を引き、消毒して配水池(はいすいち)から水を配っている地域があります。また、小田原市には地下水がほうふな地区が多く、水道のほかに井戸(いど)水も利用している家庭が多くあります。中には、さい害の時に使えるようになっている井戸(いど)もあります。 県(えい)水道・・・(たちばな)地区で使われている県(えい)水道は、県の水道局がとりあつかっている水道です。 相模(さがみ)川の水を取り入れて、高田浄水場のしくみと同じ方法できれいな水をつくっています。

毎日使われる水

 生活の中で、何にどれくらいの水を使っているのか、調べてみました。

水のふるさと

1.三保(みほ)ダムをたずねて

ダムはどのようなはたらきをしているのでしょう。

 わたしたちが使っている水のみなもとには、三保(みほ)ダムによってできた丹沢(たんざわ)湖があります。

三保(みほ)ダム(丹沢(たんざわ)湖)
三保(みほ)ダムの放水(ほうすい)

ダムの係の人の話

三保(みほ)ダムは、高さが95メートルあり、小田原市の水道を使う人たちのおよそ2年分の水をためることができます。このダムは、洪水(こうずい)をふせいだり、水道の水をかくほするために川の水量を調整したりしています。ここから流された水は、飯泉(いいずみ)取水(しゅすい)せきで取り入れられて、小田原市のほかに遠く横浜市や川崎市へも送られています。

2.森林のはたらき

森林はどのようなはたらきをしているのでしょう。

 水をたくわえる水源林(すいげんりん)

 森林には、ダムと同じように水をたくわえるはたらきがあります。森林は、雨水を土の中にたくわえ、少しずつ川に流しています。そのため、長いこと雨がふらなくても、川には水が流れています。また、たくさん雨がふっても、森林の土の中に雨水をたくわえ、いちどにたくさんの水が出ていかないように、洪水(こうずい)をふせぐ役目もしています。このようなことから、森林は「緑のダム」とよばれています。

 しかし、最近では森林があれてきているので、このままでは緑のダムとしてのはたらきができなくなるかもしれません。そのため、小田原市内には森林を守る活動に取り組んでいる市民団体があります。

森林を守る活動に参加している人の話

わたしたちは、「ブリの森づくりプロジェクト」に参加している団体です。計画的に森林の手入れや調査(ちょうさ)をしたり、市民のみなさんによびかけて、間伐(かんばつ)の体験会や自然観察会を開いたりしています。(間伐(かんばつ)・・・木がよく育つように、ほどよく木を切ること)県の水道局も、わたしたちの活動に協力してくれます。わたしたちにとって大事なはたらきをしている森林を大切に守り、育てていきましょう。

これからの計画とわたしたちのくらし

これからの水の使い方について考えてみましょう。

市の水道局の人の話

1936年(昭和11年)に初めて小田原に水道をひいたときの給水人口は3万5千人でしたが、今では、約17万人へと広がりました。(※給水人口…市の水道を使っている小田原市民の数)水道局では「おだわら水道ビジョン」という計画をつくり、市民のみなさまへいつまでもおいしい水をおとどけできるように、高田浄水場(じょうすいじよう)など、さまざまな水道しせつを整えて守ってきました。また、おおむね3年を目安に計画の内容(ないよう)をかくにん、よりよいしせつとなるよう計画の見直しを行っています。

 わたしたちが、毎日自由に水を使い、安心して水が飲めるようにするために、多くの人が仕事をしています。また、たくさんのお金もかかっています。(水1㎥をつくるのに135円一今和2年)わたしたちにとって1日もかかせない大切な水を、これからどのように工夫して使ったらよいか、話し合ってみましょう。

水道の始まり・広がり

市の水道は、どのように広がっていったのでしょう。

 水道ができる前、市の人びとは井戸(いど)を使って飲み水を手に入れていました。水道は、今から80年ほど前に初めてひかれましたが、始めのころは、井戸(いど)や小田原用水を利用する人が多く、申しこむ人は少なかったそうです。しかし、50年ほど前から、家や工場がふえはじめ、井戸(いど)をたくさんほるようになってからは、水の量が少なくなったり、流れ出なくなったりしました。また、伝せん病をなくすためにも必ず消毒(しょうどく)された水道を使う必要がでてきました。その結果、多くの人が水道を利用するようになりました。

水のゆくえ ー使った水はー

わたしたちが使った水は、どこへいくのでしょう。

 わたしたちが使った水は、下水として下水(かん)を通ってしょ理場へ集められます。下水は、下水しょ理場できれいにされて、最後は川や海に流されます。

パンフレット「下水道探検隊」(神奈川県下水道公社)より

下水道を調べよう

下水は、どのようにしょ理されているのでしょう。

下水道のはたらき

①川や海がよごれないようにする。
②水洗トイレを使えるので、きれいで快適(かいてき)なくらしになる。
③雨水から家や道路を守る。

パンフレット「下水道探検隊」(神奈川県下水道公社)より

水再生センターの人の話

わたしたちが使った水は、はじめは近くの川や海にそのまま流していました。川や海は、「水をきれいにする力」をもっています。しかし、使う水の量がふえたので、川や海の力だけでは水をきれいにすることくができなくなりました。水のよごれがひどくなると、魚や水辺の生物が住めなくなったり、川の水を飲み水として使えなくなったりします。水再生センターでは、よごれた水をあつめてしょ理し、自然にもどす役目をしています。下水しょ理場では、自然がもっている「水をきれいにする力」と同じように、とても小さな生き物の力をかりて水をきれいにしています。

下水道の広がり

わたしたちのくらしと下水のしょ理について話し合いましょう。

 市内には、まだ下水道がつくられていないところもあります。そのようなところでは、使った水を家の外のみぞに流しています。よごれをとる自家浄化(じかじょうか)そうを使っていても、完全にはきれいにならないので、川の水がよごれる原因(げんいん)のひとつになっています。そこで、下水道は小田原駅周辺からしだいにほかの地いきにもつくられるようになり、だんだんと広がってきています。

市の下水道せいび()の人の話

下水道をつくるには、たくさんのお金がかかります。また、ほかの市や町の協力がないと、わたしたちの飲み水になっている酒匂(さかわ)川の水は、なかなかきれいになりません。そこで、県では、酒匂(さかわ)川流いきに下水しょ理場を2カ所つくりました。酒匂(さかわ)地区は1982年(昭和57年)にできあがり、扇町(おうぎちよう)地区も1997年(平成9年)にできました。この下水しょ理場は、小田原市をはじめ10の市と町で利用しています。

酒匂(さかわ)水再生センター
扇町(おうぎちょう)水再生センター
小田原市下水道管理センター

ごみはどこへ ーごみのゆくえー

ごみは、どこへ運ばれていき、どうやってしょ理されているのでしょうか。

 家や学校などからは、()せるごみや()せないごみ、かんやびん、ペットボトルなど、いろいろな種類のごみが出されます。小田原市では、ごみの分け方や出し方、出す日などのきまりを作って、これらのごみを集めています。ごみは、係の人がしゅう集車で集め、環境(かんきょう)事業センターに運びます。

市全体のごみの中身の割合(わりあい)(令和3年度)

ごみをしょ理する人たち

ごみを集めるためにどんな工夫や努力をしているのでしょう。

市の係の人の話

ごみをきちんと集めるために、ごみを出してもらう時間や集める道じゅんを決めています。集める時にこまることは、ごみの分け方や出し方のきまりを守らないで出されたりふくろがやぶれ、カラスなどにあらされて、ごみがばらばらに散らかってしまっていたりすることです。みんなが気持ちよく生活をするために、一人ひとりがきまりを守ってごみを出してほしいですね。また、台所からの生ごみは、水をよくきって出すなど、少しの工夫をしてもらうことで、ごみの量はもっとへっていきますね。

環境(かんきょう)事業センターをたずねて

環境(かんきょう)事業センターではごみをどのようにしょ理しているのでしょう。

()せるごみのしょ理

これからのごみしょ理

ごみをへらすために、どんなとりくみがされているのでしょうか。また、わたしたちは、どんなことができるのか、考えてみましょう。

環境政策課(かんきょうせいさくか)の係の人の話

小田原市ではみなさんがごみを出すときに、9種類のごみにこまかく分けて出してもらっています。あきかん・あきびん・紙・布・ペットボトル・トレー・プラスチック類など、「資源(しげん)」として(さい)利用できるものをほかのごみと別にして出してもらい、それを(ふたた)び利用する「リサイクル」を進めています。このようにすることで、今まで()やしたりうめ立てたりしていたごみも資源(しげん)として生かすことができ、()やすごみの量自体がへるので()やした後に出る(はい)もへらすことができます。さらに、かぎられた資源(しげん)の節約にもつながりますので、市では市民のみなさんに資源(しげん)を生かすことへの協力をよびかけています。また、「リサイクル」のほかにも、ごみ自体を出さないように努力する「リデュース」、使いすてをやめてものを何度もつかうようにする「リユース」を心がけることも、ごみをへらすためにとても大切なことですね。みんなで心がけていくことで、必ずごみをへらしていくことができます。

教室にはごみの種類ごとにごみ箱があります。
給食の残りを生ごみしょ理機で、たい()にしています。

 小田原市では,平成9年度からごみの分別方法が変わりました。分別され集められたごみは「焼却(しょうきゃく)(()やす)」「資源化(しげんか)(リサイクル)」「うめたて」されます。

分別されて集められたペットボトルはどこへ

 市内から集められたペットボトルは、環境事業(かんきょうじきょう)センターの中にあるペットボトルをしょ理するしせつに送られます。このしせつには、年間約760トン(1トンでペットボトル約3万5千本分)ものペットボトルが集められ、とくに、夏の時期はふだんの倍の量になるそうです。キャップをはずしたペットボトルは、機械で約700本分をまとめてつぶして固められます。一つあたり、約20kgのペットボトルのかたまりがたくさん作られ、せん門の業者に引き取られて加工され、ふたたびペットボトルや別の新しいせい品になります。

係の人の話

小田原市ではペットボトルをごみとして出すときに、中をよく洗い、キャップをとるルールになっています。しかし、10本のうち3本ほどはキャップがはずされずに出されています。そのようなキャップは係の人がすべて手作業ではずさなければならず、その数は一人で5000こ近くにもなります。また、ペットボトルとして出されたごみ(ふくろ)の中に、かんや、びん、時にはほうちょうなどのきけんなものが入っていることも少なくありません。みなさんにはルールを守って正しくごみを出してほしいですね。

 せい品によって原料となるペットボトルの量はちがいますが、学校で使うものでは、じょうぎやペン、ランドセルや体育で使うマット、ボールネットなどにもなります。また、糸にもなるので、シャツや手ぶくろ、バッグなどにもなります。ペットボトルにかぎらず、かんやびんはもちろん、新聞紙やざっしなどの紙類、トレーやかん電池、テープなど分別して集められたごみの多くが資源(しげん)として(さい)利用されています。

  • ものを買うとき
  • ものを使うとき
  • ものをすてるとき

ごみをへらすために、わたしたちができることは何か考えてみましょう。

小田原市でとりくんでいる5R

  • リデュース(ごみを出さない)
  • リユース((さい)利用する)
  • リサイクル(再資源(さいしげん)化する)
  • リフューズ(ことわる)
  • リペア(直して使う)

安全を守る工夫

交通事故(じこ)をふせぐ

小田原警察署管内(けいさつしょかんない)の交通事故(じこ)

小田原警察署管内(けいさつしょかんない)の交通事故(じこ)はどんなようすでしょう。
小田原市の交通事故(じこ)と子どもの事故件数(じこけんすう)(小田原警察署(けいさつしょ))
小田原市の時間別事故(じこ)発生のようす(令和3年小田原警察署(けいさつしょ))
子どもの事故(じこ)内訳(うちわけ)(令和3年小田原警察署(けいさつしょ))
年れい別の事故(じこ)内訳(うちわけ)(令和3年小田原警察署(けいさつしょ))

交番をたずねよう

みぢかにある交番をたずねて、どんな仕事をしているかしらべましょう。

小田原市の交番と駐在所(ちゅうざいしょ)

110番のしくみ

110番のしくみは、どのようになっているでしょう。

 神奈川県内でおきた交通事故(じこ)事件(じけん)などを知らせる110番の電話は、すべて横浜市にある警察(けいさつ)本部の通信司令室(つうしんしれいしつ)につながります。小田原警察署(けいさつしょ)では、小田原市のほか、箱根(はこね)町、真鶴(まなづる)町、湯河原(ゆがわら)町も受け持っているので、これらの市や町で事故(じこ)事件(じけん)が起きたときにも、通信指令室(つうしんしれいしつ)から主に無線で連らくがはいります。そこから連らくを受けた小田原警察署(けいさつしょ)は、すぐに交番や駐在所、パトカーに連らくします。連らくを受けた警察官(けいさつかん)は、急いでその場所へかけつけます。

  • 何がありましたか。
  • いつどこでありましたか。
  • はん人はどんな人でしたか。
  • 何を使ってにげましたか。
  • あなたの名前と住所を教えてください。

ストップ!交通事故(じこ)

交通事故(じこ)をふせぐために、どんな人たちが、どのような仕事をしているでしょう。

 警察(けいさつ)の人だけでなく、学校や市役所、交通安全協会、地いきの人たちなど、たくさんの人たちが、協力し合って、交通事故(じこ)をふせぐために努力しています。

おだわら市民学校「地いきの安全を守る」
交通安全教室
交通安全指導(しどう)
二輪車こう習会
自治会による登校指導(しどう)
カーブミラーの設置

火事をふせぐ

 わたしたちの生活を守る仕事について、下の写真を見て話し合いました。

小田原市で起きた火事の件数(けんすう)と原いん(令和3年消(ぼう)年報)
火事でけがをしたり、なくなったりした人の数
市で起きた火事の件数
市で起きた火事の主な原いん

まちの消(ぼう)しせつをさがそう

 学校や学校のまわりの消(ぼう)しせつがある場所とその理由を考えよう。

わたしたちのまちの消防(しょうぼう)しせつを、調べてかいてみましょう。

 学校にはどのような消(ぼう)しせつがあるか、調べてみましょう。

学校の消火(せん)

その他の学校の(ぼう)火しせつ

消火器
(ぼう)火とびら
(けむり)感知器
熟感知器
調べて考えよう

119番通ほうのしくみ

119番のしくみを調べよう。

 「119番」のしくみはどのようになっているのか、調べましょう。

正しい119番通ほうの仕方

①火事か、救急(きゅうきゅう)か、はっきり伝える。
②場所を伝えるときは、番地のほかに近くの目印も伝える
③もえているものは何かを伝える。

正しい119番通ほうの仕方

交通事故(じこ)、事件のときは、110番(警察署(けいさつしょ))
火事、病気やけがのときは、119番(消防署(ぼうしょ))
海の事故(じこ)のときは、118番(海上保安庁(ほあんちょう))

防署(ぼうしょ)の人の話

119番通ほうは、消(ぼう)本部消防指令センターにつながります。消防指令センターからは市内すべての分(しょ)や消防団(ぼうだん)警察署(けいさつしょ)、市の水道局などに、火事が起きたことが連らくされます。(火事の場所に近い消防署(ぼうしょ)や消防団(ぼうだん)がすぐに消火に向かえるよう消防指令センターから指示がでます)小田原市では市内のどこで火事が起きても消防車(ぼうしゃ)が到着できるように、5つの消防署(ぼうしょ)、分(しょ)、出張所が配置されています。

防署(ぼうしょ)をたずねて

 働く人の仕事のようすや、しせつを調べよう。

かみん室
防車(ぼうしゃ)

(ぼう)隊の人たちの仕事

 消防署(ぼうしょ)の仕事にはどんなものがあるか調べよう

(ぼう)隊の人の話

(ぼう)隊は火(さい)の通ほうを受けて出動します。いつでも出動できるように、交代しながら24時間待機(たいき)しています。火(さい)(げん)場は大変きけんです。ヘルメットや消火服などそう()を身につけて消火にあたります。火(さい)の消火などのほかに、地いきの消防団(ぼうだん)の訓練や総合防災訓練(そうごうぼうさいくんれん)なども協力しておこなっています。

地いきの消火訓練の指(どう)

レスキュー隊の人たちの仕事

レスキュー隊の人の話

防署(ぼうしょ)には事故(じこ)の連らくも入ります。事故(じこ)(さい)害で建物や車などに人が閉じこめられてしまうことがあります。そういう人たちを救助するのがわたしたちの仕事です。つぶれた車体を押し広げる機械など、特しゅな道具をそなえています。また、高いところからの救助などさまざまな場面を想定(そうてい)して訓練をつみ、いつでも救助のために出動できるようにそなえています。

救急隊の人たちの仕事

救急車につまれているもの

救急車の仕事(令和4年消防年報)

救急隊の人の話

救急隊は事故(じこ)や災害などの連らくを受けた時にすぐ出動できるように待機しています。救急車にはけがをした人や、具合の悪くなった人を乗せるためのじゅんびがしてあります。救急隊の仕事は病気やけがの手当てを学んだ消(ぼう)隊員がおこなっています。救急車は消防指令センターや各地の病院と連らくが取れるようになっていて、できるだけ早くけがをした人や具合の悪い人を病院へ運びます。

まわりの市や町との助け合い

 まわりの市や町とどんな協力をしているでしょう。

 神奈川県では、火事が起きると火事の場所や大きさによって、となりあっている市や町がお互いに協力し合って消火にあたる約束をしています。例えば、箱根町や二宮町で火事があれば、小田原市からおうえんに出ることもあります。また反対に小田原市で火事があれば、箱根町や二宮町がおうえんに来ることもあります。

防署(ぼうしょ)の人の話

小田原市消(ぼう)本部では、平成25年3月31日から小田原市のほか、南足柄市、中井町、大井町、松田町、山北町及び開成町の2市5町で活動しています。これを広いき消(ぼう)といいます。

小田原市消(ぼう)本部には10の消防署(ぼうしょ)があり、火災などの災害が発生したときには、小田原市だけでなく、多くの消防署(ぼうしょ)から消(ぼう)隊が出動します。

「出動」がないときは

出動がないときは、消(ぼう)しせつの点検や火(さい)・救急の救助訓練などをしています。火(さい)(ぼう)のよびかけや、地いきで行われる消火訓練を指導(しどう)するのも大切な仕事です。消防署には24時間いつでも出動することができるように、消防署(ぼうしょ)員が交代でねとまりしています。

地しんにそなえて ー関東大しん災(さい)のようすー

関東大しん(さい)の時の小田原市はどのようなひ害にあったのでしょう。
関東大しん(さい)のひ害をうけた小田原駅(画面おく)周辺 1923年(大正12年9月)

ひ害のようす1923年(大正12年)9月1日(現在の小田原市のはんい)

しんさいを体験した杉本萬吉さん(当時12才)の話

関東大しんさい体験記録集より(山王網一色地区自治会・公民舘)

地しんの後、何分、何十分たってからか分かりませんが、小田原の町中は大火事でした。それはそれは大変なさわぎでした。火事で竜巻たつまきが起こったのです。その竜巻たつまきのためにいろいろなものがふき上げられてとんでくるのです。トタンなどが火の粉とともに、とんできました。真っ黒なけむり、赤いほのお、おそろしいかぎりでした。

神奈川県西部地しん説

 小田原市の周辺では昔から大きな地しんが起きていました。これからも大きな地しんにそなえる必要があります。

地しんにそなえた市のしせつ

小田原市では、地しんにそなえてどんなことをしているのでしょう。

 小田原市ではさい害のためにひ害を受けるおそれがあったり、ひ害を受けたりした場合にそなえて、市民によびかける防災ぼうさいぎょうせい無線や海からのひ害をふせぐための防潮ぼうちょうとびらなど、市民の安全のためにそなえています。また学校など市内のしせつに海ばつ(海面からの高さ)の表示をとりつけたり、津波つなみがおきたときにひなんできるしせつを表示したりしています。

防災ぼうさいぎょうせい無線
非じょう用えい星電話
給水車
防潮ぼうちょうとびら(開放時)
防潮ぼうちょうとびら(閉鎖へいさ時)

防災対策担当ぼうさいたいさくたんとうの人の話

 小田原市の小学校・中学校は地しんにたえられる建物たてものなので、その多くが広域避難こういきひなん所になっています。またいざというとき市民にわたせるように、小学校・中学校などに、食料や水など、必要な品物をたくわえています。さらに小田原市では、市内を8地区に分けてハザードマップを作っています。このハザードマップでは、地いきごとの避難ひなん場所や避難ひなんけいろなどのかくにんができるようになっています。ハザードマップは地いきやかく家庭に配布しています。
 地しんは、いつやってくるかわかりません。もしひ害にあってしまったら、地いきの人がおたがいに協力して、ひ害をできるだけ大きくしないようにすることが必要です。火事を起こさないよう火のしまつをし、けが人を救助して安全な避難ひなん場所へ集まれるように日ごろから訓練していただきたいと思います。

小田原市ハザードマップ

(日常のそなえ)
小田原市の防災関連施設標識ぼうさいかんれんしせつひょうしき(マーク)

学校の防災備蓄ぼうさいびちく倉庫をみてみよう

小中学校の防災ぼうさい倉庫にはどんな品物があるのだろう。

 わたしたちの学校は、さい害があったときに地いきの避難ひなん所になります。けがをした人が大勢おおぜいいた場合は仮設救護所かせつきゅうごしょもつくられます。小田原市では小中学校の防災ぼうさい倉庫に、さい害時に使う道具などを保管しています。

小田原市の防災関連施設標識ぼうさいかんれんしせつひょうしき(マーク)

地いきの防災ぼうさい倉庫をみてみよう

地しんにそなえて、自治会はどんな活動をしているのでしょう。

自治会長さんの話

 自治会ではさい害などにそなえて、訓練や用具の準備じゅんびをしています。さい害の時は、小田原市が広域避難こういきひなん所を開くまで、自治会で避難ひなん場所をつくります。私たちの自治会は、助け合ってさい害をふせぐため、「防災ぼうさい会」(自主防災組織ぼうさいそしき)をつくりました。「防災ぼうさい会」では、連らく係、消火係、救出係などの役割やくわりを決め、地いきの人々の安全を考えています。
 また、いざという時に、落ちついて行動できるように、消火訓練や救護訓練、避難ひなん訓練などをしています。さらに自治会では、薬、ロープ、バール、のこぎり、なた、スコップ、たんかなどを用意しています。食料などは地いきにある商店にたのんで、ひ害を受けた時に協力してもらえるようにお願いしてあります。非じょう時にはどのように情報じょうほうを得るのかが問題です。FMおだわらのような地いきの放送局に期待しています。また、地いきの情報収集手段じょうほうしゅうしゅうしゅだんとして無線を配備はいびし、何があった時は消防ぼう団の情報じょうほうもあわせて、すばやく活動できるようにしています。

総合防災そうごうぼうさい訓練

小田原市では、地しんにそなえてどんな訓練をしているのでしょう。
消火訓練
給水訓練
仮設かせつトイレの組み立て
救護訓練

いざという時のために

地しんが起きたとき、どんなことに気をつけたらいいでしょう。

 小田原市では市と自治会そしきを中心にして,消防署ぼうしょ警察署けいさつしょ、自えい隊、水道局、電力会社、電話会社、建設団体などと協力して大さい害に対する訓練をしています。さい害はいつ起きるかわかりません。そこでいざという時の助け合いができるように、防災ぼうさい訓練を学校で行う地いきもあります。

学校で訓練に参加した中学生の話

 火事の時に役立つように、消火器の使い方を習いました
 火事の時は「まず落ち着くこと、火事を大声で知らせること、消火器はしっかりレバーをにぎること」を習いました。非じょう用食料がき上がって、アツアツのごはんができたときはうれしかったです。食べてみると、味がうすかったけど食べられました。でも、こういう食事ばかりだときびしいなと思いました。避難ひなん生活は、大変だなと思いました。

郷土きょうどの開発につくしたひとたち

用水を引く

用水のできる前のようす
用水がひかれて開かれた水田(今のようす)
用水が流れているところとまわりのようす

荻窪おぎくぼ用水のたんけん

荻窪おぎくぼせぎの記念

にきざまれている話

 この石は、荻窪おぎくぼせぎの記念です。
 このせぎをつくるときに、中心になって働いた川口広蔵がわぐちひろぞうをしのんで、荻窪おぎくぼの人たちが建てたものです。このせぎは、今から200年ほど前に、苦労してつくりあげたといわれています。湯本から早川の水を引いて、荻窪おぎくぼなどの田に使われてきました。

駒形こまがたの水車
③一番長い桜田隧道ずいどう(340m)の入り口(竹のぼうは、180cmあります。)
④桜田隧道ずいどうの出口(右)と板橋用水の取り入れ口(左)
⑤板橋用水の流れ(上)と近くの大窪小学校(下)
⑥小田原用水と合流(※生活用水として使われています。)

水をもとめる村人たち

用水路ができる前の村の人たちは,どのようなくらしをしていたのでしょう。

 荻窪おぎくぼ村は山のふもとにある村です。水が足りずに,あまり米ができなかったので,おもに畑で,おかぼや麦,あわなどをつくっていました。また,村の人たちは,農業のあいまに,山でたきぎをとって小田原のまちに売りにいき,くらしの助けにしていました。そのため,村の人たちは,田を開いて,米をもっとつくりたいと願い続けてきました。「水があったら,たくさんの米がつくれるのに。水がほしい。」ということが,村の人たちの長い間の願いだったのです。

畑で作られたおもな作物

 そのころ(今からおよそ300年前),小田原に大きな地しんが起こりました。その地しんで,わずかにわき出る水を集める村の水路がこわれてしまいました。また,同じころ、富士ふじ山がふん火して,畑にもはいがあつくつもってしまいました。このため,畑はあれはてて,荻窪おぎくぼ村の人たちのくらしは,ますます苦しくなってしまいました。

 家の戸がすさまじく音を立て,かみなりのような音が鳴りひびき,あられかと思うと黒石まじリの軽石がってきた。夜の八時すぎからすなりはじめ,次の日の二十四日になるとかみなりをまじえて大雨のようにった。昼間であるにもかかわらず砂煙すなけむりで夜のようになり一日中暗かった。
▲1707年(宝永ほうえい4年)11月23日富士ふじ山のふん火のようす
(足柄下郡小船村一現小田原市小船の名主さんの記録から)

火山灰ばいにうまった畑を掘り起こす村の人たち

 ところが、このころの農家の人たちは、村をおさめていた役所(小田原はん)に、年貢ねんぐ(税金)として、おもに米をおさめなければなりませんでした。人々のくらしは苦しくなるばかりでした。

年貢ねんぐをおさめる村の人たち

用水路づくりと村人

広蔵ひろぞうや村人たちが用水路をつくるために、どのような苦労や工夫をしたのか調べてみましょう。

 「水がほしい。」と、願い続けた荻窪おぎくぼ村の人たちでしたが、用水をどこからどのように引いたらよいかわかりませんでした。川口広蔵かわぐちひろぞうは、今の山北町に住んでいました。広蔵ひろぞうは、山北の瀬戸せとせぎをつくる工事を手伝ったことがあるので、そく量や土木工事などの高い技じゅつを使う、用水路づくりの方法を知っていました。あるとき荻窪おぎくぼ村にきた広蔵ひろぞうに、村の人たちは自分たちの願いを話しました。話を聞いた広蔵ひろぞうは、荻窪おぎくぼ村に用水路をつくり、水にこまらない米づくりのできる村にかえたい、村人が安心してくらせる土地にしたいと考えました。村の人たちと力を合わせて用水路づくりをしようと決心した広蔵ひろぞうは、さっそく荻窪おぎくぼ村のまわりの山や谷を調べ始めました。

荻窪用水の道すじ

 その結果、早川の上流の湯本ゆもとから水を引き入れる水路をつくり、山にトンネルをほれば、荻窪おぎくぼ村まで水を引くことができると考えました。この計画を広蔵ひろぞうは、村の人たちに話しました。村の人たちは、水の取り入れ口が速いうえに、その間に山がかさなり、谷や沢が深いので無理ではないかと反対しましたが、それでも力を合わせて、この大仕事をやってみようということになりました。

土地のようすを調べる広蔵

 広蔵ひろぞうは、村の代表者とともに工事の願いを小田原はんに出しましたが、あまりにも大きな計画だったため、なかなかゆるしが出ませんでした。しかし、村人たちの強い願いと、米の生産せいさんを高めることにも役立つということで、ようやくゆるしが出ました。さっそく、広蔵ひろぞうは、小田原はんのえんじょを受けて村の人々とともに工事のじゅんびにとりかかりました。

村の人たちに用水路づくりの計画を話す広蔵

むずかしかった工事

用水路づくりは、どのように行われたのでしょうか。

 工事は、水路を決めることから始まりました。早川の水の取り入れ口と、荻窪おぎくぼ村がわの出口の高さの差を考えて、用水路の道すじを決めなければなりません。しかし、計画の道すじには山がおりかさなるように続き、深い谷や沢がたくさんあるのです。
 用水路の高低をはかるのには、予定した場所に板やすげかさをならべ、むかいの山から見通して旗をふってはかりました。夜は、旗のかわりに、ちょうちんを使いました。また、水路が谷や沢をこえるところは、板でといをつくり、橋のようにしてわたす工夫をしました。

用水路の取り入れ口と出口の高さ
ちょうちんを使った夜のそく量
橋のようにして谷や沢をわたした用水路
(箱せぎともいいます)

 このような苦心のすえに、はばが90cm~180cm、長さがおよそ10.3kmの用水路の道すじを決めました。
 そして、その長さの間に、短いものをふくめると40以上ものトンネルをほりぬくということも決めました。
 トンネルほりも、たいへんな苦労でした。じしゃくで方向を、水準器すいじゅんきでかたむきを調べながらほっていきましたが、ほりまちがえてしまったときもありました。
 トンネルの中はまっくらなので、がんどうやカンテラなどをあかりにしました。トンネルをほる道具は、石のみとつち(ハンマー)だけです。石のみを岩にあて、つちでたたきくだいていきました。くだいた岩は、もっこで外に運び出すのです。かたい岩ばかりの烏帽子岩えばしいわトンネルは、ほるのに1年以上もかかりました。
 カンテラなどの油として、およそ70l入りのたるを13たる(ドラムかんで約5本分)も使ったといわれています。
 また、土がやわらかいところの水路づくりは、水がもれたり土手がくずれたりするので、土台を石がきて固めました。そして、その上に箱せぎをつなぎ合わせて、水を通しました。

用水路の取り入れ口と出口の高さ
トンネルをほる村の人たち

長引く工事

工事の間にどんな苦労があったのか考えてみましょう。
土を運ぶ道具

 こうして始まった用水路づくりでしたが、むずかしい工事やさい害(ききんや大雨や日照りなど)が続いて、計画よりたいへんおくれてしまいました。工事が長びくにつれて、完成をうたがう人や仕事をやめる人も出てきました。
 また、村の人たちからは、ほった土や岩が雨で流されてきて、山があれてこまるといううったえがあったり、寺からは、しき地の中に用水路を通すのはこまるという反対があったりしました。
 さらに、広蔵ひろぞうがもっともたよりにしていた協力者の弟子でしのひとりが、工事こうじ中の事故じこでなくなってしまうということもかさなりました。

ほりまちがえたと思われるところと、あかりを置いたと思われるあな(右下)

 そのうえ、工事のとちゅうに、このあたりで、ききんや大雨によるこう水など、思いがけないできごとが次々におこりました。そのため、小田原はんからの工事のえんじょもとだえがちとなりました。こうして、工事は計画よりもおおはばにおくれてしまったのです。

城南中学校近くの狩俣隧道かりまたずいどう入口
トンネルの中の様子(桜田隧道さくらだずいどう)(高さは、180cmほどあります。)
荻窪用水の完成をよろこぶ人たち

水田を開く

用水路が完成して村の人たちのくらしは、どのように変わったのか考えてみましょう。

 小田原はんのえんじょと広蔵ひろぞうや村の人たちの苦労と努力によって、この大工事も、ついに完成しました。長い間の願いがかなって、用水路に早川からの水が流れでたとき、人々は、手を取り合ってよろこびました。荻窪おぎくぼ村はもちろん、用水路ぞいの村々(湯本ゆもと入生田いりゅうだ風祭かざまつり板橋いたばし水之尾みずのおなど)のあれ地に水田が開かれ、米づくりができるようになったのです。(用水を村々に分けるために、8つの水門と水路をつくりました。) 6つの村の人々は、次々に田をふやし、やがて、合わせて58haほどの新田ができました。用水路が完成してから70年後には、荻窪おぎくぼ村の水田はおよそ2.5倍にもなったそうです。また、用水を利用して水車をまわし、米つきなどもできるようになりました。こうして、広蔵ひろぞうは、大工事をやりとげたはたらきによって、小田原はんから毎年5ひょうずつの米をあたえられるようになったということです。

360年ほど前

1659年(万治2年)

140年ほど前

1876年(明治9年)

荻窪村の田畑のうつりかわり
(内田 清氏の研究より)
荻窪用水からひいている田の広さ
1897年(明治30年)

 荻窪おぎくぼの人々は、今でも春と秋のお彼岸ひがんには、「広蔵念仏ひろぞうねんぶつ」をとなえるために集まったり、おはかまいりをしたりして、広蔵ひろぞうや村の人たちの苦労をわすれないようにしているようです。

用水の利用

用水はどのように利用されているのでしょう。

 荻窪おぎくぼ用水は、その後、水路などのしゅう理や改良をくわえながら、ずっと利用されてきました。
 ところが、今からおよそ100年前におきた大地しんによって、用水路は、すっかりこわれてしまいました。
 しかし、用水路ぞいの村の人たちは、県の助けをかりて、用水路をしゅう理したり、つくりかえたりして、水をとり入れられるようにしました。
このため、つくりなおす前のようすとちがっているところが見られます。その1つが、用水の取り入れ口です。

昔の荻窪用水の取り入れ口ふきん
今の用水の取り入れ口

 用水の使い方も、昔とくらべて変わってきました。昔は、おもに米づくりや水車を回すために使っていました。今では、そのほかに、みかんづくりや発電、ぼう火用水、はい水路などにも利用されています。このように、荻窪おぎくぼ用水は、今も用水路ぞいの多くの人たちに使われているのです。また、平成23年には、きちょうな「土木遺産どぼくいさん」としてにん定されました。

発電するための送水管
みかんのさいばいに使われる用水
さかきのさいばいに使われる用水
米づくりに使われる用水
荻窪用水から取り入れた水で育つ稲

水害をふせぐ ー酒匂さかわ川の水害ー

酒匂さかわ川の水害は、どんなようすだったのでしょう。
ふだんの酒匂さかわ川(2011年9月さつえい)
大雨がふった後の酒匂さかわ川(2010年9月8日さつえい)

 酒匂さかわ川は、富士ふじ山や丹沢たんざわの山々のふもとから流れ出したたくさんの川(支流しりゅう)の水を集め、足柄あしがら平野の中央を流れています。その水は米づくりや水道水などに利用されています。
 この川は、川はばがおよそ200m~300mと広いわりに、ふだんは水かさが少なく、河原が多く目立ちます。人々の生活をささえてきた酒匂さかわ川ですが、ひとたび大雨がふリ続くと、急に水かさがふえて、川はばいっぱいにものすごいいきおいでうねりながら流れる川に変わります。このように、酒匂さかわ川は、変化のはげしい川としても知られています。

むかしの酒匂さがわ

 江戸えど時代の酒匂さかわ川は、大雨が続くと、ていぼうがよく切れて、こう水となりました。そのたびに田畑はあらされ、ひどいときには、人や家まで流されました。このような酒匂さかわ川のこう水は50回以上もあったといわれています。

大口土手おおくちどて(文命堤ぶんめいつつみ)のこう水〈南足柄みなみあしがら市〉

水害は、人々の生活や土地のようすをどのように変えてしまったのでしょう。

大口土手おおくちどて(文命堤ぶんめいつつみ)のこう水〈南足柄みなみあしがら市〉

 このていぼうは、今の南足柄みなみあしがら市にあり、およそ400年ほど前に(小田原城主じょうしゅ大久保おおくぼ氏によって)つくられ、大口土手おおくちどてといわれていました。この土手が大水で切れると、川の西がわの21の村が水害をうけ、東がわの16の村は水不足になって、米づくりができなくなり、人々が苦しむもとになっていました。この土手は酒匂さかわ川でとくに重要なていぼうと言えます。今から300年ほど前(1708年)の大こう水は、とくにひ害が大きく、6つの村が流され、酒匂さかわ川の川ぞこになってしまうほどのひどさでした。このため、やく500けん、およそ2800人の村人たちは、家と田畑を失い、約20年間もよその村でひなん生活をおくることになってしまいました。人々はそまつな小屋に住み、また、ひなんした所には、前の年にふん火した富士ふじ山からの火山灰かざんばいがたくさんつもっていたので、畑をつくるのもむずかしく、食べ物にもとてもこまりました。不自由な生活をつづけ苦しむ人々は、そのようすを江戸えど(今の東京)の幕府ばくふの役人にうったえています。

新大口橋から見た文命東堤ぶんめいひがしつつみとその上に建つ福沢ふくざわ神社(大口土手)
文命東堤ぶんめいひがしつつみを守る役わりをする上流の文命西堤ぶんめいにしつつみ(がらせ土手)
酒匂さかわ川の流れにそってきずかれたていぼう
「とみず子ども風土記」より

 さらに、1711年には、大口土手が切れる大こう水がおきました。あまりのひ害の大きさに、幕府ばくふは、川崎の田中丘隅たなかきゅうぐという人にめいじて土手をつくりかえ「文命堤ぶんめいつつみ」と名づけました。しかし、しばらくすると、これも切れてしまうほどのこう水(1734年)が起きて、土手をつくり直さなければなりませんでした。その後、この土手は切れなくなりましたが、これよりも下流の土手がよく切れて、村々に大きなひ害をもたらしました。

三角土手

三角土手のこう水

 この土手は、川音かわおと川が酒匂さかわ川と合わさる所にあって、川の東がわの村々は、近くから水を取り入れて米づくりに利用していました。今からおよそ290年ほど前に起きたこう水では、ここから鬼柳おにやなぎ村までのていぼうが切れて、16の村がひどいひ害をうけました。特に西大井、鬼柳おにやなぎ桑原くわはら成田なるだの4つの村は、田や畑ばかりでなく家まで流され、あれ地となってしまいました。村の人々は近くの村でくらしましたが、食べものも着るものも十分でないくらしに、なやみ苦しみました。
 そこでかつやくしたのが蓑笠之助みのかさのすけという人でした。田中丘隅たなかきゅうぐのあとをついで酒匂さかわ川の工事をまかされた蓑笠之助みのかさのすけは、川音かわおと川と酒匂さかわ川の合流点の東側に大きな土手をつくる工事の中心となりました。この大きな土手が今の三角土手のきそとなり、川の東がわの村々がこう水にあうきけんがへりました。

川下のこう水

水害をふせぐため、人々はどんな努力をしてきたのでしょうか。

 江戸えど時代になり、酒匂川の両岸にはていぼうが多くつくられるようになりました。しかし、ひとたび大雨がふり続くと、村々の人はみんなで協力して、ていぼうが切れないように守らなくてはなりませんでした。
 今からおよそ230年ほど前の1791年の大水の時には、多古たこのていぼうが切れて、多古たこ井細田いさいだ池上いけがみ中島なかじま今井いまい町田まちだ山王原さんのうはらの村々が水害をうけ、人々のくらしがおびやかされました。また、この時、栢山かやまのていぼうも切れてしまい、あたり一面の田畑は水びたしになってしまいました。しかし、その後、村の人たちは力を合わせて、ていぼうをなおす工事にとりかかりました。その中には、二宮金次郎もいました。まだ少年だった金次郎も、村の力になろうとこれにくわわって仕事をしたといわれています。
 大水のいきおいでていぼうがくずれそうになると、竹であんだ細長いかご(じゃかご)に石をつめて土手にならべたり、土手にはえている木を切って、川の強い水の流れにあてたりしました。しかし、あまりにも水のいきおいがはげしく、ふせぎきれずに、ついに土手が切れてしまうこともありました。
 そこで、ていぼうのところどころに切れ目をつくり、二重にかさなるていぼう(かすみていともいいます)をつくっていきました。こうすることによって、ていぼうにそっていきおいよく流れてきた水は、切れ目にくると力がちらばっていきおいがよわまり、ていぼうとていぼうの間に流れこんで大きなよどみ(水たまり)をつくります。このようなよどみをいくつかのていぼうの間につくって、川の流れのいきおいをよわめる工夫をしました。

「足柄歴史新聞 富士山と酒匂川」(足柄歴史再発見クラブ より)

かすみていのしくみ

酒匂さかわ川に大水が出ると、かすみてい(二つのていぼうの間)に水が入ってきます。(遊水池になります。)
②川に近いていぼう(本ていぼう)をこえてきた水も遊水池に入ってきてたまります。
酒匂さかわ川の水がへってくると、遊水池に入った水は川にもどっていきます。こうすることで、こう水などのひがいを少なくすることができます。
 今でもこのようなていぼうは、酒匂さかわ川でいくつか見ることができます。また、最近の台風などによる大水の時にもその役わりをはたしています。
 このように、水をおさめるたたかいが、私たちのそ先の知えと努力によって、むかしから続けられてきました。しかし、一方で、生活にめぐみをもたらす川としての酒匂さかわ川を大切にしてきました。

今も見られる酒匂さかわ二重堤防ていぼう(かすみてい)

東富水小学校南側にある「かすみてい

 写真右側の松があるあたりが本ていぼうとなっていて、そのむこうに酒匂さかわ川が流れています。
写真左側の松があるあたりが、ひかえていぼうになっています。写真中央には小田原アリーナが見えます。

報徳橋ほうとくばし上流の城北じょうほく工業高校北側にある「かすみてい」。二つのていぼうの問は田や畑になっています。
開成かいせい町足柄大橋近くの「かすみてい」。足柄大橋の下に,ていぼうの切れ目があります。

酒匂さかわ川を歩いてみよう

 酒匂さかわ川ぞいを歩いてみると、私たちのそ先から今まで、酒匂さかわ川とともに生活してきたことがわかるものにたくさん出会います。
 酒匂さかわ川の近くや土手には、さまざまな時代のさまざまな人がたてた石碑せきひやお地蔵じぞう様、水神様があります。それらには、酒匂さかわ川のこう水の苦しみをのりこえようと努力し、安全で安心した生活をのぞんだ当時の人々の強い願いがこめられています。
 みなさんも近くにあるお地蔵じぞう様や水神様にこめられたねがいや、石碑せきひにきざまれた地いきの歴史を調べてみてはどうでしょうか。

大口(文命東堤ぶんめいひがしつつみ)のお地蔵じぞう
開成かいせい祖師堂そしどうのお地蔵じぞう
中曽根なかそねのお地蔵じぞう
蓮正寺れんしょうじの水神様
足柄大橋付近の治水碑ちすいひ

流れをかえた川づくり《久野川・山王川》 ー久野川の川づくりー

人々の水害をふせぐための工夫を探してみよう。

 昔の久野川は、曲がりくねって流れていました。大水になると、たびたび水害をおこして田畑をあらし、村の人々を苦しめてきた川でした。
 今からおよそ100年前(1923年)に、関東大震災かんとうだいしんさいがありました。家や道などがこわれただけでなく、川のていぼうもくずれてしまったので、村の人々は、久野川耕地整理組合こうちせいりくみあいをつくり、これをなおす工事に取りかかりました。
 工事は、1924年12月に始まり、7か月ほどで完成しました。川になるところを2mほり下げて、長さおよそ2kmのまっすぐな新しい川をつくっていきました。ほり出された土や石は、昔からの川のうめ立てやていぼうづくりに使いました。
 この工事で苦労したのは、費用のことでした。国から出るお金がへらされたため、足りない分は銀行からお金をかりて、組合の人たちはそれを毎年返していきました。
 そのため、役員の人たちはとてもつらい思いをしてきました。

久野川をなおした記念碑(昭和38年にたてられました。)

 左の写真は、兎河原うさんがわら橋のたもとに置かれ、川づくりに努力した先人を伝えるです。そのには、川のはんらんに苦しめられてきた歴史と、新しい川づくりに立ち上がり完成させた先人のがんばりがかかれています。また、曲がりくねった昔の久野川と、直線じょうになおされた新しい久野川とが図で示されています。

なおす前と後の久野川を図で示した模写もしゃ

 その後の久野川は、水害の心配のない川になり、まわりの土地もひらけてきました。

今の久野川のようす

山王川の川づくり

 久野川の下流の山王川も、昔は、曲がりくねって流れていたために、大水のたびにていぼうがくずれました。橋が流されたり、田畑があらされたりして、人々をこまらせた川でした。
 この川も、関東大震災かんとうだいしんさいがきっかけとなって、村の人たちが山王川こうせいくみあいをつくり、川と田畑の形をなおしていきました。工事といっしょに、通路や水路もなおす、村づくりも行いました。川づくりは、8か月ほどの工事で1925年に、田畑や道路・水路づくりは1927年に完成しました。しかし、この工事にもたいへんな費用がかかりました。組合員は、工事費のやりくりと、川や田畑・道路や水路をつくりなおすのに必要な土地のやりくりに苦労と努力をかさねました。これがみのって、水害のない、形のよい田畑と道路がととのった、農業のしやすい地いきにかわりました。

なおす前の山王川の様子 (額田正平氏より)
今の山王川の様子(神奈川県行政資料室より)

人々の幸せを願って ー二宮金次郎にのみやきんじろう尊徳そんとく)についてー

遺跡いせきや博物館を見学して郷土きょうど偉人いじんについて調べてみましょう。
報徳二宮神社ほうとくにのみやじんじゃ尊徳像そんとくぞう
善栄寺ぜんえいじ尊徳像そんとくぞう

 このような像をどこかで見かけたことはありませんか。これは二宮金次郎の像です。
 二宮金次郎は今から230年ほど前に栢山かやまに生まれました。少年のころ、酒匂さかわ川のこう水で田畑が流されてしまいました。父母はその後の苦労などが重なりあいついでなくなってしまいました。
 しかし、金次郎は希望を失わず努力を重ねて良く働き、まずしかった家をりっぱに立て直しました。
 そして、全国で600ものまずしい村をゆたかな村につくりかえる仕事をなしとげるなど、人々の幸せのためにつくした人です。

 金次郎は病気の父のかわりに酒匂さかわ川のていぼうを直す仕事に出ましたが、大人のように働けません。その分、夜にわらじをあんで村の人に使ってもらいました。また、松苗なえ売りのおじいさんが売れなくてこまっているのを見て、金次郎はりでかせいだお金で松苗なえを買いました。 そして「洪水がおきそうな時に、松を切りたおしてならべれば水のいきおいを弱められるだろう。」と考え、酒匂さかわ川のていぼうに植えました。このように、少しでも人のためになるように考えて実行しました。

松苗なえを植えた坂口堤さかぐちづつみ
菜種油なたねあぶらで火をともし勉強する金次郎
すてなえを植える金次郎

 13才で父を、15才で母をなくした金次郎は、おじさんの家にあずけられました。夜、勉強するには明かりに使うあんどんの油が必要です。そこで一握ひとにぎりの菜種なたね仙了堤せんりょうつつみにまいたところ、次の年の初夏には約7しょう(12.6ℓ)のしゅうかくがありました。それを菜種油なたねあぶらに代えて勉強を続けました。
 また、田植えの時にすてられたなえを拾い集めて、あれ地をたがやして植えました。
 そして、秋には1ぴょう(約60kg)を次の年には5ひょうの米をしゅうかくしました。「小をんで大となす」(積小為大せきしょういだい=小さい事をみ重ねて、やがては大きいことをしとげる)という尊徳そんとくの教えは、このような自然の力を生かす工夫と努力から学んだといわれます。

二宮尊徳肖像画そんとくしょうぞうが
報徳ほうとく博物館

博物館の館長さんの話

 金次郎(尊徳そんとく)は小田原のとの様大久保忠真おおくぼただざねに、桜町領さくらまちりよう(今の栃木とちぎ県真岡もおか市)の立て直しをめいじられました。そこの村々は、田畑もあれはて村人の心もすさんでいました。金次郎(尊徳そんとく)は家や田畑を売りはらい一家でさくら町にうつり住み、村の立て直しに当たりました。まず、その村の土地のようす、水の便べん、気候、村人のくらしぶりをたんねんに調べました。そして、米の取れ高を調べて、との様に年貢ねんぐ(お米ではらう税)を低くおさえてもらい、あまったしゅうかくの分は村の立て直しに使うようにしました。そして、毎日まだ暗いうちから起き、村を回って早起きをすすめ、作物の育ち、田畑の様子を見て回りました。また、よく働く者には米や農具のうぐをあたえてほめ、村人のやる気を出させました。
 また、自然のめぐみにかんしゃしその力を生かす努力の大切さを教え、むだをなくししゅう入にあったくらしをし(分度ぶんど)、あまった分をたくわえ世の中のため人のためにゆずる(推譲すいじょう)生活をすすめました。
 こうした苦労と努力のみ重ねにより、10年後にはさくら町はゆたかな村に立ち直りました。

 さくら町がりっぱな村に立ち直ったことを聞き、各地より農村の立て直しの方法(仕法しほうといいます)を学びに人々が集まりました。金次郎(尊徳そんとく)は多くの人たちを指導し、まずしい農村をゆたかにするために一生をささげました。
 小田原りょうがききん(米が取れずうえに苦しむこと)の時、人々をすくう働きをしました。そして、小田原でも、農村をゆたかにする仕事に取りかかりました。
 曽比そび村では、冷たい地下水がわきだすためにいねの育ちが悪く、村人は苦しんでいました。金次郎(尊徳そんとく)は、その冷水を取りのぞくために排水路はいすいろをほらせました。この作業には老人も子どもも進んで参加したといいます。その結果、田の水の温度が上がり、今まで以上のしゅうかくをあげることができるようになりました。

報徳堀ほうとくぼり

二宮金次郎(尊徳そんとく遺跡いせきマップ

伝統でんとう工芸を守る人たち

伝統工芸品を調べる

小田原にはどんな伝統でんとう工芸品があるのでしょう。

 上の写真の品物は、すべて小田原の伝統でんとう工芸品です。
 伝統でんとう工芸品は、むかしから伝わる技術ぎじゅつやいろいろな方法で職人しょくにんさんが作り上げたもので、材料は自然にあるものを使っています。
 小田原市は、昔からゆたかな自然にめぐまれ、また、古くから人々の行き来が多い土地がらでした。そのような自然と歴史の中で生み出され、多くの人々によって守られてきた伝統でんとう工芸品は、全国的にも有名です。

小田原しっ ー生活に役立ってきた漆器しっき

小田原漆器しっきにはどんな特色があるのだろう。

 漆器しっきは、日本各地で作られています。小田原漆器しっきの特色は、木の自然の木目をそのまま生かしているところです。よく使われる木はけやきで、木地職人きじしょくにんが木を器の形にして、塗職人ぬりしょくにんがうるしをぬって仕上げていきます。
 小田原漆器しっきが作られ始めたのは、今からおよそ500年前といわれています。箱根や伊豆いずには(木材やうるしなど)たくさんの良い材料があり、を作る職人が集まっていました。小田原で漆器しっきづくりの技術ぎじゅつが発達したのは、北条氏康うじやすの時代に、うるし職人が全国から集まってきたからだそうです。また、小田原は東海道の宿場町として人々の行き来が多かったので、生活によく使われる小田原漆器しっきは一気に有名になりました。

うるしのこうきん作用

 小田原漆器しっきはすべて天然の原料で作られています。うるしはうるしの木のじゅ液です。 いっぱんの人はさわるとかぶれるので、気をつけてください。最近の研究で、うるしにはこうきん効果こうかがあることが分かりました。大ちょうきんなどは1日たてばゼロになってしまうそうです。

 うるしのよさは、①変色しない②じょうぶ③ぬり直すと新品のようになることかな。
うるしは手をかければかけるほど、すばらしいものになる。根気のいる作業だし、
温度やしつ度によってうるしのじょうたいが変わるのでむずかしいね。
今まで何千何万つくってきたか分からないけど、会心かいしんの作というものはないね。
まだまだ修行中かな。

伝統でんとう工芸士の大津さんの話

小田原漆器しっきのできるまで

の仕事
塗師ぬりしの仕事(すりうるしの場合)

①すり(ぬり)

すりうるしをはけでぬる。
ぬりむらがないようにする。

②かんそう

風呂ふろでかんそうさせる。
うるしは一日一回しかぬることができない。

③とぎ

よく日うるしをすいこんでけば立ったをろくろで回し、目の細かいやすりでなめらかにする。

ぬりによる表面の変化

④仕上げ

といでなめらかになったの表面に、もう一度うるしをぬる。

うるしぬり一回目
うるしぬり一回目
うるしぬり二回目
うるしぬり二回目
うるしぬり三回目
うるしぬり三回目
うるしぬり四回目
うるしぬり四回目

 ぬりは①から④を、3回、4回・・・とくりかえす。そうすることで、だんだんと色のこいじょうぶな漆器しっきができあがる。

小田原漆器しっきのこれから

小田原漆器しっきが受けつがれていけるように、どんな努力をしているのでしょう。

伝統でんとう工芸士の大津さんの話

 小田原漆器しっき職人しょくにんになるには職人しょくにんさんに教えてもらいながら修行をしないといけません。漆器しっき職人しょくにんになりたいという人はいるのですが、10年たってもなかなか1人前とはいきません。その間、お給料きゅうりようはもらえません。だから漆器しっき職人しょくにんを育てるのは大変なのです。伝統でんとうをたやさないためにも若い職人しょくにんさんを育てるための工夫くふうが必要だと思います。また、漆器しっきを作っていくには、塗師ぬりしも続いていかなければいけません。協力して伝統でんとうを守っていきたいです。

箱根寄木細工よせぎざいく ー寄木細工よせぎざいくができるまでー

箱根寄木細工よせぎざいくは、どうやってつくられているのかな。

 きれいなもようですね。これらは、箱根寄木細工よせぎざいくのせい品です。見たこと、使ったことがあるという人もいるかもしれませんね。ところでこのもようは、どうやってつけたのでしょう。筆などで線をかいたり色をつけたりしたのでしょうか。
 箱根寄木細工よせぎざいくは、江戸時代の終わりごろ、箱根畑宿はたじゅくの石川仁兵衛にへいという人によって作り出されました。箱根山は、日本の中でも特に木の種類が多い地いきです。いろいろな種類の木のかけらをよせ集めてもようをつくり、それをかんなでうすくけずり、箱などにはり合せたものです。明治めいじ時代になって、技じゅつが発達して、ふくざつな連続もようが何百種類もつくられるようになりました。

主な模様

六角麻ろっかくあさ
菱青海波ひしせいかいは
からみます
市松いちまつ
二崩にくず
乱寄木らんよせぎ
七宝矢羽しっぽうやばね
紗綾形あやがた
選材せんざい
使う木を選ぶ
木取きど
板加工する
さらにうすく切る
③部分切だん
部材を決められた形・大きさに切る
かんなでけずる
寄木よせぎその1
切った部材を接着せっちゃくざいではりつけ、ゴムで しばって一つのもようをつくる
寄木よせぎその2
プレスし、単位もようをつくる
⑥横切り
単位もようを一定の長さに切る
寄木よせぎその3
単位もようを接着せっちゃくして、連続もようをつくる
経木きょうぎけずり加工
種木たねぎを特別なかんなでうすくけずる
⑨はりつけ
せい品になる木地きじにボンドではりつける

露木つゆきさんのお話

 材料となる木材を集めるのが大変ですね。材木屋さんでは売っていないことが多いので、必要な色の木材が見つかったときに連らくをしてもらって買うようにしています。 また、寄木細工よせぎざいくを作るには、いくつもの細かい作業が正かくにできなくてはいけません。ですから、一人前の職人しよくにんになるには10年はかかります。 自分のイメージどおりの作品ができあがったときが一番うれしいですね。これからも、ふだんの生活の中で使ってもらえるような作品を作ったり、新しい作品にちょうせんしたりしていきたいと思います。

その他の伝統でんとう工芸品

木象嵌もくぞうがん

組木細工くみきざいく

小田原工芸こうげいもの

小田原ちょうちん

足柄刺繍あしがらししゅう

資料

年表

時代 年代 おもなできごと
先土器・縄文・弥生時代 1世紀以前 狩りや魚とりの生活がおこなわれる
1世紀 農耕生活が始まる
大和・奈良・平安時代
鎌倉・室町・安土桃山時代
7世紀 久野に高塚式古墳が作られる
11世紀 小田原周辺で武士が登場する(村氏,土肥氏など)
1180年 治承4 源頼朝が石橋山で平氏方に敗れる
1495年 明応4 北条早雲が小田原城をおとしいれる
1504年 永正1 早雲に招かれた宇野藤右衛門が秘薬「秀頂香(ういろう)」をつくる
1590年 天正18 豊臣秀吉が小田原を攻めて,北条氏をほろぼす
大久保忠世が小田原城主となる
江戸時代 1703年 元禄16 江戸大地震がおこり,天守閣もこわれるほど大きな被害をうける
1707年 宝永4 富士山が大噴火し,火山灰により大きな被害を受ける
1708年 宝永5 大口土手が切れる
1711年 正徳1 大口土手が切れる
1726年 享保11 田中丘隅,文命堤をつくる
1782年 天明2 小田原地方に大地震がおこり,大きな被害を受ける
1787年 天明7 二宮尊徳が栢山に生まれる
1799年 寛政11 小田原藩と川口広蔵の指導のもとに荻窪せぎが完成し,58町余の水田が開発される
明治時代 1871年 明治4 小田原県ができたが,その年のうちに,足柄県になった
1872年 明治5 はじめての小学校,日新館(今の三の丸小)ができる
1876年 明治9 足柄県が神奈川県にふくまれることになった
1878年 明治20 新橋―国府津間に鉄道が開通した
1888年 明治21 国府津―小田原―湯本間に馬車鉄道が開通する
1889年 明治22 小田原町となる(人口約1万6000人)
1896年 明治29 小田原―熱海間に人車鉄道が開通する
1900年 明治33 国府津―小田原―湯本間に電車が開通し,また,この年に小田原に電燈がつく
1903年 明治36 小田原に電話が開通する
1906年 明治39 小田原―熱海間の人車鉄道が軽便鉄道となる
大正時代 1913年 大正2 小田原で初めて家庭用ガスが使われる
1920年 大正9 熱海線が小田原まで開通し,箱根登山鉄道も開通する
1923年 大正12 関東大震災がおこり,大きな被害を受ける
1925年 大正14 大雄山線が小田原―関本間に開通する
久野川が現在の流れになる

市章しょうの由来

小田原市の市章は、昭和16年に決まりました。
小田原は昔から梅の名所として知られ、また相模湾さがみわんに面して漁業がさかんです。こうした小田原の特ちょうを表すため、波頭なみがしらで梅の花をかたちづくって、市章としました。

時代 年代 おもなできごと
昭和時代 1927年 昭和2 小田急線が新宿―小田原間に開通する
1934年 昭和9 丹那トンネルができ,東海道線が小田原経由となる
1936年 昭和11 小田原の上水道ができ,給水を始める
1940年 昭和15 小田原町,足柄町,大窪村,早川村,酒匂村の一部と合ぺいして小田原市がたんじょうする(人口約5万5000人)
1945年 昭和20 小田原の町が何度も空しゅうをうける
1948年 昭和23 下府中村が小田原市と合ぺいする
1950年 昭和25 桜井村が小田原市と合ぺいする
1954年 昭和29 豊川村,酒匂町,国府津町,上府中村,下曽我村,片浦村が小田原市に入る
1956年 昭和31 曽我村の一部(上曽我,下大井,鬼柳,曽我大沢)が小田原市に入る
1960年 昭和35 小田原城の天守かくがつくり直される
1964年 昭和39 東海道新幹線が開業し,特急が小田原に停車する
1969年 昭和44 小田原本港が完成する 小田原厚木道路が開通する
1971年 昭和46 橘町が小田原市と合ぺいする
1972年 昭和47 西湘バイパスが全面開通する
1976年 昭和51 市の木(くろまつ),市の花(うめ)が制定される
現在地に市役所ができる 東口広場が整備され,地下街が完成する
1978年 昭和53 三保ダムが完成する
1979年 昭和54 久野に新しい清そう工場ができる
1925年 大正14 大雄山線が小田原―関本間に開通する
久野川が現在の流れになる
平成時代 1994年 平成6 小田急線が新宿―小田原間に開通する
1995年 平成7 6月22日,小田原市が20万人都市となる
市の鳥(コアジサシ)が制定される
1996年 平成8 小田原市総合文化体育館・小田原アリーナが完成する
1997年 平成9 ごみを9種類にわけ,資源の分別収集,リサイクルが始まる
1998年 平成10 かながわ・ゆめ国体が開催され,小田原も会場となる
2000年 平成12 市の魚(メダカ,アジ)が制定される
小田原城銅門が復元される 小田原市が施行時特例市になる
小田原こどもの森公園わんぱくらんどがオープンする
2001年 平成13 都市計画道路小田原早川線開通(城山トンネル開通)
2003年 平成15 小田原駅東西自由連絡通路(アークロード)が完成する
2004年 平成16 小田原西口駅前広場が完成する 小田原市教育都市宣言が制定される
2007年 平成19 コミュニティ放送局・FMおだわらが開局する
2011年 平成23 小田原のまちづくりにかんする,新たな総合計画(おだわらTRYプラン)がはじまる
2015年 平成27 おだわら市民交流センターUMECOが開設される
2016年 平成28 小田原城天守閣リニューアルオープン
2017年 平成29 城山陸上競技場リニューアルオープン
令和時代 2019年 令和1 漁港の駅TOTOCO小田原がオープンする
2020年 令和2 市立図書館が閉館する
小田原市立かもめ図書館を小田原市立中央図書館に改称(かもめ図書館は愛称として継続)する
小田原駅東口図書館が開館する
2021年 令和3 小田原三の丸ホールがオープンする

小田原市の1日

出生
1日当たり2.9人

令和3年

死亡
1日当たり6.3人

令和3年

転入
1日当たり19.0人

令和3年

転出
1日当たり17.5人

令和3年

結婚(本市届出件数)
1日当たり1.8件

令和2年度

離婚(本市届出件数)
1 日当たり 0.8件

令和2年度

JR乗車人員
(小田原駅・東海道本線)
1日当たり23,768人

令和2年度

小田急線乗車人員
(小田原駅)
1日当たり20,813人

令和2年度

図書館の貸出冊数
1日当たり752冊

令和2年度

ごみ(処理量)
1日当たり183t

令和2年度

し尿(処理量)
1日当たり4.4kl

令和2年度

水道(使用量)
1日当たり51,171㎥

令和2年度

火災
(市消防本部管内)
1日当たり0.18件

令和2年

刑法犯罪
(小田原警察署管内)
1日当たり2.3件

令和3年

交通事故
(小田原警察署管内)
1日当たり2.0件

令和3年

天守閣入場者数
1日当たり584人

令和2年度

この本の作成にご協力をしてくださった方々、ところ(順不同)

株式会社カネボウ小田原工場

ライオン株式会社

MeijiSeikaファルマ株式会社

株式会社ダイナシティ

フレスポ小田原シティーモール

JR東日本

JR東海

小田急電鉄㈱

箱根登山鉄道㈱

伊豆箱根鉄道㈱

松原神社

㈱済世堂薬局小西本店(薬博物館)

欄干橋ちん里う(梅万資料館)

籠常商店(かつおぶし博物館)

株式会社丸絵江嶋事業部(倭紙茶舗)

有限会社早瀬幸八商店(ひもの工房)

株式会社ういろう

朝ドレファ~ミ♪(JA)

小田原駅名産店

小田原蒲鉾協同組合

教育出版株式会社

鈴廣蒲鉾株式会社

高橋 忠克さん

小田原柑橘倶楽部

魚竹

中村 泰良さん

小伊勢屋

株式会社田中組

小田原囃子多古保存会

下田 誠一さん

ブリの森づくりプロジェクト

青柳 守さん

報徳二宮神社

報徳博物館

旧村田医院

善栄寺

㈱小田原魚市場

大川 肇さん

大津 晃さん

薗部産業株式会社

露木木工所

小田原警察署

開成町教育委員会

足柄歴史再発見クラブ

神奈川県水産技術センター相模湾試験場

神奈川県企業局利水電気部利水課

流域下水道酒匂管理センター

神奈川県流域下水道整備事務所

帝国書院

水産航空株式会社

㈲石橋印刷

小田原市役所

企画政策課/広報広聴室/地域政策課/観光課/産業政策課/商業振興課/農政課/水産海浜課

生涯学習課/文化財課/環境政策課/環境事業センター/消防総務課/防災対策課/水道整備課

下水道整備課/川東タウンセンターマロニエ/市立図書館/郷土文化館/小田原市観光協会

神奈川県行政資料室

引用・参考文献

「1枚の古い写真」小田原市立図書館/「小田原・足柄の100年」千秋社/「とみず子ども風土記」

「足柄歴史新聞 富士山と酒匂川」足柄歴史再発見クラブ

「小田原市立久野小学校開校50周年記念誌」/「関東大震災体験記録集」(山王網一色公民館)

この本の作成に当たった方々(順不順)

編集・執筆

◎納今日子(酒匂小学校) ○長山武司(東富水小学校) ○横山聡(下府中小学校)

 星野真吾(曽我小学校)  小林あゆみ(富士見小学校)  松井香織(富士見小学校)

〔◎委員長 ○副委員長 所属は平成26年3月31日現在〕

小田原市教育研究所職員

イラスト(さし絵)

堀井寛子(保健給食課)隅田美砂子(教育総務課)〔所属は平成24年3月31日現在〕

市川実咲(三の丸小学校)〔所属は平成26年3月31日現在〕

表紙デザイン

odango crafty

 「わたしたちの小田原」は、昭和44年発行の「おだわら」が前身となっています。その後、昭和55年に「わたしたちの小田原」と名を変え、今にいたります。改訂の時は、それまでの内容を参考にし、時代に合ったものを作成しています。昭和44年から、この副読本の編集に関わった方たちは次のとおりです。(順不同)

府川元治/海野勇/三橋進/秋山起一/久保寺康治/山内 鉄男/安西洋 斎藤清一郎/山田三郎/飯田和昇/竹内通雄/米山真/飯沼武/浜脇幹 和田章/市村昇/原田豊/内田清/星崎茂/横井清賢/市川敬一 勝俣淳一郎/杉山勉/石綿勉/渡辺喜充/森田邦元/浅川 京子/青柳守 山内淑江/日比野英男/芥川三千忠/遠藤倫弘/尾上弘美/片山達夫/呉地初美 佐久間秀樹/宮川千枝子/坂元繁雄/本多晋/諏訪部光夫/大場得信/久保寺仁 梅村正美/小林守/松尾和俊/古屋守/宮内守/鍵和田輝夫/林允之 五関義幸/石井政道 (敬称略)

小学校社会科副読本

新版「わたしたちの小田原」

発行日
令和5年3月31日
発行所
小田原市教育研究所
小田原市荻窪300 電話(33)1730
発行者
長澤貴
印刷所
㈲石橋印刷
小田原市立       小学校
3年   組  名前
4年   組  名前
5年   組  名前
6年   組  名前
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