まつながきねんかんろうきょそう・きゅうまつながじあんべってい、むじゅうあん・まつながじあんいなかや
松永記念館老欅荘・旧松永耳庵別邸、無住庵・松永耳庵田舎家
解説
老欅荘
戦前戦後の電力体制を牽引した実業家として、また還暦を迎えた頃から茶の湯に親しみ茶人としても高名であった松永安左ヱ門(耳庵)が、晩年を過ごした居宅です。それまで住んでいた埼玉県所沢から「海に面し山が近く、実に住みよい」と選び移り住んだのは、昭和21年(1946)12月のこと。当初は20坪ほどでしたが、8年もの歳月をかけて増改築が重ねられ、最終的には約55坪程度の近代数寄屋風建築となりました。
大門を入ってすぐ目の前にそびえる樹齢400年はあろうといわれている欅(けやき)の大木が、別邸全体が「老欅荘」と呼ばれる由縁です。
邸内は、三畳の茶室に書院造の広間、田舎家風の鎖の間と四畳半台目の茶室・松下亭等からなり、水屋も含めどこでもお茶が楽しめるよう工夫が凝らされています。
この場所で耳庵は日々お茶を楽しみました。
無住庵
昭和30年(1955)、松永が老欅荘から山上の蜜柑山に至る山腹に建てた田舎家風の茶室です。旧邸・柳瀬山荘(現・埼玉県所沢市)の農園にあった、当時築200年の農家の古材が用いられています。
松永と懇意であった工芸家・仰木政斎の記録によると「一坪ほどの土間、左へ一尺の切縁を上ると二畳、仕切をへだてて長三畳があり、大梁を見る屋根裏よりは長炉に侘の自在鉤に釜が懸けてある」とあり、田舎家の風情が漂う造りとなっています。
園遊会の時には番茶席として、またお茶の代わりにウイスキーを楽しむなど、肩肘を張らずに楽しめる空間でもありました。
松永の死後、近隣の民家に移築されていましたが、小田原市に寄付され、令和2年(2020)黄梅庵跡地に移築復元されました。
戦前戦後の電力体制を牽引した実業家として、また還暦を迎えた頃から茶の湯に親しみ茶人としても高名であった松永安左ヱ門(耳庵)が、晩年を過ごした居宅です。それまで住んでいた埼玉県所沢から「海に面し山が近く、実に住みよい」と選び移り住んだのは、昭和21年(1946)12月のこと。当初は20坪ほどでしたが、8年もの歳月をかけて増改築が重ねられ、最終的には約55坪程度の近代数寄屋風建築となりました。
大門を入ってすぐ目の前にそびえる樹齢400年はあろうといわれている欅(けやき)の大木が、別邸全体が「老欅荘」と呼ばれる由縁です。
邸内は、三畳の茶室に書院造の広間、田舎家風の鎖の間と四畳半台目の茶室・松下亭等からなり、水屋も含めどこでもお茶が楽しめるよう工夫が凝らされています。
この場所で耳庵は日々お茶を楽しみました。
無住庵
昭和30年(1955)、松永が老欅荘から山上の蜜柑山に至る山腹に建てた田舎家風の茶室です。旧邸・柳瀬山荘(現・埼玉県所沢市)の農園にあった、当時築200年の農家の古材が用いられています。
松永と懇意であった工芸家・仰木政斎の記録によると「一坪ほどの土間、左へ一尺の切縁を上ると二畳、仕切をへだてて長三畳があり、大梁を見る屋根裏よりは長炉に侘の自在鉤に釜が懸けてある」とあり、田舎家の風情が漂う造りとなっています。
園遊会の時には番茶席として、またお茶の代わりにウイスキーを楽しむなど、肩肘を張らずに楽しめる空間でもありました。
松永の死後、近隣の民家に移築されていましたが、小田原市に寄付され、令和2年(2020)黄梅庵跡地に移築復元されました。
- 収蔵先/所蔵者
- 松永記念館
- 指定区分
- 登録有形文化財
- 種別
- 建造物
- 所在地/展示場所
- 〒250-0034 神奈川県小田原市板橋941-1 松永記念館
- 指定年月日
- 平成12年9月26日