古代・中世 |
保元元年
(1156)丙子閏⑨
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7.11 保元の乱起こる,山内首藤俊通・俊綱,波多野義通ら,源義朝に従い京都で戦う[神古-805]もっと見る
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古代・中世 |
久安6年
(1150)庚午
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3.26 増仁,相模国分寺を法勝寺(京都市)に寄進する[神古-789]もっと見る
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古代・中世 |
久安5年
(1149)己巳
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4.頃 鳥羽上皇,箱根権現に酒匂郷48町を寄進する[Ⅰ-25]≪酒匂の初見≫もっと見る
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古代・中世 |
天養元年
(1144)甲子
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10.21 源義朝の郎従中村庄司宗平ら,大庭御厨を侵す[Ⅰ-68]≪中村一族の登場≫
この年〜保元3年 相模国府,大住郡から余綾郡へ移る[Ⅰ-20・21,神奈川県史通史編1]もっと見る
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古代・中世 |
大治5年
(1130)庚戌
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この年 大江仲子,早川庄に対する同有経の妨げの停止を鳥羽院庁に訴える[Ⅰ-24]もっと見る
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古代・中世 |
永久3年
(1115)乙未
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9.以前 大江仲子と同有経,早川庄領家職をめぐり相論する[Ⅰ-24]もっと見る
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古代・中世 |
永久2年
(1114)甲午
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8.16 伊豆座主殺害犯人を相模国司に進じさせる[神古-725]もっと見る
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古代・中世 |
永久元年
(1113)癸巳閏③
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3.4 横山党,内記太郎を殺害するにより,相模等5か国に追討官符を下す[神古-722・723]
3.頃 故相模守藤原宗佐の目代殺害される[神古-724]もっと見る
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古代・中世 |
承徳元年
(1097)丁丑閏①
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12.29 流人大江公仲,召し返される[中右記]もっと見る
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古代・中世 |
嘉保2年
(1095)乙亥
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1.10 大江公仲,養子以実(有経)に早川牧を譲る[Ⅰ-23]もっと見る
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古代・中世 |
嘉保元年
(1094)甲戌閏③
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10.24 前司・後司の相論により,相模在庁官人等を召し問う[神古-686・687]
12.29 大江公仲,隠岐に配流される[中右記]もっと見る
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古代・中世 |
寛治3年
(1089)己巳
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9.21 大江広経,子公仲に早川庄(牧)を譲る[Ⅰ-24]もっと見る
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古代・中世 |
寛治元年
(1087)丁卯
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9.〜11.━ 鎌倉景正・三浦為次ら,源義家に従い出羽金沢柵(秋田県横手市)で清原氏と戦う[神古-672]もっと見る
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古代・中世 |
応徳3年
(1086)丙寅閏②
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11.26 白河上皇,院政を開始するもっと見る
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古代・中世 |
永保3年
(1083)癸亥閏⑥
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3.28 富士山噴火するもっと見る
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古代・中世 |
永保2年
(1082)壬戌
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6.16 永宣旨により,円宗寺(京都市)法華会用途料として,相模から六丈細美布3段・絹70疋を進納させる[神古-666]もっと見る
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古代・中世 |
承暦3年
(1079)己未
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8.10頃 相模住人権大夫為季と押領使景平合戦し,景平討たれる[神古-660]もっと見る
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古代・中世 |
承暦元年
(1077)丁巳閏⑫
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承保年間 主計寮,相模の烟数・正税交易雑物数を主税寮に注進する[神古-656・657]もっと見る
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古代・中世 |
康平5年
(1062)壬寅
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8.17 源頼義率いる坂東精兵平真平ら,安倍宗任の陸奥小松柵を攻略する[神古-645]もっと見る
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古代・中世 |
天喜5年
(1057)丁酉
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11.━ 波多野氏の祖佐伯経範,陸奥黄海(岩手県藤沢町)で安倍氏と戦い討死する[神古-645]もっと見る
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古代・中世 |
長久元年
(1040)庚辰
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9.4 相模・伊豆・駿河の非道の関を停止させる[神古-640]
長暦年間 大江公資,早川牧を藤原長家に寄進する[Ⅰ-23]もっと見る
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古代・中世 |
長暦3年
(1039)己卯閏⑫
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8.15 柳下で,源義家生まれるという[源威集,通p189]もっと見る
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古代・中世 |
長元9年
(1036)丙子
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10.14 源頼義,相模守に任じられる[範国記]もっと見る
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古代・中世 |
長元4年
(1031)辛未閏⑩
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この年 相模国,久しい軍役により疲弊する[神古-637]もっと見る
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古代・中世 |
万寿元年
(1024)甲子
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この年 真福寺(早川)が創建されるという(開山覚応)[風土記]もっと見る
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古代・中世 |
治安3年
(1023)癸亥閏⑨
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11.21 相模の国解により,追捕官符を給う[神古-621]もっと見る
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古代・中世 |
治安2年
(1022)壬戌
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1.━ 相模守大江公資の妻相模,箱根権現に参詣し,百首和歌を奉納する[神古-627]
4.15 箱根権現の僧,相模に百首和歌を返歌する[神古-627]もっと見る
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古代・中世 |
寛仁4年
(1020)庚申閏⑫
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9.━ 前上総介菅原孝標の娘,父に伴われ,足柄山を通って帰京する[神古-616]
この年 大江公資,相模守に任じられ下向する[能因法師集]もっと見る
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考古 |
古墳時代後期
(6〜7世紀)
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集落が少しずつ増加する,竪穴住居はそれまでの炉に代わり,つくり付けのカマドが用いられるようになる,低地・丘陵上に群集墳が多数築かれるとともに,大磯丘陵では横穴墓群が多数築かれる
三ッ俣遺跡では集落が営...もっと見る
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考古 |
古墳時代中期
(5世紀)
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当地域を含め相模地域の遺跡数が激減する(古墳時代前期の大地震「箱根の逆さ杉」,火山被害「多量の火山灰堆積」と関係か)
下馬下遺跡で多数の土師器,須恵器とともに滑石製模造品を用いた祭祀が水辺で行われる
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考古 |
古墳時代前期
(3世紀後半〜4世紀)
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弥生時代後期と比して遺跡数が飛躍的に増大する,当地域も含め相模地域は前期古墳の数は少ない,竪穴住居の平面形が隅丸長方形のものから正方形のものに変化する
千代南原遺跡第Ⅳ地点では古墳時代初頭に大型の土坑...もっと見る
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考古 |
弥生時代後期
(100頃〜)
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中期との間に何らかの理由により遺跡に断絶が認められる
相模湾沿岸に東三河・西遠江地域の弥生人が移住し集落を営むほか東遠江との関係の強い集落も営まれる,その後駿河湾沿岸地域との結びつきが強くなる,なお県...もっと見る
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考古 |
弥生時代中期
(前100頃)
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中期前葉 前期の伝統が継続される,農耕と関連するとみられる石鍬が中期中葉にかけて使用される
怒田上原遺跡(南足柄市)で再葬墓が営まれる
諏訪の前遺跡・堂山遺跡(山北町)
中期中葉 この頃より稲作を...もっと見る
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考古 |
弥生時代前期
(前300頃〜)
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縄文時代晩期の伝統を強く残しながらも伊勢湾地方の弥生土器の影響を受けた条痕文土器がつくられるようになる
関東・中部地方を中心に中期中葉にかけて再葬墓が営まれる
*前川山王前遺跡・*千代南原遺跡第Ⅶ地点...もっと見る
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考古 |
縄文時代晩期
(前1,000頃)
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遺跡の数が大幅に減少する
*久野清掃工場内遺跡・諏訪の前遺跡・*前川山王前遺跡
五反畑遺跡(南足柄市),平沢同明遺跡(秦野市)で集石・配石遺構を伴う比較的規模の大きい集落が営まれるもっと見る
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考古 |
縄文時代後期
(前2,000頃)
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関東・中部地方で流行した敷石住居が*御組長屋遺跡第11地点,*久野北側下遺跡,沼代遺跡等でつくられる
*久野清掃工場内遺跡では敷石住居がつくられるとともに土偶が使用される,後期中葉以降は遺跡が減少する...もっと見る
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考古 |
縄文時代中期
(前3,000頃〜)
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遺跡の数が著しく増加し,久野丘陵の久野一本松遺跡などで大規模な集落が営まれるようになる
*久野一本松遺跡で中期中葉に釣手形の土器や顔面把手付き土器が使われる,また出土土器から東海地方との交流がうかがわ...もっと見る
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考古 |
縄文時代前期
(前4,000頃〜)
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羽根尾に相模川西岸では数少ない貝塚が形成される(*羽根尾貝塚),漁労はカツオ・ダンベイキサゴ・ヤマトシジミ,狩猟はイノシシ・シカを主体とし,クルミ・クリ・ドングリ類・ヒシの採集が行われていた,縄文土器...もっと見る
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考古 |
縄文時代早期
(前10,000頃〜)
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丘陵や台地上に集落が営まれるようになる
関東学院大学敷地内遺跡などで火気を受けた礫の集積(焼石炉か)がつくられる
坂下(山神下)遺跡・水之尾遺跡・八幡山遺跡・永塚下り畑遺跡・荻窪川根遺跡もっと見る
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考古 |
縄文時代草創期
(15,000頃〜)
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関東学院大学敷地内遺跡で尖頭器が使用される
天神山台遺跡で神子柴型石斧が使用されるもっと見る
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考古 |
後期旧石器時代
(約35,000年前〜)
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約35,000年前 八幡山遺跡(*八幡山遺構群第Ⅲ地点)で最古期のナイフ形石器が使われる
谷津山神遺跡で大量の礫器が使われる
畑宿(箱根町)産の黒曜石が相模野等の地域まで運ばれ石器製作に使用される
谷...もっと見る
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